世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

平泉の毛越寺あたりは、ほとんど何も残っていませんが栄華の残り香の滅びの美学があるようです(日本)

2019-02-24 08:00:00 | 世界遺産
 平泉の世界遺産紹介の2回目は毛越寺周辺です。中尊寺には諸堂が数多く残されていますが毛越寺にはほとんど残されておらず、毛越寺のお隣の観自在王院は寺院の跡のみで、池と原っぱです。

 
 中尊寺がJRの駅から2kmと離れているのに比べ、毛越寺は駅から西に延びる道が南に曲がるあたり、およそ駅から700mと歩いて行ける距離にあります。手前には、奥州藤原氏2代目藤原基衡の妻が造営した観自在王院の跡があります。奥州藤原氏の滅亡後は荒廃して水田になっていましたが、近年の発掘調査により伽藍の遺構と庭園の修復が行われていますが、大部分は史跡公園の原っぱで奥の方に池があるようです。

 
 一方の毛越寺は、9世紀に中尊寺と共に創建された寺院ですが、その後は荒廃していたものを藤原基衡とその子3代秀衡によって、中尊寺をしのぐ壮大な寺院に再興されました。その後兵火に逢うなどして、大部分の伽藍は消失し、観自在王院と同様に水田化してしまったようです。明治の後半になって、南大門跡の外側に本堂や栗が建てられ、お寺の形態を取り戻し、昭和になり発掘調査により元の壮大な姿が明らかになりました。

 
 
 現在残る遺構は大泉が池を中心とする浄土庭園で、この池の北側に金堂跡などが並んでいます。宇治の平等院を彷彿とするような浄土の世界が広がっていたのではないでしょうか。常行堂のそばには曲水の宴が催された遣水の遺構もあり、平安時代の遺構としては唯一のものです。毛越寺の遺構は、ほとんど何もないところに、大泉が池が広がっているだけですが、何とはなしに滅びの美学を感じます。筆者の学生時代には、毛越寺ユースホステルとして宿泊でき、暗闇の向こうに広がる大泉が池が、かつての栄華をしのばせるように広がっていて印象的でした。

 平泉に繁栄を築いた奥州藤原氏の財源は、大陸貿易と砂金だったそうです。この砂金が金色堂を覆っているんですね。金は宝飾品としてだけでなく、IT分野では、やわらかくて錆びにくい金は無くてはならない金属の一つです。一年間に産出される金のおよそ1/6程度が電子機器に使われるそうです。オリンピックのメダルの材料に、不要になった携帯電話などを改修しようという動きがあり、都市鉱山とも呼ばれました。携帯電話には金だけでなくレアメタルなども沢山使われているわけで、これらが2~3年ごとに買い替えられて捨てられること自体がおかしいのではないかとも思います。

北播磨と京大坂を結ぶ街道の宿場町の吉川は、高速道のICのある交通要所ですが眠ったような静かな町でした

2019-02-17 08:00:00 | 日本の町並み
 東京などへのベッドタウンとして団地が林立し、作りかけで放置されてお化けマンションまであった鶴川には、昔の田舎も、点在して混在していました。白洲次郎夫妻の武相荘もこのような風景の中に建つ何でもない農家の一つです。白洲次郎は芦屋の生まれで神戸一中を卒業していますが、白洲家の墓は神戸や芦屋から六甲山を裏に越えた三田の郊外の心月院にあります。この辺りは、田んぼの広がる平地に、ぽつぽつと岡が点在し、神戸市へ流れ下る川と三木を経由して明石に流れ下る川沿いに町並みが伸びています。今回は、心月院から西へ、三木に延びる川ぞいに古くから栄えた町の一つである吉川(よかわ)町を紹介します。

 吉川町は、現在は合併によって三木市の一部となっています。神戸市の北、三田市の西、三木市の東とといった場所なので、何れの市と合併しても不思議ではなく、現に神戸市への編入の動きもあったようです。ただ、この案は、内定まで進んだものの県の横やりで実現しなかったのだそうです。一方、吉川へのバスの運行は三田とのつながりが深く、この面から三田との考え方もあったようですが、行政の接点がなくこの案も実現しなかったそうです。

 
 
 
 吉川と書いて「よかわ」と読む地名はちょっと無理があるようにも思えますが、中国道の吉川ICがあることから、全国的に知名度が上がったのかもしれません。歴史的には、北播磨と京都と大阪を結ぶ街道の大坂道の宿場町として栄え、現在の県道17号線は旧大坂道に沿って伸びています。古い街並みは、稲田村と呼ばれた地区の旧街道沿いに、土蔵造りに板壁や格子のある古民家がひっそりと残されています。

 
 
 日本酒の原料として有名な酒米に山田錦がありますが、吉川はこの山田錦発祥の地とされていて、山田錦の館という施設もあるようです。江戸時代から明治にかけての頃に、吉川から伊勢参りの際に酒造りに適した稲を見つけて持ち帰り、これを改良したものが山田錦ということですが、神戸市北区藍那が発祥の地という説もあり、互いに自説を譲らないようです。

 山田錦など農業分野で新しい品種を作り出した時には、育成者権という知的財産権で保護されるようです。一種の特許権ですが、一方「山田錦」という名称をブランドとして差別したい場合は、登録商標として商標権で保護されます。ただ、これは法律上の話であって、新しい品種の種などを海外に持ち出されて栽培される恐れは大きく、現に多くの日本人の血と汗の結晶が不当に海外に持ち出されてしまっているようです。ただ、持ち出された品種であるということを証明するのは、どうするのかと思います。DNAによって鑑定するのでしょうか、まさか植物にICタグをつけて、センサーで検出、なんてことはできないでしょうね。

砂漠の中のオアシス都市である敦煌には列車で行くのがお勧めかもしれません(中国)

2019-02-10 08:00:00 | 世界の町並み
 マトマタやクサール・ハッタダはサハラ砂漠の砂と石ころの平原に突如として集落が現れました。一方、中国の西部に横たわるゴビ砂漠の中にもいくつかのオアシス都市があります。今回は、中国三大石窟の一つで世界遺産にもなっている莫高窟観光の基地である敦煌周辺を紹介します。

 
 敦煌は、中国の西部の甘粛省にある古代から栄えたシルクロードの分岐点にあるオアシス都市です。市街地は北東から南西に幅10kmほど長さ20kmほどで延び、それ以外は岩山と砂漠です。かつての都であった西安(長安)から飛行機で3時間近く、列車だと24時間ほど西に走ったところにあります。直線距離で1,500km以上、鉄道の距離では1,800kmほどもあり、函館と鹿児島間、ちょうど新幹線の最長区間くらいになり、さすがに中国は広いと感じます。この広さを実感するには、飛行機ではなく、列車での移動がお勧めです、万里の長城の西の端である嘉峪関を過ぎたあたりから、車窓から見えるのは、行けども行けど延々と続く砂漠です。ただ事前に寝台券を現地の旅行代理店などに手配して席を確保しておく必要がありますが。昔は、敦煌の最寄り駅はトルファンなどに行く路線の途中駅で、敦煌との間はバスでかなりかかったようですが、現在は敦煌を終点とする支線ができて市街の中心から東へ10kmほどの所に到着します。敦煌空港も、この駅のすぐ南で、このあたりが交通の要なのでしょうが、滑走路は砂漠の中で、空港の南10kmほどの山麓にある三大石窟の莫高窟まで延々と砂漠が続きます。

 
 敦煌の観光を代表するのは、世界遺産の莫高窟ですが、莫高窟についてはすでに紹介済みなので、そのほかの場所を紹介します。敦煌市の人口は13万人で、成田市や我孫子市くらいの規模で、周りに砂漠しかない都市にしては多いように思います。ヨーロッパでもそうですが、町の中心部には野菜など売る露店や、道路にテーブルを並べた食堂が並んでいて、活気があります。

 
 町の中央部あたりのロータリーには反弾琵琶像といって片足で立って背中で琵琶を弾くというアクロバティクな像が建っていて、莫高窟にも描かれ敦煌のシンボルのようです。このロータリーの近くにには市立の博物館もあり、4千点もの収蔵品を持ち入館料も無料でしたが、ほとんど人影もありません。陵墓からの出土品や絹織物に興味のある方には穴場かもしれません。

 
 市街を南北に流れる川を西に渡った所にあるのが白馬塔で、4世紀に敦煌に経典を運んだ鳩摩羅什が経典を積んでいた白馬がこの地で死んでしまったのを悼んで建てたという塔があります。



 
 

 一方、市の中心部分から南に5kmほど行くと大きな砂山にぶつかります、鳴砂山です。標高差にして100mほどもあるでしょうか、鳥取砂丘とは比べようもありません。入口で、靴の上から履く布製のブーツのようなものを貸してくれますが、これで靴への砂の侵入は止められますが、砂山の頂上まで登るのはとても無理です。有料の木製の階段も作られていましたし、ラクダに乗れば連れて行ってくれたのかもしれません。砂丘の麓には月牙泉という三日月湖があって、そばには塔のある寺があります。この三日月湖は砂漠の中に在って枯れたことが無いのだそうです。

 
 
 市街地の西南端には、日中共同制作映画の「敦煌」のオープンセットを利用したテーマパークがあり、古い中国の町並みが再現されています。1970年台から構想がありましたが、ごたごたが続いたようでオープンセットができたのは1987年で公開は1988年でした。京都にある東映映画村ってところでしょうが、映画村ほどはにぎわってなく、ほとんど人影を見かけませんでした。

 地球上の多くの砂漠はかつては緑豊かな大地であったところが多く、人間が木を伐りすぎて、悪循環の末に砂漠化してしまったようです。ところが、この砂漠の砂の主成分は、人類に恩恵をもたらしているITを支える半導体の原料のケイ素であることは皮肉です。多くの砂漠では、現在も砂漠の拡大が進行していてます。人口が増えすぎて大地が支えきれない状態になってしまったの原因で、地球の歴史からすれば、人類も自然淘汰の対象から逃れられません。その面から、大地が支えきれなくなった後進国の子供に金をばらまくだけの支援は長い地球の歴史の中で考えるとおかしいのでは思います。

巨大な団地の中に実験住宅や古民家が散在する鶴川です

2019-02-03 08:00:00 | 日本の町並み
 筑波山への参道の起点のつくば市北条には、矢中の杜という昭和初期の和風住宅があり、オーナーが自身で開発した建築材料を確認する実験住宅でもありました。実験的住宅は、設計者は実験とは思っていないのかもしれませんが、建築材料やデザインなどいろいろな面で前例が無い建築は全国で見られます。今回は、数ある住宅の中から住宅というより真っ白な塊にしか見えない原広司邸のある町田市の鶴川近辺を紹介します。

 鶴川は町田市の東北部、小田急で新宿から町田のちょっと手前、急行は止まらない鶴川駅が最寄りとなります。鶴川団地を中心に、東京などへのベッドタウンになっています。

 
 原広司邸は、鶴川駅から小田急の線路に沿って町田方向に300mほど行ったところ線路際に建っています。30年ほど前に牛田&フィンドレイの設計で建てられトラスウォールハウスと呼ばれています。外壁は現在ではかなり汚れていますが、真っ白で、平面と開口部が無くぐにゃぐにゃした感じです。航空写真で見ると、開口部は上部と外壁に囲まれた中庭のような部分のようで、まさしく実験的なデザインのようです。

 
 
 駅を挟んで実験住宅とは反対側には、茅葺の古民家の可喜庵があります。旧街道沿いに唯一残った古民家で、ギャラリーやミニコンサート会場として利用されているようです。隣にはツタのお生い茂った工務店の建物が建っていて、対照的な風景を作っています。道路を隔てた北側には階段の上ったところに妙行寺があります。ここから、先ほどの対照的な建物の屋根が連なって見えます。

 
 
 ここから北に行くと龍が谷神社が小高い丘の上に建っていて、その途中にもちょっと趣のある民家があったりします。神社を超えて、調整池の横をさらに北に行くと、鶴川第二小学校に突き当り、その左隣には石川邸という農家の古民家があります。藁ぶき屋根の中央部分だけがトタン張りになっていてちょっと、異様な感じに見えますが、内部は明治期に建てられた農家の様子が残されています。

 
 西に坂を下って鶴川街道を渡った先の小高い丘の途中に能が谷きつねくぼ緑地があります。マンションの新築途中に違法が発覚し工事が中断、裁判が結審するまで、証拠物件として存在した場所です。工事の途中の建物は、壁のないこんくりーとの廃墟としてお化けマンションとして、映画のロケなどに使われたそうです。現在は、廃墟は取り壊され、雑木林が茂る、市の公園となっています。

 
 この緑地公園の左側に、白洲次郎夫妻が暮らした武相荘が建っています。太平洋戦争末期に戦況の悪化に伴い新宿からこの鶴川の農家に疎開し、戦後もなくなるまで暮らした家です。雑木林の中に建つそっけない古民家で、内部には白洲夫妻の関連資料が展示されています。また、前庭には次郎が乗り回したというクラシックカーのベントレーが展示され、別棟にはレストランもあり、白洲ファンの方々でしょうか、かなり繁盛しているようです。

 原広司邸は上部にのみ開口部があるようですが、周りに土地の余裕がある郊外より都心の密集地に有利な建物かもしれません。周りの目を気にすることなく、開放的な窓などを作れるわけですから。できれば、平面を円形にして、太陽とともに回転できると、もっといいかもしれません。ただ、TVなどの指向性のあるアンテナ類は、天体望遠鏡の赤道儀のように動きを打ち消す仕組みが必要かも。TVアンテナの話でちょっと役に立つ話です。都会で、方角を見失った時には、衛星のバラボラアンテナを探せば、おおよその方角がわかります。地上波のアンテナは、送信所の方角が地域でバラバラですが、衛星の方角は日本中で南南西だからです。