世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

自前で鉄道を引いてしまった加悦には、ちりめんや鉄道の産業遺産がいっぱいです

2012-10-28 08:00:00 | 日本の町並み
 東海道五十三次の宿場町のなかで、宿場町間の距離がもっとも短い区間が赤坂宿と御油宿の間でした。明治期になって、この二つの宿場町では、鉄道が引かれると宿泊客が減るとの理由で鉄道を忌避したと言われています。逆に、国鉄の路線が町を通らないために、町の有志が資金を出し合って鉄道を引いてしまったのが加悦鉄道です。今回は、町の特産である丹後ちりめんを運ぶために私鉄を引いてしまった加悦を紹介します。

 加悦は京都府の北のはずれ、丹後半島の付け根の東側を内陸に入ったところに位置します。2006年に海よりの岩滝町、野田川町と合併して現在は与謝野町の一部となっています。与謝野と聞けば、与謝野鉄幹や与謝蕪村を思い出しますが、鉄幹の父親が与謝野町の出身であったため与謝野姓を名乗ったとのこと。また、俳人の与謝蕪村は、蕪村の母親の出身地であったことからとの説もあるようです。

 
 ところで、加悦鉄道は、1985年に廃止されてしまいましたが、1926年の開業から60年間、加悦と国鉄の丹後山田駅(現在の北近畿タンゴ鉄道の野田川駅)を結んで走っていました。かつての、加悦駅は向きを180度変えて保存され、駅構内はSL広場として加悦鉄道で活躍した列車群が展示されていました。SL広場は、その後、加悦駅の南にある貨物駅の大江山駅跡に引っ越しています。現在のSL広場は、旧加悦駅を模したエントランスを入った構内に、重要文化財となっている加悦鉄道2号蒸気機関車やディーゼルカー、ラッセル車など鉄道ファンなら一日いても飽きないほどの展示車両が一部は動態保存されています。

 
 
 
 ちりめん産業で栄えた町並みは、旧加悦駅舎の西側に「ちりめん街道」として南北にのびています。旧加悦町役場の建物が観光案内所して街道の北の入り口で、ここから南に600mほどが町並みの中心です。全国に98箇所ある重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定されています。土蔵造りや細かな格子の入った家並みが続いていますが、その中の旧尾藤家住宅が公開されて内部を見学できます。尾藤家は代々続いたちりめん問屋で、農家の建物を移築して、商家に改築した建物が基本で、中庭に面しては洋館も建てられています。2階への階段の途中には、しゃれたステンドグラスもはめ込まれています。

 
 洋館といえば、ちりめん街道の南の端近くにある旧伊藤医院診療所は、下見板張りの洋館で、格子に白壁の続く町並みの風景の中では異彩を放っています。大正期に建てられた建物で、加悦町で初の西洋流のお医者さまだったそうです。道路とは直角の面にあって、道路には面していあに入り口の上部には、漆喰で作られたレリーフが見事です。神戸でも修行をした地元出身の左官職人の腕によるものだそうです。

 丹後ちりめん歴史館で展示されている(記憶があいまいで、他の場所かもしれません)ちりめんの織機は、縦糸や横糸を制御するためにパンチカードのシステムが使われていました。パンチカードの穴の位置で模様の形を決めているようです。このパンチカードを見ていると、まずは自動オルガンを思い出し、次には巨大コンピュータ会社を思い出しました。コンピュータの前身は、パンチカードで入力された数値を、機械式に集計するもので、現在の電子式のコンピュータとはずいぶんと様子が違っていました。自動機械に決められた手順を指示したり数字を読み取らせるには、パンチカードが手軽だったということのようです。

スファックの城壁は、その内外で景色ががらりと変化して落差に驚かされます(チュニジア)

2012-10-21 08:00:00 | 世界の町並み
 焼失してしまったソウルの南大門に似た巨大な城門の豊南門が残るのが韓国南西部の全州でした。韓国や日本、中国の城門は石垣の上に楼閣が乗っているものが多いのですが、ヨーロッパなど城門は石の城壁に穴を開けただけというものが多いように思います。木造の楼閣より、火災に遭いにくく、より実戦的なつくりなのでしょうか。今回は、ヨーロッパを思わせる町並みの中に旧市街を囲む城壁と城門が残るチュニジア第2の都市スファックスを紹介します。

 スファックスは、チュニジアの中央部、弓なりになったガベス湾の北辺に面した人口35万人ほどの都市です。首都のチュニスから南に270kmほど離れていて、1日に2本の列車で約3時間半ほどの距離です。この列車は、もちろん非電化単線で、砂漠の端のような場所をひた走ります。車窓からは、オリーブの群生が見られるのですが、周りには人の気配がまったく無く、どのようにして収穫してるんだろうと思います。途中、町らしい所はスースくらいで、どちらの駅の近くも砂漠のような風景から突然家並みが現れて駅になります。エジプトのカイロからアスワンに向かう列車でも同じような車窓の風景でした。砂漠の中に、忽然と町が現れる様子は、アメリカのラスベガスにも似ているでしょうか。

 
 
 さて、スファックスの城壁ですが、駅の西側に東側を鉄道に接するような形で東西500m、南北400m程度の旧市街のメディナを取り囲んでいます。このメデイナは、映画の「イングリッシュ・ペイシャント」のロケに使われ、カイロの市場という設定だったそうです。

 
 筆者は南西隅の城門からメディナを覗きましたが、かなり迷路状態のようです。時間があまり無かったので、覗くだけになってしまいましたが、城壁を隔てた景色の落差は面白いものでした。城門の外には近代的なビルが並び、城門内は城壁ができた9世紀とあまり変わっていないような家々と石畳が続きます。夜には、城壁がライトアップされて、なかなかきれいですが、手前の明るい町並みに比べて、城壁の向こうは真っ暗で対照的でした。

 スファックスはチュニスからジェルバ島への移動の中継点として宿泊した町で、観光施設はメディナくらいしかなさそうでした。あまり英語は通じなくって、少し不便ですが、日常のチュニジアの姿が垣間見られる町なのかもしれません。通りには観光馬車が走っていたり、城壁以外にも市役所もライトアップされていて、1泊しても飽きさせないだけの魅力がありそうです。

 メディナを囲む城壁は、高くて厚くて頑丈そうで、城門も小さくしか作られていません。それだけ、外敵が多くて、防備をしなければならなかったのかもしれません。世界遺産にも登録された、中国の平遥でも巨大な城壁が町を囲んでいます。物理的な攻撃に対しては、このような城壁が有効だったのでしょうが、世界中に張られたインターネット経由の攻撃を防ぐのは大変そうです。城壁に類するファイアウォールも不完全で、防御されているはずの官公庁のホ^ムページの改ざんは日常茶飯事です。物理的な攻撃は、時間が掛かりますが、サイバー攻撃は瞬時にダメージを受けてしまいます。インターネットは、大学や研究機関を結ぶネットとして性善説でできたネットですが、仕組みをそのままで一般の商用に開放してしまった弊害でしょうか。

江戸時代から続く旅籠の近くには下見板張りの洋館もある赤坂宿から御油宿です

2012-10-14 08:00:00 | 日本の町並み
 皇女和宮も宿泊したという宿場町が中仙道の赤坂宿でしたが、東海道にも赤坂宿が存在しました。今回は、東海道の赤坂宿とお隣の御油にかけての町並みを紹介します。

 東海道の赤坂宿は、愛知県の東南にあり、一つ東京寄りの御油宿とは2kmほどしか離れていません。御油宿は稲荷神社で有名な豊川市の西端に位置していますが、赤坂宿は隣町の音羽町に属しています。共に名鉄本線の駅がありますが、各駅停車しか止まらない無人駅です。他県などからの最寄駅は豊橋ですが、豊橋からの電車には各駅停車が無く、国府駅で豊川から来る各駅停車に乗り換えなければなりません。JRの路線は、旧東海道から外れた蒲郡を通る海沿いを走っています。鉄道が通ると宿場に泊まる人がいなくなって寂れる、といった鉄道忌避伝説が原因、との話もありますが、実際は他の理由があったようです。

 
 どちらの町並みも、格子をはめた平入りの家並みが続き、両宿場間には杉並木が保存されています。

 
 
 ただ、かつての本陣や高札場などの跡は、ほとんど立て札の世界で、何も残されていません。町中に、やたらとxx跡の立て札が目立ちます。その立て札の中に、「ベルツ花婦人ゆかりの地」というものがあります。ベルツ水で有名なベルツは明治期に、お雇い外人の一人で東大医学部の教授としてドイツから招聘され、30年近く日本に滞在しました。その間に、御油宿の戸田屋のハナコと結婚し、立て札は戸田屋の跡地に建てられています。

 
 立て札ばかりの家並みの中に、江戸中期に建てられた旅籠が現役の和風旅館として残されているのは驚きです。「大橋屋」と大書された障子と提灯がぶら下がるさまは、そこだけが江戸時代のようです。ところが、近くには下見板張りミントグリーンに塗られた洋館の建物も残されていて、いろんな時代が缶詰になっているようです。

 
 さらに、立て札ではなく樹木が立派な神社やお寺もあります。広重の五十三次に描かれたソテツが残る浄泉寺や、幹の周りが8mを越える大きなクスノキのある関川神社です。関川神社には「夏農月御油よ李いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」という芭蕉の句碑もあります。

 無人駅の名電赤坂には、ホームの入り口付近に券売機があって、その先に自動改札が設置されていました。自動改札は、大人に連れられた子供や大きな荷物などの識別など、実用化にはいろいろと苦労があったそうです。しかしながら、人っ子一人いない無人駅の名電赤坂では、自動改札を通らなくともホームに入れそうですし、自動改札そのものも不法通過できそうです。ヨーロッパなどでは、改札の無いのが普通で、乗客はちゃんと乗車券を買って電車の中で刻印をしています。時たま、一斉検札で無札乗車が見つかり違反金を取られていますが、ただ乗りはしないもの、との意識が定着しているようです。自動改札の実用化で、個体認識の技術は発達したのでしょうが、乗客の意識改革をしたほうが得策ではなかったかとも思います。

行く手に立ちふさがる巨大な壁の向こう側はオランジュのローマ劇場です(フランス)

2012-10-07 08:00:00 | 世界遺産
 川の中州全体に数多くの博物館が密集している場所がベルリンの博物館島でした。この博物館島も第2次大戦では連合軍の攻撃を受けて、多くの博物館、美術館も被害を受けました。特に新美術館は外壁しか残らなかったそうです。一方、ローマの遺跡の中で円形劇場はあちこちに残されていますが、外壁がほぼ完全な形で残るのがオランジュの円形劇場です。今回は、南仏プロバンスのオランジュの町を紹介します。

 オランジュは、プロバンスへの拠点になるアヴィニョンの少し北、人口3万足らずのこじんまりとした町です。アヴィニョンから普通列車で20分ほどですが、パリからのTGVは高速新線を経由するので町の西を通り抜けてしまいます。世界遺産のある町として有名ですが、駅からちょっと外れると緑豊かな田舎町です。現在は、このようなひなびた町ですが、12世紀には神聖ローマ帝国の、16世紀から17世紀まではネーデルランド連邦共和国の中の公国でした。オランジュは、フランス語でオランダということで、オランダ王国の皇太子は現在もオラニエ(オランダ語のオランジュに相当)公と呼ばれるそうです。

 
 
 さて世界遺産のローマ劇場と凱旋門ですが、ともにローマ帝国に支配されていた紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけての遺構です。まずは、ローマ劇場ですが、駅から1本道を西へ15分ほど、表通りから南に折れると巨大な石の壁が目的のローマ劇場です。地中海沿岸に残されてるローマ劇場の中で、もっとも保存状態の良いものとされ、舞台後方の壁が完全に残っています。壁の中央のくぼみには、1951年に発見されたアウグストゥスの像もはめ込まれています。かなりの高さのある観客席最上段まで上ると、劇場内だけではなく、オランジュの緑豊かな風景の広がりを見ることができます。ただ、このような遺跡が現役の劇場などとして使われるせいか、石の階段席の上に、パイプ椅子のような設備をかぶせているのが無粋です。劇場の西側には遺跡も残されていて、遺跡を借景としたレストランもあるようです。

 
 一方、凱旋門の方は、ローマ劇場から北に曲がってさらに15分ほど歩いて周りの家並みがまばらになった所にあります。自動車道路の延長線上にあって、車は凱旋門の左右を巻いて通っています。できてから2000年以上が経っている門ですが、ガリア人とローマ人の戦闘の模様などを描いた北側のレリーフは、凹凸も深く、角も丸くならず、真新しい印象を残しています。

 
 世界遺産は、この2つしか登録されていませんが、ローマ劇場から凱旋門に行く途中には、伝統的な建物を流用した市役所や、オランジュ・カテドラルなどがあります。カテドラルは、外見は地味な感じですが、ロマネスク様式だと思いますが中はかなり広くて綺麗です。一方の、市庁舎は広場に面した時計台のアル建物で、3万人の人口の役所とは思えない立派さです。以前にも書いたかもしれませんが、日本の役所って味も素っ気も無いコンクリートの巨大な建物ばかりでがっかりします。箱物をたくさん作らないと役人にとっておいしくないのかなとも思ってしまいます。

 オランジュのローマ劇場を使った音楽祭は、真夏にオペラとオーケストラを2プログラムずつ2ステージの8夜だけ催行されるようです。このように屋根の無いオ^プンスペースは、ほとんど残響の無い環境でしょうyから、オーケストラがどんな響きをするのでしょうか。最近のホールでは、模型を使ったりコンピュータを駆使して、目的とする残響時間になるように設計がなされているようです。ただ、目的外と思われる用途で使われ、オーケストラの鳴りが悪く不評で有名な公共放送のホールもあります。マイクで拾った音に遅延を与えるなどして、人工的に残響を作ったり、マイクで拾った雑音と逆位相の音を出して雑音を打ち消したり、自由に音場を作れるようになってきています。けれど、世界的に音が良いと定評のある、劇場はコンピュータの無かった頃に建てられたものが多いのは皮肉でしょうか。