世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

関東ではありません、カントー(Can Tho)はホーチミンシティからバスで4時間ほどの花がたくさん咲いていた都市です(ベトナム)

2023-06-25 08:00:00 | 世界の町並み
 ベトナムの町の紹介が続きますが今回もべトナムで、ホーチミンシティのバスステーションからバスで4時間ほどでいけるメコンデルタの都市のカントーです。

 カントーはホーチミンシティの南西160kmほどで、バスはメコン川の支流の端を次々と渡って走ります。本来は4時間足らずでカントーのバスステーションに着くのですが、筆者の場合は7時間近くもかかりました。ことの顛末は、印字した行き先を見せたにもかかわらず、バス乗り場の券売所のおばちゃんが間違った行先のバス券を発行したことに始まります。乗車券には行先が印字してありましたが、当然ベトナム語でです、どれが行先かはわかりません。帰国後に解析して判明した行先はベトナム最南端の都市でした。もう着くころだとスマホで位置を確認したら、カントーの郊外をかすめて南に疾走しているところでした。周りの人に、スマホの翻訳機能を使って、バスの行先を尋ねて、我々の行きたい都市を伝えましたが、とにかく終点まで行けば折り返してカントーに行けるよとのことですが、終点につくのが夕方の5時ころ、すぐに折り返せてもカントーには9時よりも遅くなりそうです。運転士も巻き込んでの大騒ぎは、偶然にやってきたカントー近くを通る対向バスに乗り換えることで決着、車がバンバン走る国道を横切っての乗り換えでした。結果、予定より3時間ほどは遅くなりましたがカントーに到着、運転手さんや同乗者の親切に感謝です。

 
 乗った長距離バスは日本では道交法で認められていない寝台バスでした。中国で見たときには少々引きました、寝台の長さが120~140cmぐらいで脚を曲げないと横になれず、寝台もまるで荷物棚のようでした。ベトナムで乗ったのは、ずっとゆったりで、もちろん乗車定員も少なかったのでしょう、寝台の長さはゆうに180cm以上もあり、ゆっくりと横になって荷物も置けます。中央通路の両側にカプセルホテルのようなユニットが20個ほど並んでいる構造でした。日本でも法律改正してこんなバスが走ってほしいものです。

 
 
 
 さて、カントーの町ですが、取り立てての観光ポイントは水上マーケット暗いかもしれません。8時くらいまでなので早起きをして、船乗り場から小型の船に乗り30分ほど走ってマーケットに到着します。果物や野菜それに麺類などの朝食になるようなものを売る船がひしめいています。値段は決して安くなく、後述するタンアン市場の倍以上はするようです。おそらく、観光船にバックマージンを払うためでしょう。船には舳先に目玉が描かれていて、これは一種のお守りでしょうか。また、船によっては、売っているものを竹竿の先に括りつけて掲げ、遠くから何が売られているかを見えるようにしているのもあります。

 
 
 
 
 
 
 水上マーケット以外には、道教や仏教寺院それに教会などが、小さな町の割にはよく見かけます。

 
 
 観光客がよく行くカントー市場は衣類中心、地元の人が利用するタンアン市場は食料品が通りにまであふれ、そこにバイクで乗り付けるお客が殺到するので、大混雑で、よそ者は邪魔にならないようにするのが精一杯です。カントー市場の近くにはないとマーケットが開かれ、衣料品や食料品の露店が並びますが、昼間にその場所を見ると夜の情景は想像できないただの道路です。

 
 夜といえば、市街地を流れる川にはレストラン船が並び、なかなか人気があって乗船に長い列ができています。市街地の北側の本流に突き出た半島状の周りの遊歩道につながるデッキも展望スペースもライトアップされて、なかなか幻想的です。

 
 
 また、博物館もありますが、昼休みにぶつかって見られないかと思いましたが閉館まで残り5分という状況で入館して駆け足で回りましたが、それなりに見ることができました。

 
 
 
 カントーは、メコンデルタの都市がそうであるように、果物が豊富で、食事の付いていないホテルでは果物は重宝しました。川を向いたりで刃物が必要でしたが、飛行機での移動では果物ナイフ一つも蛍光できませんでしたが、泊まったホテルには調理器具が備えられていて、これも助かりました。果物にまして豊富なのが花々で、様々な花が町中にあふれて咲いています。ホーチミンに近いメコンデルタの町であるミトーの観光ボートは、水郷のクリークの景色が見られ、果物園などを見学と試食ができます。ところが、カントーの水上マーケットの船はマーケットを見るだけでクリークの景色の観光など一切なし、その割に高額な乗船は外して、花を見に行くだけで十分と思います。

 飛行機での移動を伴う旅行でいつも困るのが果物ナイフです。美味しそうな果物を見つけても、ナイフが必要な場合はあきらめるか、前もって細かく切り分けられた物を来うん有するしかありません。果てるで借りることありますが、かなりのホテルでは常備されていません。プラスチック製の果物ナイフを携行しますが、すぐ切れなくなり、歯が立たない果物が多くてだめです。かつては、飛行機への持ち込みは自由でしたが、犯罪が増えたために不自由になりました。搭乗時のセキュリティチェックは単純なX線検査ではなく、刃物を金属で覆っていても検出できるような装置のようです。出国管理はコンピュータが顔写真と照合する顔認証が進んでいて短時間で審査終了しますが、セキュリティは映像を人間が判断していてAI化はされていないようです。このために、小さな裁縫用鋏が引っかかったり通ったりします、審査の人間の判断によるからです。

百里基地をスクランブル発進をする戦闘機の轟音の下には、物音ひとつしない冷凍保存されたような小川町の古い町並みがありました

2023-06-18 08:00:00 | 日本の町並み
 かつて大隅半島を半周する鉄道の中間駅の記念館があり、戦争中の特攻隊の基地の一つであったのが鹿屋でした。特攻隊の基地は現在は航空自衛隊の前線基地になっていますがこちらも記念館があって、これまでに自衛隊や旧軍隊で使われた飛行機が展示されています。スクランブル発進をする自衛隊基地の一つで、東京に最も近い基地が百里で、現在は民間の茨城空港として共用の2本目の滑走路を持つようになりました。この茨城空港は、かつては利用促進のため東京との間に格安のバスがありましたが、コロナで週に数便となり、東京人にとっては遠い空港になってしまいました。東京へのアクセスは、常磐線の石岡にバスで出て電車ということになりますが、このバス路線の途中の小川町には古い町並みが残されています。今回はその町並みを紹介します。

 
 この小川町には、石岡から鉾田まで鹿島鉄道線というローカル鉄道が走っていましたが、2007年に廃線になってしまいました。軌道の一部は、空港と石岡駅を結ぶバスの専用道となり、一般車は通れないので渋滞はなさそうですが、そもそもバスは頻繁には走ってはいませんが。茨城空港の開港が2010年ですから、もう少し廃線が遅れていたなら、空港アクセス線になっていたかもしれませんが、空港に行くには支線を延ばす必要があり、そこまでしても、茨城空港の状況から需要は見込めなかったでしょう。混むのは年に1℃の百里基地の基地際の日だけだったかもしれません。この茨城空港は、スクランブル基地ということだけあって、空港の展望台から基地方向はすりガラスで醜くしていますが、中国や韓国の民間機が降りてくるのは、不思議に思います。

 
 
 
 小川町は、霞ケ浦の水運を利用した廻船問屋が核になりましたが、前述のように今は廃線となった鹿島鉄道線が開通して運輸業としては見捨てられるようになったそうです。その後、養蚕業が盛んになり全国に名を知られるようになったのですが、これも百里基地の前身の海軍基地ができて衰退してしまいました。さらに、県道は小川町をバイパスし、小川町から離れたところを通ってしまい、水戸と霞ケ浦を結んだ旧道には石岡駅と茨城空港とを結ぶ路線バスが走るのみとなり時代から取り残されたような形となりました。その結果、旧街道沿いに古い町並みが冷凍保存されてしまったようです。


 
 
 
 この旧道は旧街道らしく、微妙に曲がりくねって見通しがききません、路線バスの運転は機を使うでしょうが、歩いている人はほとんど見かけません。この道沿いには、一階に出格子をはめ二階部分が土蔵造りの古民家が多く、どっしりとした門構えの奥には造り酒屋もあります。人気の少ない道沿いには、古風な青色の朝顔が咲き乱れ、見上げた空の夕焼けは、雲の間から光の帯が放射状に伸びて、なにか修家用的な感覚を受けそうな景色でした。

 前述のように茨城空港から乗ったバスが終点の石岡駅に近づくと鹿島鉄道の旧路線敷を使ったバス専用道を走ります。鹿島鉄道は単線でしたから、この専用道もバス1台が通れる幅しかありません。単線の鉄道では、タブレットと呼ばれる通行証で、双方向から列車が来て正面衝突するのを防止していて、すごく原始的ですが、通行証を運転士が見誤らない限りシンプルで安全なシステムです。さすがに現在では、大部分が電気的な自動閉塞システムが導入されて、通行証は信号機になっています。そこで、疑問になったのが、バス専用道の衝突防止システムです。ダイヤはさほど密では異様ですが、途中のかつて駅だったらしい場所で対向車と行違いました。タブレットや信号機などは見当たりません。ダイヤで行き違い場所を決めてるので、その通りに走っているのでしょうか、それとも都会にあるバスきっせつシステムのように電波と簡単なコンピュータシステムの組み合わせなのでしょうか。

11世紀以降のハノイの歴史を見つめてきたタンロン遺跡は、発見されて20年ほど、まだまだ調査の真っ最中、完了したら再訪したい場所の一つです(ベトナム)

2023-06-11 08:00:00 | 世界遺産
 ベトナムが10世紀に中国から独立して最初に都にしたのがハノイから南に2時間程のホアルーでした。やがて首都はホアルーからハノイに移され11世紀から19世紀まで首都の居城として使われた遺跡がタンロン遺跡です。ベトナムには8か所の世界遺産が登録されていますが、登録が2番目に新しく、最もアクセスに便利な場所にあるのがこの遺跡です。今回はこのタンロン遺跡について紹介します。

 タンロン遺跡は、ベトナムの首都ハノイの旧市街の西隣にあって、ホテルの多い旧市街やホアンキエム湖から歩いて行けるという手軽さです。発見されたの2003年で、見られる部分はごく一部で、まだまだ発掘中の遺跡です。敷地は南北に細長く、かなりの広さなのですが、発掘調査のために工事現場と化した北側にはいきませんでした、というより立ち入れなったのかもしれません。したがって、今回の紹介は遺跡の目玉的な建物である端門周辺のみと、やや寂しい状況になりました。

 
 
 
 端門は皇帝が住まいする敬天殿に通ずる宮殿の正門で、現役の頃には検問役の衛兵もいたことでしょう。遺跡への入り口から端門までは現在は芝生の公園で、いろいろなイベントが行われているようです。この芝生の下にも遺跡が眠っていたのかもしれませんが、現在の発掘は、端門の北側で行われています。門には5つの入り口があって、位によって通ることができる入り口が違ったそうで、皇帝はもちろん中央の入り口ということになります。入り口から入って、外の景色を見るとアーチで切り取られた景色は額縁効果でしょうか、仕様風で、フランスの修道院の中庭の回廊を思い出す美しさです。

 
 
 
 端門は3層構造で第2層まで階段で上られます。南側には芝生の公園が広がり、北側は発掘調査で茶色の土だらけの工事現場です。この工事現場に近い塀の手前には、ガラス越しの上から発掘した遺跡の様子が見られるようになっているのは、どこの遺跡でもよく見られる光景です。雨でガラスに空が映り込んでよくは見えなかったのですが。

 タンロンというのは昇竜という意味だそうです。竜は水を司る動物で、中国の影響を受けた文化圏では重要なアイテムの一つです。西洋にも竜と似たドラゴンが存在しますが、ドラゴンは空を飛ぶのに翼が必要ですが、竜は神業で空に昇っていぃようです。竜巻はこの竜の特性よく表した命名だと思います。昔は竜巻はアメリカなど大平原が広がる地方で発生するものだと思ってましたが、最近はわが国でも竜巻の被害まで発生しています。スーパーコンピュータによって、発生予測の精度は上がっているようですが、台風と同様に避難のための情報に過ぎず、これだけ科学が発達しても台風はおろか竜巻一つコントロールできないんですね。

大隅半島の括れた部分の西半分に位置する鹿屋には伏見稲荷で見る千本鳥居に加えてガラスの鳥居が不思議な光景を醸しています

2023-06-04 08:00:00 | 日本の町並み
 宮崎県の海岸沿いを南下してきた日南線の終点は鹿児島県にちょっと突き出た志布志で終点でしたが、かつては志布志から都城と国分に線路が伸びていました。今回は、この国分まで伸びていた大隅線の途中駅があった鹿屋を紹介します。鹿屋には古い町並みも残されているようですが、時間がなくて大隅線の遺構などしか紹介できません。再度訪問の時には改めて紹介しましょう。

 
 
 
 鹿屋市は、大隅半島の中央当たりの西半分を占め、東の志布志市と半島の中央あたりを二分しています。かつての大隅線の鹿屋駅があったのは、錦江湾からだいぶ東の内陸部で、市役所などがある市の中心部です。旧鹿屋駅のあったのは、この市役所の近くで、駅があったところには鹿屋市鉄道記念館が建てられ、かつての鹿屋駅の資料や大隅線を走っていたディーゼルカーが陳列されています。ただ、このディーゼルが乗るレ0ルはかつての大隅線の向きとは90度ずれています。

 
 
 市役所の横を抜けて、小高い山に上ってゆくと頂上付近に神徳稲荷があります。千本鳥居は京都の伏見稲荷が有名で、伏見稲荷には千本以上が立ち並んでいるそうですが、神徳稲荷にも千本鳥居が立っています。おそらく千本にはならないかもしれませんが、こちらには伏見にはない鳥居が立っています。それはガラスでできた鳥居で、境内の入り口と億都に二本がありました。千本鳥居の朱色が連なるこうけいも鮮やかできれいですが、ガラスの鳥居は異次元の物が立っているといった雰囲気で、他では見られない光景です。神社の境内でよく見かける絵馬を下げているところには、絵馬ならぬ絵狐がたくさんぶら下がっていました。

 
 
 
 この小山を反対側に降りると自衛隊の鹿屋基地があります。頻繁に飛行機が離着陸を繰り返し、吉があることを実感させます。この基地に隣接した北側には鹿屋航空基地記念館があります。実質的な軍隊である自衛隊は好きではありませんが、飛行機好きな筆者は飛行機を見に立ち寄りました。航空自衛隊でかつて使われていた飛行機が多数展示され、ゼロ戦も数少ない現存機が展示されています。中には南極基地から採取したものと思われる南極の石もあります。

 
 
 最大の見ものは第二次対戦で活躍した二式大艇で現存唯一だそうです。水陸両用機で、敗戦後にアメリカ軍が調査したところ、技術の優秀さに下をまいたといわれています。当時は川西航空機で製造されましたが、この会社は戦後に新明和工業となりUS-2とこれまた世界に類のない優秀な救難飛行艇を作っています。記念館にはUS-2の旧式機のUS-1が展示されていました。人殺しの道具の二式大艇が人助けの救難機US-2に発展したのは皮肉かもしれませんが、技術の平和利用そのものです。

 二式大艇の技術がよみがえったのが救難飛行艇のUS-2ですが、実はこの飛行機はPS-1という哨戒飛行艇ををもとに再設計したもので、残念ながらもとは人殺しの道具だったのです。PS-1は日本独自の哨戒艇だったのですが、米軍の哨戒機とインタフェースが合わな糸の理由で早々に退役してしまい、アメリカ製の高価な飛行艇を交わされることになりました。哨戒機というのは、潜水して隠密行動をする潜水艦を見つけて撃退するもので、潜水艦が発する音などを分析して位置を割り出し、潜水艦がどれというのまで特定できるそうです。このため、哨戒機には高性能のコンピュータが搭載され、まさに空飛ぶコンピュータセンタのようなものなのだそうです。人殺しの道具に使われると言ってコンピュータを排除はしないことと同様に、原爆に使われるといって原発を否定するのは非科学的と思うのですが。