飛鳥と難波を結んだ古道の竹之内街道の補助街道であった穴虫越沿いには中将姫が織ったという曼荼羅を持つ当麻寺が建っていました。曼荼羅は、仏教階の仏様を、分類して描いたものですが、その中の阿弥陀様が現世に降り立ったのではないかと思うほど輝かしい阿弥陀像が拝めるのが、小野市の浄土寺です。当麻寺には東西の両塔が現存しますが、東西両塔の遺跡がある広渡廃寺跡も近くにあります。今回は、小野市の郊外にある浄土寺近辺を紹介します。
小野市は、日本標準時の子午線の通る明石市の北20kmほど、人口が5万人ほどの町です。市の中心となる神戸電鉄の小野駅周辺を除いては田んぼや畑などが広がる地域です。加古川の両岸に広がる平野の東西を丘陵地帯が取り囲んでいるといった地形です。
浄土寺は、東の丘陵の麓にあって、少し小高くなった境内からは、西側に広がる、小野市の田園地帯が見晴らされます。創建は12世紀で、こんな場所に、と思うほど多くの文化財が残されています。その中でも有名なものが、大仏様で建てられた浄土堂とその中に安置されている快慶作の阿弥陀三尊像で、共に国宝です。25m四方の浄土堂の内部は、平床の中央の円形須弥壇に5m30cmもある巨大な阿弥陀様と3m70cmの両脇侍が、でんと立っているだけで、装飾の少ない空間です。巨大なだけの阿弥陀像のように感じますが、夕暮れ時にはビックリするような光景が見られます。三尊像はほぼ東を向いていて、背面が西になりますが、後方のしとみ戸越しに差し込む夕日が床で反射をして、オレンジ色の屋根裏を赤く染めるようになります。この時に阿弥陀様を正面から拝観していると、夕日の光に堂内の反射とが加わって、後光が差しているように輝いて見えます。阿弥陀信仰の盛んな頃には、この光景を見て、阿弥陀浄土から迎えに来られた、と感じたのではないでしょうか。この光景を味わうためには、天気のよい夕方、4~9月は5時少し前、それ以外の季節では4時前に訪問する必要があります。
境内には、その他に浄土堂と同じような方形造りの薬師堂が東西の同じ軸線上の東に、本堂の薬師堂(重文)やこの二つのお堂の間には鎮守八幡神社とその拝殿があり合わせて重要文化財です。
浄土寺は12世紀の創建ですが、それよりずっと前の飛鳥、奈良時代に造られ平安時代に無くなってしまったお寺が全国に700以上もあったようです。ほとんど記録も残されていないお寺が多いのですが、浄土寺の西1.5kmほどの所に、薬師寺と同じ伽藍配置の礎石が残されています。広渡廃寺跡で、金堂のほかに東西両塔の基壇と礎石が100m四方の公園の中に残っています。公園の中には1/20の模型も造られていて、現存すればさぞや立派なお寺であっただろうと思います。ただ、現在の状況から思うと、こんな内陸の不便な場所に、なぜこんなに大規模なお寺を建てたのだろうという疑問が浮かびます。
浄土寺と広渡廃寺跡の間には、菜の花やひまわり、それにコスモスの花畑になる、ひまわりの丘公園や共進牧場などがあって、天気が良ければ気持ちのよい散歩コースです。共進牧場は、共進牛乳が持つジャージ種の乳牛がたくさん飼われている牧場で、散歩の途中に売店に寄って、ここで絞られた牛乳を原料とするソフトクリームやプリンを食べて一休みできます。
現在は、国際通信は光ケーブルが全盛ですが、かつては無線が中心だった時代があります。今から50年ほども前ですが、筆者が小野を訪れた時には、KDD(現在のKDDIの前身)の海外向け無線局のアンテナが林立していました。周辺に民家が少ないため、雑音が少ない場所だったからからかもしれません。無線による通信なので、電話にして数回線の、現在の光回線とは比べようもないくらいの小さな容量だったのでしょう。その頃は、国内の電話でも、ダイヤルして即時につながらない場所も残る時代でした。インターネットを通じて、地球上の隅々の情報を瞬時に得られる現在では、想像もできないかもしれません。ただ、技術的にはどこにでもつながるインターネットですが、権力によって情報の流れを遮断される困った現象があることも事実です。
小野市は、日本標準時の子午線の通る明石市の北20kmほど、人口が5万人ほどの町です。市の中心となる神戸電鉄の小野駅周辺を除いては田んぼや畑などが広がる地域です。加古川の両岸に広がる平野の東西を丘陵地帯が取り囲んでいるといった地形です。
浄土寺は、東の丘陵の麓にあって、少し小高くなった境内からは、西側に広がる、小野市の田園地帯が見晴らされます。創建は12世紀で、こんな場所に、と思うほど多くの文化財が残されています。その中でも有名なものが、大仏様で建てられた浄土堂とその中に安置されている快慶作の阿弥陀三尊像で、共に国宝です。25m四方の浄土堂の内部は、平床の中央の円形須弥壇に5m30cmもある巨大な阿弥陀様と3m70cmの両脇侍が、でんと立っているだけで、装飾の少ない空間です。巨大なだけの阿弥陀像のように感じますが、夕暮れ時にはビックリするような光景が見られます。三尊像はほぼ東を向いていて、背面が西になりますが、後方のしとみ戸越しに差し込む夕日が床で反射をして、オレンジ色の屋根裏を赤く染めるようになります。この時に阿弥陀様を正面から拝観していると、夕日の光に堂内の反射とが加わって、後光が差しているように輝いて見えます。阿弥陀信仰の盛んな頃には、この光景を見て、阿弥陀浄土から迎えに来られた、と感じたのではないでしょうか。この光景を味わうためには、天気のよい夕方、4~9月は5時少し前、それ以外の季節では4時前に訪問する必要があります。
境内には、その他に浄土堂と同じような方形造りの薬師堂が東西の同じ軸線上の東に、本堂の薬師堂(重文)やこの二つのお堂の間には鎮守八幡神社とその拝殿があり合わせて重要文化財です。
浄土寺は12世紀の創建ですが、それよりずっと前の飛鳥、奈良時代に造られ平安時代に無くなってしまったお寺が全国に700以上もあったようです。ほとんど記録も残されていないお寺が多いのですが、浄土寺の西1.5kmほどの所に、薬師寺と同じ伽藍配置の礎石が残されています。広渡廃寺跡で、金堂のほかに東西両塔の基壇と礎石が100m四方の公園の中に残っています。公園の中には1/20の模型も造られていて、現存すればさぞや立派なお寺であっただろうと思います。ただ、現在の状況から思うと、こんな内陸の不便な場所に、なぜこんなに大規模なお寺を建てたのだろうという疑問が浮かびます。
浄土寺と広渡廃寺跡の間には、菜の花やひまわり、それにコスモスの花畑になる、ひまわりの丘公園や共進牧場などがあって、天気が良ければ気持ちのよい散歩コースです。共進牧場は、共進牛乳が持つジャージ種の乳牛がたくさん飼われている牧場で、散歩の途中に売店に寄って、ここで絞られた牛乳を原料とするソフトクリームやプリンを食べて一休みできます。
現在は、国際通信は光ケーブルが全盛ですが、かつては無線が中心だった時代があります。今から50年ほども前ですが、筆者が小野を訪れた時には、KDD(現在のKDDIの前身)の海外向け無線局のアンテナが林立していました。周辺に民家が少ないため、雑音が少ない場所だったからからかもしれません。無線による通信なので、電話にして数回線の、現在の光回線とは比べようもないくらいの小さな容量だったのでしょう。その頃は、国内の電話でも、ダイヤルして即時につながらない場所も残る時代でした。インターネットを通じて、地球上の隅々の情報を瞬時に得られる現在では、想像もできないかもしれません。ただ、技術的にはどこにでもつながるインターネットですが、権力によって情報の流れを遮断される困った現象があることも事実です。