世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

持って帰りたくなる教会やラグビーボールのような料理のあるビュルヌス(リトアニア)

2005-10-30 16:00:01 | 世界遺産
 リトアニアと聞いても、わが国ではあまりなじみが無いように思いますが、命のビザをユダヤ人に発給した杉浦千畝が外交官として勤務した領事館があった国といえば思い当たる方も多いかもしれません。
 首都のビリニュスの旧市街が世界遺産に登録されていて、迷路のように入り組んだ道は、スペインのトレドやトルコのイスタンブールに似て、旅行者の方向感を狂わせます。バルトの他の2国と同様に、キリスト教が現役の宗教として生活に根ざしているようで、通りの曲がり角ごとに教会があるのではないかと思うほど数多くの教会がありました。これらの教会の夕べのミサにはたくさんの人々が集い、神父の説教を聴き、賛美歌を歌う姿を見る事ができました。
 数多くの教会のうち、ナポレオンが遠征の時に「フランスに持ち帰りたい」と言ったとされる聖アンナ教会は16世紀に建てられた総レンガ作りで、ナポレオンならずとも、持って帰りたくなるほどデリケートな美しさを持っています。
 教会を持って帰るのも難しいのですが、料理もその場所で味わうほうがいいのかもしれません。リトアニアにはツェペリナイと呼ばれる形が飛行船に似ている料理が存在します。ツェペリナイは、かなりユニーク料理で、外観は白いフットボールのような一種の肉料理です。
 レストランの隣の席の人が食べているのに興味を覚えて、「あれと同じもの」と指差して注文したものは長径が20cm以上もありました。ひき肉やキノコそれにチーズなどの詰め物をジャガイモをマッシュしたものでくるんで蒸したものに生クリームのソースをかけたものです。グチャツとしたかみごこちの中にも弾力性があって、妙な食感です。1個食べると、しばらくは何もいらないくらいボリュームがありました。
 飛行船といえば、巨大な飛行船を通信の中継基地に使う構想がありました。現在でも続いているのかどうか不明ですが、国内通信の用途では、通信衛星よりも低高度のため遅延も少なく通話の品質もよいのではないかと思います。また、電波の減衰もすくないでしょうから、送受信の条件も楽になるでしょう。

白壁の町が金魚の形をした提灯で埋まる柳井

2005-10-23 16:01:08 | 日本の町並み
 生きている金魚の町は大和郡山ですが、金魚の形をした提灯(ちょうちん)をお土産として売っている町があります。山口県の東部の広島県との県境に近い柳井市がその町です。金魚の提灯は、青森のねぶたをヒントに考案されたそうで、赤色と白色に塗り分けられ、ちょっとおどけた顔をしています。8月の上旬には町の中心の白壁通りが金魚の提灯で埋まる幻想的な光景が出現するのだそうです。
 その白壁通りは、漆喰(しっくい)で塗り固められた土蔵作りの商家が並ぶ通りで、店舗部分の1階の黒っぽさと白壁の2階部分が際立ったコントラストを見せています。土蔵作というと同じ山陽路の倉敷や福島県の喜多方を思い浮かべますが、これらの町の土蔵は蔵そのものが多く収納がその用途です。柳井の土蔵は埼玉県の川越と同じように、防火を目的とした町家(まちや)で、人が住んだり店舗として使われています。道に面して開口部があるために、同じ土蔵の町でも景色が違って見えます。
 これらの町家の中で重要文化財にもなって公開されている国森家、それに同じく公開されている「むろやの園」と呼ばれる商家も共に油商だったそうです。電気の無かった頃、油は灯明の燃料として生活と切り離せなかった必需品で、その販売を取り仕切る商家は現在まで残るような大きな家を残せたのかもしれません。
 柳井は、また国木田独歩が20歳台の前半を過ごしたところで、町を見晴らす高台に旧宅が保存されています。独歩が散歩をした道や、独歩が好んだという「三角もち」という名産品も残っています。「三角」はサンカクと読むのではなくミカドと読むのだそうで、かつて天皇の姻戚者が食されたとことでミカド(帝)と命名したとか。まるいアンを三角のギュウヒで包んだもので、上品な味なのですが、お土産に買うと三角形の箱は帰りの荷物の中ですわりが悪いようです。
 すわりが悪いといえば、かつてので携帯電話は自動車に大きな装置を積む電話から発展し、持って歩ける携帯電話が出現した時には、ショルダーホンといって小型のショルダーバッグくらいもあり、ずいぶんとかさばりました。現在の携帯電話は小型になって、腕時計型のPHSも出現して、ずいぶんとすわりがよくなりました。さらに小型化が進めば、携帯するのではなく体の一部のようになるのかもしれません。

小さな町はおとぎの国のようなかわいらしさ、チェスキー・クロムロフ(チェコ)

2005-10-19 16:32:22 | 世界遺産
 チェコの首都プラハからヴルタヴァ川をさかのぼると、ボヘミアの大地を通り抜け、チェスキークロムロフにたどり着きます。まるで時計が止まってしまったかのような、お城を中心とするこじんまりとした美しい町です。世界で最も美しい町の一つとの形容の仕方もあるようです。日本人のツアー客はプラハからウィーンなどへの移動の途中下車程度に寄っていくことが多いようですが、この町で一泊してのんびりすることがお勧めです。
 美術ファンならば、エゴン・シーレの美術館があり、ビール好きの方には、お隣町のチェスケブデオビチェ産のビールが待っています。ちなみに、このチェスケブデオビチェはバドワイザーの商標のルーツで、チェスケブデオビチェの英語読みが何らかの理由でなまったものだそうです。
 さらに、宿泊しないと見れないものが、お城のライトアップです。私たちの宿泊したホテルは元は修道院の寄宿舎だったようですが、あてがわれた部屋は2階(ヨーロッパでは日本の2階が1階なので日本流では3階)でエレベータは無く螺旋階段を上がった屋根裏部屋でした。屋根裏といっても通常のツインの部屋より広くて屋根裏までも高く快適でした。ただ部屋までの螺旋階段の登りがたいへんなのが難点といったところでした。
 さて眠る頃になって、ふと窓の外に目をやると丘の上にライトアップされたお城が見えるではないですか。このホテルの数ある部屋の中でも、部屋にいながらお城のライトアップを見れるのは、屋根裏の2室だけだったようです。
 チェキークロムロフを流れるヴルタヴァ川は、Uの字型に蛇行し、小さな流れでしたが清冽な感じがしました。下流のプラハでは流れは雄大でしたが、清冽さは失われていたようです。チェコは戦後に社会主義圏に組み入れられたため工業国というイメージは少ないのですが、中欧圏では最も工業化の進んだ国の一つと言われています。工業化と、自然環境の維持とはなかなか両立は難しいところがあるのでしょうがバランスのとれた発展をしてほしいものです。

古い町並みの郊外には金魚やアジサイ寺もある大和郡山

2005-10-16 16:33:52 | 日本の町並み
 前回は光秀の出身地の明智を紹介しましたが、光秀を討った秀吉の弟の秀長が城主のときに城下町の発展をみたのが大和郡山です。光秀も郡山城の築城の時に普請見舞いに訪れているようです。
 JRと近鉄に挟まれた紺屋町あたりの町並みは、道路の中央に水路があって、ちょうど中央分離帯のような格好をしています。かつて、この水路は、藍染物屋が染めた布をさらすのに使ったそうです。現在はとおりに面して旧奥野家住宅が箱本館紺屋として藍染めの様子を復元して公開されています。
 紺屋町からお城に向かう古い町並みには、筆屋さんや骨董屋さんなど格子戸のあるような家並みが続きます。その中に和菓子の本家菊屋があり、店先で名物の「御城之口餅」を食べることができます。かつては御城の入り口近くに店があったとかでの命名ですが、甘党ならずとも、町並み散歩の途中にゆっくりとお茶とお菓子をいただけ、ホッとするひと時ではないでしょうか。
 大和郡山といえば、金魚の産地としても全国に名前が知られています。近鉄郡山駅の南西方向の田んぼや畑の広がる中に、金魚を養殖する池が点在しています。遠くから見ると、これから田植えをする田んぼのようにも見えますが、近づいてみると大小、色とりどりの金魚が群れて泳いでいます。えさをやっている時に間違って池に落ちると食べられてしまうのでは、と思うくらい食欲旺盛で元気な金魚が出荷を待っています。この金魚を使って、毎年恒例の金魚すくい選手権大会があるそうです。チャンピオンのすくった記録が公表されていますが、2000年までは30~40匹程度だったのですが、2001年の記録はなんと160匹だったそうです。
 童謡に「雨が雨が降っている・・・・・金魚はどうしているかしら」というのがありましたが、梅雨に濡れたアジサイの花が美しい季節です。大和郡山の郊外にある矢田寺は、バスの便も悪く訪れる人もさほど多くないお寺ですが、アジサイの咲くころだけは臨時バスも運行される賑わいになります。起伏のある境内の所狭しといろいろな種類のアジサイが咲き乱れます。
 アジサイの学名は「オタクサ」といい命名はシーボルトに由来しています。帰国後に日本人妻の「おたきさん」をしのんでつけたものが学名になったようです。江戸時代にヨーロッパと日本との移動には大変な苦労を伴ったものでしょうし、日本に残した「おたきさん」の様子を知るのも簡単ではなかったと思います。現在では国境を越えてのコミュニケーションは、必要なら相手の顔を見ながらだって簡単にできるようになりました。シーボルトの頃にこのような環境だったなら、日本とヨーロッパに離れていてもコミュニケーションを蜜に取れたでことでしょう。その場合「オタクサ」の名称はどうなっていたことでしょう。

石造りの世界遺産が2つも隣接するインドネシアのジョグジャカルタ(インドネシア)

2005-10-12 16:34:56 | 世界遺産
 インドネシアのジャワ島のジョクジャカルタの近くには2つの世界遺産があります。一つは仏教遺跡のボルブドール、他方はヒンドゥー遺跡のプランバナンです。ともに、石造りの宗教遺跡ですが、受ける印象はずいぶんと違います。
 ボルブドールは何層にも積み重なった回廊はそれなりの高さはありますが、平面的で穏やかな感じがします。回廊に彫られたレリーフは仏の一生のなかの逸話を掘り込んだもので、戦闘場面などもあったように思いますが、全体に丸い印象を受けます。
 一方のプランバナンは、五重塔を思わせる垂直型の建物で、鋭角的な感じがします。かつては、数多くの塔が建っていたのですが、地震で倒壊し、その一部が修復されているとのことです。たしかに、修復された塔の周辺にはおびただしい数の石の廃墟が残されていました。これらの塔が林立する様は勇壮なものであっただろうと思います。
 プランバナンを訪問したときには、バスともタクシーともつかない乗合自動車に乗りました。現在残っているのかどうかわかりませんが、三菱自動車のコルトを改造していたため、コルトの名称で呼ばれていました。
 バンの後部座席に乗客を10人ほども乗せてつっぱしります。料金を徴収するために車掌役の人も乗っていて、たいていは乗客で満員の車内に入れず、外した後部ドアの位置にぶら下がっています。料金は乗るときに交渉して決めますが、日本人の場合、現地人価格の10倍ほど吹っかけられます。なんとか2~3倍程度の線まで値切りますが、それでも10~20円程度の安さだったように思います。なんとも乗り心地の悪い乗り物でしたが、うまく乗りこなせればこんなに便利で、安く、小回りの利く公共輸送機関もすくないかもしれません。
 どちらの遺跡を巡るのにも暑さとの戦いになります。熱帯の太陽がカーッと照りつけてくらくらします。ただ、日本の暑さに比べて湿度が低いせいか、日陰に逃げ込めればホット、いや、ほっとします。
 暑さの戦いといえば、PCの中に入っているCPUチップも発生する熱をいかにして逃がすかが、ますます難しくなってきているようです。性能を上げるため集積度が上がって、小さなところから発生する熱をどう外部に逃がすかが知恵の働かせどころのようです。人間と同様に熱にうなされて誤動作されては困ります。

岐阜県の山の中に大正時代が残っている明智

2005-10-05 16:36:04 | 日本の町並み
 明治時代に建てられた現役の小学校のある吹屋に対して、町の一郭に大正村が存在する町が岐阜県の東端にあります。JR中央西線の恵那駅から第三セクタの明智鉄道で40分間ほどの明智町がその町です。
 明治村はご存知のとおり犬山近くにある明治時代の建物を集めた屋外博物館です。明治を代表する帝国ホテルの正面玄関などがあり、京都の古いチンチン電車も走っています。しかし、明治村はあくまで博物館で、移築された資料としての建物が存在しそこに生活の臭いはありません。
 明智町の大正村は、大正ロマン漂う町並みに生身の人間が生活している現役の村なのです。大正時代に建てられた建物の一部は資料館として観光客用に公開され、これは博物館にはなっていますが、もとの現役の場所に存在しています。生活の場になっている民家の家並みもどこか大正を感じさせる雰囲気がただよっているようです。
 その名もずばりの大正路地は蔵の黒い板張りが続く比較的狭い路地で、石畳と組み合わさって絵になる風景を造っています。黒い板の部分は簡単に取り外しができ、取り外した跡に表れる土壁が火災から蔵を守るようになっているそうです。
 村には、矢がすりの着物や袴、それにブーツ、手提げ、パラソルまでもが貸衣装として用意されていて、自分自身をも大正時代にタイムスリップさせて村の中を散歩できるようになっています。もちろん、その姿で闊歩する景色が大正の雰囲気を増幅するのに役立つことを狙っているのでしょうが。
 村ですから村長も存在し、もちろん、名誉村長というところですが、初代の村長が高峰三枝子さん、二代目の現在は司葉子さんが務められています。村で行事のある時には、大正ロマンのあでやかな服装で来村されるようです。
 明智町は本能寺の変の明智光秀の生誕の地としても有名で、白鷹城址などの遺構も残されています。本能寺の変はなぜ起こったのか、光秀はなぜ主君を裏切ったのか。いろいろな説があるようですが、一つには信長と光秀との間でコミュニケーションがうまくいってなかったのではないでしょうか。メールや音声だけでなく、相手の顔をも見ながらコミュニケーションが簡単に取れる現在ならば、本能寺の変は起こってなかったかもしれません。

地上も地下も驚きの景色のカッパドキア(トルコ)

2005-10-02 16:37:33 | 世界遺産
 EUの加盟でトルコが話題になっていますが、そのトルコの中央部に位置するのが奇岩で有名なカッパドキアです。地上の奇岩に加えて、ここには巨大な地下住居の跡が残されています。地下8階もある遺跡もあり、6万人を収容できたと推定されている大きなものもあります。いくつかの地下住居の収容人数を足すと100万人にも達するとかで、キリスト教徒が迫害を逃れるために隠れ住んだ場所と考えられてきましたが、それにしては規模が大きすぎるとのことで、何のために作られたかは謎に包まれています。
 一方、地上の祈願群に目を移すと、いろいろな形の岩が見渡す限りの原野に生えています。人間の形をしたもの、動物の形のものなど見ていて飽きませんが、きのこ状の物が多かったようにも思います。熱気球に乗って上空から眺めるツアーもあるようですが、時間が無かったのと、高所恐怖症の理由から参加できませんでした。これらの奇岩は侵食によって作られたとのことですが、その侵食は現在も進んでいるようで、ツアーの同行のメンバの中にカッパドキアの訪問が2度目の方が居ましたが、数年前にきたときにあった岩が崩れて無くなっている、との証言もありました。
 あたりはトルコ絨毯の産地でもあるようで、パッケージツアーでは必ずといっていいほど、お土産やさんに寄ります。作っているところも見せてもらえるのですが、筆者ではとても根気が続きそうも無い気の遠くなるような作業のようでした。1cm四方に何本の毛を織り込んでいるかで値段がきまるそうで、もちろん本数の多いほうが高価で見た目も緻密でツルリとした感じがします。生糸で織られた高価な絨毯はとても手が出ませんでしたが、送料込みで1億の羊毛の絨毯の買い物をしてしまいました。もちろん1億円ではなく1億トルコリラです。8年程前のレートで1,200トルコリラで1円程度だったかと思いますが、その後さらにインフレが進んだようですが、昨年にデノミをやったようなので1億の買い物は難しくなったかもしれません。
 じゅうたんを織っている姿を見ていると、30数年前のコアメモリを思い出しました。当時のメモリはドーナツ状のフェライトコアを磁化させてその磁化の向きで0,1を区別していました。メモリを書き込むのと読み出すために合計3本の線を1mm程度のドーナツの穴に通していって布状に織り上げていました。細かな仕事で、当然メモリの価格も現在とは5~6桁も違っていたでしょうか。電子部品の進歩にはいまさらながら驚きます。