世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

慈恩寺には行き損ねましたがサクランボやきれいな洋館で満足できる寒河江でした

2021-01-31 08:00:00 | 日本の町並み
 幕府の天領で物流の拠点として発展し幕末の英才を数多く輩出した私塾の跡があるのが日田でした。天領は日本の各地にありますが、今回はそれらの中で全国で第3位のサクランボの生産量を誇っている寒河江(さがえ)を紹介します。

 寒河江は、山形県の中央あたり、山形駅から盲腸線の左沢(あてらざわ)線で30分ほどの寒河江駅から北に広がる町です。このローカル線の名前は終点の左沢から名づけられていますが、左沢も寒河江も共に難読地名の一つではないでしょうか。この左沢の地名の由来は諸説あるようですが、あちら側(左側)の沢という説や、植物のアテの木(アスナロ)に由来する説などです。また、寒河江についても諸説あって、平安時代に相模の国の寒川の人たちが移り住んだとか、集落を分けて流れる境川がなまったものとかがあるようです。

 
 寒河江の産業の中心となるさくらんぼ畑は、寒河江駅の北3kmほどを流れる寒河江川にそって広がっており、筆者は駅で自転車を借りて走りました。高低差は無かったようで20分くらいで到着できたように思います。サクランボは温室の中に、いくつかの品種が植えられていて、実のなる時がずれることで、長い間観光客が楽しめるようになっているようです。出荷用と観光農園とが分けられているのかどうかわかりませんでしたが、天の届く高さに実が付くように管理されていたようです。一年分のサクランボが食べられたような気がしました。

 
 サクランボ農園のある寒河江川あたりの手前、JR西寒河江駅の東にある丘の頂上当たりにあるのが寒河江市郷土館で、旧西村山郡役所と郡会議事堂として建てられたものです。明治11年(役所)、19年(議事堂)に建てられた木造洋館で、その後は地方事務所や校舎などで使われ、昭和56年に現在地に移築復元されたそうです。伊豆松崎の岩科学校や愛媛県の開明学校などと似た印象のきれいな建物です。自転車で丘を登るのは辛かったのですが、上った甲斐のある建物でした。

 
 この丘の南側の麓には11世紀創建の寒河江八幡宮があります。9月の例祭では流鏑馬が行われますが、3頭の馬に早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を割り当てて競争させ、着順で翌年のイネの作付けを占う作試し流鏑馬は全国唯一なのだそうです。境内には神仏分離を免れたのか神宮寺もありました。

 
 八幡宮の南側の道を東に1kmほど走ると、造り酒屋の古澤酒造の酒蔵があります。天保年間の創業で、山形産の地酒の伝統を守っているそうで、内部の見学もできます。

 
 伝統と言えば、JR寒河江駅前には駅前交流センター(通称は寒河江市神輿会館)があり、神輿のまち寒河江の伝統を示す神輿を展示する建物があります。寒河江まつりで実際に担がれている神輿がかなりの数展示されていて圧巻です。

 寒河江川を渡ってさらに北にそびえる山塊の麓まで行くと慈恩寺があります。自転車でも行けたのかもしれませんが、サクランボの食べ過ぎもあって、走るのをあきらめました。8世紀の創建とされる古刹で、江戸時代には広大な寺領を誇ったようです。頑張ってい行ってればよかったとも思います。2015年には東博(東京国立博物館)で開かれた「みちのくの仏像」展で重文の十二神将のうち4体が展示されていました。十二神将というと、生まれた干支の守り神という性格を持っていますが、像の頭に十二支を載せるようになったのは平安時代からで、有名な新薬師寺の像にはありません。十二神将はあらゆる方角の悪に立ち向かい、方角と干支が対応付けられることから、干支の守護神という信仰になったようです。現在ではスマホ一つを持てば、地図も方角もわかりますが、持ってないときに十二神将が現れて方角を教えてくれないでしょうか。

庭園に人工の滝まであるカゼルタ宮殿は平面的な造りのヴェルサイユ宮殿より見ごたえがあるかもしれません(イタリア)

2021-01-24 08:00:00 | 世界遺産
 韓国の山の中に仏典を印刷するための数多くの版木が残されているのが海印寺でした。バス停を降りて、どんどん上った最上部に版木を納める建物がありましたが、韓国の方って山登りが好きな方が多いように思います。慶州でも登山道に石仏が多くある山に出かけた時にも、こちらは顎を出しましたが土地の方々はすいすいと追い越していかれました。上に向かう志向は洋の東西を問わないようで、イタリアには庭園に人工の滝を作ってしまった宮殿があります。今回は、イタリアのヴェルサイユ宮殿とも呼ばれるカゼルタ宮殿を紹介します。


 カゼルタの町は、南イタリアのナポリのちょっと手前を北東に曲がって50kmほど、ローマからバーリ行きの特急列車で2時間ほどの駅周辺にあります。町の中心になるカゼルタ宮殿はカゼルタの駅を降り駅の北へ400mほど行ったところが入り口です。カゼルタ宮殿は、ナポリ王国のカルロ7世によって18世紀に建てられたもので、当時のヨーロッパ最大の宮殿でした。フランスのヴェルサイユに範を採ったもので、建物はバロック様式で建てられ東西250m、南北200mほどの田の字型をしていますが、1000を超える部屋を持つています。

 
 
 
 
 
 
 エントランスを入ると巨大な2列の階段に圧倒されます。階段を上がった正面にはライオンに跨ったカルロ7世象が階段に挟まれた開花の突き当りにはヘラクレスの像など大理石像が壁の随所にはめ込まれています。公開されている部屋も豪華で、壁、天井、床それに調度や照明器具まで、これでもか、これでもか、と言わんばかりの贅沢さです。部屋の一つにプレゼーピオと呼ばれる南イタリア発祥のジオラマが置かれてありました。キリストの誕生を表し数多くの人形たちが所狭しと並んでいましたが、クリスマスの飾りとして使われるのだそうです。

 
 
 
 
 
 宮殿の建物から北に延びる庭園は3kmもあり、とても端までは歩いていけません。園内を走る馬車もあったようです。庭園の中央にはヴェルサイユのように運河があって、途中にギリシャ神話の彫刻のある池や噴水があって延々と伸びています。そして3km先には、小高い丘があって園中腹から落差が80mほどもある人工の滝が流れ落ちています。運河はヴェルサイユに比べて小ぶりですが、高さのある滝を含めると見応えがあります。また、この滝の水源は40km以上も離れたところから引いていて、谷筋には水道橋まで造りこちらも世界遺産です。土木技術は古代ローマからの伝統なのでしょうか。

 人工の滝に水を運ぶ水路は1kmにつき1mの勾配という緩やかなもので、古代ローマから受け継いだ驚異の土木技術です。現代ではレーザこ光などを使って高精度の測量ができ、長いトンネルを両側から掘っても、ぴったりと接合するそうです。かつては、トンネルの掘削面の真上を測量しながら、同期を取って前に堀進めていたのだそうです。高精度の測定技術を開発する人たちを除いて、それを使う人たちの技術は、かえって退化していないか心配です。

豆田町の町並みも素敵ですが、日田祇園祭の山鉾巡行は昼間の豪華さと日が暮れてからの幻想的な様子の両方が楽しめます

2021-01-17 08:00:00 | 日本の町並み
 石炭積出の小樽港までの運搬路として作られた鉄道路線が手宮線でした。北海道と同様に炭鉱の多いのが吸収ですが、北九州には石炭を運ぶために数多くの鉄道路線が引かれ、石炭の斜陽化と共に次々と廃線の憂き目を受けました。それでも、生活路線として重要な路線はいくつかが残り、その中の一つが小倉市と日田市とを結ぶ日田彦山線です。今回はこの日田彦山線の一方の起点の日田市の中心部を紹介します。

 日田市は大分県の西の端で、メインの駅は久大線の日田駅になります。日田彦山線の起点の夜明駅は市の西端で日田駅から2駅久留米寄りの無人駅で、日田彦山線の列車は、夜明け駅ではなく日田駅まで乗り入れています。市街地の中心は日田駅の北側の花月川までの東西に500m、南北に1kmほどの範囲で、重伝建に指定されている豆田町もこのエリアにあります。

 
 日田は久大線に沿って流れる三隅川の水運で栄え、花月川をはじめ市街地に小さな川が流れ年貢米の積出をした中城河岸跡の近くには港町という町名も残されています。安土桃山時代には、駅の南西の三隅川沿いに日隅城が作られ、江戸初期には市街地北部に永山城も作られました。日隅城は、一国一城令で廃城となりましたが、幕府直轄の天領として明治を迎えました。豆田町はかつての城下町で、天領を支えた産業の一つが日田下駄で、日田駅には日田杉で作られた150cmもあるジャンボ下駄が飾られていました。昔風に言うと60文といったところでしょうか。

 
 駅から重伝建の豆田町に向かう途中、久大線の線路沿いの北西に800mほどのところに咸宜園の一部の建物が残され公開されています。咸宜園は江戸末期に広瀬淡窓によって創立された全寮制の私塾で、幕末に活躍した高野長英や大村益次郎を輩出しています。茅葺の秋風庵と遠思楼の2つの建物が広い公園の橋にポツンと建っていますが、現役の頃は道路を挟んだ西側にも広がる場所に寄宿舎や講堂などの建物が建っていたそうです。

 
 
 
 
 
 
 咸宜園を北に中城河岸跡を超えて400mほど行ったところから北に延びるのが豆田町です。江戸時代の城下町の街並みがそのまま残り、電線の地下埋で無電柱で空の広い町並みが続いています。城下町らしく、町の途中にかぎ型に曲がっていて、現代では見通しが悪く交通には支障をきたしそうです。白壁の土蔵造りに格子のある家並が中心で、なまこ壁のある店もあります。白壁の家並の中ほどに、かつての医院の診療所を転用した豆田まちづくり歴史交流館があります。町づくりの拠点として使われているようですが、土蔵造りの街並みの中ではレトロな洋館が妙に存在感があります。

 
 
 
 
 この町並みで毎年7月に行われるのが日田祇園祭で、江戸中期に京都の祇園祭の山鉾を手本にした山鉾の巡行が行われます。鉾建てから昼間の巡行も見ることができ、華麗な飾りは京都の祇園祭にも負けていない感じがします。圧巻は日が暮れてからの巡行で、山鉾に飾られた提灯に火が入ります。それぞれの鉾町の山鉾が花月川の土手に集まってくる頃がクライマックスで、川面に映る提灯の明かりが幻想的です。

 日田の下駄は江戸末期に殖産産業として興り、明治以降は日田盆地の良質な杉を原料として作られるようになったそうです。筆者の子供の頃には、下駄をはく習慣が残っていましたが、現代では全くと言っていいほど見かけなくなりました。日本人の履物が靴に代わり、見返りに外反母趾や水虫に悩まされるようになってしまったのかもしれません。先日に爪の水虫薬に睡眠導入剤が混入されていた事件がありました。出荷される薬の成分をセンサーなどでチェックする技術はまだ開発されちないのでしょうか。かつてアスクルを見学した時、出荷する荷物の重さをはかり、間違ってないかチェックするが、商品のすべてにICが埋め込まれれば検品は完全になるとおっしゃってました。ただ、どの手法も悪意による混入を見抜くのは難しそうです。

桃源郷のような雲水謠古鎮は流れている時間もゆっくりのような気がしますが、かつては日本でも見られた風景かもしれません(中国)

2021-01-10 08:00:00 | 世界の町並み
 イングランド北部のノース・ヨークシャーにあり、廃墟の城跡以外には、なんでもない田舎がリッチモンドでした。田舎に行く旅行は、取り立てての観光ポイントは期待できませんが、どこかホッとする時間がもてます。特に旅程が長い旅行などでは、息抜きできる場所かもしれません。世界遺産の土楼をたずねる現地ツアーで、土楼の近くの田舎にも寄りました。もちろん土楼がある場所もかなりの田舎でしたが、今回は地元の中国の人にも人気があるらしい雲水謠古鎮を紹介します。

 
 
 雲水謠古鎮は中国の福建省の南部の漳州市の西のはずれの山奥にある歴史の古い古鎮の一つで、アモイから西に100kmほどに位置します。近くに世界遺産の福建土楼があって、筆者は二か所を組み合わせた中国人向けのツアーに参加しました。当初は土楼に重点を置いたツアーに参加する予定でしたが、そちらのツアーは人数が集まらず雲水謠を組み合わせたツアーに合流させられました。どうも雲水謠は、同名の映画のロケ地にもなり中国人にとって人気のスポットのようです。

 
 
 雲水謠古鎮にも土楼は少しありますが、取り立てて観光地といった目玉はありませんが、中国人の描く桃源郷といった風景が広がっています。この古鎮は流れている時間がゆっくりしているようです。村の中心を川が流れ、大きな水車も回っています。

 
 
 川に架かる橋は、もちろん木橋で、足元のおぼつかない橋もあります。川に沿ってガジュマルの巨木が茂り、指定木らしき名札が下がっていて英語や日本語(かなり怪しい日本語)でも大切に扱いましょうと書かれてありました。

 
 
村を形作る民家はいた壁や土壁の2階屋で、どれも古るそうです。小さな商店街となっている一郭で、お土産屋さんに連れていかれましたが、土間にお休みどころと店舗を兼ねた空間があって、昔にわが国で見たような感じがします。

 ガジュマルの木に添えられていた名札の変な日本語は自動翻訳の結果を転記したものだったかもしれません。この旅行で筆者は携帯自動翻訳機を持っていいって、ほどほど重宝しました。日本語で話した言葉を認識して、中国語に翻訳し、その結果を話してくれます。筆者が社会人になりたての頃には、音声認識だけでも6畳間ほどを占領するコンピュータが何分もかかってやっと1音節の音声を判別できる程度でした。この自動翻訳機はネットを経由し、処理はセンタのホストコンピュータが受け持っていますが、多数の端末からの要求を瞬時に処理してくれます。ただ、ネット規制の多い中国では翻訳機からセンタにつながるネットワーク・プロバイダは限定され、アモイのような都会では自由に使えましたが、雲水謠古鎮に向かう途中から使えなくなり用をなしませんでした。便利な用具も独裁権力には勝てなかったようです。