世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ローマの休日は絶対にローマのコマーシャル映画だったのです(イタリア)

2016-05-29 08:00:00 | 世界遺産
 前回は、ローマ歴史地区のうちフェロロマーノ周辺を紹介しました。今回は、ローマ市内のその他の場所で筆者が訪問した場所を紹介します。前回同様bに25年ほども前のアナログ写真なので、かなり退色してしまっています。紹介は、「ローマの休日」風になってしまうかもしれません。

 
 
先日の報道で、日伊国交150年を記念してコロッセオのライトアップが行われたようです。東京タワーのライトアップも手がけた石井幹子さんがデザインされたそうですが、3日間などとは言わず、ず~っとやっていて欲しかったですね。コロッセオの外壁に投影されるプロジェクション・マッピングが中心だったようです。東京駅、大阪の公会堂、京都国立博物館など古い建物の外壁を利用したプロジェクション・マッピングは、このところの流行なのでしょうか。コロッセオは外壁だけを見ていると、現代建築を見るようで古さを感じませんが、中に入ると痛みが激しく、まさに遺跡そのものです。大規模な円形闘技場では、もっとも内部の痛みの激しいもののひとつのような感じもします。フランスのアルルやニーム、それにチュニジアのカルタゴやエルジェムなど、もっと保存性が良いように思います。保存性が良いと思っている遺跡は、後世に現役として使うために補修されたからかもしれませんが。筆者の訪問の頃には、そばをレトロな路面電車が走っていましたが、もう残っていないかもしれません。

 
 カラカラ浴場は、コロッセオの南にあって、こちらも大きな石の塊です。ローマ人はお風呂が好きだと見えて、チュニジアの遺跡でも浴場跡があり、日本の風炉文化と通じるところがあるのでしょうか。これらの浴場は、蒸し風呂だったようで、これも江戸時代の日本の浮世風呂と共通だったようですが、当初は混浴だった日本と比べ、ローマでは男性と女性が時間を分けて入浴したようです。ローマの浴場は、日本に比べて、浴室内の空間が随分と広かったようで、この中で、大勢が集まって、いろんな議論をしたのでしょうか。

 
 ローマといえばトレビの泉なのですが、筆者が訪問の時には掃除のためでしょうか、水が無くってコインも投げ入れられない状態で、写真も撮らずでした。また、市内のあちこちで写真を撮っているのですが、記憶が薄れて、何処なのかはっきりしません。時間がたって景色が変わっているかもしれませんが、訪問された方は、お分かりになるかもしれません。
 そして、ローマの休日では重要なシーンで、これをもじった占いマシンも見受ける真実の口ですが、訪問した時には、観光客の姿も見えず、道路に面したそっけない場所にありました。最初は、これって本物?と疑ったくらいみすぼらしいのです。おそらく、現在では様子は変わっているのでしょうね。グレゴリー・ペックに見習って手を突っ込んでみましたが、指先はそのままで無事でした。

 2度目のローマ訪問は、クロアチアを訪問する時に宿泊だけで立ち寄りました。ところが、ローマって宿泊料が高かったんですね~観光で成り立ってる国なので、金を取れる観光客から取ってやろう!との感覚でしょうか。治安も良くなく、列車で危うくスーツケースごと盗まれそうになりました。これで、観光立国と言えるのでしょうか。こんな国なのですが、工業分野では、世界最先端の技術は見かけないのですが、そのデザインはすばらしく、かつて通信会社がデザインの優れた電話機を輸入したことを覚えています。ジウジアーロは、世界の名だたる自動車のデザインを始め、ニコンンの一眼レフのデザインでも有名です。どこかの国の有名な列車は、ヨーロッパのどこかで見たことあるよ・・というデザインが多いのですが、ジウジアーローのものはオリジナリティがあるように思います。

国東半島の寺院群は足の便が悪くても訪れたくなる所ばかりです

2016-05-22 08:00:00 | 日本の町並み
 二十四の瞳のモデルとなり、オリーブと醤油が特産品の島が、瀬戸内海に浮かぶ小豆島でした。小豆島には、四国八十八箇所のミニチュア版のような八十八箇所の霊場が有ります。弘法大師が故郷の香川と機内とを往復する際に立ち寄って霊場を開いたとされ、全行程150kmの中には険峻なところが多く、自然の地形を利用した山岳寺院が多いのが特徴です。小豆島の山全体が霊場のような感じがしますが、半島全体が霊場のような所が国東半島です。今回は、半島内に散在する寺院や石仏のいくつかを紹介します。

 国東半島は、大分県の北東部に瀬戸内海に向かってこぶのように突き出した半島です。中央にそびえる721mの両子山を頂点とした直径25kmの円錐形をしていて、中央の山から谷筋が放射状に延びています。このために、半島を同心円状に移動するのは、海岸部を除いて苦労するようです。この険しい地形の中に、難行を伴う山岳仏教の霊場となる寺院群が散在しています。これらを個人旅行で周るのは、かなり大変で、15年ほど前の時にはタクシーをチャーターして数箇寺を廻りました。最近は、主だったところを一日かけて廻ってくれる大分交通の観光バスがあり、そのコースに沿った紹介となります。

 最初に立ち寄るのは宇佐八幡で、今回の紹介では省略しますが、一つの逸話だけを紹介しておきます。宇佐市が誕生する時に、ローマ字で同じ綴りになる某国から名前がケシカランと横槍が入ったそうです。宇佐八幡の歴史は、某国とは比べ物にならないほど古く、某国の浅学さを露呈した一幕だったようです。

 
 
 
 最初は富貴寺で、九州で最古の木造建築の本堂は宝形作りで国宝に指定され、どこか福島県の白水阿弥陀堂に似ているように思います。15年前に訪問の時には雨だったためか、堂の内部には入れませんでしたが、2回目は重文の阿弥陀像や壁画を拝観できました。入り口にある仁王門には、阿形と吽形の2体の仁王が門番をしていますが、その前には吽形のレプリカ像がご意見箱を抱えて立っていて、思わず笑ってしまいます。この仁王像のすぐ前にある榧の木という食堂では団子汁という素朴な料理があり、これが意外と美味しいんです。

 
 真木大堂は、かつては大きな勢力を誇っていた伝乗寺の一堂宇でしたが、伝乗寺の大部分は700年前の火災で消失してしまったのだそうです。現在の真木大堂は、目立たないお堂ですが、内部に安置される9体のの仏像はすべて重文指定で見ごたえがあります。特に六面六臂六足で牛に乗る大威徳明王像は日本最大の大威徳明王像で、かなり存在感があります。

 
 
 熊野磨崖仏は、麓から鬼が一晩で作ったと言う不ぞろいの石段を30分以上もかけて登った山の上にあります。視界が開けた岩壁に、平安時代に彫られたという不動明王と大日如来とされるレリーフが現れます。共に重文に指定され、不動明王像のほうが、やや古い時代の作と推定されています。不動明王は、ややコミカルな印象で、両脇には童子が彫られていた痕跡があります。大日如来は周りの岩を掘り込んで龕にした中に彫りだされています。いわゆる如来形でやさしい顔立ちでした。

 
 
 両子寺は、半島の中央にそびえる両子山の中腹にあるお寺で、護摩堂、大講堂それに奥の院の建物が残されています。緑がうっそうとして、山岳寺院の雰囲気です。本尊は阿弥陀如来ですが、寺に続く石段の途中に建つ綜合門の手前の石段の両脇に立つ、国東半島最大の仁王像が存在感が有ります。

 大仏や大きな磨崖仏を見ると、それが作られた当時にどのような手法を用いたのか興味が湧きます。当然、完成図のようなものはあったのでしょうが、それを実物大に拡大して創像するのは、おそらく人間の感のようなものではなかったかと思います。設計図さえあれば、コンピュータと3Dプリンタで何でも作れてしまうご時勢ではなかったわけです。3Dプリンタのように、設計図と寸分違わずの像は作れなかったでしょうが、実物に拡大する過程そのものが設計過程の一部で、完成されたものが図面とは違っても、それが作者が意図したイメージではなかったかと思います。

クアラルンプールの市街地の近くには神秘的な場所や自然溢れる公園があります(マレーシア)

2016-05-15 08:00:00 | 世界の町並み
 クアラルンプールの紹介の3回目になります。これまで、中心駅周辺とツインタワーの建つあたりを紹介しましたが、今回は市街地の北と西を取り上げます。

 
 
 
 市街地の北13kmほどには、ヒンドゥー教の聖地の一つであるバツー洞窟があります。テレビ塔の上から眺めると、北の方に山が見えますが、この中腹に洞窟が空いています。実は、この山はオーストラリアのウルルと同様に、一枚岩のようで、こちらは石灰岩でできています。したがって、洞窟は鍾乳洞ということなのです。現在は中心駅からKTMコミュータという列車で20分ほどの最寄り駅ができて簡単に行けますが、筆者が最初に行った35年前の時は足の便が悪くタクシーで往復しました。不便だったせいもあって、訪れる人もほとんどおらず閑散としていました。ところが、現在ではクアラルンプールの一大観光地となった感じで、金ぴかの巨大な神像も出現していました。ただ、洞窟内の神秘的な雰囲気だけは変わっていなかったようです。洞窟までの急な階段の上りはきついのですが、上り詰めて振り返ると、ツインタワーもテレビ塔も見える絶景が広がっています。ただ、階段の途中で出会う猿達には気をつける必要があります。

 一方、中央駅のすぐ西側には、2つの湖の周りに1.5km四方ほどの広さを持つレイクガーデンがあります。市街地のすぐそばなのですが、緑がうっそうと茂る森の中に色々な施設が散在しています。入り口に近い所にあるのが、イスラム美術博物館、そして奥に順に、バード・パーク、オーキッド・ガーデン&ハイビスカス・ガーデンそしてバタフライ・パークなどが有ります。

  
 
イスラム美術博物館は、イスラム圏から集めたイスラム美術が数多く展示され、見ごたえ十分な博物館です。屋上のモザイク模様のドーム屋根が間近で見られるのも面白いです。また、館内にはレストランがあり、料金も手ごろで、あまり知られていないためか空いていて、アラビア模様で飾られた室内も好感が持てます。ただ、食後に飲んだコーヒーは、トルコ・コーヒーなのか、泥水のようなものでした。

 
 
 バード・パークは、入場料は他の施設と比べて、ちょっと高めですが、世界最大の鳥の飼育施設なのだそうです。大きなケージの中に入ると、いろんな鳥が我が物顔に飛び回り、歩き回っています。時折、鳥の芸を中心としたショーも行われ、遠足で来園したと思しき子供達も大興奮でした。

 
 オーキッド・ガーデン&ハイビスカス・ガーデンは、時期が悪かったのでしょうか、ほとんど花が咲いておらず、がっかりの施設でした。いろんな品種のハイビスカスが植えてあるようなのですが。

 
 
 
 バタフライ・パークは、バード・パークのような大きなケージの中に、鳥ではなく蝶が飛び回っています。マレーシアは蝶好きにとっては、珍しい蝶の宝庫だそうです。中に放たれている蝶に名札は付けられていませんから、素人には識別はできませんが、色とりどりの蝶が、時には群舞し、また別の場所では、1頭が葉陰にひっそりと隠れていたりします。付属の展示館には、擬態をする昆虫類や大きなカブトムシやサソリも展示されていました。

 バツー洞窟では、1月下旬にタイプーサムと呼ばれるヒンドゥー教のお祭りがあって、インド系の信者が数多く集まるようです。体中に針を刺すなど自身を痛めつけて行進をするなど信者以外は理解しがたい雰囲気があります。ゼロの発見は、ヒンドゥー教を生んだインド人と言われ、この概念の発見は、他の民族では理解しがたい概念だったのかもしれません。ゼロの概念が無ければ、コンピュータを始め、現在のITのすべてが成り立っていなかったかもしれません。その伝統でしょうか、世界で活躍するIT分野の技術者にはインド系の人が多いのも事実です。

原作には記述されていませんが二十四の瞳の舞台はやはり小豆島がぴったりのようです

2016-05-08 08:00:00 | 日本の町並み
 駅を挟んで、東西に2つの古い町並みが残るのが高槻で、東の町並みの近くにはキリシタン大名の高山右近が城主であった期間もありました。キリシタン追放令を受けて、右近が一時期に身を隠していたのが瀬戸内海で2番目に大きな島の小豆島でした。今回は、その小豆島のあちこちを紹介します。

 小豆島は、岡山、高松それに姫路からフェリーが就航していますが、神戸からも高松行きのフェリーの4便中の2~3便が寄港します。筆者が初めて小豆島を訪れたのは約60年前で、2度目は13年前となります。さすがに60年前の記憶は定かではありませんが、醤油とオリ-ブと二十四の瞳の島という括りは変わらないようです。

 
 変わったと言えば、二十四の瞳の記念像が2種類になっていたことでしょうか。それぞれが、映画の1シーンを彫像化したもののようで、「平和記念像」と名付けられた最初の像は高松航路の出る土庄港のそばあり、大石先生を演じた高嶺秀子のとおり、といった感じがします。2つ目の像は、原作のモデルとなった岬の小学校の近くに作られたロケセットを利用した映画村の近くにあります。このロケセットは2作目のときに作られ、大石先生役は田中祐子が演じましたが、「せんせいあそぼ」の2つ目の像も、どうもモデルは高嶺秀子では?という感じです。

 

 オリーブは、我が国で初めて栽培が行われた場所で、オリーブの公園の中には、地中海風の風車に混じって、「オリーブ発祥の地」の石碑も作られています。瀬戸内気候に似た温暖な気象条件がオリーブの栽培に適していて、天気が良いと、海風が気持ちの良い島です。

 
 醤油も小豆島の風土が生み出した特産品の塩の付加か価値を高める商品として、安土桃山時代に和歌山の湯浅から技術導入をして始められたようです。小さな醸造所を集めて作られた会社が丸金醤油で、日本の4大醤油ブランドの一つになのだそうです。工場付属の売店では、醤油の入ったソフトクリームが売られていて、穂高で食べたわさびソフト同様に、意外といける味がしました。

 
 小豆島と言えば、一つ忘れてはならない観光地が寒霞渓でしょう。黄葉の頃には関西から一斉に観光客が押し寄せるようです。日本三大渓谷美の一つなのだそうですが、たしかに奇岩があって渓谷も深いようですが、これが三大の一つね~と言った感想です。ここでは、京都の神護寺と同様に瓦けなげができ、渓谷美はともかく、瓦けを投げると爽快感があります。

 二十四の瞳の原作は、坪井栄によって描かれ戦前から終戦直後にかけて戦争の悲惨さをテーマとして描かれたものです。悲惨さの中に、子供達の二十四の輝く瞳が、安らぎを覚えるドラマでした。坪井栄は小豆島の出身ですが、二十四の瞳の原作の中には、場所を特定する記述は一切ありません。作者の出身と結び付けてしまって、二十四の瞳=小豆島になってしまったようで、映画村まで作られてしまったわけです。かつての、アナログの頃の映画では、ロケ地での天候待ちや季節待ちで、苦労も多かったと思います。現代では、コンピュータ処理で、景色は季節感や天候を変えられるでしょうし、役者と背景とを組み合わせも自由で、動画の人物と実写の背景の組み合わせや、その逆も有りのようです。ただ、かつての映画で、写し込まれていた、ロケの場所の空気感は喪失してしまったように思います。

フォロロマーの遺跡は巨大クレータのようでした(イタリア)

2016-05-01 08:00:00 | 世界遺産
 サンティアゴ・コンポステイラへの参詣道の紹介が4回も続きましたが、キリスト教の巡礼路はサンティアゴ・コンポステイラに続く道ですが、かつてローマ帝国が繁栄したころには、すべての道はローマに通じていたようです。今回と次回は、そのローマを紹介します。今回はフェロロマーノ周辺を、次回はそれ以外の場所を紹介しようと思いますが、なにせ訪問したのは25年も前のこと、現地の様子も変わっているでしょうし、記憶も金成曖昧です、さらには掲載の写真もアナログのスライドからスキャナで取り込んだもので、かなり退色をしてしまっています。



 
 
 ローマは言わずと知れたイタリアの首都で、かつてのローマ帝国の中心地だった場所になります。イタリアは世界遺産の登録数のもっとも多い国で51の登録数を誇りますが、なんとなくドサクサ紛れの感じもします。基金の拠出額では日本は世界で2位、イタリアは6位ですが、その額はおよそ1/3で、登録数は3倍ってのは納得できません。それに、最近は1年に登録できる数を1件と制限して、旧西欧列強がが、金も出さずに既得権を振り回しているように感じます。
まあ、文句はそれくらいにして、ローマ歴史地区の遺産登録は、イタリアでは2番目に古く、ヴァルカモルカの岩絵の翌年に最後の晩餐のある修道院とともに登録されました。

 
 
  フォロロマーノは、鉄道駅のテルミニの南西2kmほど、コロッセオの西隣にあります。筆者は、都待ったホテルの位置関係から、北西側からフェロロマーノに入りましたが、そのときの第一印象は、巨大なくぼ地!でした。遺跡の西側からだと遺跡を見下ろすカピトリーノの丘の崖の上から入ることになり、最初に遺跡の全体像が見えますが、先ほどのような印象になります。現在もおそらくそうでしょうが、まだまだ発掘途中で、でこぼこの地面と雑草のなかに、建物の残骸や柱だけが立っています。現在は、修復が済んで全体像を表しているようですが、コンスタンティヌスの凱旋門も板囲いでした。その他にも、元老院の跡やバシリカ・ユリアの跡などが残っていますが、あまり記憶に定かでありません。

 古代ローマの土木技術は、現代の技術をもしのぐものがあったといわれています。水道橋の傾斜は、34/10万という精密さで、これは東京から熱海まで引いて高低差がわずか34mというすごさです。古代ローマから、ずっと後の我が国の玉川上水でさえ210/10万程度の傾斜で、それでもすごい技術と言われたわけで、古代ローマは別格なんでしょう。もちろん、現代ではレーザなどを使った技術で、もっと微妙な傾斜もでき、両側から掘ったトンネルの断面の誤差が数cmということも可能だそうです。たd、現代では、コンピュータや精密機械がやってくれるだけで、人間の技術自体は退化してきているのかもしれません。