世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

北斎描く彩色も鮮やかで迫力ある八方睨みの鳳凰画の岩松院がある小布施

2009-04-26 15:50:50 | 日本の町並み
 伊賀忍者の故郷には忍者屋敷があって忍者の道具などが展示されていましたが、その伊賀忍者をキャラクタ化した「いがぐりくん」というものが存在するそうです。いがぐりと聞くと、食べる栗を、それもお菓子に加工された栗を想像してしまいますが、それらのなかの栗かの子で有名な町が小布施です。栗かの子だけでなく、北斎関連のお寺などもあって、観光客の多い町の一つです。

 小布施町は、長野県の北部にあって長野から長野電鉄で40分足らずの距離にあります。駅は町の中心の北西方向にあって、少し歩かなければなりませんが、主な観光スポットを巡回するミニバスが1~1.5時間ごとに走っていてうまく利用すると便利です。一日乗車券というものもあって、ちょい乗りには向いているのですが、本数が少ないので前もって乗る区間を決めとく必要がありそうです。同じ運転手さんが、一日運転しているようで、顔なじみになってしまいました。

 名物となっている栗ですが、14世紀ごろに当時の領主が、父方の領地の丹波から苗木を取り寄せたものが広がり、江戸時代には幕府への献上品として使われたそうです。町中にはいくつかの、お菓子屋があって栗ようかんや栗かの子などがお土産や、休憩の時の血糖値の上昇に一役買っているようです。老舗のお菓子屋さんでは、本宅の武家屋敷風の正門、

店舗、

レストランなどのほか周辺には栗の小径や高井鴻山記念館、北斎館などがあり、感じの良い景観を作っています。栗の小径は、なんでもない石畳の短い道なのですが、道の両側の土塀や、微妙に折れ曲がっている様が美しい小道です。

 北斎館は、小布施を80歳を越えてから来訪した北斎の作品の展示館で、浮世絵などの展示に加えて北斎が天井画を描いた祭屋台も展示されています。その鮮やかな色彩に驚いてしまいます。

ところが、これにも増して驚くのが、町の東方にある岩松院本堂の天井画なのです。禅宗のお寺などの天井画に龍が描かれることが多く、鳴き龍や八方睨みの龍など有名なものが多くあります。これらの絵は通常墨絵で、彩色はほとんどされていないか、残っていません。岩松院本堂の天井画は、龍ではなく鳳凰なのですが、描かれた頃と変わらないであろう極彩色の鮮やかさで目に飛び込んできます。本堂はトタンで葺かれて見栄えがしませんが、お堂の中に入って見上げるとびっくりします。案内書などで彩色の様子は事前に見ていましたが、現物はそれを越える鮮やかさです。これだけの彩色が、150年たった今も鮮やかさを保っているのが不思議な気がします。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、天井画を見るのに首がだるくなりますが、こちらでも同じ状況になります。

 北斎の浮世絵は、ヨーロッパの画家達に強烈なショックを与えたようです。その後の印象派の画家への影響は広く知られているところです。どうも日本人は、欧米の技術や文化の方が高級だと勘違いをしている節がありますが、どちらが優れているか一概には言えません。勘違いをしたのは、彼らから間違った価値観を刷り込まれてしまったからかもしれません。IT分野においても、日本はまねをすることや、まねではなくとも応用だけが得意だと揶揄されたこともあります。これらの批判も、競争相手として手ごわくなった日本人に劣等感を植え付け、競争優位に立とうとする表れとも考えられます。まねだけならばノーベル賞は受けられません。日本人はもっと自信をもって、対等に渡り合う姿勢を養うべきでしょう。

芭蕉の故郷の伊賀上野には忍者屋敷だけではなく土蔵造りの家並みも残っています

2009-04-19 10:18:54 | 日本の町並み
 奥の細道むすびの地は、町中に湧水のある大垣でしたが、奥の細道の作者の芭蕉は伊賀上野の出身です。伊賀と甲賀と並んで忍者の故郷でもあるので、芭蕉関連の施設の他にくノ一忍者による実演入りで忍者屋敷が公開されています。今回は、上野市駅の南に広がる土蔵造りの町並みもあわせて紹介します。

 伊賀上野は、三重県の西北に位置していて、2004年に旧上野市と周辺の町村が合併して伊賀市となった市の中心地です。JR関西線の伊賀上野から伊賀鉄道で7分ほど乗車すると、伊賀上野城や芭蕉関連の施設のある上野市駅に到着します。直線距離で2kmほど3駅の乗車なのですが、長方形の3辺を廻るような大回りをしています。この伊賀鉄道は、もともとは近鉄の支線でしたが、赤字続きのために切り離され運行だけを行う2種鉄道として(施設は3種鉄道として近鉄が保有)存続している鉄道です。

車体にくノ一忍者の顔を描いたりして存在感をアピールしようとしていますが、苦しい経営が続くようです。

 芭蕉関連の施設や忍者屋敷、それに伊賀上野城址は上野市駅の北側に、古い町並みは南側に広がっています。芭蕉翁記念館は芭蕉関連の資料の展示を、俳聖殿は芭蕉の旅姿を象徴的にあらわしたという2層の建物です。城址公園内に建てられてから70年ほどのようですが、少し古色も加わって、なかなか美しい建物です。

忍者屋敷は、市内にあった古民家を移築して、忍者屋敷に仕立てたようで、くノ一人忍者に扮して実演入りで解説をしてくれますが、どうも子供だましのようでいただけません。まさか、忍者が目立つピンク色の装束を着ていたとも思えません。ディズニーランドのアトラクションと思えばいいのかもしれませんが。

忍者の2大流儀は伊賀と甲賀ですが、この二つの地域は県こそ違いますが、峠を挟んで十数キロの距離しか離れていないのです。いわばご近所さんで、徳川と豊臣とに分かれて代理戦争をさせられたのですから忍者という商売も因果なものですね。

 駅の南の二之町通りあたりの町並みは、土蔵造りに虫篭窓がある家、

格子の連なる家、

それに古風な木彫りの看板のある家などがかなりの長さで町並みを作っています。

もちろん、虫篭ならぬ虫食い状態で近代的というか、薄っぺらな建物が侵食はしてきていますが、市街地の中心の商店街でこれだけの古い町並みが残っているのも、数少ないのではないかと思います。新しく侵食してきた建物の中にも、古くはありませんが、旧来の家並みとうまく溶け込んでいる店もあって、散歩して気持ちの良い町のようです。ただ、芭蕉や忍者の方が観光客を呼び込みやすいのか、観光パンフレットなどにもあまり宣伝されていないようです。

 忍者は、超能力の持ち主で、荒唐無稽の存在のように思われるのは、フィクションの世界がそのような虚像を作り上げたからであろうと思います。忍者の実像は、自然界の仕組みや人間の心理などを熟知して、それらをうまく利用して、常人では難しいような行動をこなした、職人集団だったのではないかと思います。そこには、自然を征服する西欧流の科学技術ではなく、自然と融合してうまく利用する東洋流の哲学が生きているように思います。莫大な資金力で、自然ばかりではなく競争相手をもねじ伏せるIT技術開発の手法ばかりでは、そろそろ限界ではないでしょうか。

あのシュリーマンは出土品を母国に持ち帰ったためにトロイのあるトルコでは泥棒呼ばわりです(トルコ)

2009-04-12 23:21:50 | 世界遺産
 万里の長城は、北京から2000km以上も離れた西の嘉峪関までも伸びていて、北方からの脅威に備えていましたが、堅固な城壁に守られながら、敵の策略によって敵兵を城内に入れてしまって負けて閉まった都市がトロイです。シュリーマンが発掘して、彼がトロイの遺構だと信じた遺跡は、どうもトロイ遺跡ではないらしいというのがこのところの通説ですが、シュリーマンの熱意に応えた形で、この遺跡は世界遺産に登録されています。今回は、トロイの木馬のレプリカも置かれている、トロイの考古学遺跡を紹介します。

 トロイの遺跡は、トルコのアジア側、東北から南西に伸びるダーダネルス海峡の出口あたりに位置します。この遺跡は、皆さんよくご存知のシュリーマンが、ホメロスの叙事詩に描かれたことが事実であることを証明するために発掘したものです。彼は、トロイが神話の想像上の都市ではないことが証明されたと、鼻高々でしたが、その後の考古学の検証から、必ずしも彼のやったことは正しかったとは言い切れない部分が多いようです。トルコ人にとって最も嫌われていることは、出土品のうち目ぼしい物はすべてドイツに持ち帰ってしまったことです。極端な表現をすれば、勝手に他国の土地を掘り返して、略奪して行ったわけですから、評判がよいはずがありません。

 トロイの木馬の話が本当にあったのかどうかは、肝心の地層がシュリーマンの無知から傷つけられてしまって、検証のしようが無いそうです。ただ、遺跡のそばには木馬のレプリカ、いや本物があったかどうか不明なので、レプリカといえるかどうか解りませんが、木馬の模型が建っています。中には階段があって3層程度になっていたように思いますが、最上階は展望台風で眺めが良かったように思います。もし、トロイの木馬が現実に存在したとすれば大きさはこんなものだったのでしょうか?都市を滅ぼすだけの大勢の兵隊が入っていたわけでしょうから。ただ、木馬の中の兵士は城門を開ける役割だけで、戦闘に参加した大部分の兵士は、外から入ってきたのでしょうが。

 遺跡の方はというと、トルコの他の遺跡と同様に、痛々しい感じがします。シュリーマンが手当たり次第に掘ったままに、放置されたという感じがします。トルコはよく文明の十字路といわれ、国中が遺跡だらけの様相です。トルコ旅行では、たくさんの遺跡を見て廻るのですが、元の建物などの形を想像できる遺跡は少ないようです。保存や調査のための予算が十分に付かないのか、遺跡というより瓦礫の山という感じのものが多いように思います。なんとももったいない感じがします。

 トロイの遺跡の最寄の都市は、チャナッカレというところで、観光ツアーではこちらに宿泊することが多いようです。狭い海峡を挟んで海の向こうはヨーロッパ側で、フェリーで簡単に渡れます。ところが、このフェリーには多くの物売りが乗ってきます。観光バスなどで観光地に到着すると、お土産売りがワーッと集まってきますが、観光地への移動までの短時間が勝負で、通常は売りこの方が不利な場合が多いようですが、フェリーでの状況はちょっと違ってきます。狭い船の中ですから、観光客も逃げ場が無い状態で、つかまってしまうと何か買わされる羽目になるようです。トルコはアジアとヨーロッパに跨っていて、旅行中にこの間を行ったり来たりします。ただ、どちらがどうと町の様子が変わったと言う実感はありませんが、気持ちだけはずいぶんと移動した気分にはなるようです。

 トロイの木馬と聞くと、IT分野の人にとってはネガティブなイメージを受けます。インターネットを通じで悪さをするワームのカテゴリーの中にトロイの木馬型というのがあるからです。トロイ戦争の木馬と同様に、害を与えるとは見せかけないで進入し、時間がたつとデータを壊したり盗み出したり、はたまた他人がコンピュータを乗っ取るための入り口となるようなものです。なんとも、厄介な代物ですが、よくぞ名づけたとも思います。コンピュータ分野のトロイの木馬も、防御の仕組みが確立して、将来はホメロスの叙事詩のようにお話の世界だけに登場する過去の遺物になって欲しいものです。

奥の細道の終着点の大垣には町中のいたるところに綺麗な水が沸いていました

2009-04-05 22:08:56 | 日本の町並み
 黒いセルロイド製のキューピー人形が飾られていたのは姫路の網干でしたが、かつて最もセルロイドを主原料としたフィルムの製造工場は綺麗な水がたくさん必要なため小田原の奥のなど、都会から離れたところに作られています。ところが、都会の真ん中に多くの綺麗な水が自噴していて現役で生きている都市の一つが岐阜県の大垣です。今回は、市内の湧水や芭蕉の「奥の細道」関連の場所を紹介します。

 大垣市は、岐阜県の南西の端辺りに位置しますが、合併のために旧大垣市を挟んで東西に二重の飛び地を持っている唯一の市です。今回紹介する湧水の多い地域は、大垣市の中心部で大垣城の周辺、JR大垣駅の南側一帯になります。

 大垣駅というと、青春18切符の乗客が多い「ムーンライトながら」の終着駅ということで有名ですが、ほとんどの乗客は大垣始発の電車に乗り継いで関西方面に行ってしまい、大垣で下車する人は少ないようです。この「ながら」もJRの合理化のあおりで、九州行きのブルートレインと共に廃止になり臨時列車に格下げになってしまいました。

 湧き水の井戸は、通りのそばや公園の中にあって、町の風景の中に溶け込んできます。時おり、ペットボトルなどを持った市民が水汲みに訪れる姿が見られます。この井戸の形がさまざまで、四角い井戸の形あり、

土管状あり、

はたまた水のみ場風ありです。

四角な井戸の形のものも底から湧出しているものや、流れ落ちる先が四角な井戸状ののものもありました。

湧水の故郷といわれる場所は多くありますが、これだけいろいろな形の井戸があるのも珍しいのではないでしょうか。水が美味しい土地には、造り酒屋さんをよく見かけますが、こちらでは古風な羊羹屋さんを見かけました。綺麗な水は、どんな食物でも味を引き立てるのでしょう。

 湧水はやがて川に注ぎますが、その川の一つの水門川のほとりに建っているのが、「奥の細道むすびの地」の石碑です。石碑のそばには芭蕉と木因が並んだ銅像が立っています。

ちなみに木因は大垣の回船問屋の主人で、芭蕉とは俳句を通じた友人なのですが、奥の細道に同行した曾良ではないのです。曾良は北陸の大聖寺で別れ、大垣までは芭蕉一人旅だったためなのでしょうか。石碑付近には、記念館や木造の住吉灯台もあって、川ぞいの並木の美しいところです。芭蕉は、この川を船で下って桑名まで行ったということですが、こんな内陸の遠くから船で行けたのかと思いますが、かつては船による移動が最も楽だったので、船を通すためのインフラは現在より整っていたのかもしれません。木造の灯台もその名残でしょうか。

 諸国を巡った芭蕉には幕府の隠密説もあります。奥の細道の記述についても、曾良の記録との食い違いが多く、行動をカモフラージュするものだとの説がありますが、そもそも文学作品の奥の細道を日記と同一視することには無理があるようです。通信や交通の発達していない江戸時代にあって、幕府に不都合な情報の収集に隠密の役割は大きかったのでしょう。情報の氾濫する現代においても本当に必要な情報は、流通していないし、簡単には手に入らないのではないかと思います。ところが、日本では、日常的に流通している情報であっても、一部の国では権力に不都合があれば、抹殺されるようですが、権力に情報流通を握られたくないものです。