世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

韓国のお寺は日本のお寺とは雰囲気が違いますが、悲しい伝説の石塔が存在感のある仏国寺です(韓国)

2020-06-28 08:00:00 | 世界遺産
 東方三博士の聖遺物を収めるために600年もの長い時間をかけて高い塔を持つ聖堂を立てたのがケルンの大聖堂でした。一方、仏教の塔は、釈迦の遺骨を納めるためのストゥーパが起源で、アショーカ王が建てたものは半球形の物でした。中国に伝わると音訳で卒塔婆の字が充てられ、木造で背の高いものになりました。わが国には卒塔婆が省略されて塔婆になりさらに1字のみの塔という字が充てられ、木造の多層の塔が数多く建てられました。ところが、お隣の韓国では、木造の五重塔は中央部の法住寺の一基のみで、他の仏塔は石塔です。この石塔に悲しい伝説のあるのが世界遺産の仏国寺です。

 悲しい伝説というのは、多卯木のようなものです。新羅にある、この石塔を作る百済の石工の帰りを待ちわびた妻が、仏国寺を訪ねて僧侶たちに、彼女の夫に会いたいと願います。しかし、その願いは許されず、石塔が完成すると影池に影が映るのでそれまで待つように言われます。彼女は毎日影池を眺めて完成を待ちますが、ある月夜に影池に石塔の影が映り喜んで影に抱き着こうとして影池に落ちて水死してしまいました。翌朝になって、石塔が完成して、夫は妻の待つ影池に来てみて妻の遺骸を発見し、夫も身を投げてしまうというものです。境内には国宝指定の釈迦塔と多宝塔の2基の石塔が何事もなかったかのように建っています。

 仏国寺は、韓国の南東部にある慶州市に8世紀に創建され、仏像などにも多くの国宝を持つ仏教寺院です。慶州市は、かつて新羅の首都が置かれた歴史の長い都市で、中心部は慶州歴史地区として別途世界遺産に登録されていて、市内に2件の世界遺産を持つ都市の一つです。仏国寺は市街地の南東10kmほどの山麓に建ち、緑豊かな場所に建っています。後方の山には、仏国寺と包括登録の世界遺産である石窟庵があります。

 
 
 
 
 
 市内からの路線バスを降りて正門を抜けると石場氏の向こうに天王門があり、巨大な仁王像が立っています。彩色が残って、日本の仁王像とはずいぶんと雰囲気が違います。そのまま進むと正面に紫霞門で、その前には国宝指定の青雲橋と白雲橋の2つの石橋がかかっています。紫霞門は観光写真などでよく見かけるきれいな建物です。内部に入ると、回廊に囲まれた中央に国宝の大雄殿があって、その前に2基の石塔が並んでいます。大雄殿は日光の東照宮にも似た現職の装飾があって、それなりにきらびやかで、回廊にぶら下がる魚板もカラフルでした。

 
 
 
 
 裏手には毘盧殿と観音殿が並んでいます。毘盧殿の近くには舎利塔があり、レリーフ状に彫り込まれた佛がなかなかチャーミングです。

 
 
 石窟庵は仏国寺から路線バスで15分くらい山道を上ったところ慶州市内が遠望できるところにあります。石窟庵は8世紀に造られ、その後の仏教が弾圧されたため長らく忘れ去られていたものが20世紀初頭に偶然に発見されたものです。統治時代の日本やその後の韓国によって保存工事が行われ、美しい石仏が見られるようになりました。しかし、韓国が行った保存工事が不手際で、石仏はガラスの遮蔽の向こうに居て、拝観しにくい上に、保存性もよくないと批判されているようです。石仏は撮影できませんのでウィキペディアから写真をお借りしました。

 ヨーロッパや韓国は石の塔や石像がおおい石の文化で、わが国は木の建物や木の仏像が多い木の文化です。わが国で最初に世界遺産登録となった法隆寺の調査に来たICOMOSの委員たちの応対をした国内委員の方々はずいぶんと苦労したそうです。彼らは自国の石の文化が世界最高という偏狭な傾向があって、木の文化が理解できなかったようです。石は無生物なので、何年も不変で存在するけれど、木は生物由来で朽ちてしまうので、劣等な材料といった論理のようです。なんでも、自国の文化で抑え込んでしまう西欧流の文化でしょうか、そういえばコンピュータの世界も英語圏に都合のいいように作られていますね。

おはなはんの大洲や内子座で有名な町に比べて知名度はやや下がるかもしれませんが、重伝建地区の卯之町は古い町並みが冷凍保存されてます

2020-06-21 08:00:00 | 日本の町並み
 予讃線の松山と宇和島の間の街並みの大洲と内子とを紹介してきましたが、今回はもう一か所を追加して卯之町を紹介します。

 卯之町は、かつては宇和町の中心地でしたが、町村合併によって現在は西予市に属しています。予讃線の伊予大洲と宇和島の中間よりかなり宇和島寄りに位置しますが、直線距離ではほぼ中間になります。八幡浜を経由する予讃線が三角形の二辺を回るように遠回りをしているためで、この区間は大洲と宇和町とを直線で結ぶ高速道路を走るバスの方が早くて便利です。実はこの高速道路は江戸時代の宇和島街道の名残で、卯之町は街道の宿場町として栄えました。幕末には八幡浜出身の蘭学医の二宮敬作が町者として開業をし、シーボルトの娘のイネを引き取って医学を教えて産科医に育てた町としても有名で、先哲記念館にその状況が紹介されています。

 
 
 歴史のある卯之町ですが、国道などは町の中心地から離れた南側に造られ、中町などかつての町の中心地区は時代から取り残されてしまったようです。時間が止まったようにな町並みで出会う人も多くありません。町の全体を眺めるには、先日殿先哲記念館の北東の裏山の上にある愛媛県歴史文化博物館まで登るとよくわかります。博物館は愛媛県の歴史文化についての展示がされていて、建物も一軒の価値があり、特にエントランスから眺める吹き抜けの空間は圧巻です。ただ、愛媛県全体をカバーする博物館が松山ではなく卯之町にあるのかはわかりませんでした。

 
 
 
 
 
 
 さて重伝建地区の町並みですが、古民家が集中するのは先哲記念館から西北西に延びる中町で、300mほどの通りは、出格子や白壁の民家がびっしりと並んでいます。この中に、江戸時代に創業という旅館があり、数多くの有名人が宿泊したようで、建物もお庭も重みがありましたが、2度目の訪問の時には休業していました。旅館に加えて通りの中央あたりには民具館があり、赤いポストと出格子が美しい建物です。

 
 
 
 民具館の横の右手に入って坂を上ると突き当りが光教寺でその手前の左手には、明治に町民の寄付によって建てられたという小学校の開明学校の校舎が建っています。松本にある開智学校に比べると、かなり小ぶりですが重文指定になっています。学校と言えば、中町を通り過ぎて右手に山すそを北に入ると旧宇和町小学校の校舎を利用した宇和米博物館があります。米に関する展示が行われていますが、元となった木造の校舎は長さがなんと109mもあります。廊下の端に立つと、もう片方は霞んでいるように感じます。この長い廊下を利用して、毎年開かれるのが雑巾がけレースがあり、四つん這いで109mを駆けぬけるのはかなりハードでしょう。

 
 
 先哲記念館を南に行くと鳥居門という立派な長屋門が残っています。江戸末期に庄屋の鳥居半兵衛兼利という人が藩の許可を得ずに建て、身分不相応との理由で左遷された問いわくつきの門だそうです。この門を通り越して中町の通りの南側の通りを行くと、古民家はまばらになりますが、その中に高野長英の隠れ家という建物が残っています。蛮社の獄で投獄後に逃亡した長英が潜伏した場所で、かくまったのはイネに医学を教えた敬作です。

 シーボルトは、実際にはドイツのヴュルツブルグの出身でドイツ人でしたが、オランダ人と偽って長崎から日本に入国したことは有名です。江戸時代にはパスポートは当然無いので、本人の言うことを信じるしかなかったのかもしれません。顔かたちで、ヨーロッパ人の出身国を識別するのは無理だったでしょうから、オランダ語を話す人がオランダ人だったのでしょう。パスポートと言えば、久しぶりにイミュグレーションを通ったら、顔認証なんで、中国でもそうでした。最近話題になったのが、新型コロナのためにマスクをしていて認証が可能かということでしたが、問題なく本人と確認できるようです。

中国の中で最も多くの国の租界があった天津は上海よりもさらに西欧の香りが残っているように感じます(中国)

2020-06-14 08:00:00 | 世界の町並み
 北アフリカにありながらヨーロッパの香りがする都市がチュニジアの首都のチュニスでした。これは、元の宗主国のフランスの影響のようで、街中でも英語よりフランス語の方が伝わるようです。アフリカに限らず、アジア諸国には植民地や租界の宗主国の影響を受けてアジアの街並みとは思えない場所が多いものです。今回は、19世紀の末に中国の中で最も多い9か国の租界が存在した天津の中心部を紹介します。



 
 天津は北京の東南100kmほど、海河が渤海湾にそそぐ湾の一番奥の港町です。海河は天津市内で5つの川が合流したもので、全長は73kmほど天津市内を北西から南東に流れています。天津駅近くの船着場からは、観光クルーズ船が出ていて、筆者は夜に乗りましたが、きれいな夜景を楽しむことができました。中央駅の天津駅から北京南駅までは、300km/hで疾走する高速列車で30分で到着します。筆者が訪問した時はE2系をベースとしたライセンス生産の和敬号が走っていましたが、その後は中国の独自技術と称する日本やドイツの技術のコピー列車が走っているようです。

 天津租界は、1860年の北京条約締結に基づくもので、9か国が覇権を競っただけでなく、中国官憲の権力が及ばないことから、旧清朝の王族なども集まり独特の租界文化を型作りました。戦後の新中国の政権は上海などを重要視し、天津は取り残された形で、その結果旧租界の建物などの景観が冷凍保存されたようです。旧租界地区は、天津駅を頂点にして南に広がり、フランスやイギリス租界の跡は、まるでヨーロッパの街並みを歩いているような景色が広がっています。

 
 
 筆者が訪れた、旧居留地の駅周辺、解放北路、五大道と中国人の暮らしていた天津城の周辺を紹介してゆきます。海河のクルーズ船の乗り場近くの広場には世紀鐘と呼ばれる巨大な時計が置かれていて、夜にも昼にも存在感があります。この広場から海河を渡るのが解放橋で、もとは跳ね橋だったそうですが、現在の橋からはその形跡は見られません。このあたりの川沿いは、古い建物や近代的な高層建築などが入り混じって、面白い景色が広がっています。

 
 
 
 
 解放橋を渡って、川沿いに下流、東に行くと解放北路に至りますが、この道筋は旧居留地の古い建物のラッシュです。建てられてから150年ほどはたっていようかと思いますが、まだまだ軍港の建物など現役で使われているようです。その中でも天津利順徳飯店(アスターホテル)は、孫文や袁世凱も止まった由緒あるホテルで、建物を追加新築していますが、旧館も現役の五つ星ホテルです。

 
 
 
 
 
 解放北路の南西にあるのが五大道で、中国南西部の都市名を付けた通りが5本あることに由来した地名です。こちらは、ビルに交じって高級住宅街の景色が広がり、公園には子供の群像のブロンズも置かれています。町並みを一周する観光用の乗合馬車も走っていて、有名人の邸宅の説明もあったんだと思いますが、周りの景色を楽しむのみでした。

 
 
 天津城地区は、租界地区の西北にあって、こちらは町の景色がヨーロッパから中国に一変します。中央にあるのが鼓楼で、上に上ると周辺の町の様子がよくわかります。通りの先には、横浜や神戸で見かける城門のようなものも見えます。ただ、鼓楼というと楼閣の上には太鼓があるはずなんですが、大きな鐘があって、これだと鐘楼ではないのかなって感じです。天津城地区から駅に戻るため東に行くと古文化街があり、こちらも中国の香りの町並みです。古文化街の中央あたりには天后宮があり、祭神は中国の沿海部で祭られている媽祖(まそ)で海の安全を祈るものです。このあたりの街並みはアモイやマカオの古民家街で見られる景色に似ているようです。

 
 
 天津というと天津飯を思い浮かべる方も多いと思いますが、この料理は日本が発祥で、中華料理にはご飯に蟹玉を乗せたものは無かったそうです。中華料理と日本の丼文化とを融合させた傑作かもしれません。天津に行っても天津飯は日系のスナックなどで出されるくらいでしたが、元来の中華料理店にも類似の料理が広まりつつあるのだそうです。和製英語でも、便利な使い方から、本来の英語圏でも使わあれるようになったものがあるようです。ナイターやケースバイケースがその例で、本来はIt depends onやNightgameですが和製英語の方が使い易い面があるとのこと。Laptop computerのノートパソコンやOutletのコンセントなどは、日本のIT輸出がいくら盛んになっても本来の英語にはなりそうにありませんが。

木蝋で栄えた内子の重伝建地区の古民家群は圧倒されるボリュームです

2020-06-07 08:00:00 | 日本の町並み
 おはなはん通りを中心に小さな流れに沿った古い町並みが残るのが大洲でした。この大洲は、予讃線の海線と山線が再合流する地点でもありました。山線の方は、内子までで行き止まりの内子線という盲腸線でしたが、予讃線をショートカットする線として大洲まで延伸され、現在では特急列車は山線経由で運転されています。今回は、かつての行き止まり駅であった内子駅の周辺を紹介します。

 内子は松山から予讃線の山線で1時間足らず、特急だともっと短時間で着いてしまうでしょう。前回紹介をした伊予大洲からは15分、人口1.5万人ほどの町です。ハゼを原料とする木蝋の生産で栄え、駅の北北東の八日市護国地区は重伝建に指定されています。重伝建地区の中心をなす芳我家などの豪商の家々は重文に指定されているものもあって、見どころいっぱいです。

 
 
 駅を出て東へ2ブロック行って本町通へ左折して北東方向に進むと橋があり、桜の季節には土手に植えられた桜並木がきれいです。さらに進んで左に入ると内子座で、大正年間に歌舞伎や文楽を上演する劇場として建てられたもので、現在も現役の芝居小屋として使われています。重要文化財の建物は、内部の見学が可能で、桟敷席の様子だけでなく、舞台の下に入って、回り舞台やスッポンと呼ばれるせり上がりの構造を見ることができます。

 
 
 
 
 本町通に戻ってさらに進むと、商いと暮らし博物館のあたりから古民家の数が増えてきます。白漆喰に丸窓が切られたホテルこころくらを通り過ぎると漆喰にスリット状の窓のある下芳我邸などなどが続きます。重伝建地区には、その先の伊予銀行の所を左に曲がりますが、そのまままっすぐ行って右手に入ると高橋邸です。アサヒビールの元会長の生家が町に寄贈され文化交流ヴィラとして公開されています。

 
 
 
 
 
 
 伊予銀の横路に戻り、左折して重伝建地区に向かいます。少し行って右手の通りを除くと、その先にかつての活動写真館の旭館の丸屋根の塔がある建物が見え隠れします。ここからはとにかく古民家ばかりの街並みで、よくぞこれだけ残ったと感心しますが、裏返せば再開発から取り残されてしまったのかもしれません。


 
 
 京都でもあまり見かけなくなった、バッタリ床几のあるおうちも見かけ、壁に鶴や亀の彫り物や鏝絵のある建物もあります。とにかく数が多くって、逐一の紹介はできないくらいのボリュームです。

 

 
 重伝建地区の終わり近くに重文の上芳我邸があり木蝋資料館として公開されています。裏庭なども公開されていて、なかなか見ごたえがあります。

 
 重伝建地区を通り過ぎて、少し坂を上ると高昌寺で、手前の門外には平成に造られた石造りの涅槃像が横たわっています。涅槃像の大部分は絵画で、立体像はあまり見かけません、亀岡の穴太寺で見かけましたが、穴太寺の仏像は等身大で布団がかぶせられていました。高昌寺の仏像は10mもあるので、さすがに布団は着ていませんでした。

 木蝋というと原料はハゼノキで、漆の一種です。福岡県の久留米市の郊外でその並木を見ましたが、実を収穫するときにかぶれたり高所の作業で落ちたりの危険を伴うそうです。そのために、最近は木蝋の生産量は減少の一途だそうです。木蝋は和蝋燭の原料として知られていますが、いろんな用途があるようで、力士の髪を結うときに使う鬢付け油には欠かせない原料なのだそうです。石油系のパラフィンでは、力士の激しい動きに耐えられず、髪がバラバラになってしまうそうです。そのほか、クレヨンや口紅などのほかに、トナーやインクリボン、それにCDなどIT分野の製品にも使われる意外性を持っているようです。