世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

国立歴史民俗博物館があることで知られる佐倉には関東圏には数少ない武家屋敷の残る町並みもあります

2022-01-30 08:00:00 | 日本の町並み
 業務委託駅にもかかわらず、立派な駅舎がある金ケ崎は、仙台藩の要害として繁栄した名残の武家屋敷が重伝建地区に数多く残された町でした。古い町並みが残り重伝建にも指定された街であっても、意外と侍屋敷が残るところはさほど数多くはなく、多くは古民家の町並みです。今回は、国立歴史民俗博物館があることで名が知れたいますが関東圏で数少ない侍屋敷の街並みが残る佐倉を紹介します。

 佐倉は、国立で唯一の歴史、民俗、考古学の研究、展示をする歴史民俗博物館があることで有名です。似たような名前の博物館に、大阪の万博記念公園にあり民族学、文化人類学を研究、展示する国立民族学博物館がありますが、成り立ちも設立時期も異なります。歴史民俗博物館は京成佐倉駅の西の桜城址に建っていますが、武家屋敷などがある町並みは、京成佐倉駅とJR佐倉駅との間の高崎川の河岸段丘と思われる高台に広がっています。

 JR佐倉駅を起点にすると、駅を出てまっすぐ北に、高崎川を渡り300mほど進むと薬師坂の入り口になり緩い上りを50mほど進むと左手の小さな祠があり、中に子育て地蔵が祀られています。江戸時代から祀られ、付近の住民に大切にお祭りされてきたお地蔵さんなのだそうです。駅から坂の下までは低層密集地ですが、薬師坂周辺は竹藪が多く、上り切った武家屋敷通りあたりは住宅もまばらで緑が多い地区になっています。武家屋敷が残るのは、薬師坂がT字路になっているところを左に曲がり少し行くと右に曲がった道から最初に左に曲がる道(武家屋敷通り)を入って西に行った一郭になります。

 
 
 
 
 
 
  
 一番手前にあるのが旧河原家住宅で、公開されている武家屋敷の3棟の中で最も古いもので、18世紀から19世紀に建てられた上級武士の邸宅です。元は現在地より東に50mほどの地点にあったものが移築復元されたそうです。通常は建物の外部からの見学で、年に5回ほど内部に入れるようです。くらやみ坂を挟んで西にあるのが旧但馬家住宅で19世紀前半の建築です。こちらの建物は、元来この地にあったもので、屋敷だけでなく庭の様子も含めて復元されたそうです。さらに、西隣にあるのが旧武居家住宅で、19世紀前半の建物です、本来は東に250mほどの場所にあったものが移築復元されています。内部には屋敷跡から出土した生活道具が展示されています。

 
 
 これらの武家屋敷は市の指定文化財ですが、国の重文の建物が、武家屋敷の集落からちょっと離れた場所にあります。武家屋敷通りから東に1kmほど、河岸段丘の端のような場所にある旧堀田邸(さくら庭園)です。最後の佐倉
藩主の堀田正倫(まさとも)が明治23年(1980年)に建てたもので、玄関や座敷などの重文と、眺め良い庭園が公開されています。

 お地蔵さまは、子供を守る仏さまとして、親しまれています。釈迦が入滅してから、弥勒物が出現するまで佛のいない期間を産めるほ家という役割を持っているとされています。地蔵菩薩は身近で見られることが多いのですが、国宝彫刻となると平安時代に作られた法隆寺の1体のみのようです。この仏像はカヤの一木造で、内ぐりも無いので内部に空洞はありませんが、後世に作られた仏像には空洞のあるものが多く、この空洞には、像内納入品といって、小さな仏像など、多種多様なものが入れられましたが、これらの確認は非破壊で調べる必要があります。古くはX線撮影の技法が使われましたが、現在ではコンピュータによるCTスキャンで調べることもあるようで、大きな仏像を乗せるため、人間のための装置より巨大な撮影ベッドが用意されてるようです。

西安の東の兵馬俑までの道筋には、兵馬俑より歴史のある遺跡や、歴史を変えル舞台になった場所などなど(中国)

2022-01-23 08:00:00 | 世界の町並み
 世界遺産のエリア以外や郊外にも見どころの多かったのがベトナムのフエでした。本ブログで紹介した兵馬俑は大都市西安からかなり離れた郊外にありますが、西安からの道筋にも見どころが多く存在します。兵馬俑の紹介の時に一部紹介しましたが、今回はより詳しく紹介します。

 
 
 起点となる西安は、東京都と同程度の人口を擁する大都市で、かつては長安の名称で、前漢、北周、瑞などの都として繁栄した都市です。兵馬俑を作った始皇帝の都も西安の北の咸陽にありました。シルクロードの起点の国際的な都市として栄え、西遊記の玄奘も長安から出発し、持ち帰ったお経の原本は大雁塔に保存されています。広大な中国のほぼ中央、やや東寄りに位置し、かつてはJALの直行便が飛んでいましたが、現在は北京や上海などでの乗り継ぎが必要です。兵馬俑は西安の中心部の東北東30kmほどに位置し、その間にある施設を西安に近い順に紹介します。

 
 
 最初は半坡博物館で、この博物館は郊外というより西安市内の東寄りにあります。市内と言っても西安を囲む城壁乃外で、周りはだいぶ田舎めいてきます。この半坡遺跡は黄河中流域に新石器時代に形作られた遺跡で、その古さは半端ではなく長安よりずっと歴史が古いものです。遺跡は、雨風から程するために兵馬俑と同様に体育館のような建物で覆われていて、その中に数多くの住居跡が散在しています。先般に世界遺産となった三内丸山遺跡の保護シェルターの内部の様子と似ています。展示ブースには、やはり三内丸山遺跡の展示館と同様に
土器や石で作られた道具類などが展示されています。

 
 
 
 次はかなり東に走り、間もなく兵馬俑かと思われる場所にある華清池です。始皇帝の宮殿もあったという3千年の歴史のある温泉保養地です。古野温泉には楊貴妃も浸かったという伝承も残り、入浴中と思しき姿の巨大な楊貴妃増があって、観光客の撮影ポイントになっているようですが、むしろ池に咲く睡蓮や池を囲む建物などの方が絵になると思うのですが。

 
 
 この華清池が世界的に知られる事件の舞台となったのが、西安事件です。西安事件は、張学良らによって蒋介石が拉致監禁され、その後の国共合作、共同抗日戦線が形作られるきっかけとなった事件です。華清池の畔に建つ建物に、事件の現場となった部屋が残されています。

 
 さらに兵馬俑に近い場所にあるのが秦陵地宮で、これは始皇帝の陵墓を推定して再現したものです。発掘されていない始皇帝の地下宮を想像だけで作ったような代物で、はっきり言って見世物小屋ですが、見世物と割り切ってみる分には、それなりの豪華さがあってきれいで好奇心を満たしてくれます。

 中華民国は西安事件の後に国民政府と共産党は合同して抗日に成功しますが、その後は再び内戦状態となり、国民政府は破れて台湾に逃げ込みます。この時、国民政府は紫禁城の宝物類一式を所持したまま戦いを続け、最終的に、これらの宝物は現在台北にある故宮博物院の所蔵品となっています。戦争という異常な状況の中をあれだけ膨大な量の美術品を移動させ、整理された形で展示されているのは驚くべきことです。個々の美術品の管理資料は散逸してしまっていると想像できるので、膨大なマンパワーを費やしたのではないかと思います。現在では、博物館の所蔵作品は電子データ化が進んでいるようで、基礎データ作りは人間の手作業でしょうが、類似検索や分類などは早さのまさるコンピュータの活躍の舞台になっているようです。

金ヶ崎の重伝建地区には数多くの侍屋敷が残されていますが紅葉の頃に訪れると華やかさが際立ちます

2022-01-16 08:00:00 | 日本の町並み
 世界で6か所にしか置かれなかった緯度観測所の一つがあるのが奥州市の一部となったかつての水沢市でした。電波時計などで使われる日本標準時の基準となる原子時計の管理もやる施設があるということで、近代的な都市を思い浮かべますが、駅前からちょっと歩くと武家屋敷が残る古い町並があります。水沢の武家屋敷の数はさほどではありませんが、もっと数多くの武家や市郡の或るのが水沢の北に位置する金ヶ崎で、こちらは国の重伝建にも指定されています。

 金ヶ崎駅は東北本線で水沢駅の一つ北にあり、東を走る新幹線との間には北上川が流れています。重伝建地区の城内諏訪小路は、金ヶ崎駅から東南東に1kmたらず、北上川の右岸に西に向けて広がっています。水沢とは違って、高い建物は無く緑の多い町並みに低層の住宅が並んでいます。訪れたのは11月中旬でしたが、東京よりはずっと北に位置する割には、紅葉真っ盛りで、緑の街並みに真っ赤な紅葉が彩を添えていました。

 
 
 金ヶ崎要害は、徳川幕府の一国一城令によって、仙台藩が城の代わりに藩内に21か所築いた要害の一つで、城内諏訪小路重伝建地区は、要害と侍屋敷のほぼ全域になります。駅を出て東に400mほど宿内川の手前を南に曲がって100mほど行った旧坂本家侍住宅から武家や市の街並みが広がります。旧坂本家住宅は江戸末期天保年間に建てられた茅葺住宅で、内部を見学することができます。東隣には、金ヶ崎神社で、前九年の役の戦勝で源氏が勧請した神社だそうです。神社の裏の諏訪公園からは宿内川が北上川に合流する地点が望めます。

 
 
 諏訪公園から南に、重伝建地区に戻ると町並み交流館が現れますが、その手前に黒門が立派なおうちが現れます。南西に進むと土合丁旧大沼家住宅の大きな茅葺屋根が現れます。軒先に吊るされていた干し柿が季節を表していました。

 
 
 
 旧大沼家を東に行くと侍屋敷大松沢家で、こちらは緑豊かな屋敷林の中に和風の侍や市ではなく、サンルーム風のガラス戸があるレトロな洋風建築が建っています。こちらでは、美しい庭を見ながら食事ができるようです。大松沢家から畑を横切ってい北東に進むと片平丁旧大沼家住宅の3つの茅葺屋根が現れます。裏の屋敷林には楓の木が多く、真っ赤に色づいた楓と茅葺屋根が美しい調和を見せていました。

 
 重伝建地区から駅に戻る途中の東北本線のそばに金ヶ崎町役場の建物があり、なんと役場の施設にちょっと奇妙な形の展望台が付いているようなのです。また、JRの金ヶ崎駅の建物はローカルな町の駅舎ににしては立派で、コンクリート造りらしい和風建築ですが、南尾変哲もない感じです。両方ともに重伝建の街並みを持つ公共建築としては異質な感じがします。

 干し柿は秋の風物詩ですが、この干し柿につかう渋柿は、そのまま生食する甘柿とは品種が違います。甘柿は、干し柿にしても渋柿から作る干し柿ほど甘くならないそうです。渋が抜けるメカニズムは、可溶性のタンニンが、干すことによって不溶性タンニンになるためで、けしてタンニンが抜けるわけではありません。この干し柿の糖質は甘柿が14g/100gに対して、干し柿では60gを越えています。バナナでさえ20g程度なので、ずいぶんと糖質が高く思いますが、水分が無いからでレーズンは80gもあります。果物の糖度は糖度計という測定器で測りますが、果汁の屈折率を測ることで糖度を推定するものが一般的なのだそうです。デジタル式糖度計は、糖度が数値として即座に読め、補正機能も持っている装置も多く簡便に使えますが、アナログ式に比べて高価なのが難点だそうです。ただ、干し柿やレーズンなど果汁を含まないものでは、近赤外の吸収度合いを測定するより複雑な計器が必要のようです。

エルジェムは世界で3番目の規模の円形闘技場ですが1番のコロッセオより保存が良くって見ごたえがあります(チュニジア)

2022-01-09 08:00:00 | 世界遺産
 万里の長城の西の端近くにある懸壁長城は、険しい峰に向かって稜線を駆け上る、まさしくグレート・ウォールでした。月から見える唯一の人工的なものは万里の長城という方が居ますが、これは認識不足も甚だしい。確かに長城の長さは1,000kmをはるかに超えますが、幅は数メートル、こんなに細い人工物が肉眼で見えるはずはありません。しかし、これだけの建造物を作ったことは驚くべきことです。一方、西に目をやると古代ローマの建築技術がすごくて、版図の方々に巨大な建造物を残しています。これらの建造物の中から、現存円形闘技場としてローマのコロッセオ、ヴェローナのアレーナに次いで世界3位の規模を誇るチュニジアのエルジェムを紹介します。

 



 エルジェムは、チュニジアの中部で首都のチュニスの南100kmほど、地中海から30kmほど内陸に入って所にある人口2万人ほどの小さな町です。チュニスから列車で2~3時間ほどで到着しますが、本数は少なく、日本で調べた時刻と実際の列車の運行とが食い違っていました。人家があるのは駅周辺と、そこから延びる円形闘技場への道の周辺だけです。砂漠の日没と夜明けを見たかったので、4駆の車をチャーターして前日は砂漠のオアシスのクサール・ギレンで泊まり、砂漠を突っ切って半日がかりでエルジェムに移動しました。途中は全く人けのない荒野、砂漠で、エルジェムは少し大きなオアシスのようでした。ただ、エルジェムが完成した当時は、オリーブの茂る緑豊かな街だったのだそうです。

 
 列車の駅から円形闘技場までは500mくらいで、駅からしばらく進むと闘技場が巨大な壁のように立ちはだかって見えてきます。この道を夕方に通ると、昼間とは違った雰囲気に驚きます。チュニジアは緯度的には日本と変わりませんが、熱帯性の気候で昼間は動きたくなくなる暑さです。夕方からは少し涼しくなるので、昼間は閑散としている通りに、椅子を並べて人々が夕涼みに出てきて、通りにくくなるくらい混雑します。イスラム世界ですからアルコールはご法度なので、アルコール以外のものを飲みながら談笑しています。ところが、ここはイスラム世界ですから、全員男性です、カミさんと2人で横切っていくのはちょっと不気味でもありました。





 
 
 
 
 
 さて、円形闘技場ですが3世紀に古代ローマによって作られ、規模はローマのコロッセオより小さいのですが、観客席やその裏にある回廊、さらにはアリーナなどが奇麗な形で残り、観光客に公開されています。さらに17世紀までは、もっと完全な形で存在していたようで、オスマントルコとの戦闘で大砲を撃ち込まれて破壊されたり、モスクなどを建てるために石材の一部が転用されてしまったそうです。駅の方角二当たる東側は連続アーチの建物が残っていて、外から見ると三段のアーチが水道橋のようですが、他の方角は観客席の上方はほとんど残っていないところが多くなっています。逆に連続アーチのある部分は、株にあるはずの観客席が失われているようです。

 
 
 円形闘技場の他に、モザイクを集めた博物館が闘技場から15分ほど南に行った所にあります。1971年に開設され、エルジェムで発掘されたモザイクや大理石の彫像が展示されています。博物館の敷地内にはコダイローマの住居跡もあって、円形闘技場だけでなく寄り道する十分な魅力があります。筆者が訪れた時には、円形闘技場の入場券でそのまま入館できました。

 
 エルジェムでは円形闘技場のライトアップも見られゆっくりできたのは、駅前のホテルに泊まったからでしたが、現在は4つ星の立派なホテルになっているようですが、当時は冷房もなく扇風機だけというホテルでした。それでも、エルジェムで数少ないホテルだったのでしょうか結婚披露宴らしきパーティーが開かれていて、冷房で開け放した部屋では夜遅くまで騒々しくって閉口しました。この披露宴でも、「ここはイスラム世界だ」を感じたのは、パーテイーに参加しているのは新郎と男性ばかり。

 古代ローマの建築技術は驚くばかりの高さで、都市に水を供給した水道の傾斜は平均で1kmあたり5m、フランス南部にある水道橋ではポンヂュガールでは驚くなかれ1kmあたり34cmという傾斜です。当然ながら、当時にレーザによる測量技法は存在しなかったわけです。一方、わが国では、巨大な木造建築は現在の技術では作れないのだそうで、コンピュータなどの技術の粋を駆使してもです。高野山の根本大塔もコンクリート造りで再建され、最大の木造大塔は16世紀に作られた根来寺大塔なのです。技術というものは常に発達しているのではなく、退化している部分があることを思い知ります。