世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

イスラム文化の残した水の存在が美しいアルハンブラ宮殿(スペイン)

2008-07-27 16:42:53 | 世界遺産
 巨大な人造湖を持ち、水の存在が無くてはならない庭園が頤和園でしたが、庭の中の重要なポイントに効果的に噴水や池などの水を取り入れたのがグラナダのアルハンブラ宮殿ではないでしょうか。砂漠で生まれ育ったイスラム文化にとって、水は特別な存在、贅沢な存在だったのかもしれません。今回は、スペインの中で、イスラムの最後の王国の宮殿であったアルハンブラ宮殿を紹介します。

 アルハンブラ宮殿のあるグラナダは、イベリア半島の最南端に近いアンダルシア地方の都市です。イベリア半島は、アフリカを廻ってきた、回教勢力によって、8世紀から15世紀の間はイスラム教の支配する土地となっていました。レコンキスタによって、再びキリスト教圏に組み込まれますが、最後までイスラム王国として残ったのがグラナダ王国だったのです。原型となる砦は9世紀に作られ、それから15世紀にかけて、増改築が繰り返されたようです。

 宮殿が建っている場所は、グラナダ市街を見下ろす鞍部のような場所で、宮殿からの眺めもいいのですが、不思議なのは、高台にあるにもかかわらず、ヘネラリフェを含めて宮殿の中に水がふんだんに使われていることです。

 水源となるのは、近くのシェラ・ネバダ山脈からの雪解け水で、自然の川から水道橋などを作って引いてきたようです。スペインのセゴビアには1世紀ごろの大水道橋が残っていますが、水を得るためには多大のエネルギーを使い、それだけに水は高価なものだったといえるかもしれません。砂漠の民が多いイスラム文化圏にとっては、アルハンブラ宮殿は人工のオアシスだったのかもしれません。我々が訪れた12年前のその日には、シェラネバダ山脈からだけでなく、空からも水が降っていましたが。スペインは9月というのに、ずいぶんと暑かった記憶があり、特にアルハンブラのあるアンダリシア地方は、スペインのフライパンとも言われるようです。冷房や冷蔵庫などの無い時代に、水による冷気というのは、権力者だけが享受できる贅沢だったのかもしれません。

 アルハンブラ宮殿は、水のことだけでは終わりません、装飾に使われたタイルの美しさについて紹介する必要があるようです。イスラム建築の宮殿ですから、意匠は動植物を模ったものではありませんが、細かな模様、いわゆるアラベスク模様が数多くのタイルの組み合わせで表現されています。宮殿内を巡っていくと、これでもか!これでもか!という感じです。これらの装飾は、内部の壁面などに施されていて、宮殿を外部から眺めると、砦のような感じで、ちょっと無愛想なのですが、外と中とでは大違いです。

 
 アルハンブラ宮殿は、水とセラミックでできたタイルの存在なくして語れないところがありますが、水とセラミックというとIT分野ではICなどの半導体部品を思い起こします。以前にこのコラムでも紹介したように、ICの製造には不純物の無い水が不可欠ですし、チップを収納したりする基盤やケースにはファインセラミックスが使われています。ギリシャ時代に、五大元素として地水火風空ということが言われましたが、火を使って地を焼き締めたセラミックと、水を使ったITですが、製造のためのエネルギー源は、空に向けて羽を伸ばす風力発電がエコロジーでしょうか。

山手という地名のある町は、中華街のある町と一致するのですね、横浜山手

2008-07-20 16:44:39 | 日本の町並み
 「おわら風の盆」が踊られる越中八尾は、井田川から丸い石の石垣を積んだ丘の上にありましたが、横浜港を見下ろす丘の上にあるのが横浜山手です。このコラムでも紹介した、神戸の北野町の隣には山手という地名があり、長崎にも同一の地名があります。そして、この町のすべてに中華街があり、関羽を祭る寺が存在する(横浜、神戸は関帝廟、長崎は興福寺と崇福寺)ことも共通しています。今回は、横浜の山手一帯を紹介します。

 横浜の山手は、神戸の山手のように背後に迫る山の麓というよりは、独立した高台といった感じがします。南に向かってのみ眺望が開ける神戸と違って、港の見える丘公園などからは、かなり広い範囲の眺望が楽しめます。明治時代の早くから開けた港町のため、明治期の洋館や遺構が残っています。港の見える丘公園の裏手にはフランス領事館の遺構が残っていますが、残念なことに建物は戦後すぐに不審火で焼失し、コンクリートの床や壁の一部が残るのみです。そばに、井戸水をくみ上げるために使われたという風車が再現されています。

 フランス領事館跡から峰伝いに東に進むと、近代文学館の手前に山手111番館や横浜市イギリス館が丘の起伏をうまく利用して建っています。

建物だけでなく、窓から眺める庭園も窓枠の額縁効果で、一段と素敵に見えます。

このイギリス館も領事館の遺構なのだそうです。神戸の異人館は1軒を除いてすべて私邸ですが、首都圏に近い横浜では公的な建物の遺構も多いのかもしれません。

 坂道を下ったり上ったりして、元町公園の上に出ると山手234番館、エリスマン邸それにベーリックホールさらに公園への坂を下りると山手80番館の遺跡などがあります。エリスマン邸は白と青緑の色合いがさわやかな建物ですが、この建物の持ち主は転々として、いったんは解体の憂き目にあったそうです。

建物の歴史的な価値の高さに、横浜市が譲り受け、現在の地に移築復元をしてということだそうです。

 一方のベーーリックホールも、取り壊される寸前までになった建物のようです。戦後に寄贈を受けたカソリックの宗教法人のインターナショナル・スクールの寄宿舎として使われてきましたが、スクールが突然閉校となり、寄宿舎も取り壊されるはずでした。

幸い、横浜市が建物のある土地を取得して、そこに立つベールックホールも寄贈を受け、一般市民に公開されるようになったとのことです。

 このベーリックホールの窓で切り取られた風景と窓の格子の組み合わせが綺麗でした。

横浜山手の異人館は、さらに南に続きますが、筆者の散歩はとりあえずここまでで、残りは後日に再訪ということにしました。

 公開されている異人館の大部分は、無料で入場でき、大部分の異人館が有料の神戸とは異なります。市の財政の豊かさの差なのでしょうか、考え方の違いなのでしょうか、一概にどちらが良いか判断するのは難しいところです。ただ、以前にもこのブログで書きましたが、神戸の北野町にはびこり景観の統一感を乱すお土産屋の氾濫が、横浜の山手では見かけませんでした。

 
 横浜、神戸、長崎に共通する山手の異人館の遺構は、関羽を祭る寺それに中華街という共通項も持っています。明治期の舶来文化は、西欧からやって来て異人館群を残しましたが、日本の文化のルーツは奈良朝の頃からからずっと中国だったわけです。異人館のある町と、中華街のある町が一致するのも、偶然ではなさそうです。現在の日本はITを中心とする技術力で、かつての文化の源であった中国のしのぐ勢いですが、どうも最近はその繁栄に胡坐をかいている感じを受けます。技術や経済など猛烈な勉強をして力を蓄えていると言われる中国の若者との競争に勝ち残れないのでは、と考えるのは思い過ごしでしょうか。

山岳鉄道なのにラックレールを使わないで上ったり下りたりのレーテッシュ鉄道(スイス/イタリア)

2008-07-13 16:47:20 | 世界遺産
 2008年の世界遺産委員会はカナダのケベックで開催され、日本からエントリーされていた平泉は残念ながら登録延期となりました。新規登録は27件ありましたが、今回はそれらの中から、レーテッシュ鉄道を紹介します。レーテッシュ鉄道は、起点の一つのティラーノがイタリア領に属していますが、ティラーノからサンモリッツ、クールなどを結ぶ路線の大部分はスイスを走る山岳鉄道です。

 世界遺産に登録されている鉄道は、オーストリアのゼメリング鉄道、インドのダージリンなどの山岳鉄道群それに指定地域の拡大によるハンガリーのブダペストの地下鉄に続いて4件目の指定になります。

スイスを走る山岳鉄道は、急勾配を克服するためにラックレールを使ったものが多いのですが、レーテッシュ鉄道は、勾配を最大70パーミル(1,000m走って70m登る/降りる)に抑えて、粘着方式で走っています。日本の箱根登山鉄道の最大勾配が80パーミルですから、それより少し穏やかということです。標高2,253mの高さまで、標高差にして1,824mをこの勾配に抑えて上り下りするため、とにかくぐるぐると左へ右へとよく回ります。特に有名なものはブルージオのオープンループ線で、平地に石造りのループ橋が作られています。

ループ橋のアーチの下を越えて、左に270度廻ると、さっき走ってきた線路が真下に見えます。

 頻繁に曲がって進む列車は、どちらに向かって走っているのか、まるで解らなくなります。高みの車窓から眺めると、標高の違うところに走ってきた線路が2本以上も見えることも珍しくありません。

 ティラーノにある駅は、イタリア領の中にあり、すぐ近くにはイタリア国鉄のティラーノ駅もあります。しかし、駅の構内はスイス領扱いで、駅に入る時にパスポートコントロールがあります。ややこしいことに、スイスのルガーノからティラーノまではスイスのバスが走っていて、下車するときにパスポートコントロールは無かったように思います。ティラーノをでた列車はしばらくの間、道路との併用軌道を走りますが、長大な列車が道路の上を走るのは、1両か2両の路面電車が走るのとは違った奇妙さがあります。

 スイスの列車では、レーテッシュ鉄道のサンモリッツとマッターホルン・ゴッタルド鉄道のツエルマットを結ぶ氷河急行が有名ですが、この氷河急行は路線が変わって氷河が見られなくなった氷河急行なのです。かつてはフルカ峠を越える時に、ローヌ氷河の一部が見られましたが、通年運行のためにフルカ峠をトンネルで抜けるようになり、氷河は見えなくなってしまいました。ティラーノを起点とする、レーティッシュ鉄道のベルニナ線では、最も高い地点では森林限界を超え、モルテラッチュ、カンブレナ、パリューの3箇所の氷河を間近に見られます。

これらの景色を楽しむために、氷河急行と同様に窓の大きなベルニナ急行が走っていますが、現在ではこのベルニナ急行こそが氷河急行と呼ばれるべきでしょう。

 日本人観光客には、氷河急行ばかりが有名になり、ベルニナ急行はあまり知られていませんが、クールへ下っていく途中には、有名なランドバッサー橋も渡ります。ただ、列車に乗っていると、トンネルを出て、あっという間通り過ぎてしまい、橋を渡る列車の姿はあまりはっきりとは見られません。

 ヨーロッパの鉄道は、よほどのハイシーズンでもなければ、座席が無いということは珍しいのですが、夏のスイスの名物列車は、予約は必須のようです。筆者が訪問したときには、列車ダイヤを調べるのはWebを利用しましたが、予約はエージェントを使った記憶があります。現在では、予約を含めてネットを使って行えるようになっていると思いますが、国によっていろんなレベルがあるようです。カードで決済をして、乗車後に予約のコードを通知すれよいイタリア、決済後のフォームを印字し、そのバーコードを駅の発券機に読み込ませるカナダなど便利になりました。ただ、乗車駅で手書きの切符しか手に入らない国や、コンピュータ印字された乗車券ではあるものの、乗車駅でしか発券されず、高い手数料を払ってエージェントに手配を頼まねばならない国なども存在します。Webカメラによって、いろいろな場所の映像を見られたり、旅行記を読んだりで、ネットを使った仮想的な旅行は簡単になりましたが、実空間を移動する旅行では、地球の隅々までをインターネットで手配できる仕組みはまだまだ時間がかかりそうです。

優雅な踊りはこちらにも、越中おわら風の盆の町の八尾は丸い石積みの崖の上にありました

2008-07-06 16:49:46 | 日本の町並み
 頭に和紙でできた灯篭を載せて優雅に踊る盆踊りが行われるのは熊本県の山鹿でしたが、胡弓と三味線の哀愁の漂うおわら節にあわせて優雅に踊られるのが「おわら風の盆」です。今回は、「おわら風の盆」の会場、富山から高山本線で25分程度南に下った越中八尾(やつお)を紹介します。

 八尾は、市町村合併で富山市の一部になっていますが、2005年3月までは人口2万人程度の独立した町でした。八尾の古い町並みは、JR高山本線の越中八尾の駅から南へ2kmほど井田川を渡った丘の上にあります。河岸段丘上の斜面は、丸い石で覆われていて、角張った石垣を見慣れた目には新鮮な景色に映ります。

八尾を有名にしたおわら風の盆もこの丘の上の比較的狭い場所で行われるようです。風の盆が行われる当日に訪問できなくても、その様子は曳山展示館のビデオなどで見ることができます。曳山記念館は、3月に行われる曳山祭りで使われる山のうち半分の3基を展示していますが、併せて風の盆の紹介も兼ねているようです。
 おわら風の盆の起源は江戸時代に遡るようで、踊りの種類も豊年踊りと呼ばれる旧踊りと、昭和初期に日舞要素を取り入れ洗練化された新踊りがあります。祭りは3日間行われ、町の人口の10倍を超える観光客が、狭い所に押しかけるので大変とのことです。よほど幸運でもない限り、踊り手の姿の全体像は見れないようです。いまほど、観光化されないときには、観光客向けの踊りが済んだ深夜に、町民だけの踊りを楽しんだそうですが、現在ではそれとて観光客の擾乱を受けてままならないそうです。三味線に加えて胡弓の音色が加わり、どことなく物悲しく、優雅な動きの女踊りが人気の秘密のように思います。たまたま、曳山記念館でであった中学生のグループがおわらを研究目的で来館していたようで、町の古老のお話とおわらの演奏のさわりを傍受させてもらいました。ここで紹介している情報のかなりの部分が、その時にお聞きした内容です。


 風の盆の踊り手が町流しを行う、丘の上の古い町並みの真ん中あたりにある諏訪町の通りは日本の道百選の一つで、格子のある家並みが続いています。

 この諏訪町の通りに限らず、付近一帯には格子の木組みが美しい家が多く、写真を撮っているときりがないほどです。旅館であったり、

造り酒屋であったり、食べ物屋さんであったりします。風の盆でない時期に行くと、ほとんど行きかう人とも出会わず、たまたま雨の日でしたが、小雨に煙る町並みは日本の湿度を感じる風景でした。

 また、町並みの通りの角などにおわら発祥の地の石碑があったり、

大きな石をくりぬいた中に地蔵と思しき石仏が収められたりしています。

 「おわら」とは、7,7,7,5の音律で謡われるおわら節の最後の5文字の前に挿入される囃子言葉が「おわら」と発声されることからの呼び名ですが、よく聞く「よいよい」や「はいはい」などとはずいぶんと様子が違うようです。日本語の文章は、和歌でも俳句でも音韻数の韻律を踏みますが、必ずといっていいほど母音を含み、短い文でも背景まで伝えることができるからでしょうか。かつてのポケベルや携帯のメール文化が華やかなのは、このあたりにも根っこがあるかもしれません。短文のメールによって、余韻を残す文化となるのはいいのですが、舌足らずになってしまっては困りものです。