世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

山形駅の近くは、町中が明治大正期の洋風建築の博物館のようです

2017-02-26 08:00:00 | 日本の町並み
 和華蘭の文化の長崎の紹介が続きました。先に紹介のように、九州新幹線が分岐して長崎まで伸びる計画があります。分岐後は在来線を利用して、途中から新線を作る計画のようですが、軌間を変更する列車の技術が間に合わなくって、乗り換えになるとのこと。そこまでして、新幹線を引く必要性は、どう考えても無いように思います。いつもの政治家の無駄遣いで、結局その付けは利用者に回って来るわけです。どうしても引きたいなら、在来線の軌間だけを広くする山形新幹線方式ではだめなんでしょうか。今回は、最初に軌間を広くして乗り換えなしに新幹線を直通させた山形の市内を紹介します。

 山形市は、ご存知、山形県の県庁所在地ですが、山口と同様に、どことなくのんびりした雰囲気の漂う町並みが残っています。山形駅を南西隅とした1.5km四方ほどのエリアに、明治から大正にかけての建築や、お寺、教会、それに雰囲気の良い町並みが残っています。

 
 
 
 このエリアで駅から遠い北東端には教育資料館があります。明治時代に建てられた師範学校の校舎で、比較的最近まで高校の校舎として使われていたようです。資料館の裏側に回ると、その高校があって、よく手入れをされた花壇や植木越しに見る建物の時計塔も綺麗です。

 
 資料館から南に行くと広大な境内のある室町時代に創建の専称寺があります。境内が広く、ちょうど桜が綺麗に咲いていましたが、何の変哲もないお寺のようです。ただ、境内の墓所には、最上氏の娘で豊臣秀次の側室になる寸前に秀吉に処刑をされた悲劇の姫君である駒姫の墓があります。

 
 
 資料館から西に行くと、文翔館、大正期に建てられた旧県庁と県議会議事堂で、広大な前庭の中に建っています。同じ時代に、同じ設計者によって建てられた2つの建物ですが、議事堂はレンガ造り、県庁は御影石造りで髄部と印象が違います。文翔館の北東隣には大正時代に建てらた六日町教会が下見板張りの軽やかな姿を見せています。

 
 文翔館の正面に突き当たるT字路を南に行くと山形市の繁華街で、途中に御殿堰があります。江戸時代に作られた農業や生活用水のための疎水の名残で、こちらでは疎水とは呼ばず取水口の堰と呼ばれています。1mほどの綺麗な流れがあって、お土産屋や飲食店などが流れに沿ってありますが、水の流れはホッとさせます。

 御殿堰を西に曲がってJRを越えると山形城跡に出ます。山形城は明治時代に陸軍の駐屯地となり、城の建物は無くなり堀などの一部も埋め立てられてしまいました。現在は、本丸跡の発掘調査が行われ、本丸北枡形の復元を目指しています。その中で、二の丸東大手門などが復元されていますが、何とはなしに映画のオープンセットです。




 
 山形城に至る手前には、三角形の大きなファサードが印象的な山形美術館や最上氏関連の資料を展示する最上義光歴史館があります。ちょっと南に行くと、大正期の建物のカトリック山形教会があり、白い板張りの建物の上に丸い鐘楼が乗っています。内部も城を基調としたさわやかな空間でした。

 
 城跡公園の南東隅には、明治の初めに建てられた済生館が移築されています。中庭を持つ円形の建物の正面に4層の楼閣が建つという不思議な建物です。中庭に面した場所に立つと、ホテルのような感じがし、楼閣を見上げると、天文台のような感じもします。

 明治時代から大正時代にかけて、多くの洋館が建てられ、趣のある建物を目にすることができます。これらの洋館の大部分は、日本人の手によって日本の伝統技術を使って、外観のみを洋館に似せて作られたものが多いそうです。現代のように、ネットから種々の情報が得られるわけではなく、見た目だけが頼りだったのかもしれません。イギリス流の建築学をジョサイア・コンドルに学んだ辰野金吾などは、例外中の例外だったのではないでしょうか。ただ、これらの疑似洋館は、西洋の模倣ではなく、新しい価値の創造であった、ととらえていいのではないかと思います。

アンコール・ワットの須弥山の建つ回廊の傾斜は高所恐怖症には辛い角度でした(カンボジア)

2017-02-19 08:00:00 | 世界遺産
 仏教が生まれたインドに、仏教遺跡ではないイスラム教の美しい廟が建てられたのがフユマーン廟やタージマハルでした。一方、インドで生まれたヒンドゥー教の遺跡が仏教国のカンボジアに残るのがアンコール・ワットです。今回は、以前に一度紹介したアンコール遺跡を、その周辺の遺跡を含めて、前回より写真を増やし、切り口を変えて紹介します。ただ、古いデジカメで撮った写真画混じるため、解像度や色再現性が良くないことはご容赦願います。

 アンコール遺跡は、カンボジアの中央部のやや北に位置し、カンボジアを代表する遺跡です。このことは、カンボジアの国旗の中央にアンコール・ワットが描かれていることにも表れています。遺跡群のある芭蕉は、12世紀から13世紀に栄えたクメール王朝の首都の跡で、シエムリアップの北4kmほどのところから、15km四方ほどの山林や原野の中に散在しています。アンコール・ワット遺跡はヒンドゥー教に根差したものですが、アンコール・トムは、仏教の観音信仰の寺院の跡で、両方の宗教がまじりあっています。


 シエムリアップに一番近いところにあるのがアンコール・ワットでヒンドゥー教の寺院跡ですが、およそ400年後に仏教寺院に改修されヒンドゥー教の神様が仏像に置き換えられたそうです。東西1.1km 南北0.9kmの長方形の敷地の周りを190m幅の堀が囲んでいて、広々とした前庭の中央東寄りに三重の回廊で囲まれた祠堂がそびえています。この3番目の回廊への階段が急で60度もあろうかと思われる石段です。登るときは上を見て上りますが、上がってみると下るのが恐ろしくなります。回廊にはおびただしいレリーフが彫られていて、インドネシアノボルブドゥール遺跡を思い起こさせます。

 
 
 
 アンコール・ワットは、堀の外から水面に映る姿も美しいのですが、遺跡の西にそびえるプノン・バケンに上ると、遺跡の全容が上から見られます。上りがきついとおっしゃられる方は、象に乗って登ることもできます。遺跡が、周りの緑に飲み込まれそうで、ジャングルの中に埋もれて歴史から忘れられた時期があることも解るように思います。この、プノン・バケンからは遺跡とは逆方向ですが夕日の名所でもあるようです。一方、朝日は遺跡の西門あたりで待っていると、遺跡の後ろからユラユラと日が昇ってきます。

 
 
 
 アンコール・トムは、アンコール・ワットの北側にあリ、一辺が3kmで複数の遺跡の集合体で、中心となるバイヨンなどは仏教遺跡ですが一部のヒンドゥー遺跡も含んでいます。仏教遺跡といっても、同じ石造りのボルブドゥール遺跡とはずいぶんと違います。やたらと巨大な観音の顔が彫られていて、圧倒的な迫力です。石造りは残りますが、木は朽ちてしまったらしく、象のテラスという遺跡は、かつては上部に木などで作られた閲兵席があり、石の基壇だけが残ったようです。遺跡に無頓着に上って写真を撮る観光客に対して、遺跡の中で瞑想する僧の姿が印象的でした。

  さらに北には、未完のタ・ケウや木が遺跡を飲み込んでしまったタ・プロームなど、数多くの遺跡群があって、頭の整理がつきません。さらに北東方向には、バンテアン・スレイ遺跡があり、こちらにはフランスのアンドレ・マルローが盗掘し逮捕されたデバターがあります。「東洋のモナリザ」と呼ばれるレリーフですが、マルローはこれを切り取ってフランスに持ち帰り、高く売ろうとたくらんでいたようです。空襲から奈良や京都を守ったとされているウォーナも、中国の莫高窟の壁画をはがして持ち帰ろうとしたことは有名で、所詮は西洋人と略奪とは切り離せないようです。アンコール最後の夜に、ホテルでみた現代の東洋のモナリザ達は、東洋人のやさしさにあふれていたようです。

 カンボジアと聞くと、どうしても内戦のことが頭に浮かびます。アンコール遺跡は、ポルポトはの砦として使われたそうで、確かに堀や望楼を備えた立派な城です。また、貴重な遺跡なので、政府軍も攻撃がしにくいという事情があったようです。遺跡や観光地が戦場になることは意外に多いようで、それを破壊することで、相手に精神的なダメージを与える効果があるのだそうです。文化遺産はいったん破壊せれてしまうと再生は、ほとんど不可能で、小さなものなら3Dプリンタという手(データが残されていれば)があるでしょうが、外見は似せられても、本物から得られる膨大な情報は喪失してしまいます。ディジタル技術が最上という誤った風潮がありますが、ディジタルは、その時点で効率の悪いと考えられているデータを落としているんです。

長崎の蘭文化は江戸時代というより明治以降の西洋文化の名残が強いようです

2017-02-12 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎の和華蘭の3回目で今回は蘭ですが、英や葡などもありのようです。長崎の蘭というと出島を思い浮かべますが、出島に最初に来たいたのはオランダ人ではなくポルトガル人だったのです。キリスト教の禁教令によりポルトガル人はオランダ人にとって代わることになります。しかし、オランダだってキリスト教国で、「我が国はキリスト教とは関係ありません」とはよく言えたもので、オランダ人の欺瞞性を感じます。出島は明治時代に周りを埋め立てられて島ではなくなってしまいましたが、1996年から復元事業が開始されています。かつてのオランダ商館の建物の復元だけでなく、周辺を堀で囲んで島の輪郭を復元するのだそうです。

 
 
 蘭が名前に現れているところがオランダ坂ですが、このオランダ坂なるものは山手の居留地に通ずる坂の名前として沢山あるようです。江戸時代の名残で明治以降の居留地に出入りする西洋人をすべてオランダさんと呼んでいたようで、そのオランダさんが通る坂という意味です。ただ、観光客に有名なオランダ坂は活水女子大に通じる坂で、その先には東山手の洋館群があります。この場所は重伝建地区になっていて、番号の着いた居留地の名残の洋館が坂にへばりつくように建っています。神戸でもそうですが、異人館は坂の上に建っているんです、眺めは良かったでしょうが、外出は大変だったのでは。ただ、これらの外人たちは歩くのではなく人力車かなんかに乗ってたんでしょうね。

 
 オランダはキリスト教とは関係ないといった、そのキリスト教関連の建物が多いのも長崎です。教会建築で唯一の国宝の大浦天主堂は、江戸時代に建てられたものを明治に改築したもの。現在の天主堂は、外壁にレンガを積んだゴシック様式ですが、当初のものは3本の塔を持つバロック風で写真を見ると随分とイメージが違います。大浦天主堂は途中までの道にも風情があり、長崎の町を見下ろすマリア像がアクセントになっているように思います。

 
 一方、大浦天主堂に負けない天主堂をということで建てられた浦上天主堂ですが、明治期の建物は原爆で全壊、現在の建物は1959年の再建のものです。浦上天主堂とやや遅れて建てられたのが長崎駅近くにある中町教会で、浦上の外壁がレンガ色に対して中町は真っ白です。こちらの協会も原爆で塔や外壁を残して被災し、1952年に復元されたものです。

 
 原爆の悲劇の前にはキリシタン弾圧の悲劇があったわけですが、秀吉に処刑されたキリスト教徒の殉教碑、記念館そして記念聖堂が並んでいます。記念館の横の壁には「長崎への道」と題したフレスコ、モザイク壁画が描かれていて、ガウディ風の塔を持つのが記念聖堂です。



 
 長崎に入ってきたのはキリスト教だけではなく、オランダからではなくイギリス人のグラバーがビールも持ち込みました。長崎の一大観光地となっているグラバー園の中でも最も人気があるのがグラバー邸で、筆者が修学旅行で訪れた頃に公開されていたのはグラバー邸だけでした。このグラバー邸はライトアップされた姿も綺麗で、邸内から眺める長崎の夜景も格別です。ただ、グラバー個人については死の商人のイメージが強く、好きではありません。

 日本人にとって江戸時代には最先端の技術はオランダのもので蘭学の言葉に如実に表れています。ところが、世界史、特に化学技術史を見てみるとオランダってほとんど出てこない、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスなど、コペルニクスだってポーランド人です。シーボルトはドイツ人、オランダ人は単に商才に長けていただけのように思います。現在のオランダも農業、特に花の国でITとは縁が無さそうですが、花の生育に欠かせない温度や肥料の管理には高度なコンピュータ技術が使われているそうです。日本企業の支援だそうで、技術の流れは逆転したようです。

マリアの出現は信じなくてもファティマ大聖堂はロケットのように天を突いて見事です(ポルトガル)

2017-02-05 08:00:00 | 世界の町並み
 かつては首都でもあった南京には郊外には世界遺産の明孝陵もありますが、旧市街もなかなか魅力的な街並みが広がっていました。我が国にもある孔子廟も夫子廟という名前で、運河が近くを流れていて中国らしい風景です。孔子といえば4大宗教の一つの儒教の聖人ですが、キリスト教の聖人のマリアが20世紀に現れたという場所がポルトガルにあります。今回は、そのファティマを紹介します。

 ファティマは、ポルトガルの首都リスボンの北120kmほど、ポルトからは南へ190kmほどの田舎町です。世界遺産のキリスト教修道院のあるトマルと絵のように美しい漁村と言われるナザレのちょうど中間に位置します。リスボンとポルトを結ぶ長距離バスが立ち寄るとの情報もありますが、かなり不便な場所です。ちなみに、筆者はリスボン発でアルコバッサなどの世界遺産などに加えてファティマにも立ち寄る現地発着の英語ガイド付きバスツアーに乗っかりました。

 ファティマの聖母の話はおおむね次のようなものです。
 1917年5月13日に、3人の幼女の前にマリアが出現し、その後毎月13日に出現をして予言をしたということです。この予言は第一次大戦や第二次大戦に関するもので、信者からは的中したと言われています。ノストラダムスの予言で21世紀は来ることなく世界が滅びると言われましたが、我々は普通に21世紀を生きています。信者以外の門外漢には、予言で右往左往するのは滑稽に見えます。

 


 しかし、信者にとっては大切な聖地で、巡礼のための場所のようで、マリアが出現したという場所にあるマリア像の周りや、大聖堂には数多くの信者が集まってお祈りをしていました。驚いたのは、地面にひれ伏しながら、尺取虫のように少しずつ大聖堂に向かって進んでいく人々がいたことです。チベット仏教でも同様な姿があったように思いますが、宗教の恐ろしさのようなものを感じました。

 
 ただ、宗教色から離れてバシリカ様式の大聖堂を見ると、ちょっと他で見る教会とは一味違って見事な建物です。規模は違いますが、平戸にあるザビエル記念教会とも似て、天を突く鐘楼は巨大なロケットのようにも見えます。第三の予言で世界は滅び、その前に地球から脱出するためのものなのでしょうか。

 ファティマの奇跡は宇宙人の演出との説もあるようです。地球外生物が、なぜ地球人と同じような構造体で、同じ考え方をする、と誰が決めつけたのでしょうか。地球上であっても、人類とは全く違った形で、エネルギーの取り込み方も異なる生物がいるわけで、どこかの天体で水が発見されたから、生物がいるかもしれない、という論理すらナンセンスです。IT技術は、今や全盛ですが、ほんの百年前までは仕組みさえ未知の分野だったわけです。宇宙人やUFOを論じる人は、19世紀のジュールベルヌよりも想像力の無い人々かもしれません。