世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

真っ暗の闇を抜けて上ったボロブドゥールから見た朝日も、暑さの余韻の夕日も感動でした(インドネシア)

2015-02-22 08:00:00 | 世界遺産
 地震で崩れてしまったプランバナンも、復旧が進んで地震前の30年前に訪問の時より天を突く寺院が青空に生えていました。今回は、同じく30年前に訪れて暑さに参ってしまったボロブドゥールを、朝から夕刻までの移り変わりを含めて紹介します。周辺にも見所の寺院があって、こちらは次回に紹介しようと思います。

 前回紹介したプランバナンは、インドネシアのジョグジャカルタ市街の東にありますが、ボロブドゥールは北西に直線距離で30kmほどです。路線バスでは、北に伸びる国道を途中で西に折れておよそ70分くらいで到着します。この国道は、現在では片側で2車線以上の立派な道路になっていましたが、30年前のときは片側1車線の道路でした。路線バスはこの道路をぶっ飛ばして走るのですが、前方に遅い車が居たら、対向車線にはみ出して追い越しをするのです。対向車が迫っていても果敢に追い越しをかけるので、前方が見える席ではハラハラの連続でした。路線バスといえども、個々のバスのオーナーが運転をしていて、なるべく早く走って、多くの乗客を運べば、それだけ自分が儲かるといったシステムなのかもしれません。
 
 
 
 
 国道から、西にそれると、道路の周辺はジャングルで、緑がうっそうとしています。これは、ボロブドゥール遺跡に上ると、周りは地平線にそびえる山々までず~っと緑の森が続くのが解ります。この景色はどこかで見たような・・・そう、アンコール・ワットの西にある山に登ったときの景色に似ています。どちらの遺跡も、熱帯のジャングルに飲み込まれて、近年に再発見されるまで、眠っていたんですね。この熱帯にあることが曲者で、太陽の高い間に遺跡に上ろうものなら、大変な暑さに襲われます、30年前がスケジュールの関係でそうでした。遺跡近くのホテルに泊まって、早朝や夕刻に遺跡見物をすることを勧めます、といっても、真昼間でも長蛇の観光客が押し寄せていました。

 
 
 遺跡公園内に建つホテルでは、サンライズ・ツアーという特別料金のプログラムがあって、日の出前に遺跡に上って日の出を見ることができます。4時半にホテルのレセプションに集合し、懐中電灯を持たされて、勝手に上れ!といったツアーで、その割りには高額です。まあ、要所には案内人が立つなどして、それなりに人件費はかかっていそうですが。日の出は5時過ぎ、あたりが白んで東の地平線上には活火山のムラビ山が見え、その向こうから太陽が顔を現します。日の出前の、朝霧が漂う地表の景色も幻想的で、山から見る雲海とちょっと似ているでしょうか。これらの景色を見られて、日出後の涼しい時間帯に、一般観光客が入場してくる前に遺跡を見られることも考えると、このツアーは、高くないかな~とも思ったりします。

 
 
 一方の夕刻は、遺跡のゲートが18時に閉まるので、遺跡に上っていると17時半頃から帰れ!と追い立てられます。日没は18時頃かと思うのですが、西側は山が迫っていて太陽は17時頃に山に隠れてしまい、その後は残照で空がオレンジ色になります。朝と違って、暑さの余韻が残っていますが、こちらは特別料金は、かからないので観光客がたくさん残っていて、思い思いに写真を撮ったり景色を眺めています。ただ、17時半を過ぎると係員にせかされるので、ダラダラと階段を下りて出口に向かっていきます。赤道付近は太陽が垂直に沈むので、残照は長くは続かず、18時頃には急に暗くなってしまいます。

 ボロブドゥールもアンコールも探検家が地上を移動して再発見をしたのですが、現在の遺跡調査には人工衛星が随分と活躍しているようです。センサーの分解能が高くなっているだけでなく、赤外線などを含む色々な波長のセンサーで調べると、地下に眠っている遺跡もわかるのだそうです。アンコルワットの東西に広大な貯水池があったらしい、ということも衛星写真による解析が役立っています。敵の兵器を監視するスパイ衛星も同じ様な仕組みでしょうが、原子力同様に平和利用だけにしてほしいものです。

金比羅宮への階段は辛いですが門前町の町並み保存には心を和ませます

2015-02-15 08:00:00 | 日本の町並み
 ほの暗い館内に異色の画家の絵金のドラマティックな絵が並んでいるのが赤岡の絵金蔵で、その前には芝居小屋の弁天座が建っていました。平成のつくりですが、何か古風な雰囲気の建物でしたが、同じ四国には内子座など昭和より前に建てられた芝居小屋が残されています。今回は、これらの芝居小屋の中でも最古で江戸時代に建てられた旧金比羅大芝居(金丸座)のある琴平を紹介します。

 琴平は、香川県の高松の西南西20kmほど、JR土讃線の快速列車で1時間足らず、もしくは琴電でも1時間ちょっとの金比羅宮の門前町です。洋風で登録文化財のJRの駅、規模は縮小されたといえども和風の琴電駅、どちらの駅舎もなかなか趣があって、甲乙つけがたいところがあります。

 
 琴電駅の後方には、江戸後期に建てられた高灯篭もそびえています。灯篭としては日本一の高さを誇り。登録文化財になってるようです。高い建物が無かった時代に、瀬戸内海を航行する船からも金比羅さんの場所を知らせる目印となったそうです。

  
 
 
 
 琴平駅から金比羅さんに向かうには、線路と直行する通りを西南西に琴電琴平駅を通り過ぎてT字路を左折、しばらく行くと標識があるので右折すると、その先に金比羅宮への階段があります。右折する交差点から階段の麓あたりまで、門前町を形成する建物群が並んでいます。ほとんどが現役の商店で、土蔵造りや格子のある家などに混じってレトロな洋館も建っています。中には、新しく建てなおした商店もあるように思いますが、回りとの調和を乱す建て方はされていなく、日本ではめずらしく町並み景観が保存されているようです。

 
 さて、旧金比羅大芝居ですが、この参道が長い階段に差し掛かる手前を左折して急な坂を上った所にあります。時間が無くて外観のみを見学しましたが、なかなか堂々とした妻入りの建物です。手入れが良いのか、修復のせいなのか、壁の白さや瓦の光沢は妙にま新しく感じます。内部には、内子座などと同様に、人力を中心とした舞台転換の仕組みを持っているのではないかと思います。



 
 旧金比羅大芝居の所から始まる階段は、本宮まででも785段あり、標高差はさほどないのですが、階段の連続なので疲れます。もう諦めようか、ここで引き返そうか・・・と何度も思いましたが、本宮まではたどり着いて、パノラマの風景を楽しみました。奥社へはさらにその7/4倍くらいあるそうです、とても筆者には無理です。

 瀬戸内海には琴電琴平駅の近くの高灯篭だけではなく、あちこちに灯篭が建っていたようです。山口県の室積の御手洗灯篭堂は平成の再建ですが、琴平の高灯篭に似たものですが、こちらは海のそばに建っていました。狼煙では、前もって決めた複数の種類の情報を送る役割をもち、一方の灯篭では場所表示の情報を送っているだけですが、一種の光通信なんですね。もちろん、技術の品質は高度化していますが、アナログとデジタルのように、螺旋を描くように発達するんですね。

中国の古都洛陽には、繁栄を偲ぶものは少なく牡丹の花がひとり咲き誇っていました(中国)

2015-02-08 08:00:00 | 世界の町並み
 ドイツの商都であるフランクフルトの南に位置し、ヴェルサイユに告ぐ広さを誇る宮殿が待ちの中心にある都市がマンハイムでした。マンハイムはマンハイム・クァドラーテと呼ばれる直行する道路で区切られた都市計画でも知られています。直行する道路で区切られた都市というと、平城京や平安京を思い浮かべますが、そのお手本となったのが中国の長安や洛陽でした。今回は、その一つである現在の洛陽を紹介します。

 洛陽市は北京の南西600km、上海の西北西800km、そしてかつての長安、現在の西安の東300kmという内陸の都市です。在来線の駅は、洛川の北に広がる市街地の北辺にある洛陽駅で、西安と鄭州とを結ぶ高速鉄道の洛陽龍門駅は、市街地からずっと南の世界遺産の龍門石窟に近い所に位置しています。町中には、路面電車は無く中国の都市に多いトロリーバスが多くの路線で走っています。

 洛陽の歴史は平城京の比ではなく、紀元前8世紀には東周王朝の都でした。歴代の王朝は都を長安と洛陽との間を行ったりきたりで、長安が都の時にも、洛陽は副都とした王朝も多いようです。ただ、西安に比べると現在の洛陽市には遺跡や寺院などの歴史的な見所はあまり多くなく、龍門石窟が唯一のメジャーな観光地のようにも思えます。

 
 
 この少ない観光資源のなかから、3箇所を紹介しましょう。最初は、市街地の東はずれにある白馬寺です。西暦68年にインドの僧の2人が四十二章経を持って来訪し、この寺で翻訳をしたと伝えられる中国で最古の寺院です。山門の前には、2人の僧が白馬に乗ってきたという故事に従い白馬の像が建っています。また、境内に建つ斉雲塔は西安の小雁塔を思わせる塔で、基底部より中央のふくらみのほうが太い塔です。

 
 
 続いて、市街地の南、世界遺産の龍門石窟に行く途中にあるのが関林廟です。三国時代の蜀の武将である関羽の廟で、各地にある関帝廟の中で最初に作られたものと言われています。門を入って大殿と呼ばれる建物に入ると、関羽の巨大な像が極彩色で迫ります。どうも日本人の感覚からすると、極彩色の聖像には違和感を覚えますが、かつて日本のお寺にある古い仏像は、できた時には極彩色だったようです。この建物の裏の境内には、関羽の首が埋葬されているという塚もあります。

  
最後は、牡丹の花です。日本人は桜の花が好きですが、中国で最も人気のある花の一つが牡丹です。洛陽は温暖で土壌も牡丹の生育に適しているようで、牡丹は市の花にも指定されています。毎年4月下旬から5月にかけて牡丹祭りが催され市域のあちこちの牡丹園に人が集まります。その中の王城公園は、遊園地や川の北側には動物園もある東西800m、南北400mほどの公園ですが、その半分くらいと川沿いの斜面一面に牡丹が植えられています。ただ、日本にある牡丹園と比較をすると、大規模ではあるのですが、ちょっと大味な感じがしました。

 洛陽の地名を聞くと芥川龍之介の「杜子春」を思い出します。お金があるときには人が寄ってくるが、無くなると冷たくあしらわれる現世に嫌気が差す主人公ですが、現代の社会にも通じるところがあるようにも思います。お金にしか価値を認めない人間が、必要以上に金を集めた結果、富が1%の人間に集中する格差社会を生んでいるように思います。人々を幸にするはずのIT機器類についても、金儲けのための独占がまかり通っているようにです。コンピュータが格差を助長しているとの指摘もあるようで、人類は杜子春に出てくる仙人のようには、なかなかなれないようです。

美術館のレンガ壁の朱色も綺麗でしたが、赤岡の絵金の描く朱色はドラマティックで大迫力です

2015-02-01 08:00:00 | 日本の町並み
 姫路城の東の野里には、虫籠窓の町並みや「お夏清十郎」の塚などに混じって、赤いレンガ造りの美術館が印象的でした。姫路美術館のアカレンガはシックな趣を持っていますが、ドラマティックな朱色の画面で知られる絵師が絵金蔵です。今回は、その絵金の美術館のある絵金の描く赤にちなんだわけではないでしょうが地名も赤の付く赤岡を紹介しようと思います。

 赤岡は、高知市の東、土佐くろしお鉄道の御免から10kmほどの「あかおか駅」の北側に開ける町並みで、現在は町村合併により香南市の一部になっています。合併前は、1.64k㎡と全国一面積の小さな自治体でしたが、市街地がコンパクトにまとまっているために人口密度は大都市並だったそうです。町の北から流れてきた香宗川が西へ東へと蛇行をして、その支流と土佐湾とで囲んだ東西に細長い島のような形が赤岡の市街地です。

 
 
 
 赤岡は上方との物資の交流を司る回線問屋の町として発展し、香宗川が土佐湾に注ぐ河口の漁港はその名残でしょうか。街中には、かつての回線問屋や、織物などで栄えた頃の商家の名残の家並みが残されています。高知県でよく見られる、漆喰壁の中に水切り瓦を配した特長的な土蔵造りも目立ちます。横町という所には、かつてこの町の坂に敷かれた栗皮石を説明した立て札があり、近くの石垣は坂道から転用した石が使われているようです。栗の皮をむくように剝けるもろい石だそうで、この坂道は馬車は通行不可だったようです。これらの街中に、赤レンガの塀が連なり、まさしく赤の風景が広がる場所が初代村長小松邸与右衛門跡ですが、現地での場所の特定がかなわず、取材できませんでした。

 
 
 さて、異色の絵師の絵金ですが、あかおか駅の北東200mほどの所に赤岡町絵金蔵があり、絵金の絵やその絵を使った舞台の様子が再現されています。再現された舞台絵の様子は、真っ暗の中に蝋燭状の明かりに照らされた絵が並んでいます。鮮血が飛び散ったりする壮絶な場面が多く、暖色系のほのかな明かりに照らし出された赤色は恐ろしい迫力があります。この絵金という人物は、元はといえば狩野派の絵師で、若くして才能を発揮し土佐藩の御用絵師として活躍しました。しかし、贋作の作成にかかわったと、土佐藩からは解雇、狩野派からも破門されたそうです。贋作にかかわったというのは、若くして出世をしたために妬みから誣告されたのではないかと言われています。あちこちを転々とした後に、赤岡に住み着き、芝居の絵や台提灯絵それに絵馬などの絵を描いたそうです。

 絵金蔵の筋向いには弁天座という平成の芝居小屋が建てられています。地域のコミュニティの場として、絵金のゆかりの場所に芝居小屋を復活させたようです。絵金描く舞台絵のレプリカも使われているようですが、設備そのものは新しいものです。内子座など昭和より前に建てられた芝居小屋が残されています。現代のようにLEDなどの照明は当然ながら無かったはずで、外からもれる光か蝋燭の明かりの中で上演されたはずです。舞台が明るいと観客は細部まで良く見えますが、そもそも演劇とは虚構の世界ですから、よく見えない世界を想像するのも楽しみの一つで、絵金の絵も生きてくるのではないでしょうか。LEDなどの寒色系の明るい照明の下では、女優さんのメークのあらもクリアに見えすぎてしまうかもしれません。