世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

かつての宋の都の開封には鉄さび色の塔がそびえるばかりです(中国)

2013-01-27 08:00:00 | 世界の町並み
 中国に返還された後に、町の顔がだいぶ変わり、新しい空港が建設されて啓徳国際空港も消滅してしまったのが香港でした。消滅した施設の中には宋時代を模した宋城というテーマパークもありました。宋は10世紀から13世紀に中国に存在した王朝で、首都は開封にありました。今回は、中国河南省の開封を紹介します。
 現地でカメラを紛失してしまったため、サブカメラで撮影の写真のみからの選択のため、あまり写真を紹介できませんでした。

 開封は北京の南500kmほど、河南省の省都の鄭州の東60kmほど、北京からは快速列車で8時間ほどの距離にあります。宋朝の首都で、当時は世界最大級の人口を擁したそうですが、現在は地級都市というランクの地方都市です。それでも、人間の多い中国のこと、日本の政令指定都市並みの80万人の人口があります。ただ、街中には緑も多く、そんなに人口が多いような感じは受けません。

 町は、黄河の南にあるために、たびたび黄河の氾濫による被害を受けていて、現在の都市の下には明代の都市の遺構が、その下には宋代の遺構が重なり、全部で6層の遺構が眠っているとされています。開封の歴史は紀元前8世紀の春秋時代に啓封と名づけられたことに始まり、紀元前4世紀には魏の首都にもなりました。秦の攻撃により荒廃しましたが、8世紀に出来た京杭大運河による物流の集散地として発展し、10世紀の宋の首都へとつながります。宋時代には、開封の町にも運河が引き込まれ、宋の国全体に運河網が張り巡らされ、船が水位の違う運河間を行き来できるようにする閘門も数多く作られたようです。

 
 町は清時代に作られた城壁に囲まれていて、鉄道駅はその南端にあります。中国では市内バスが頻繁に走っていて、市内の移動には便利なことが多く、開封も例外ではありません。城壁の北東端近くにある、宋時代の遺構の鉄塔がある公園の西口まで15分くらいで行けます。ただ、公園が広く東端にある鉄塔はバス停を降りて、公園を突っ切るのに1kmほども歩かされます。鉄塔は開宝寺というお寺の舎利塔として建立され、寺は滅びて塔だけが残ったもので、京都の八坂の塔の様な成り立ちです。鉄色をした瑠璃瓦で覆われて遠くから見ると鉄塔と呼ばれるようになったそうです。近くで見ると瓦に施されたレリーフもみごとで、鉄とは違っいきらきら光るさまは、巨大な焼き物の香炉や置物のように見えます。また、鉄塔公園は緑の中に池などもあって、市民の憩いの場になっているようです。

 一方、駅に近い南のほうには、大相国寺があります。日本の京都にある相国寺の銘銘の元となったお寺といわれていて、1400年以上の歴史のあるお寺です。長い歴史の中で廃寺になりかかったこともあるようですが、現在では、巨大な4面の千手観音を祭る現役のお寺です。日本で多く見られる千手観音は40本の腕のものが多いのですが、大相国寺のものはまるで翼のように背中から千本の腕が伸びています。さらに、この観音像は、東西南北に面を持つので、腕は合計四千本あるのではないかと思います。同じ中国の少林寺でもこのような千手観音を見たような記憶がありますが、日本では見られない迫力です。

 鉄塔と大相国寺との間、町の中央辺りには、山陜甘会館という一見中国のお寺風の建物があります。名前は、山西省、陝西省それに甘粛省から一文字ずつ取ったもので、3つの省の商人がお金を出し合って作ったものだそうです。現在は、関帝廟の部分しか残されていませんが、商人たちは潤沢にお金があったものとみえ、内部の装飾や調度は贅沢で見事です。すべてが残されていれば、さぞやすごい建物だったのではないかと思われます。

 運河の閘門は、パナマ運河のものが有名で、パナマのものが世界初のように勘違いをしますが、宋時代の例にも見られる様にパナマが開通するずっと前から存在していました。新しい技術が、世に出る時には、タイミングのようなものがありように思います。いくら、すばらしい技術でも、周辺技術が整わないなどの理由で、注目されなかったかと思えば、過去に他で開発された技術であるにもかかわらず、新規性をうたって脚光を浴びることもあります。新しい技術も、売り込みの上手下手に左右されることが多いのですね。

高槻の富田には2軒だけ残った造り酒屋の周辺と旧寺内町に古い町並みが残ります

2013-01-20 08:00:00 | 日本の町並み
 京阪間に思いがけない古い町並みを残しているのが枚方宿でした。枚方宿は、宿場町となる前は浄土真宗の寺内町として骨格ができましたが、同じ京阪間にもいくつかの寺内町があります。今回は、それらの中から、枚方からは淀川の対岸に当たる高槻市の富田(とんだ)を紹介します。

 富田は大阪府の北辺にある高槻市の一部で、高槻市の中では南のほうに位置します。JRと阪急とに富田の名前を冠する駅があります。富田は、駅の南500mほどにある教行寺の寺内町として骨格ができ、江戸時代初期には酒造の町として栄えたようです。高槻市の一部ですが、高槻城を中心とした城下町の高槻市街地よりも歴史の古い町です。

 酒造の町として栄えた富田も、江戸中期以降になると、池田や伊丹、それに灘の酒に押されて次第に衰退してゆき、現在では造り酒屋が2軒残るのみです。

 
 一軒は、阪急の駅の南100mほどの壽酒造で、板壁の上に白漆喰が美しい酒蔵が道路からも良く見られます。

 
 他方は、教行寺の東にある清鶴酒造で、こちらの酒蔵は昔風のデザインを新しい工法で作ったものですが、会社の事務所は格子の連なる美しい建物です。

 
 この二つの酒造会社の周辺には、格子をはめ、土蔵造りに、虫籠窓のある家並みが残されています。周りは、マンションやアパート、戸建ても現代風の家ばかりなので、これらの家は、お酒屋さん関連の家なのかもしれません。

 
 2軒の造り酒屋のちょうど中間あたりには、教行寺と同じ浄土真宗の本照寺があります。富田御坊と呼ばれ、寺内町は教行寺を中心としたものから本照寺を中心とする寺内町に変化していったようです。道路に面して立派な門があり、本堂も真宗寺院に見られる堂々としたものです。山崎の合戦の折には、秀吉が陣を張ったという歴史も残っています。周辺には、寺内町の名残の町並みも残っていて、仏壇屋さんなども目立ちます。

 寺内町を形作る浄土真宗と聞くと、一向一揆を思い浮かべてしまいます。当初は、民衆を弾圧する権力に抵抗する闘争であったと思うのですが、次第に寺を核とする権力そのものに堕落したようにも思います。IT分野でも、当初は、新しいもの、便利なもの、生活が豊かになるもの、などの夢を実現するため開発者は努力をします。しかし、やがて資本と結びつくと、権力となって利益の追求に、手段を選ばず奔走するようになるようです。利益のためには、当初の夢の実現とは反対の方向へ進むこともしばしばのようにも思います。世の中の仕組みが悪いのでしょうか、これが人間の本性なのでしょうか。

岩山も滝も巨大なヨセミテ公園にいた小さなリスは、ちょっと不恰好でした(アメリカ)

2013-01-13 08:00:00 | 世界遺産
 石灰棚にせき止められた数多くの湖の間には、無数の小さな滝が連続するのがクロアチアのピリトビチェでしたが、雄大な岩山から落差の大きな滝が流れ落ちる場所がヨセミテ国立公園です。筆者が訪問したのは40年近くも前のことなので、アクセスなどの状況は変わっているでしょうが、公園の自然はそのままと思います。今回は、サンフランシスコから日帰りも可能な、アメリカ西海岸を代表する世界自然遺産のヨセミテ国立公園を紹介します。

 
 ヨセミテ国立公園は、サンフランシスコの東250km、車で3時間半ほどの距離にあり、年間350万人もの観光客が訪れるそうです。シェラネバダ山脈の西側にあり、公園全体の面積は3,000k㎡ととてつもなく広いのですが、大部分の観光客が訪れるのは18k㎡ほどのヨセミテ渓谷です。このヨセミテ渓谷は、マーセド川が侵食で削った谷に、氷河期の氷河がさらに谷を削ってできたU字谷で、渓谷の両側には削り残された急峻な花崗岩の岩山がそびえています。

  
 巨大な岩の塊の岩山は、渓谷から1500mもの高さのがあるものもあり、日本の層雲峡となどとは比べ物にならない迫力があります。エルキャピタンは、年間を通じて登れるロッククライミングの人気の垂直の絶壁ですし、ハーフドームは球を真っ二つに切り取ったような形が面白い岩山です。

  
 これらの岩山から流れ落ちるのが無数の滝で、739mと北米最大の落差を誇るヨセミテ滝も、その一つです。ヨセミテ滝は何段かに分かれて落下しており、1段のみの落差の大きな滝は、リボン滝といってヨセミテ滝とは別にあります。ヨセミテ滝の滝口は、はるかかなたの岩山のくびれたところで、最上段だけを見ると、日本の那智の滝とちょっと似ているように思います。他にもたくさんの滝があり、人気が高いのはブライダルベール滝のようですが、これらの滝は真夏の渇水期には消滅するものも多いのだそうです。

 これらの地形の中に、動物や植物の自然も豊富なようで、鹿や熊もいるようですが、見かけたのは少々不恰好なリスだけでした、このリスはマーモットだったのかもしれません。かつて、幹に開けた穴を車が通り抜けている巨大な木を絵本で見た記憶がありますが、これはシェラネバダ山系の西に自生するジャイアント・セコイアです。セコイア国立公園で保護されていますが、ヨセミテにも、その林もあります。さすがに幹にトンネルは開けられていませんが、落ちている松ぼっくりは巨大でした。

 ヨセミテ国立公園では、数々の外来生物の繁殖に悩まされているようです。人や物の往来が激しくなり、水際でのチェックに手が回らなくなるのは、自然公園だけの話ではなく、一国の生態系でも同じ状況です。日本でも外来種によって、固有種が絶滅に瀕している状況は数多くあります。最近では、セアカゴケグモの被害がニュースになっていますが、破壊されるのは物だけではないようにも思います。物としては見えませんが、インターネットなど、通信が便利になった副作用として、一国の文化が絶滅危惧種になっているように思います。

京都と大阪の間にある枚方宿には予想外の規模で格子を連ねた家並みが残ります

2013-01-06 08:00:00 | 日本の町並み
 日本の資本主義の父といわれた渋沢栄一の記念館があり、記念かを含め3つの博物館が並んでいるのが王子でした。渋沢栄一は、いろいろな分野の会社の設立に関わりましたが、京都と大阪を結ぶ京阪電車もその一つです。今回は、京阪電車の沿線のなかで、かつては日本三大菊人形で有名であった枚方パークのある枚方を紹介します。

 
 
 枚方は大阪府の北東、京都府の八幡市と境を接し、戦国時代に浄土真宗の寺内町として町並みの骨格が作られたようです。当初の寺は、台地上にありましたが、やがて衰退して廃寺となりました。江戸時代になると、東海道の延長で京都と大阪を結ぶ京街道の宿場として栄えました。陸上交通だけでなく、淀川を利用した水運の中継基地としての役割も重要だったようです。寺内町の流れは、東西に分裂した本願寺がそれぞれ願生坊と浄念寺とが街道を挟んで並んでいます。かつての街道跡は、枚方パークの最寄り駅である枚方公園から枚方市駅にかけて京阪の線路の西側、淀川との間に伸びています。

 
 旧街道沿いに、出格子のはまった家、白漆喰の壁に虫籠窓のある町家がかなりの数で残されています。新しく建てられたと思しき家の中にも、同じトーンの家も見受けられます。大都市近郊としては、川越を除けば、思いがけない数のように思います。これらの民家群の中に、福井県の三国にしか存在しないと言われている「かぐら建て」という様式の家があります。かぐら建てという様式は、妻入り(通りに向け三角の妻がある)の母屋の前に、平入り(通りと屋根が平行)を追加した建て方で、通りから見ると平入りに見えます。

 
 
 街道の宿場町と舟運の中継基地を兼ね備えた町並みを象徴するのが鍵屋の建物です。鍵屋は、かつての船宿で、平成9年近までは料理旅館として現役でしたが、廃業後は枚方宿鍵屋資料館として保存公開されています。旧街道と淀川の両方に跨る敷地を持ち、街道とは反対側には、船が横付けできるよう水路が引き込まれていました。内部は、屋根裏までが見通せる背の高い空間を持つ土間や、太いはりの通る座敷の中に、江戸時代をしのぶ数々の資料が展示されています。ほの暗い部屋の中に、籠や徳川家の家紋が入った長持ちが無造作に置かれています。たんす階段もありました。

 菊人形は、顔と手足のみの人形に菊の花や葉を使って服を仕立てるものです。服の色は菊の花の色に制約されますが、なんとも贅沢な衣服の一つではないでしょうか。人形の一部や背景などが動くものもありましたが、ディズニーランドのような遊園地と比べて地味な存在で、枚方パークの菊人形も1996年を最後に閉幕されてしまいました。菊人形は秋に開催されますが、秋以外にも花が欲しいという要望に応えて開発されたものが電照菊です。菊は短日性で日照時間が短くなると咲く性質があります。初夏かから、秋にかけて日没後に照明を当てると開花を遅らせることができます。最近は、電灯の代わりに蛍光灯やLEDが使われているようです。植物には、日照時間に拠るものの他に寒さに当たらないと開花しないものもあり、早咲きのチューリップは、夏場に冷蔵庫に保存する手法が採られるようです。植物の中のどこに環境の変化を記憶する素子が埋め込まれているのでしょうか、少なくともICメモリでないことだけは確かそうです。