東海道五十三次の宿場町のなかで、宿場町間の距離がもっとも短い区間が赤坂宿と御油宿の間でした。明治期になって、この二つの宿場町では、鉄道が引かれると宿泊客が減るとの理由で鉄道を忌避したと言われています。逆に、国鉄の路線が町を通らないために、町の有志が資金を出し合って鉄道を引いてしまったのが加悦鉄道です。今回は、町の特産である丹後ちりめんを運ぶために私鉄を引いてしまった加悦を紹介します。
加悦は京都府の北のはずれ、丹後半島の付け根の東側を内陸に入ったところに位置します。2006年に海よりの岩滝町、野田川町と合併して現在は与謝野町の一部となっています。与謝野と聞けば、与謝野鉄幹や与謝蕪村を思い出しますが、鉄幹の父親が与謝野町の出身であったため与謝野姓を名乗ったとのこと。また、俳人の与謝蕪村は、蕪村の母親の出身地であったことからとの説もあるようです。
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ところで、加悦鉄道は、1985年に廃止されてしまいましたが、1926年の開業から60年間、加悦と国鉄の丹後山田駅(現在の北近畿タンゴ鉄道の野田川駅)を結んで走っていました。かつての、加悦駅は向きを180度変えて保存され、駅構内はSL広場として加悦鉄道で活躍した列車群が展示されていました。SL広場は、その後、加悦駅の南にある貨物駅の大江山駅跡に引っ越しています。現在のSL広場は、旧加悦駅を模したエントランスを入った構内に、重要文化財となっている加悦鉄道2号蒸気機関車やディーゼルカー、ラッセル車など鉄道ファンなら一日いても飽きないほどの展示車両が一部は動態保存されています。
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ちりめん産業で栄えた町並みは、旧加悦駅舎の西側に「ちりめん街道」として南北にのびています。旧加悦町役場の建物が観光案内所して街道の北の入り口で、ここから南に600mほどが町並みの中心です。全国に98箇所ある重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定されています。土蔵造りや細かな格子の入った家並みが続いていますが、その中の旧尾藤家住宅が公開されて内部を見学できます。尾藤家は代々続いたちりめん問屋で、農家の建物を移築して、商家に改築した建物が基本で、中庭に面しては洋館も建てられています。2階への階段の途中には、しゃれたステンドグラスもはめ込まれています。
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洋館といえば、ちりめん街道の南の端近くにある旧伊藤医院診療所は、下見板張りの洋館で、格子に白壁の続く町並みの風景の中では異彩を放っています。大正期に建てられた建物で、加悦町で初の西洋流のお医者さまだったそうです。道路とは直角の面にあって、道路には面していあに入り口の上部には、漆喰で作られたレリーフが見事です。神戸でも修行をした地元出身の左官職人の腕によるものだそうです。
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丹後ちりめん歴史館で展示されている(記憶があいまいで、他の場所かもしれません)ちりめんの織機は、縦糸や横糸を制御するためにパンチカードのシステムが使われていました。パンチカードの穴の位置で模様の形を決めているようです。このパンチカードを見ていると、まずは自動オルガンを思い出し、次には巨大コンピュータ会社を思い出しました。コンピュータの前身は、パンチカードで入力された数値を、機械式に集計するもので、現在の電子式のコンピュータとはずいぶんと様子が違っていました。自動機械に決められた手順を指示したり数字を読み取らせるには、パンチカードが手軽だったということのようです。
加悦は京都府の北のはずれ、丹後半島の付け根の東側を内陸に入ったところに位置します。2006年に海よりの岩滝町、野田川町と合併して現在は与謝野町の一部となっています。与謝野と聞けば、与謝野鉄幹や与謝蕪村を思い出しますが、鉄幹の父親が与謝野町の出身であったため与謝野姓を名乗ったとのこと。また、俳人の与謝蕪村は、蕪村の母親の出身地であったことからとの説もあるようです。
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ちりめん産業で栄えた町並みは、旧加悦駅舎の西側に「ちりめん街道」として南北にのびています。旧加悦町役場の建物が観光案内所して街道の北の入り口で、ここから南に600mほどが町並みの中心です。全国に98箇所ある重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定されています。土蔵造りや細かな格子の入った家並みが続いていますが、その中の旧尾藤家住宅が公開されて内部を見学できます。尾藤家は代々続いたちりめん問屋で、農家の建物を移築して、商家に改築した建物が基本で、中庭に面しては洋館も建てられています。2階への階段の途中には、しゃれたステンドグラスもはめ込まれています。
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洋館といえば、ちりめん街道の南の端近くにある旧伊藤医院診療所は、下見板張りの洋館で、格子に白壁の続く町並みの風景の中では異彩を放っています。大正期に建てられた建物で、加悦町で初の西洋流のお医者さまだったそうです。道路とは直角の面にあって、道路には面していあに入り口の上部には、漆喰で作られたレリーフが見事です。神戸でも修行をした地元出身の左官職人の腕によるものだそうです。
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丹後ちりめん歴史館で展示されている(記憶があいまいで、他の場所かもしれません)ちりめんの織機は、縦糸や横糸を制御するためにパンチカードのシステムが使われていました。パンチカードの穴の位置で模様の形を決めているようです。このパンチカードを見ていると、まずは自動オルガンを思い出し、次には巨大コンピュータ会社を思い出しました。コンピュータの前身は、パンチカードで入力された数値を、機械式に集計するもので、現在の電子式のコンピュータとはずいぶんと様子が違っていました。自動機械に決められた手順を指示したり数字を読み取らせるには、パンチカードが手軽だったということのようです。