世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

東京国立博物館の建物は時代や様式が異なり建物だけでも博物館の様相です

2017-03-26 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は東京国立博物館の庭園にある5つの茶室を紹介しましたが、今回は展示に使う5つの建物を紹介したいと思います。建てられた古さの順から並べると、表慶館、本館、東洋館、法隆寺宝物館そして平成館になります。

 
 
 古さの順では表慶館ですが、まずは本館です。現在の本館は昭和13年に開館した二代目です。初代の本館は、明治15年に、ジョサイア・コンドルの設計で現在の本館ある場所に建てられましたが、関東大震災で壊れてしまいました。昭和天皇の即位を記念したもので、復興本館と呼ばれています。基本設計は、銀座4丁目の和光を設計した渡辺仁ですが、実施設計の段階で少しデザインが変更されています。本館は日本美術の展示に使われ、2階が歴史順、1階はジャンルごとの展示になっています。地下などはバックオフィスに使われています。この2階に上がる正面階段は、巨大で目立つ存在のためにテレビのドラマなどでロケに使われます。有名なところでは、半沢直樹で銀行の内部として使われました。

 
 続いて、表慶館は本館に向かって左側、緑のドームが印象的な建物です。こちらは、のちの大正天皇の成婚を記念して明治42年に開館しています。設計をしたのは、初代本館を設計したジョサイア・コンドルの教え子の一人である片山東熊で、当時ヨーロッパで盛んであったネオ・バロックという様式が採られています。特別展が平成館で行われることが多く、表慶館は時たま使われる程度になりました。最近の傾向として、宝飾関連の特別展や、貸し切り展示に使われるようです。内部のエレガントな雰囲気が、これらの展示にあっているからかもしれません。こちらの内部の中央ホールや両端の階段などCMなどでよく見かけます。

 
 本館向かって右側の建物は、東洋館で、東洋美術の展示を行っています。霞が関ビルが建てられた昭和43年に開館しています。設計は谷口吉郎で、神社などの高床式を思わせる和風モダニズムの設計になっています。内部はスキップ・フロアーといって、一つの建築平面の高さをそろえず、区画によって異なる建築手法が採られいます。東京ハンズやソニービルなどで見られる床構造ですが、東洋館の場合は、見えている場所に行く経路を探すのに苦労することもあります。

 
 法隆寺宝物館は、正門から入った場所からは見えません。左手の奥まったところに建っていて、この建物も二代目になります。初代は、昭和39年に建てられ、法隆寺宝物を保存収蔵するための、校倉風の2階建ての建物でした。この初代は、公開の目的が薄く、木曜日のみの公開で、気象環境が悪いと公開中止でした。学生の頃、関西から博物館を訪れて、木曜なので法隆寺が見られると思って行ったら閉まっていてガッカリの経験があります。夏休み中は湿度が高かったのでしょうね。そして現在の2代目の建物は、東洋館を設計した谷口吉郎の息子の吉生の設計で、平成11年に建てられました。縦横の線を強調したドライな設計になっています。内部にある陽光が差し込むレストランも好評なようです。

 
 一番新しい建物の平成館は、本館の左側の奥にあり、もっぱら特別展の展示会場として使われています。皇太子の成婚記念ということですが、この博物館は元の名前が帝室博物館ということもあってか、皇室のエポックに併せた建設が多いようです。100年もつように、との設計がなされていていますが、六本木ヒルズの事故を受けて、正面の回転ドアだけは100年たたない前に取り換えられています。特別展は2階の展示室が使われていますが、天井で一番高い部分は8.5mあり、計算上は東京大仏が収まる高さです。一方、1階には400名収容の講堂があり、頻繁に講演会などが開かれています。ビジュチューンの井上涼の講演の時には客席を埋めた子供たちの熱気で、いつもの雰囲気とはずいぶんと違いました。

 本館1階の17室には保存修復を解説したコーナーがあります。地味な展示で、大部分の人は、本館から平成館への通り道として通り抜けるだけです。その解説によりますと、収蔵品の調査をして、そのカルテを作っているそうですが、現在のペースで200年はかかるのだそうです。調査には最新の電子機器が使われ、なんと仏像もまるごとCTスキャンにかけられるようです。これらのカルテは、おそらく電子ファイルとして保存され、検索もコンピュータが使われるでしょうが、200年後にもウィンドウズは存在するのでしょうか。

ヨーロッパの田舎のスチャヴァ周辺には素晴らしい修道院群です(ルーマニア)

2017-03-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教とヒンドゥー教の遺跡が15km四方ほどの森林の中に散在しているのがアンコール遺跡でした。パッケージツアーのバスで回っても2日をかけても、その一部しか見られませんでした。一方、キリスト教の5つの修道院が農地の間に散在しているのがルーマニア北部のモルドヴァの教会群です。今回も2度目の紹介になりますが、写真を増やし、周辺も加えて紹介します。

 5つの修道院群があるのは、ルーマニアの最北端のスチャヴァ県で、北側はウクライナとの国境になります。県都のスチャヴァまで、首都のブカレストから急行列車で6時間半ほどです。現在は少し速くなってるかもしれませんが、「思えば遠くに来たもんだ!」という感じがします。このスチャヴァを起点に、その西側に散在する修道院は、個人旅行で行った場合は、タクシーをチャーターすることになります。筆者の場合は5~6時間かかったように思います。

 これらの修道院は、モルドヴァ公国の王がトルコとの戦勝の旅に一つづつ建てたもので、ルーマニア正教の教会堂です。どれも似たような外観ですが、内外の壁がフレスコ画で埋め尽くされ、壮観です。建物は対称的に作られていますが、北側の庇だけが深く作られていて、これは北からの風雨から壁画を守るための工夫だそうです。それでも、北側の壁画は、他の面に比べると痛みが激しいそうでした。これらのフレスコ画は、文字の読めない人に、聖書の内容を教えるためで、それぞれの絵は、聖書の重要な場面だそうです。

 それでは、筆者が訪れた順に5つの修道院と、現地のガイドさんに勧められて世界遺産未指定ですが素敵な修道院とを写真で紹介します。

 フモール修道院
 
 

 ヴォロネッツ修道院
 
 

 モルドヴィッツァ修道院
 
 

 スチェヴァッツァ修道院
 
 

 アルボーレ修道院
 

 ドラゴミルネイ修道院
 
 

 ここからはおまけの画像です。ルーマニア正教の教義に則った結婚式の写真です。 スチャヴァ市内にある教会に入ると、これから結婚式が始まるところでした。全くのよそ者でしたが、この結婚式の一部始終に参列する羽目になりました。
 

 移動中の車窓から見上げたコウノトリの巣は電柱の上。日本では大騒ぎをして保護しているコウノトリが野生で飛んでいます。最後の1枚は、修道院内で見た携帯電話を使う修道女、今から13年前ですから、日本でもやっとFOMAが出た頃です。俗世間から隔離されているはずの修道女には似つかわしくないかもしれないショットでした。
 

 広いエリアに家がまばらにしかない場合は、固定電話より携帯の方が効率がいい場合もあります。事実、携帯電話が出現する前には、電話局から家庭まで線を張らずに無線で飛ばす方式もありました。かつて、どこかの首相が電気も来ないアジアの国で、「それなら携帯電話にすれば!」なんて、ふざけた発言をしたことがあります。IT(アイティー)のことをイットとのたまった人間です。電話の情報は空を飛んでも、電力は現在のところは空を効率よく飛ばないんです。

博物館の庭園には上野駅周辺の喧騒を忘れるような茶室が5つも建っています

2017-03-12 08:00:00 | 日本の町並み
 山形の専称寺には最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓がありました。わずかに15歳という幼い命だったようです。秀吉という、権力者の気まぐれで、本人はおろか眷属まで抹殺されてしまった、恐ろしい話です。権力というのは、集中するべきではないのですが、どうも日本人は、水戸黄門をはじめ権力者を英雄視して好む傾向があり怖いです。
 秀次を初め抹殺された人々の遺骸は、一つの穴に放り込まれ首塚が作られました。その後、鴨川の洪水で流されましたが、河川改修をした角倉了以により、瑞泉寺が興され供養塔が再建されました。この角倉了以の没後に入れ違いのように、淀川の改修などで富を得たのが河村瑞賢です。この河村瑞賢が、淀川改修の折に休憩所として建てた建物が、茶室として東京国立博物館の庭園に残されています。今回は、前振りが長くなりましたが、博物館の庭園にある5つの茶室を紹介します。

 博物館の庭園は、江戸時代に当地にあった寛永寺本坊の庭園の名残で、本館の裏側に広がっています。江戸時代に創建され、明治から昭和にかけて、こちらに移築された2つの書院茶室と3つの草庵茶室が木立の中に建っています。

 
 これらの茶室の最も東寄りにあるのが、河村瑞賢が休憩所として建て、昭和になって茶室として生まれ変わった春草廬です。元来が休憩所なので、茶室としての決まり事の躙り口や天井に変化を持たせるなどの建物ではありません。この建物は、三渓園を作った原三渓が購入したのち、茶の湯仲間の電力王の松永耳庵に贈られ、所沢の別荘に茶室として移築されたものです。後になって耳庵が小田原に引っ越した時に博物館に寄贈されたものです。この、春草廬の後方には桜の木があって、開花の頃には建物に覆いかぶさるように咲く桜は見事です。

 
 春草廬の西にあって、博物館のテラスから池越しに見える目立った茶室は、転合庵です。この茶室は、江戸時代の初期に小堀遠州が自邸に建てたものですが、これには日本文化を象徴するような逸話が残されています。ある日、遠州は桂離宮を作った八条の宮から一つの茶入れをプレゼントされます。このプレゼントを大変喜んだ遠州は、握りこぶし程度の小さな茶入れ一つのお披露目のためだけに、わざわざこの転合庵を建てたと言われています。小さな茶器が領土やお金と同じくらいの勝ちを持つことがあるという文化の片りんを感じさせる逸話です。

  さらに西に、木立の中に建っているのは、博物館が上野に来る前に移築された六窓庵です。江戸時代の初期に行為服地の塔頭の慈眼院に、金森宗和の好みで建てられました。利休の頃には内部が暗い茶室が好まれましたが、江戸時代になると明るい茶室が多くなり、この茶室も窓が六つあって、明るいだけでなく、時の移ろい、季節の移ろいを感じ取れる茶室になっています。この六草案は茶室の建物だけでなく、寄り付き、腰掛待合、雪隠など草案茶室として必要な道具立てがそろっています。

 
 残りは書院茶室で、2棟のうち東に建っているのが応挙館です。江戸時代に名古屋市郊外の明眼院の書院として建てられ、内部は典型的な勝因づくりになっています。この明眼院は江戸期には眼病治療を行うお寺として、全国から患者が押し掛けたようで、日本画家の応挙もその一人でした。その縁で、この書院の中には、応挙の筆になる襖絵や床の間を飾る絵が描かれています。明治期になって、お寺での治療行為が禁止され、寺は寂れ、この書院は当時の三井の総帥の益田鈍翁に買い取られ品川に移設、応挙館の名前で茶室に転用されました。応挙館の前庭には、江戸時代には眼病治療に使われたというメグスリノキも植えられています。

 
 最後の茶室は、九条館という、江戸時代後期に京都御所内に建てられた書院でした。建てたのは、藤原氏北家の流れをくむ九条家で、代々摂政、関白職を輩出してきた貴族です。明治になって天皇とともに、東京の赤坂に引っ越し、この建物もアークヒルズ近くの九条家の居所として使われたのち博物館に寄贈されました。建物の内部には、藤原氏を象徴する藤の花をモティーフとする釘隠しや欄間などがちりばめられています。

 応挙館の襖絵は、コンピュータによる高精細ディジタルスキャンを使った複製がはめ込まれています。原本は保存のために収蔵庫に保管をされています。気温や湿度、さらには来訪者が触る事故などを考えれば、後世に文化財を伝えるためには、一つの選択肢かもしれません。また、複製は注意深く作られているので、部屋の雰囲気を変えてしまうということもありません。一方、最近驚いたのは、有名な寺院の三重塔の解体修理です。建っている地盤が弱いのでコンクリート・スラブで基礎を補強するとのこと。現在わかっている技術で、解体前の塔を構成する技術の解析はできるでしょうが、現在では解析不可能な部分は失われます。本物が消滅してしまうからです。先ほどの複製では、本物は残っているので、後の時代の技術で解析は可能なはずです。先代の漫談和尚の伝統でしょうか、文化財の保存と言いながら、実は重要な情報を消し去ってるような気がします。

台中には日本統治時代の建築遺産がまだまだ元気に生きています(台湾)

2017-03-05 08:00:00 | 世界の町並み
 子供たちの前にマリアが出現したことで、キリスト教の聖地の一つとなっているのがポルトガルのファティマでした。マリアの出現は、にわかに信じがたいのですが、中国には、七福神の一人である布袋は、遠い未来に出現するという弥勒仏の垂迹、つまり化身という信仰があります。この信仰の元となるのは、実在する僧(布袋)の周りに不思議なことが、沢山起こったことによるそうです。この布袋の金色の大仏像がデンとあるのが、台湾の台中の宝覚寺です。今回は、その宝覚寺がある台中市内を紹介します。

 
 台中は、台北と高雄との中間ぐらいに位置していて、どちらからも高速鉄道(台湾高鉄)で50分くらいの乗車で到着します。ただ、台湾高鉄の台中駅は、市街地の南西端なので、接続駅から10分ほど乗ると在来線の台中駅に着きます。この台湾高鉄は日本の700系新幹線のシステムをそのまま輸出したもので、台北と高雄間を300km/hの速度で100分ほどで快適に走ります。筆者が乗車した頃は、シニア割引の制度があり、料金が半額になっていました。ただ、この制度は、訪問の翌年に廃止されたようで、経営不振から廃止のうわさも飛ぶ状況からかもしれません。

 訪問した頃の在来線の台中駅は、2代目の英国調の中央に時計台のある駅舎で、地上ホームでした。現在は、高架駅となっているので雰囲気もだいぶ変わったのではないでしょうか。特に、地上駅の時代には、裏口というのがあって、大都市の中央駅とは思えないローカル色が味わい深い風景を醸し出していました。

 
 
 この裏口から近いところにあるのが、台中創意文化園区です。日本の統治時代に酒造工場であった施設を利用し、イベントや文化・産業の展示場に変身しています。地元ッチーが数多く訪れているようですが、日本の姿はあまり見かけません。イベントなどの展示はともかく、かつての酒造工場の、レンガ造りを中心とした少し廃墟じみた建物群は一見の価値はあります。

 
 
 日本統治時代といえば、台中駅の表側の近くに旧台中州庁と旧台中市役所の建物が残されています。どちらの建物も、単なるモニュメントではなく。利活用がなされているようです。旧市役所は、ギリシャ神殿風で、銀行の建物かな?といったふんいきです。旧州庁は中庭を持つ、2階建てですが、かなり大規模な建物です。外壁は真っ白に仕上げられていますが、内部はレンガ造りが解る、ちょっと東京駅を思わせる建物です。

 
 
 台中駅の正面側には、統治時代の民間の建物の旧宮原眼科が食べ物などのお土産などを売る店に生まれ変わっています。2階建ての建物は、内部が吹き抜け状になっていて、天井まで至る壁面に商品のディスプレイがなされています。かつては眼科の医院であったということは、想像すらできないしゃれた空間になっています。

 
 さて、宝覚寺の布袋像ですが高さが30mとの情報がありますが、ちょっとサバを読んでるような感じがします。奈良の大仏が台座を入れて18m、鎌倉が13mあまりということから考えて、ほんと~?って感じです。人物と一緒に撮った写真から推定すると半分以下のの12~15mほどでしょうか。

 
 
 この、宝覚寺と台中駅の間にもいくつかの面白い建築がありますが、その中で広大な境内を持つのが台中孔子廟です。2.4万㎡ほどあるそうで、東京ドームの半分くらいでしょうか。建てられたのは新しく1976年で、中国の世界遺産である曲阜の孔子廟に倣ったのだそうです。これだけ、立派な建物の施設のわりに訪れる人は少なくって、のんびりできる空間の一つかもしれません。

 台湾高鐵は日本の新幹線システムを輸出したものですが、中国の高速鉄道は、自国の技術と称しています。乗車した感じは、明らかに日本などのコピーと思われますが、乗り心地は悪くはありません。ただ、彼らはハードなどはコピーをしたのでしょうが、システムとしてコピーをするのを忘れたように思います。何か、事故や、自然災害などが起こった時に、とてつもない大惨事になりそうなのは、先日の事故で証明されたようです。予想できない事が起こった時に、いかに安全な状態に持ってくるかということは、コンピュータで制御するシステムでも難しいんです。コンピュータは、事前に作られたソフトウェアの範囲でしか動作できないので、予測不能な事が起こった時にも次善の手を打てるかどうかが設計者の技量ではないでしょうか。