世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ドイツ初の世界遺産アーヘン大聖堂の近くには古代ローマ時代からの温泉もあります(ドイツ)

2011-09-25 08:00:00 | 世界遺産
 テンプル騎士団によって建てられたのがトマールのキリスト教修道院でしたが、その建物群の中心が外部は十六角形で内陣は八角形の円堂でした。八角形の建物としては、世界遺産である法隆寺の夢殿が思い浮かびますが、夢殿が基礎部を入れても14mの高さに対して、32mの巨大な八角円堂があるのがアーヘンの大聖堂です。今回は、ユネスコの世界遺産登録制度が出来たときに最初の12のリストに載ったアーヘン大聖堂周辺を紹介します。

 アーヘンはドイツの中央部の西の端、西側をオランダとベルギーとの国境に接しています。鉄道で行くとケルンから1時間ほどの乗車になります。ただ、ドイツを周遊する場合には、国境近くの町ゆえ、通常はケルンとの間の往復となり、一筆書きのように経由地というわけには行きません。むしろ、ベルギーのリエージュやオランダのマーストリヒトから国境を越えて訪れるほうが便利かもしれません。大聖堂近くのお菓子屋さんで会った日本人は、オランダに留学中で、国境を越えてアーヘン観光に来ていたようです。筆者も、このケースとは逆に、ドイツ国境から近いルクセンブルグと、フランスのストラスブールをドイツ周遊中に訪問しました。

 ドイツはベルリンなどを除いて、極度に人口の集中する核となる都市が少なく、人口が分散して、どの都市ものんびりしています。アーヘンは面積が160k㎡、人口が25万人程度で、八王子市の広さの場所に府中市の人口が住んでいるといった感じです。人口密度では八王子の1/2、府中の1/5以下なのですから、ゆったりしているんですね。アーヘンは古代ローマ時代には、温泉保養地として発展したようで、町の北辺には、ちょっとぬるめの温泉があります。温水プールのように水着で入浴するのですが、お湯をなめてみるとしょっぱいので温泉なのですね。

 
 
 さて、最初の登録リストにより世界遺産に登録された大聖堂はアーヘン駅から北北西へ1kmほど行った所にあり、手前の公園まで来ると、その木々の上に聖堂の屋根がにょっきりと現れます。八角形の礼拝堂は、教会の中央部分にあって、丸い屋根が特徴的です。内部に入って目を奪われるのは、屋根にまで伸びる縦長のステンドグラス群で、このステンドグラスのボリュームゆえに、ガラスの礼拝堂と呼ばれているようです。頭頂部を見上げると、礼拝堂が八角形であることが良く分かります。


 聖堂の裏手には広場があって、その向こうには市役所の建物の裏側につながっていて、この市庁舎もなかなか見事なゴシック建築です。元々は皇帝の居城として建てられたそうで、両側に塔を持つ石造りの建物は、とても役所とは思えません。内部を回るガイデッド・ツアーで回る途中の窓からは、広場の向こうには、巨大すぎて全体像を見るのが難しい大聖堂の全景がよく見られます。





 
 市役所の表から出て大聖堂の横を通っての帰り道では、通りの真ん中に、ブロンズの人形が噴水の周りにいるのを発見したり、アーヘンの名物のプリンテンを売っているお店などもあります。プリンテンというのは、スパイス風味にチョコレートなどでコーテイングしたクッキーですが、美味しいのですが、ちょっと重いドイツっぽい感じのお菓子です。

 ステンドグラスは、大きなガラスを作る技術のない時代に、小さなガラスをつなぎ合わせて大きな面を構成したことに始まります。制約を逆手にとって、芸術の高みにまで持っていった職人の心意気を感じます。IT分野においても新しい物作りには制約が多いものです。通常、研究開発の重心は、この制約を克服するために、新しい手法を発見することに置かれることが多いようです。ただ、制約を逆手に取って、新しい素子の発明や現象の発見もありました。エサキダイオードは、半導体から不純物を極限まで取り除かねばならないという制約を逆手に取って、発明された素子の一つといえます。制約を克服することにエネルギーを注入するのも重要ですしょうが、仲良くするのも新しい発見の入り口になりそうですね。

マラリアや交通の不便さが結果的に開発を妨げて自然が残された西表島です

2011-09-18 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては、その存在も知られないような山奥の集落が、世界遺産に登録され脚光を浴びるようになったのが五箇山で、白川郷と併せて日本の秘境百選にも選定されているようです。その秘境百選の中には五箇山のような山里だけではなく海の村落も選ばれており、今回は海の村落のうち日本の西の端に位置する西表島を介します。

 西表島は行政地域としては八重山郡竹富町に属していますが、この竹富町の町役場は、名前からすると石垣島の隣の竹富島にありそうですが、竹富町ではない石垣島にあります。竹富町は八重山群島のうち、石垣島、与那国島、尖閣諸島を除いた島々から成っていて、これらの島々に行くには、すべて石垣港からの船によります。役場は、ハブになる石垣島に置いたということです。

 西表島は、このコラムのテーマである町並みはほとんどなく、あるのは手付かずの自然です。無人島を除いて、与那国島の次に西に位置し、沖縄県では沖縄本島に次ぐ面積の島ですが、人口は2,000人程度で、沖縄本島の1/600にも満たない少なさです。世界自然遺産に登録された小笠原諸島の父島とは人口がほぼ同じくらい、面積は西表島が10倍ほど広いことから、小笠原より自然が残されいるのかもしれません。こんな西表ですが、島を半周する道路があって、路線バスも走っています。このバスには、一日乗車券というのがあり、\1,000で一日中乗り放題なのですが、島の東南の大原港から北端の白浜に片道乗るだけで元が取れてしまいます。ただ、西側の半周にはまったく道路が無く、島の西北の船浮集落には船でしか行くことが出来ません。



 バスだけではなく、レンタカーもあるようですが、車を運転できない筆者はどうしても行動範囲は狭くなります。島の北部にある浦内川を船で遡上してジャングルを歩き、カンピラ滝を見るという観光コースもありますが、ちょっと時間的に無理のようであきらめました。代わりに、南東部に注ぐ仲間川を船で遡上して、マングローブの林やサキシマスオウノキという板状の根っこがある木を見てくるコースに乗りました。このコースは、石垣島からの定期船が着く大原港から乗船できるので、観光客の数も多いようです。このコースでも、川の周りはジャングルで、猛獣こそ出てきませんが、作り物のディズニー・ランドよりずっと迫力があります。

 
 もう一箇所、観光客が手軽にいけることが出来るところが、島の東側の小浜島との間に浮かぶ周囲2kmほどの由布島です。ここの売り物は、遠浅で干潮時には西表島とつながってしまう浅瀬を、水牛車で500mほど渡って行くことです。砂に埋もれる車を引く水牛も大変だろうと思います。島の中には亜熱帯植物園があって、小さなジャングル探検のキブンが味わえます。由布島の周りにもマングローブがたくさん茂っていて、その根元には、本土のハマグリよりも大きなしじみの貝殻も落ちていました。また、穴の中にはヤシガニらしきものも見つけましたが、引っ張り出すことは出来ませんでした。

 こんな、平和な由布島ですが、戦争中にはこの由布島に陣取る軍部に島民はずいぶんと苦しめられたようです。島民と言っても、波照間島など他の島から強制疎開をさせられた人々でした。もともと、西表島はマラリアが発生する地域で、移住させられた住民の多くはマラリアに感染して死亡してしまいました。当時の軍部は、マラリアに汚染されていない由布島に陣取って、強制移住などを命令していたようです。もちろん、現在ではマラリアは撲滅されていますが、戦争による悲劇を忘れないためにと、島の南部の南風見田に「忘勿石之碑」が建立されています。

 西表島は八重山群島では最も大きな島ですが、人口はたったの2千人ですから、発電所は無くより面積の狭い石垣島から海底ケーブルで引かれているようです。筆者が訪問したときには、携帯ではなくPHSを使っていましたが、もちろん圏外です。同宿の方は携帯を持っていましたが、やはり通じないようでした。人口が少ないところでは、携帯電話の充電は出来ても、通話は出来ない、ということでしょうか。

メコン川で採れた魚がまだ泳いでいるかのような姿でお皿に上るミトーです(ベトナム)

2011-09-11 08:00:00 | 世界の町並み
 首都と言っても人口も少なく、どことなくのんびりした雰囲気が漂うのがラオスのビエンチャンでしたが、このビエンチャンの南に流れタイとの国境となっている川がメコン川です。このメコン川は、中国に源流があり、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを流れ、ベトナムで南シナ海に注ぐ国際河川です。今回は、メコン川の河口近くのメコンデルタと呼ばれる地域にある町の一つ、ベトナムのミトーを紹介します。

 ミトーは、ホーチミン市の南西70kmほど、メコン川の河口から60kmほど内陸に入った人口16万ほどの町です。メコン川からの魚や灌漑による農作物などの恵みと、メコン川にまつわる観光によって成り立っている町のように見受けられます。もちろん、観光も、メコン川による恵みの一つかもしれません。

 ホーチミンを起点とする、日帰りのパッケージを申し込むと、ミトーまで車で行って、メコン川を渡し舟で渡って対岸なのか中州なのか、そののような所へ連れて行ってくれます。メコン川では、船でいろんなものを売りに来ます。日用品のほとんどを売りに来るのでないかとも思うくらいです。クロスした2本の艪をたくみに操って、目的の船に接岸してきます。


 対岸に着くと、アオザイ姿の歌姫がギター伴奏とともに出迎えてくれます。









 
 赤道に近いせいもあって、色々な果物が豊富で、成っているところが見られ、試食することも出来ます。さらに、ミツバチの巣や、蜂蜜の採取の仕方の実演もしてくれたように思います、もちろん、それらの製品の販売宣伝も忘れていませんでしたが。






 中州のようなところには小さなクリークがたくさんあり、小さな船でその中に漕ぎ出してくれます。観光客を2~3人ずつ乗せた小船が、狭いクリークにどっと入ってくるので、お互いがぶつかり合わんばかりの混雑です。ただ、ジャングル状の木々の中のクリークには、ところどころに小さな木橋が架かっており、その下を潜って行く舟の旅は、なかなk絵になります。このツアーでのハイライトの一つではないかと思います。


 
 観光が終わって連れて行かれたレストランで、面白い食べ物を2種食べることが出来ました。一つは、メコン川で採れたと恩われる魚のから揚げで、まるで泳いでいるかのように、立った状態で盛り付けられていました。もう一つは、デザートに出されたお皿に乗るボール状の物体です。砂糖を加えたお餅状ものを油で揚げると膨らんで丸い10cm程度のボール状になるようです。ウェイトレスさんがはさみで切り分けたものを、お箸で食べますが、ほんのり甘くって底の方の破片はお餅状のものも残っています。

 ベトナムやインドネシアなど赤道近くの国に行くと、強い日差しで痛いくらいです。このような所では、太陽電池も効率よく発電できるのではないでしょうか。ただ、太陽光の強い場所と、電力需要の大きな場所とが必ずしも一致していないのが残念です。原子力発電と比較して、太陽光発電は自然エレルギーと宣伝しているようですが、風力発電も含めて、エネルーの元は太陽からのものです。その、太陽のエネルギーのもとは核融合、つまり原子力なのは皮肉なことです。

白川郷より素朴な山里の五箇山では昔は火薬の原料を生産していました

2011-09-04 08:00:00 | 日本の町並み
 人の流れが変わってしまい、人の気配の少ない山村が鳥取県の板井原集落でした。もともと板井原は平家の落人伝説もある山の中の村落でしたから、村を通る道路が街道として役割が終われば、もとの落人集落になってしまったのでしょう。平家の落人伝説の集落で有名なところは、すべて山奥で人の行き来の少ない交通の便が悪いところです。今回は、それらの中で、世界遺産にも登録されている五箇山集落を紹介します。

 五箇山は、白川郷とともに特徴的な合掌造りの集落が世界文化遺産に登録されており、白川郷が岐阜県に属していますが、五箇山は富山県の南部に位置しています。現在は、高岡から城端を経由して白川郷まで走るバスに乗れば簡単に着いてしまいますが、かつては庄川を遡上して道なき道を山奥に分け入る必要があったのでしょう。それだけ、不便なところなので、平家の残党が落ち延びた里との言い伝えがうまれたものと思います。バスで簡単にとは書きましたが、このバスは一日に4本という少なさなので、途中下車をして次のバスまでは2~3時間も待たされてしまいます。合掌造りの集落は相倉(あいのくら)と菅沼の二箇所にありますが、白川郷で宿泊することにしていた筆者は相倉しか訪ねることが出来ませんでした。

 

  相倉の集落は、バスが五箇山、梨谷の両トンネルを抜けて坂を下った所にあるバス停から少し下ったところにあるので、バス停に降りると集落の全体が俯瞰できます。周りを山に囲まれて、すり鉢の底のようなところに合掌造りのとんがり屋根の家々が並んでいます。白川郷は、かなり大きな集落ですが、五箇山の相倉地区は全体で21棟という小さな集落で、そのうちの大部分が合掌造で残されています。これだけ小さな集落にも、お寺や神社があり神社の前には狛犬が番をしていました。もっとも、明治期には50戸を越える集落があり、過疎化よって現在の規模となったようです。それにしてもお寺と神社とは日本人の生活から切り離せないのでしょうか。

 
これだけ戸数が少なくなってしまうと、日常生活は大変だなーと、思ってしまいます。集落内には、お土産屋さん以外に商店は見かけませんでしたから、日用品はおろか日々の食料品も車で砺波あたりまで出掛けてまとめ買いなのでしょうか。以前に、白川郷の屋根を葺き替える映像を見たことがありますが、みんなで協力し合っても片側だけ葺き替えるのがやっと、と言われていました。比較的人の多い白川郷でもこのような状況ですから、五箇山では外部のボランティア頼みということなのでしょうか。

 五箇山では江戸時代には塩硝という特産品がありました。塩硝は黒色火薬の原料の一つで酸化剤として使われます。通常は日本の古民家の囲炉裏下で自然に出来ていたそうですが、五箇山ではヨモギや蚕の糞などを使って生産をしていました。これを江戸幕府に対抗する勢力を持つ加賀藩が独占的に召し上げていたようです。五箇山が人里はなれた山奥にあったということで、秘密裏に事が運べるという利点もあったのでしょう。明治期以降は、安いチリ産の硝石が輸入されるようになり、この特産品の生産は廃れてしまったようです。火薬の原料の生産が輸入で廃れたのはいいとしても、IT分野で国内生産がどんどん廃れていくのは、技術立国の日本としては困った現象です。