世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

七里の渡しの近くにはコンドルが設計した洋館も残っている桑名です

2011-02-27 08:00:00 | 日本の町並み
 旧海軍の軍港から、引揚者の上陸港にもなり、現在は海上自衛の日本海側での重要な港となっているのが舞鶴でしたが、東海道で唯一の海路である「七里の渡し」の一方の港が桑名です。今回は、東海道五十三次時代の名残だけではなく、ジョサイア・コンドルの設計した洋館も残る桑名を紹介します。

 桑名市は、三重県の東の端で揖斐川と木曽川を渡ると、もう愛知県で、名古屋の衛星都市の顔を持っています。2つの川の河口に近くは、輪中と呼ばれる低湿地のデルタ地帯になり、桑名から名古屋寄りに2駅の弥富駅は、地上駅として最も海抜が低い駅で、海抜マイナス0.93mと海面下の駅なのです。隣接した桑名も水の都の雰囲気があり、この水運を利用したのが宮(熱田神宮)との間の海路ということになります。

 

 七里の渡しの港があった場所は港としての役割は終え、鳥居や石碑が建っているのみで、現在の港は漁港の形で揖斐川の両側に分散化したようです。渡しの跡があるのは桑名城の三の丸跡で掘割が南に延びています。城跡は渡しの跡の南東方向で、現在は公園になっていて石垣と堀が残るのみです。桑名城は水の都らしく水城で掘割が目立つお城で、一部は海につながっています。掘割のそばには再建された二重櫓が城の面影を保っています。

 
 本陣跡などが残るのが、城跡の西側の町並みで、格子が美しい「うどん屋」さんを写真に撮りましたが、あとで調べてみると、泉鏡花の「歌行灯」に出てくるうどん屋のモデルとなったお店だったようです。さらに、掘割のそばには芭蕉が野ざらし紀行で詠んだ句碑もあります。この句碑は元は句が詠まれた本統寺に建てられていたものが失われ、昭和初期に再建されたものの、戦災で寺は焼失、残った句碑だけが堀端に移設されたのだそうです。

 これら江戸の名残の中に明治期に活躍し鹿鳴館の設計者として有名なジョサイア・コンドルが設計した洋館が残っています。七里の渡しの西側にある旧諸戸清六邸の中に明治末期から大将初期にかけて建築された六華苑と呼ばれる木造洋館です。コンドルの作品のほとんどは東京にありましたが、東京から離れた桑名に、それも現存するのは驚きです。



諸戸家は桑名の広大な地所を所有する実業家で、三菱の創始者岩崎家との交流も深かったようです。三菱の顧問をしていたコンドルに諸戸清六が新居の設計依頼をしたものが六華苑ということのようです。東京を中心に、7棟ほどが残るのみのコンドル設計の邸宅の中で貴重な存在といえるでしょう。
 この六華苑はお正月などを除きほぼ通年公開されていますが、六華苑の西側にある諸戸氏庭園は春と秋の各々1ヵ月半ほどしか公開されていません。筆者が桑名を訪れたのは夏だったので、外部から門やレンガ倉庫の外壁だけでしたが、入られないとなると余計に見てみたい衝動に駆られます。たまたま、庭園の手入れのためか門が少し開いていて、庭の一部が垣間見られましたが、次は春か秋に来たくなる風景でした。
 
この庭園は、六華苑を作った諸戸氏の所有であった庭園ですが、歴史は鎌倉時代までさかのぼるのだそうです。この地に庵が置かれたものが歴史の始まりで、武士の館から豪商の隠居所を経て諸戸清六が購入して店舗や住居として使用したようです。門の前で向きを変える川の向こうに門や倉庫が見える景色も、景色の中に水があっていい感じです。

 陸上交通が不便であった江戸時代には、船による移動は歩かなくても目的地に行くことができ便利で楽な移動手段であったようです。現在では、狭くて何かと制約の多い航空機に比べて、船の旅は時間はかかりますが、広くて中を自由に歩き回ることができ、食事も豪華なことが多いものです。豪華客船でなければ、航空機よりも運賃が安いことも希ではないようです。ただし、江戸時代の船は狭くて、現在の航空機と同様に制約のおおい乗り物だったのかもしれません。さらに、GPSや航法支援などのITシステムは皆無だったわけですから、通常は陸が見える範囲を航行していたのであろうと思います。それから考えると、奈良時代に黄海を横断した遣唐使船はすごい冒険だったのですね。

ノーベル授賞式会場のオスロ市庁舎ホールはヨーロッパで最も大きな壁画に囲まれています(ノルウェー)

2011-02-20 08:00:00 | 世界の町並み
 グリーンランドを除けば北欧で最も狭い国土ですが、かつてはノルウェーなどもその支配下に置いた王国がデンマークでしたが、今回はその支配下に置かれたこともあるノルウェーの首都のオスロを紹介します。

 ノルウェーはスカンディナビア半島の西半分を占める王国で、首都のオスロはその南東端に近くオスロフィヨルドの最深部にあります。ノルウェーにはフィヨルドが多く、世界遺産に登録されているネーロイフィヨルドもあります。これらのフィヨルドの大部分はスカンジナビア半島の西海岸、北海に面したところにあります。周りが平地のオスロがフィヨルドに面した都市であることは、ちょっと意外な感じがします。デンマークと同様に立憲君主国で、国王のハーラル5世がオスロ市内にある王宮に居住しています。デンマーク王室の王宮もそうでしたが、市街地に隣接して、物々しさはまるで無く、王宮の前に出てしまいます。広場の前に騎馬像があるのが王宮らしさかもしれません。どこかの国のように、特別の行事のあるとき、それも限定的な場所にしか入れない状況とずいぶんと違います。王宮には衛兵がつきもので、こちらでも交代式を見ることができます。情報によると、厳寒期にも立ち番をしているのだそうです。
 


 オスロというと、2010年のノーベル平和賞が話題となったこともあり賞の授与式が行われることを思い浮かべる人も多いと思います。ノーベル賞の他の部門はスウェーデンのストックホルムで授与式がありますが、平和賞だけはんーベルの遺言でノルウェーで受賞者の選考と授与が行われてきました。式典はオスロ市庁舎のホールで行われ、このホールはヨーロッパで最も大きな壁画で囲まれています。巨大な空間を飾る壁画だけでなく、市庁舎の中は壁全部が壁画という部屋やムンクの絵画を展示した部屋もありました。この絵はヒットラーに嫌われてノルウェーに戻されたいわくつきの絵画のようです。また、各国からの贈り物というコーナもあって日本人形が飾られていました。
 


 ムンクといえば「叫び」が有名ですが、このモティーフの作品は確認されているだけで4点あり、油彩、テンペラ、パステルそれにリトグラフで、リトグラフの1点を除いてオスロ市内の美術館で見ることができます。日本人にもおなじみの油彩の絵は、オスロ国立美術館に収蔵されていて見ることができ、ムンクの絵画だけでなく、印象派の絵画などもあって、とても入場無料とは思えない充実の内容です。

 ムンクの名前を冠したムンク美術館にも多くの作品が収蔵されていますが、こちらは有料で美術館の場所も市の中心部から少し離れ、また最寄の地下鉄の駅からも少し離れています。時間が無く、ムンクに思い入れが少ない方々は省略してもいいかもしれません。




 王宮や美術館などは地下鉄や路面電車が行きかう市の中心街にありますが、市庁舎の前の船乗り場から船で対岸に渡ると緑豊かな場所に着きます。市街地とは陸続きなのですが、大きく出入りする湾を陸路で行くとかなり遠回りとなり、船のほうが早くつけます。この地区にはいくつかの博物館があり、見所も多いところです。
 
ヴァイキング船博物館にはヴァイキング関連の資料に加えて発掘されたヴァイキング船の実物が展示されています。さほど大きくはない船ですが、曲線がなかなか美しいものでした。

 ヴァイキング博物館の近くには民族博物館があり、こちらの野外展示は規模も大きく見ごたえがあります。中でも圧巻は、ゴル・スティヴ教会です。オスロの北200kmほどの土地から移築された木造教会ですが、多層の屋根の重なりと曲線が見事で、その巨大さにも圧倒されます。

 ノーベル平和賞の授与式が行われるオスロ市役所には2つの塔がありますが、この塔の間を通り抜けた飛行機があったとのことです。それも第二次大戦直後と20世紀の終わりの頃の2度もあったそうです。もちろん小型の単発機ですが、25mの隙間をすり抜けるのはかなり危険を伴ったと思いますが、もちろん大型機のように計器に頼ったものではないことだけは間違いないでしょう。現在の大型機はIT技術に支えられて飛んでいるといっても間違いなく、滑走路がほとんど見えない状況でも無事に着陸できる能力があります。ただ、機械の操作に反して人間が過剰な操作をしたために墜落してしまった事故がありました。機械の操作は100%正しいとは限らないのですが、それを正しいか間違いかを決断するのは、最終的には人間の経験に基づく高度な判断力に頼ることになるのでしょうか。

東のレンガ倉庫群と西の古民家の家並みと、まったく違う2つの顔を持つ舞鶴です

2011-02-13 08:00:00 | 日本の町並み
 乃木大将の記念品を展示する建物や将校クラブの建物など、旧陸軍の建物が現役で残る町が善通寺でした、陸軍の遺構にはかつての兵器庫のレンガ作りの建物が数も多く存在感がありました。同じような旧日本軍のレンガ造りの倉庫群が残されているのが舞鶴です。こちらは陸軍ではなく海軍の遺構ですが、これらの遺構以外にも土蔵造りや講師の家並みの町が残されています。

 舞鶴市は京都府の日本海側に位置していて、JRでは山陰線を綾部で舞鶴線に乗り換えて西舞鶴もしくは東舞鶴に行くことになります。最近は舞鶴道を経由するバスもあって、京阪神からJRより短時間で行けるようになりました。軍都の遺構や「岸壁の母」で有名な引き上げ港は東舞鶴駅周辺で、古い町並みが残るのは西舞鶴駅周辺で、両方の駅で町の顔が違います。違うのは当然のようで、元は2つの異なる都市を戦時中に軍の命令で合併させられたためなのです。旧東舞鶴市は軍港を擁する港湾都市で、旧舞鶴市(西舞鶴)は京極氏の城下町でした。軍部によって半ば無理やり合併させられたために、戦後まもなく分離のための住民投票も行われ、分離に賛成票が多数を占めましたが、京都府議会で分離案は否決されてしまったようです。

 まずは、レンガ倉庫の並ぶ東舞鶴のほうですが、海から少し離れている東舞鶴駅からレンガ倉庫のある地区までは1kmほど歩かなくてはなりません。地図を見ると、駅との間を斜めにバイパスするような道が見つかり、この道を通りだいぶ歩く距離を短縮できました。道が微妙に曲がっていて途中に古風なトンネルもあり、通常の道路と様子が違います。なんとなく廃線跡のような感じがして、後で調べてみると、軍需物資の運搬用に軍港まで引かれた中舞鶴線の名残のようです。1972年に廃止され一部が自転車歩行者専用道に転用されていたのがこの道だったのです。




赤レンガ倉庫群は12棟が重要文化財に指定され、そのうちの1棟は「まいづる知恵蔵」という名の文化施設として活用されて、博物館とギャラリーになっています。他の倉庫も見たかったのですが、耐震対策工事が進行中で、近づくことができず、一部を柵の外から眺めるだけになりました。

  赤レンガ倉庫群から西舞鶴までのバスは、海沿いに中舞鶴線の廃線跡に沿って西に走ります。車窓からは、赤レンガ倉庫に続いて、海上自衛隊の艦船が係留されている景色が見られます。バスは、かつての中舞鶴駅の辺りを左折して海から離れて北側から西舞鶴駅に入ります。
 西舞鶴駅は、かつての宮津線の起点駅で、現在は3セク化された北近畿タンゴ鉄道が引き継ぎ、JR駅の南西の車両基地にはタンゴ・エクスプローラなどの列車が止まっています。学生の頃には、京都から山陰線、舞鶴線、宮津線を経由して山陰線の城崎まで走るディーゼル準急がありました。この列車は綾部、西舞鶴、豊岡の各駅で合計3回も進行方向が変わる奇妙な列車でした。箱根登山鉄道は急坂を登るために、湯元から強羅までの途中で3回スイッチバックをして上っていきますが、このスイッチバックの回数と同じだったわけです。

 
 城下町の雰囲気を残す町並みは、西舞鶴駅の北西方向、国道と高野川に挟まれたあたりに分散しています。大手の交差点近くの町並みを撮っていたところ、「古民家に興味があるのなら、面白いものを見せてあげよう」ということで、鍵を持って一軒の家に案内されました。宰嘉庵という看板がかかった古民家の中を見せてもらいました。お話しによると、伏見と舞鶴に拠点を持つ「いこいの場」とのことですが、箱階段あり坪庭ありで床の間や壁の作りも凝っていて、明治時代には西園寺公望が休憩所として利用したという古民家でした。

 

 

 大手から西舞鶴駅にかけての古い町並みは、ところどころにまとまっている感じで、古風な旅館や土蔵造りに格子のある家が商店街の家並みに押しつぶされそうに残っています。大きな妻を見せる家の土壁はかなり痛みが進んでいたようですが、かえってこの形が美しいようにも思えます。和風の建築に混じって、金融機関だったでしょうか年代ものの洋風建築もあって、面白い対比を見せています。

 レンガ建築は地震に弱いと思っていましたが、最近に聞いた話では良質なレンガで丁寧に作られたレンガの建築はコンクリート製の建物より耐震性に優れているということです。横浜の赤レンガ倉庫は関東大震災でびくともしなかった・・なるほど!といった感じです。粗悪な材料や工事が誤解を生んだようです。同じような誤解に漆塗りがあり、丁寧に仕上げられた漆塗りはペンキよりもはるかに丈夫で、多くの遺跡で木の部分が朽ちてしまって漆の幕面だけの器が出土するそうです。かつて開発途上国製のIT製品などで性能が出ないものが流通して、輸入品イコール粗悪品の先入観を植え付けたような感じもします。品質管理も進んで、現在では品質も安定したのでしょうが、一度与えた先入観を払拭するのは大変なようです。

音楽がてんこ盛りのザルツブルグですが観光客を驚かす噴水の宮殿もあります(オーストリア)

2011-02-06 08:00:00 | 世界遺産
 世界遺産のレジデンツの他に、町の中を流れる川の上に町を見下ろすようなマリエンベルグ要塞が象徴的な町がヴュルツブルグでしたが、川の上にお城という風景はよく見るのですが、その中で似た絵柄の感じを受けたザルツブルグを思い出しました。今回はザルツァッハ川の対岸にホーエンザルツブルグ城がそびえるザルツブルグ歴史地区を紹介します。もう20年も前に訪れた場所なので、記憶違いや変わっているところがあるかもしれません。

 ザルツブルグはオーストリアが南北にくびれてチロル地方が西に張りだす根っこのところに位置し、ドイツと国境を接しています。ザルツブルグ駅は一部をドイツ鉄道が間借りしていてミュンヘンから乗った列車はそちらに到着したように思います。ザルツブルグという地名は、ご存知の方も多いですが塩の砦という意味で、8世紀ごろ現在ドイツ領となっているライヒェンハルの塩泉の権益をザルツブルグの司教が持っていたことに由来するとのことです。時代が下り、司教は近くのデュルンベルクで産する岩塩の通行税によっても潤ったそうで、このあたりには大きな塩の鉱脈があるようです。

 さて景色が似ている原因のホーエンザルツブルク城ですが、このお城は11世紀に要塞として作られ16世紀初頭に拡張されたそうです。標高差が80mほどあるためザルツブルグの何処から目立つお城で、大司教の権威を誇示する目的もあったのではないででしょうか。お城には19世紀に作られたケーブルカーで登れるようですが、なぜか20年前の時には動いていなかったように思います。一時的ではなく、なんとなく廃線のような感じでした。眺めがいいということは、歩いて上ると辛いということでした。そういえば、マリエンベルグ要塞のほうは、そもそもケーブルカーなんてものは無く、麓から歩きでした。

 ザルツブルグといえば、音楽ファンには忘れられない地名かもしれません。まずは、モーツアルトの生誕の地ということ、ザルツブルグ音楽祭は町中のホテルが満室になるそうです。ミュージカルス・ファンにとってはサウンド・オブ・ミュージックの舞台となったところです。

 
 モーツアルトの生家は細い通りに面し黄色い壁のなんでもないこじんまりとした家だったように思います。屋内に入るとモーツアルトゆかりの品々が展示されていて、モーツアルトファンは必見でしょう。また、レジデンツのそばにはモーツアルトの名前を冠した広場があり、彼の銅像が建てられています。このレジデンツの一室でヴァイオリンのコンサートを聴きましたが、100名ほどが入れるホールは適度の残響があって心地よい響きがしました。聴衆も清掃をした人が多く、昔の貴族ってこんな風に音楽を聴いていたのかな、という感じもしました。

 
一方、サウンド・オブ・ミュージックのほうは、市内や郊外に映画のロケで使われた場所が散在しており、これらを回るツアーバスがあります。トラップ家の宮殿やサンルーム、そしてマリが子供たちとドレミの歌を歌ったミラベル公園やマリアが修道女であったノンベルク修道院は自分の足で行きなさいだったと思います。主人公たちの結婚式が撮影された教会は郊外のモント・ゼーのほとりにあってかなりのドライブだったように思います。当時は、モント・ゼーの途中で、長い斜面に作られた滑り台をそりに乗って滑り降りるアトラクションのある場所に立ち寄ったのですが、今はどうなっているのでしょうか。

 

 時間があればお勧めなところが駅前からバスに乗って15分くらいのヘルブルン宮殿です。17世紀に時の大司教によって夏の宮殿として建てられたもので、宮殿としての豪華さだけでなく水の楽園と呼ばれる仕掛けが楽しいのです。泉の中の噴水や水車で動くの人形が演じる劇場に加えて、椅子や床にも噴水が仕込まれています。ガイドさんの説明の途中でこの噴水が噴出して、みんな大騒ぎです。

 音楽と数学やITというのは意外と関連性が高いように思えます。響きの良い純正律の和音の周波数比は、奇麗な分数で表せますし、純正律の不備を救う平均律は2の12乗根という比率で半音を刻みます。モーツアルトやベートヴェンの作曲した曲の類似性もコンピュータで解析され、モーツアルトらしい作曲、補作、編曲などもある程度は自動的にできるようになってきています。さらに、本人の作曲なのか、他人が書き足したものかの判断もやっているようです。マンネリ打破で作曲したものが、本人のものではないと判断されたら困るでしょうね。