世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

小野市の田園風景の中には巨大な阿弥陀像の浄土寺やその西には巨大な廃寺跡が残っています

2014-10-26 08:00:00 | 日本の町並み
 飛鳥と難波を結んだ古道の竹之内街道の補助街道であった穴虫越沿いには中将姫が織ったという曼荼羅を持つ当麻寺が建っていました。曼荼羅は、仏教階の仏様を、分類して描いたものですが、その中の阿弥陀様が現世に降り立ったのではないかと思うほど輝かしい阿弥陀像が拝めるのが、小野市の浄土寺です。当麻寺には東西の両塔が現存しますが、東西両塔の遺跡がある広渡廃寺跡も近くにあります。今回は、小野市の郊外にある浄土寺近辺を紹介します。

 小野市は、日本標準時の子午線の通る明石市の北20kmほど、人口が5万人ほどの町です。市の中心となる神戸電鉄の小野駅周辺を除いては田んぼや畑などが広がる地域です。加古川の両岸に広がる平野の東西を丘陵地帯が取り囲んでいるといった地形です。

 
 浄土寺は、東の丘陵の麓にあって、少し小高くなった境内からは、西側に広がる、小野市の田園地帯が見晴らされます。創建は12世紀で、こんな場所に、と思うほど多くの文化財が残されています。その中でも有名なものが、大仏様で建てられた浄土堂とその中に安置されている快慶作の阿弥陀三尊像で、共に国宝です。25m四方の浄土堂の内部は、平床の中央の円形須弥壇に5m30cmもある巨大な阿弥陀様と3m70cmの両脇侍が、でんと立っているだけで、装飾の少ない空間です。巨大なだけの阿弥陀像のように感じますが、夕暮れ時にはビックリするような光景が見られます。三尊像はほぼ東を向いていて、背面が西になりますが、後方のしとみ戸越しに差し込む夕日が床で反射をして、オレンジ色の屋根裏を赤く染めるようになります。この時に阿弥陀様を正面から拝観していると、夕日の光に堂内の反射とが加わって、後光が差しているように輝いて見えます。阿弥陀信仰の盛んな頃には、この光景を見て、阿弥陀浄土から迎えに来られた、と感じたのではないでしょうか。この光景を味わうためには、天気のよい夕方、4~9月は5時少し前、それ以外の季節では4時前に訪問する必要があります。

 
 境内には、その他に浄土堂と同じような方形造りの薬師堂が東西の同じ軸線上の東に、本堂の薬師堂(重文)やこの二つのお堂の間には鎮守八幡神社とその拝殿があり合わせて重要文化財です。

 
 
 浄土寺は12世紀の創建ですが、それよりずっと前の飛鳥、奈良時代に造られ平安時代に無くなってしまったお寺が全国に700以上もあったようです。ほとんど記録も残されていないお寺が多いのですが、浄土寺の西1.5kmほどの所に、薬師寺と同じ伽藍配置の礎石が残されています。広渡廃寺跡で、金堂のほかに東西両塔の基壇と礎石が100m四方の公園の中に残っています。公園の中には1/20の模型も造られていて、現存すればさぞや立派なお寺であっただろうと思います。ただ、現在の状況から思うと、こんな内陸の不便な場所に、なぜこんなに大規模なお寺を建てたのだろうという疑問が浮かびます。

 
 浄土寺と広渡廃寺跡の間には、菜の花やひまわり、それにコスモスの花畑になる、ひまわりの丘公園や共進牧場などがあって、天気が良ければ気持ちのよい散歩コースです。共進牧場は、共進牛乳が持つジャージ種の乳牛がたくさん飼われている牧場で、散歩の途中に売店に寄って、ここで絞られた牛乳を原料とするソフトクリームやプリンを食べて一休みできます。

現在は、国際通信は光ケーブルが全盛ですが、かつては無線が中心だった時代があります。今から50年ほども前ですが、筆者が小野を訪れた時には、KDD(現在のKDDIの前身)の海外向け無線局のアンテナが林立していました。周辺に民家が少ないため、雑音が少ない場所だったからからかもしれません。無線による通信なので、電話にして数回線の、現在の光回線とは比べようもないくらいの小さな容量だったのでしょう。その頃は、国内の電話でも、ダイヤルして即時につながらない場所も残る時代でした。インターネットを通じて、地球上の隅々の情報を瞬時に得られる現在では、想像もできないかもしれません。ただ、技術的にはどこにでもつながるインターネットですが、権力によって情報の流れを遮断される困った現象があることも事実です。

マラッカは、ポルトガル、オランダ、イギリスの宗主国に加え華僑の文化も残す町です(マレーシア)

2014-10-19 08:00:00 | 世界遺産
 ワインのふるさとのボルドーには、教会や劇場それに城門など現役の美しい建物群の中に、古代ローマの円形闘技場の遺跡も残っていました。町の中で、そこだけが異次元の世界のようで、周りの景色とは段差がありました。ヨーロッパの町並みの中には、古代ローマの遺跡がけっこう残っていて、かつての版図の広さを感じます。一方、東南アジアに行くと、植民地時代の旧宗主国の名残や、中国の華僑の文化などと、その土地の伝統文化と交じり合って、町並みの中に異次元空間を作っていることが多いように思います。今回は、これらの中から、ポルトガル、オランダ、英国、中国それに伝統のマレー文化が交じり合ったマラッカを紹介します。

 マラッカは、マレーシアの首都のクアラルンプールの南東100kmほどのマラッカ海峡に面した町で、高速バスで2時間ほどの距離です。マラッカは、14世紀末に王国として成立し、中継貿易港として発展しました。この立地に目をつけたポルトガルによって16世紀に植民地化され、その後の17世紀にはオランダ領、19世紀には英国領となり、第二次大戦後の1958年にマラヤ連邦の一部として独立した歴史を持ちます。

 
 
 マラッカの景色を代表する場所がオランダ広場で、広場を囲んでキリスト教会、スタダイスそれに時計塔が建っています。3つの建物は共にマゼンタ色でけばけばしいのですが、南国の強烈な太陽には似合ってるかなという感じもします。スタダイスというのは、行政用のオフィスの名残で、オランダ広場といわれるだけあって、時計塔を除いてオランダ統治時代の建物です。時計塔は19世紀の英国統治時代に建てられたようです。

 
 
 オランダ広場の後方にあるセントポールヒル周辺には、ポルトガル統治時代の遺跡が多く、頂上にはセントポール教会の、麓にはサンチャゴ砦の各々残骸があります。セントポール教会は壁だけが残る廃墟で、プロテスタントの英国の支配下でカソリックの教会は顧みられず朽ちてしまったようです。教会前には、この教会で知り合った日本人の話から日本布教を思いついたフランシスコ・ザビエルの像も建っています。また、サンチャゴ砦の近くには、14世紀のマラッカ王国時代の宮殿を再現した王宮博物館があります。さらに、英国統治時代の将校クラブでマラヤ連邦独立宣言に使われた建物が、独立記念博物館として公開されています。

 
 宗主国とのつながりではなく、華僑とのつながりはプナカン文化として残されています。東南アジアに出稼ぎに来て、その土地の女性と結婚をして居ついた華僑の末裔をプラナカンと呼びます。マラッカ川の右岸には、ジョンカー通りを中心にしてチャインアタウンが広がりますが、その中にプラナカン文化を紹介するババニョナ博物館があります。このジョンカー通りには、日本のチキンライスとは似ても似つかない名物料理もあります。

 
 マラッカには、上記で紹介した教会以外にも数多くの教会や仏教寺院、それにヒンドゥー寺院が散在していますが、マレーシアはイスラム国家なので、国内で最古のイスラム寺院が建っています。
 
 カンポン・フル・モスクで18世紀初頭に建てられています。
 
もう一つのカンポン・クリン・モスクは19世紀に建てられていますが、両寺院とも通常見られるドーム状のモスクと細身のミナレットとは、まるで違った形の建物が建っています。

 マラッカの西側にある海はマラッカ海峡で、中東からわが国に運ばれる原油を積んだタンカーの主要路です。主要路であるにもかかわらず、狭く浅瀬の多い難所で、ここを通過できる限界の大きさをマラッカ・リミットと呼んでいるそうです。このリミット以下のタンカーであっても、潮流によって浅瀬の状態がめまぐるしく変わったり、気象条件で視界が極端に悪くなったりで通過するのは大変なようです。この難所対策として、沿岸には数多くの無線基地が作られているようですが、GPSも含めて船の位置確認の精度は向上するのでしょうが、時々刻々変化する海底の状況は、どのように観測して反映されるのでしょうか。飛行機に積まれている地形回避レーダの水中版のようなものって存在しないのでしょうか、ただ検出できても急停止や急旋回ができない大型船では回避が難しいのでしょうか。

飛鳥と難波とを結ぶ古街道の穴虫越には中将姫伝説の当麻寺も建っています

2014-10-12 08:00:00 | 日本の町並み
 水運を利用した木綿の集散地として発展し木綿街道の名前が残るのが出雲台車の近くの雲州平田でした。木綿に比べて高級な繊維のイメージが強い絹は、東洋で作られたものが遠くシルクロードを伝わってヨーロッパにもたらされました。このシルクロードの東の起点は、日本の飛鳥地方といわれています。飛鳥地方から難波津を経由して中国大陸につながり、遠く中近東までつながり、正倉院の御物のいくつかは、このルートで遠くペルシャからも伝わったと言われています。この飛鳥と難波を結ぶ古街道が竹之内街道で、古には聖徳太子も通ったであろうとされていますが、竹之内街道の東側の起点は、奈良と大阪の県境にそびえる二上山の南東側の麓にある長尾神社あたりとされています。竹之内街道は二上山の南側を越えていますが、北側を越える古道が穴虫越と呼ばれる竹之内街道の補助街道です。今回は、この穴虫越のうち当麻寺の参詣道に当たる町並みと、かつての穴虫村と呼ばれた地域に広がる町並みとを紹介します。

 
 二上山は、飛鳥の西にそびえ、日が雄岳と雌岳との間に沈む様子から神格化され、万葉集にも数多く登場する山の一つです。雄岳の頂上付近には、草壁皇子との権力闘争に敗れた大友皇子のものとされる墓がありますが、異説も多いようです。一方、当麻寺は二上山の東の麓にあるお寺で、中将姫が夢のお告げを受けて蓮の繊維を使って織ったという曼荼羅で有名です。この当麻寺には、曼荼羅だけではなく、古代に建てられた東西の三重塔が唯一存在するお寺としても有名です。

 
 
 古い町並みは、近鉄の当麻寺駅からまっすぐ西に伸びる参詣道にそって伸びています。この道の調度中間辺りに蹴速塚があります。垂仁天皇の頃に、この地の當麻蹴速と出雲からの野見宿禰とが相撲を取り、當麻蹴速が腰を踏み折られて亡くなったと言われる場所で、相撲発祥の地とされています。

 
 
 
 一方、穴虫村のあった所は、二上山の北東に位置していて、奈良県側から北西に伸びる穴虫越が北に向きを変えるあたりです。近鉄の二上山駅と二上駅との間に町並みが細長く伸びています。かつての街道であった道は意外なほど狭く、この狭い道路に沿って格子の連なる町家や土蔵造りの家並みが、これまた意外なほど数多く残されています。行政上は大阪のベッドタウン的な性格の香芝市の一部ですが、周りには畑が残り、人通りもまばらな場所で、ちょっと異次元空間の雰囲気です。

 曼荼羅というのは仏教の教えに登場する仏様を分類した、いわば仏様の戸籍簿のようなものです。戸籍といえば、この制度が存在するのは日本と中国だけだそうで、プライバシーの問題など欠点もありますが、便利な制度です。最近は、役所に出向かなくても、コンビニや駅頭で戸籍関連の書類が手に入るようになり便利になりました。ネットワークと、個人認証の技術の発達が便利さを支えているのでしょう。戸籍と個人認証といえば、ある発展途上国で、国民の戸籍データを作るプロジェクトが立ち上がったのですが、二重登録をどうやって防ぐかが問題になったのだそうです。そこで、登場したのが、わが国の指紋認証技術で、戸籍の登録時に指紋も合わせて登録して二重登録を防止したのだそうです。わが国でも似たようなシステムが必要にならないのでしょうか。

ケーブルカーや路面電車で上った丘からのリスボンの眺めは赤い屋根の連続が綺麗です(ポルトガル)

2014-10-05 08:00:00 | 世界の町並み
 アドリア海を渡って対岸のクロアチアや、さらに遠くのギリシャへのフェリーが出航する港がイタリアのアンコナでした。現代は、巨大なフェリーが、短時間で快適に目的地まで運んでくれますが、大航海時代には、小さな船で大海原に出航していきました。今回は、その出発地点の一つとなった、ポルトガルのリスボンを紹介します。アンコナの対岸がクロアチアのザダルだったように、コロンブスが渡ったアメリカは、大西洋を挟んでリスボンの対岸だったのですね。

 リスボンは、言わずと知れたポルトガルの首都で、町の西部にはジェロニモス修道院,、郊外にはシントラとの合計2箇所の世界遺産もあります。行政上の市域は85k㎡で東京23区の7~8分の1、人口は55万人と小ぶりですが、都市圏は3,000k㎡、300万人とポルトガルの人口の1/4が生活をしています。起伏の多い市街は、丘の多いアンコナと似ている点かもしれません。この起伏のために、他の都市ではあまり見かけないものがいくつかあります。

 
 もっとも目立つ存在は、ケーブルカーです。サンフランシスコに比べると規模は小さく、直線状に上下するだけですが、登山用のケーブルが街中に現れたようで、面白い光景です。

 


 
 ケーブルカーは市街地の西側の丘に走っていますが、東側の丘の勾配の小さな坂は、路面電車が細い道路を車体をきしませて上り下りをしています。この丘の頂上には、サンジョルジェ城跡があって、テージョ川をバックに市街地のすばらしい展望が開けています。なお、街中を走る路面電車は2種類あって、丘を上り下りしている電車は単軌で小型でレトロなもの。一方、ジェロニモス修道院の方向に川沿いに走っている電車は複数編成の大型のLRTで、対比が面白い状況です。

 

 二つ目は、サンタジェスタのエレベータです。現在は、エレベータで上部の展望台に上り下りをするだけですが、作られた当時は、エレベータ上部から空中回廊を通って丘の上に出られたそうです。このエレベータは通りの突き当たりに、突然に道を塞ぐように現れます。細身の塔の上に大振りの展望台が乗っている形は、なんとも不安定な感じがしますが、展望台からの眺めはサンジョルジェ城跡からの眺めとは逆方向で絶景です。

 
 もう一つは、水道橋で、他のヨーロッパや北アフリカの水道橋のように古代ローマが作ったものではなく、18世紀に当時の国王が作ったのだそうです。リスボンの人口増加による水不足を解消するため18km先の水源から水を引いてきて、丘の切れ目を水道橋でつないだようです。高速道路の上をまたいでいる石の塊は、なかなか迫力があります。

 
 
 リスボンには、丘だけでなく数多くの教会や美術館など見所が沢山あります。町の中心はポンパル広場あたりのようで、広場の中央にはポルトガルの基礎を作ったと言われるポンパル候の銅像が建っています。この広場から少し北に行くとグルベンキアン美術館があります。公営ではなく、グルベンキアンというアルメニア人のコレクションを展示する美術館です。ところが、この美術館は、なかなか見ごたえがあります。印象派の絵画に混じって、家具や焼き物、服装それに日本の漆芸もと、すこぶる分野の広いコレクションです。像と言えば、テージ川の対岸の丘の上には手を広げたキリスト像が建っており、リオのキリスト像とどこか似ています。キリストといえば、ジェロニモス修道院のほかにも数多くの教会があり、カテドラルのそばにはレトロタイプの路面電車が走っていて、聖堂の陰からひょっこり顔を出すのは絵になる光景です。

 リスボンの西にあるジェロニモス修道院の近くには、発見のモニュメントという極めて身勝手な彫像があります。アメリカ大陸に押しかけて、その地を蹂躙した、発見者や冒険家と称する人物がずらりと並んでいます。アメリカ大陸は、決して発見などではなく、ヨーロッパ人がその存在に気づく前からネイティブ・アメリカンがずっと住んでいたわけです。武力によって侵略したに等しいグループが英雄なのか疑問です。自分たちが優れていて、他国の文化や、ひいては人間自体を認めようとしない文化が根底にあるように思います。通信やコンピュータなどのIT分野でも、自分達に都合の良い国際標準や規格を、グローバルの名の下に力ずくで押し通し、他国の文化や富を蹂躙する西欧企業の振る舞いもどこか似ているような気がします。