世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

600年もかかって作られたにもかかわらず、世界遺産取り消しに遭いそうになったたケルン大聖堂はさすがに大きい(ドイツ)

2020-05-31 08:00:00 | 世界遺産
 家康を神格化して祭神として祭る日光東照宮を中心とし2社1寺を登録した世界遺産が日光の社寺でした。梅原猛の日本学によれば、権力者が抹殺した者の祟りを恐れるために、抹殺された人物を神格化されることが多いとされています。菅原道真の天神がその代表格です。東照宮は権力者そのものを神格化した例外で、ウイリアムテルに出てくる、代官の帽子にお辞儀を強要するシーンと似て権力の暴走のように思います。一方、キリスト教では、聖人の使っていたものや、遺骨そのものなどを神格化し聖遺物としてあがめる風習があるようです。数ある聖遺物の中から東方の三博士の聖遺物を祭ったのがケルンの大聖堂で、一時は危機遺産リストにも載った聖堂を紹介します。

 
 ケルンはドイツの西部、やや北寄り、フランクフルトからライン川を下ったところにあります。ドイツの大都市の中央駅は行き止まり式の駅が多いのですが、ケルンでは通り抜けの構造をした駅で、フランクフルトから来た列車が停車したホームの先にはライン川を越える鉄橋があります。ケルンの大聖堂は、中央駅の駅前広場に続くような形でそびえていて、駅と一体化しているように感じます。

 このケルンの大聖堂が、危機リストに載ったのは2004年で、大聖堂の周辺に高層建築が計画され景観を損ねるという理由でした。周辺の高度規制を行うケルン市の努力で2年後には解除されました。同じドイツでもドレスデンでは、新しく計画された橋によって景観が損なわれるという理由で機器リストを経て世界遺産の抹消に至ったのと対照的です。旧西ドイツと旧東ドイツの文化の差でもないでしょうが。

 
 完成したのは1880年で完成当時は157mの高さはアメリカのワシントン記念塔ができるまでの4年間は世界一の高さの建築物でした。ただ、完成は1880年でしたが、着工は1248年で、およそ600年をかけて作られた聖堂で、バルセロナのサクラダ・ファミリアも驚きの長期間だったそうです。ただ、600年間ずっと工事をしていたわけではなく、途中の300年近くは中断状態で、再開時に設計図面が奇跡的に発見されて何とかなったそうです。ヨーロッパに行くと、いつもがっかりするのですが、かなりの確率で修復工事の足場を見かけ景観を悪くしています。600年どころか、まだ建築中ではないかと疑いたくなります。

 
 
 
 
 
 大聖堂が作られるきっかけとなった三博士の遺骨というのは聖堂の一番奥の主祭壇にあり、日光の東照宮もびっくりの金ぴかの棺に収まっています。ゴシックの巨大な空間は色とりどりのステンドグラスに囲まれ、縦長に切り取られた壁面で上に伸びあがる宗教的な演出効果を狙っているように思います。

 絵画や建築、それに音楽も宗教とともに発展し、宗教抜きには語れないところがあるようです。それだけ宗教権力が大きく財力もあったからでしょうが、宗教色が着いてしまうのはいただけません。さらには、科学の分野では、聖書に書かれていないことは悪として弾圧してきた事実があります。コンピュータが神になるという映画があったように思いますが、これこそコペルニクス的転回かもしれません。

朝ドラの「おはなはん」のモデルとなった伊予大洲の「おはなはん通り」はこじんまりと静かにたたずんでいました

2020-05-24 08:00:00 | 日本の町並み
 初瀬街道の宿場町として、また藤堂家の城下町として陣屋の置かれ藤堂家の住居が残る名張は、大阪へ1時間という場所がら現在ではベッドタウンとなっていました。名張藤堂家は、藤堂高虎の養子であった藤堂高吉が江戸時代の初期に移封により開いたものですが、その高吉が名張に移る前に領主であったのが伊予大洲藩でした。大洲城は明治維新で大部分が破壊され、現在の天守は2002年に木造で再建されたもので、肱川あらしの季節ではありませんでしたが川霧の向こうに霞んでいました。今回は、大洲のおはなはん通り周辺を紹介します。

 大洲は、愛媛県の中南部で、最寄り駅はJR予讃線の伊予大洲駅です。松山から宇和島に向かう予讃線が向原で山線の内子線を分岐した後、青春18切符のポスターで有名になった下灘駅のある海線と再合流する駅です。大洲を有名にしたのは、NHKの朝ドラ、1966年に放送された「おはなはん」で、主人公の生まれ育った町という設定で、現在のおはなはん通りはロケに使われた場所の一つです。ただ、モデルとなる林はなが育ったのは、実際には徳島市であったそうです。このおはなはん通りがあるのは、JR伊予大洲駅の南1.5kmほど、肱川を渡って、その肱川が蛇行し町並みが半島のように東に突き出しているあたりです。

 
 
 
 
 おはなはん通りは、松山から宇和島に向かう宇和島バスの大洲本町バス停から東に200mほど入り道がクランク状になっているところから始まり100mほど先のT字路まで伸びています。なまこ壁や土蔵造り、格子のある民家が連なり、側溝には、竹筒を利用した花かごが渡され、流れには鯉が泳いでいます。茶色の世界の家並に交じって、白い壁に赤い三角屋根のある教会が存在感を示していました。

 
 おはなはん通りの手前を北に入ると「おおず赤煉瓦館」があります。この建物は1901年に大洲商業銀行の事務所、倉庫として建てられたもので、現在は資料館、土産物売り場として活用されています。大洲は養蚕業が盛んであったため、これを支える金融機関として設立されたのが大洲商業銀行でしたが、融資の担保として繭を預かったことから、この保管のために倉庫としてのスペースが必要だったのだそうです。戦後に建物などは大洲市の所有になり、銀行は合併、解散を繰り返して現在の伊予銀行となりました。

 
 
 
 おはなはん通りを突き抜けて進むと、右手の山の上にある大洲神社に上る階段があります。この神社は1991年にTV放映された「東京ラブストーリー」のロケ地に使われたそうです。逆に左手を進むと、肱川にへばりつくように重要文化財の臥龍山荘があります。大洲藩の三代藩主が臥龍の名称を与え、その後に作られた庭園は歴代の藩主が好んだ場所でした。明維持時代になって、豪商の河内寅次郎が、この土地に別荘として建てたのが臥龍山荘です。

 
 臥龍山荘と肱川を挟んで対岸にあるのが富士山(とみすやま)で、臥龍山荘の借景の一つとなっていますが、6万本を超えるつつじが植えられ、西日本でも有数のつつじの名所となっています。筆者が訪問した時には、臥龍山荘の下から対岸の富士山の麓まで臨時の渡し船が運行され、山頂からは臥龍山荘の全景が望め、なかなか面白い経験でした。

 おはなはんの結婚相手は速水中尉という軍人という設定ですが、時代は20世紀初頭で日露戦争が起こり中尉も戦争に出征することになっていました。日露戦争ではロシア艦隊が日本海を北上する模様を無線で伝えたことが、この海戦を有利にしたとされています。マルコーニが無線電信の実験に成功して10年と経っていない頃でしたが、国産の無線機は通信距離が1,000kmという実力を持っていたそうです。ただ、現在の無線機のように、特定の周波数だけを使うのではなく、雑音に近いような電波を出す装置であったので、同時に複数の通信はできなかったようです。それから100年ほど、無線通信を使った携帯電話全盛の現在の状況は予想だにできなかったでしょうね。

東京より北に位置していても熱帯の雰囲気が漂うチュニスはイスラム圏でありながら南仏を感じる風景がひろがります(チュニジア)

2020-05-17 08:00:00 | 世界の町並み
 世界遺産のセーヌ河岸やヴェルサイユ宮殿だけでなく見るべきものが数え切れないのがパリでした。アフリカ諸国、特に北アフリカにはかつてのフランスの植民地が多く、これらの国々へはパリ発の空路が便数も多く便利です。今回は、これらの国のうちチュニジアの首都のチュニスを取り上げます。チュニスは、パリの姉妹都市の一つにもなっています。チュニスには旧市街と、近郊のカルタゴが世界遺産に登録されており、すでに本ブログで紹介済みなので、なるべく重複を避けて紹介します。

 
 
 チュニスは、チュニジアの北部にありパリからの飛行機で2時間半ほどで市街地の北東にある国際空港に着きます。緯度は北緯37度ほどで、東京より北にあって、地中海に面しているのも関わらず、空港ビルから外に出ると、足元から熱気が上がってきます。東西を2つの湖に囲まれた市街地は2km四方ぐらいでこじんまり、路面電車も走っていて、旅行者にも分かりやすい町並みです。路面電車のほかに、世界遺産のカルタゴや保養地のシディブサイドに向けて走っているTGMという郊外電車が市街地の東端から、市街地の中心部にはチュニジア鉄道の中央駅があります。

 
 
 
 
  
 市街地の中央あたりにメインストリートが東西に通るハビブ・ブルギバ通りで、街路樹が茂り、主だったホテルやレストランが並んでいます。通りの東端にはTGMの駅があり、西の端には世界遺産のメディナへの入り口のフランス門があります。東京より北なのに、煮中は暑いせいか、日が傾くと夕涼みなのでしょうか、通りを散歩する人が増えるようです。また、あちこちに噴水があって、涼感を演出しています。チュニジアは回教国で国民の大部分がイスラム教徒でメディナの中には大きなモスクがありますが、ハビブ・ブルギバ通りに面してキリスト教会が建っています。フランス統治時代に建てられたセント・ビンセント・デ・ポール大聖堂といいますが、南国の青い空をバックに2つの銭湯を持つ白い教会は中々奇麗で、内部も一見の価値があります。

 
 
 
 チュニスの市内で、世界遺産のメディナを除けば、世界的な観光拠点がバルドー国立博物館です。2015年に武装集団によって襲撃を受け、日本人の被害者も出て有名になりました。博物館の建物は13世紀に建てられた宮殿を流用したもので、19世紀後半に創設され世界の1,2を競う規模のモザイク画のコレクションが展示されています。元が宮殿であった琴から、建物内部の装飾も中々奇麗ですし、モザイクが以外にも、古代カルタゴの土器や工芸品も数多く陳列されています。

 モザイクと言えば、画像をモザイク処理して細部を見えなくする技法があります。元の画像を格子状に区切り、各格子ごとにを平均化してしまってぼやかすのですが、平均化過程で元の情報が失われ再現は無理です。周辺情報から高度の予測をして多少の再現を試みる手法はあるようですが。再現が難しいモザイク化ですが、モザイクをかけたからといって安心できないようです。文字をモザイク化したデータを数多く集めておいて、モザイク化された画像をコンピュータで読み取り、文字のデータと照らし合わせれば、元の画像は再現できなくても、書かれている文字が分かるということです。現在の暗号は、量子コンピュータが実用化されれば簡単に解読できると言われ、秘密を守るのは総簡単ではなさそうです。

江戸川乱歩の生まれた名張には、柳瀬宿の名残の古民家に交じってレトロな木造洋館もあります

2020-05-10 08:00:00 | 日本の町並み
 姫路市の一部でありながら市の中心の市街地からは遠く、人家もまばらな町が安志でした。東西と南北の街道の交点として、明治の廃藩置県の時には安志県まで置かれ、江戸時代には安志藩の藩庁として陣屋も置かれ、現在も表門の遺構が残っています。陣屋跡は、高山が有名ですが、あちこちにその遺構が残っていて、その一つが三重県の名張にあります。名張市というと赤目四十八滝が有名ですが、今回は、陣屋跡のある近鉄名張駅周辺を紹介します。

 名張駅は、三重県の西の端に近く(最西端は赤目四十八滝の最寄り駅の赤目口)、近鉄特急で名古屋から1時間半、大阪から1時間ほどの距離にあります。大阪まで1時間という場所のために、ベッドタウンとして発展し、隣の桔梗が丘駅の周辺には大きな団地が生まれています。ただ、名張駅周辺の旧市街は再開発から取り残されて旧初瀬街道沿いの古い町並みが残っています。

 
 
 
 名張は16世紀末に松倉氏の城下町として陣屋ができ、江戸時代には藤堂家城主となり陣屋を拡充して居館としこの陣屋を核として町並みが形成されました。その後、伊勢参宮のための初瀬街道の宿場町として本陣、脇本陣もでき、現在の古い町並みは、この簗瀬宿の名残です。この町並みは、名張駅の西側に広がっていて、旧初瀬街道は町並みをS字カーブを描いて南北に通り抜けています。陣屋は明治の廃藩置県で取り壊されましたが、居宅の一部が名張藤堂家跡として保存公開されていますが、ちょうど休館日のため内部は見損ねましたが、立派な門と土塀が見事でした。

 
 
 
 
 
 
 藤堂家跡から「やなせ宿旧細川邸」に至る旧初瀬街道沿いに造り酒屋や寺町が続き、土蔵造りや格子のある家並が広がります。途中の福祉センターの前には、「ひだりいせみち」「右はせみち」と彫り込まれた道標が建っています。旧細川邸の北側には、江戸川乱歩の生家跡があり、生誕地碑広場なるものもあります。石碑があるだけで、何もない広場に説明版が立っていました。

 
 
 
 乱歩生誕の地から少し西寄り、旧初瀬街道の一本西寄りを駅に戻る路をたどると、古民家群の中にタイル張りの木造建物の上に三角屋根の三階のある写真屋さんや、下見板張りの洋館の中井家住宅が建っています。どちらも登録文化財になっているようです。左手にイオンのあるところまで来ると、小さな広場があって真ん中に松の木がでんと立ち、広場の南東には宇流富志禰神社の一の鳥居がポツンと立ってます。神社そのものは、一の鳥居から500mほど先の名張川の畔に建っています。

 江戸川乱歩は、アメリカの推理小説家のエドガー・アラン・ポーの名前をもじって付けたそうですが、その小説に出てくる探偵の明智小五郎とその敵役の怪人二十面相が有名です。怪人二十面相は変装によっていくつもの人格を持って、明智小五郎を惑わします。仮面をかぶるわけではなく、カツラや付け髭、眼鏡などの小道具で他人の姿に化け、探偵をもだましてしまうとされています。このような変装をした場合、果たしてイミュグレーションのチェックはどうなるのか興味のあるところです。認証の処理は人相や指紋のイメージそのものを使っているのではなく、いくつかの特徴点を見ているそうで、変装をしても本人と見破られてしまうのではないでしょうか。

ブルーノ・タウトには酷評された日光ですが、ド派手な中に繊細さもあってなかなかどうして鑑賞価値があるようです(日本)

2020-05-03 08:00:00 | 世界遺産
 氷河もある山々、神秘的な湖それに温泉も湧いているのが自然遺産のカナディアンロッキーでした。今回は、かなり強引な関連性で、近くに男体山、神秘邸な中禅寺それに鬼怒川温泉のある日光を取り上げました。周辺に自然が広がる日光ですが、こちらは文化遺産で、カナディアン・ローッキーのような自然遺産ではありませんが、徳川幕府はこのような自然に囲まれた場所を鎮魂の場所に選んだのかもしれません。

 日光は、東京の浅草から東武線の特急で2時間ほど、かつてはJRの上野駅から東北線、日光線経由の急行が走っていて、東武とお客の奪い合いを演じましたが時間と料金でJRは撤退しました。電車で日光に行くには東武という図式になり、JRも新宿発の特急列車を栗橋の渡り線を使って東武日光に乗り入れる列車を設定しました。ただ、JRの日光駅舎は大正時代に造られた木造のレトロ調で、こちらが格上といった感じがします。文化遺産の東照宮などの社寺までは、両側に土産物屋などの並ぶだらだらの上り坂で、歩いてもさほどの距離ではありませんが、雰囲気を味わうのであれば、下り坂になる帰り路で歩くのが楽かもしれません。

 
 世界遺産は日光の社寺という名称ですが、その構成は東照宮と二荒山神社の2社と輪王寺の1寺になります。その中でも、知名度、規模それに指定文化財の多さで東照宮が突出しています。これらの社寺の中で現在は輪王寺の一部となっている幻の四本龍寺というお寺があります。現在は観音堂と三重塔がひっそりと建っているだけで、訪れる人もほとんど見かけませんが、この四本龍寺こそが7世紀に創建された日光開山のお寺なのです。

 
 
 
 
 
 さて、東照宮ですが2013年から5年をかけて大修理が行われ、きらびやかさに磨きがかかったようです。ただ、三猿や眠り猫など目玉になっている彫刻群の表情が変わってしまったという声もあるようです。

 
 二荒山神社は、東照宮の入り口の前を左に折れて斜めに行った先にあり、東照宮と同じ神社なのですが、こちらはぐんと地味なのは、権力者が祭神でないからでしょうか。ただ、17世紀にできた東照宮に対して8世紀の創建と、比較にならないくらいに古い歴史がある神社で、ご神体は日光三山です。

 
 輪王寺には先ほどの四本龍寺の遺構と大猷院霊廟を含みますが、本堂の三仏堂は東日本最大の木造建築と言われて、さすがに大きいとは思いますが、建物も仏像群も、今一つ魅力に乏しいお寺です。

 
 
 むしろ付けたし的に扱われる大猷院霊廟の建物群が黒地に金色が塗られていて漆の蒔絵のような美しさで、さすがにこちらは国宝建造物に指定されています。

 タウトは日光の東照宮を酷評して、同時代に造られた桂離宮の美の発見者だとされています。しかし、実際には伝説的なもので、タウト以前から桂離宮の美を評価して紹介していた日本人も多く、タウトが自己宣伝を行ったきらいがあるようです。わびさびの文化を重んじる桂離宮を取るか、人工美の極致を狙った東照宮を取るかは、好みにもよるでしょうが、時代とともに評価が変わっるのかもしれません。筆者が通信分野の研究所に入ったころは、大容量は高周波を閉じ込めて伝える導波管が本命視されていました。光ファイバも研究されていましたが、導波管研究チームからはディスプレイに使うおもちゃと酷評されていました。ところが、20年もたたないうちに世の中は光ファイバ一辺倒になり、導波管の名前も忘れ去られてしまいました。