世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

新市街に浮かぶ島のような高台にあるシギショアラ歴史地区は時間が止まったような美しい街並みが広がっています(ルーマニア)

2018-12-16 08:00:00 | 世界遺産
 ローマとは地中海の対岸になるチュニジアに元の形に近いローマ遺跡の円形闘技場が残るのがエルジェムでした。言うまでもなく、円形闘技場は、音楽会やオペラを演じる場所ではなく、人間同士や人間と動物を戦わせて観戦する血なまぐさい場所だったわけです。血なまぐさいと言えば、その血を栄養源としていたのが吸血鬼ドラキュラで、そのモデルとなる人物が世界の町並みのブカレスト編で紹介したルーマニアのツェペシュ公です。ルーマニアには、このツェペシュ公にゆかりの場所が多いのですが、彼の誕生の地で世界遺産の町のシギショアラです。

 
 シギショアラは、ルーマニアの首都のブカレストの北北西150kmほど、列車で4~5時間の標高が400m程度の山の中の町です。新市街は2km四方ほどに広がり鉄道駅は北のはずれにあります。世界遺産の歴史地区は、新市街が広がるほぼ中央当たりに東北から南西に長い島のような高台があり、その高台にできた中世の城塞都市です。トランスシルバニア地方の中心都市ですが、歴史地区は時間が止まったような静かな町です。歴史地区の広場には生誕地ということからツェペシュ公の銅像があり、近くのレストランには、血のスープというメニュー(実際はトマトス^プ)があるそうです。

 
 
 
 歴史地区の中央当たりには3つの広場があり、この広場の周辺にレストランやホテルが集中して居ます。ドミニコ会修道院や時計塔などの観光施設もこのあたりに集中しています。ペシュ公の銅像もこの広場にあります。広場の近くでは、観光用の馬車が走っていたり、野外演劇が始まったりしましたが、この劇は特別に上演されたのか、なにかお祭り関連なのか不明でした。また、このあたりには醸造所があって、お酒も売っていて2本買ってきたのですが、飲めない筆者は、いまだに棚の飾りで、中身の状態も解りません。

 
 時計塔は、14世紀に建てられ、17世紀の火災の後にバロック様式で再建されたものです。歴史地区の高台を囲む城壁の南の端に建つため、南側の新市街からも目立つ存在です。現在、内部は歴史博物館として使われ、毎正時にはからくり人形も表れます。昼の間も目立つぞんざいですが、闇夜にライトアップされた時計塔も存在感があります。

 
 

 高台の南西部にさらに高い丘があり、その頂上には16世紀にゴシック様式で建てられた山上教会があります。この教会に上るために作られたのが屋根付き階段で、冬場に礼拝に訪れる信者のために屋根が付けられたとのことですが、階段が不ぞろいで、ちょっと歩きづらいのが難点です。山上教会からは、さすがに高台だけに新市街だけでなく歴史地区の町並みも良く見渡せます。

 
 
 歴史地区の下界の新市街にも、オルトドクス教会というルーマニア正教の綺麗な教会があります、残念ながら中には入れなかったのですが、真っ白の外観だけでも素敵です。この新市街に不思議なものを2つ発見しました。一つは、ローマを建国したというロームルスとレムスの像、よく見るオオカミの乳を飲んでいる像です。ルーマニアってローマ帝国の一部だったことあったっけ?って感じです。もう一つは、町の中を流れる川の河原に放牧された牛が居るんです。言ってみれば、多摩川や荒川の河川敷で牛を飼ってる感じです。

 シギショアラの時計塔のからくり人形は、正時に見に行きましたが、人形が現れるだけでした。ヨーロッパの時計塔のからくり人形の大部分は、人形が現れるだけで特別な動作をしないものが多いようです。一方、日本にあるからくり人形は、御茶を運んだり、字を書いたり、宙返りをしたりで複雑な動きをします。これらが作られた時代にはコンピュータは当然あるはずもなく、すべて歯車とカムを複雑に組み合わせて、動作手順を規定していました。科学博物館には、江戸時代に我が国が採用していた不定時法という複雑な時刻のシステムを、やはり歯車の組み合わせだけで作り上げた万年時計が展示されています。おそらく、現代人がコンピュータを使わないで、この時計を実現するのは不可能ではないかと思ってしまいます。

聖徳太子が通ったであろう竹ノ内街道の近くには太子が眠る廟もあります

2018-12-09 08:00:00 | 日本の町並み
 四国を代表するというより日本を代表する温泉の一つと言ってよい温泉が道後温泉でした。かの聖徳太子も入浴したという逸話が残りますが、飛鳥から道後まで往復するのは交通手段が脆弱だった時代に大変であったでしょう。おそらく、飛鳥から難波津に出て船で瀬戸内海を渡ったのではないかと思います。当時、飛鳥から難波に抜ける街道の一つが竹ノ内街道で、現在も旧街道の面影が残されており、街道の途中の太子町には聖徳太子の廟もあります。今回は、竹ノ内街道の大坂側と太子町界隈を紹介します。

 竹ノ内街道は7世紀に難波と京(飛鳥)を結ぶ官道として整備され、奈良葛城市の長尾神社から大阪府堺市まで26km余りの街道です。このうち、奈良側の当麻寺南の竹内から大坂側の古市あたりまでに古い街並みが残っています。今回紹介するのは、竹内峠を西に越えた太子町の孝徳天皇陵あたりから西北西に羽曳野市の駒が谷あたりまでの竹ノ内街道と、孝徳天皇陵から西に太子町の太子廟のある叡福寺までを取り上げます。

 
 
 
 スタートの孝徳天皇陵は旧街道から北に坂道を上がったところにある小さな円墳です。地味な陵墓は、孝徳天皇が、大化の改新で中心的役割を果たした中大兄皇子と反りが合わなく、不遇のうちに亡くなったことを象徴しているのでしょうか。陵墓の入口と反対側には古民家の旧山本家の大きな茅葺の屋根の大和づくりの母屋が旧街道より一段下がって見下ろせます。ここから西へ旧街道が国道166号と交差する六枚橋あたりまで街道が右に左に蛇行する街道沿いに板壁に白壁の土蔵造りの町並みが続いています。

 
 
 六枚橋あたりから近鉄の駒が谷あたりまでは、新しい街並みに飲み込まれてしまった感がありますが、駒が谷駅の手前の500mほどの区間には、国道166号の北を通る旧街道沿いに再び古い街並みが出現します。こちらは、駅にも近いせいか、竹ノ内街道と書かれた灯篭や竹ノ内街道の地図が描かれた看板が目立ちます。

 
 一方、六枚橋の東の太子町項番前から国道166号を外れて県道を西南西に500mほど、右折して200mほど北に行くと左手に用明天皇陵の方墳が見えます。こちらは、孝徳天皇陵より60年ほど古く陵墓の辺の長さが60mと随分と大きな陵墓です。

 
 
 
 さらに北に、六枚橋から西に延びるバス道に突き当たって、このバス道を西に300mほど行くと、道路の北に叡福寺の門が見えます。道路から石段を上がると山門で、境内は100m四方ほどで、多宝塔、金堂、聖霊殿などの建物が並びます。聖霊殿を通り過ぎて突き当りの石段を上ると聖徳太子の墓で、直径50m、高さ10mほどの円墳です。石室には太子本人と太子の母君、妃の3人の管が収められているそうです。

 今回紹介をしたあたりは「近つ飛鳥」と呼ばれる土地で、古事記に「遠つ飛鳥」と共に記述があるそうです。現在では知る人も少なくなり、明日香村あたりの遠つ飛鳥が飛鳥の地名としてポピューラーになっています。古代人が撮ったであろう竹ノ内街道も、現在では、ほとんど人と逢わない田舎道になってしまっています。都の位置が変わったり、交通の手段が変わったりという外的要因で街道に流行り廃れが生じたのでしょう。ITの分野でも、色んな要因で流行があるようで、少し前までもてはやされた「ファジー家電」は、言葉すら知らない人の方が増えたかもしれません。現在もてはやされているAIもいつまでもつことやら。

ブルース・リーの父方の故郷の順徳にある清暉園には彼の記念展示館もありました(中国)

2018-12-02 08:00:00 | 世界の町並み
 独裁者のチャウセスクが最後に演説を行ったのがルーマニアの旧共産党本部のバルコニーでした。ルーマニアの革命では民衆が独裁者の排除に立ち上がりましたが、映画の世界では正義の味方が活躍することが多いようです。その中で、カンフー映画の基礎を築き、諸悪に立ち向かったキャラクタを演じた一人がブルース・リーで、アメリカ生まれ香港育ちで、後に渡米して映画スターになったことは皆さんご存知の通りです。このブルース・リーの父方の出身地が中国広州の西方の佛山市順徳区で、清暉園という庭園にはブルース・リーの展示館があります。今回は、佛山市の順徳区や禅城区を紹介します。

 佛山市は、広東省の省都である広東市の西南に接していて、市の中心となる禅城区までは20kmほど、順徳区は禅城区の南に接しています。広州との間はバスや地下鉄が通じ、広州市と並んで一大経済圏を作っています。

 
 
 
 
 さて、ブルース・リーの展示館のある清暉園ですが、広州からのバスが到着する順徳バスセンタから市内バスで10分ほどの場所にあります。広さは2万㎡ほどなので東京ドームの半分弱とさほど広くありませんが、庭園としていろんな要素がてんこ盛りで、一巡するのに2時間もかかりました。ブルース・リーの展示館は入り口近くにあり、館の作りは周りの建物と同じようですが、看板が周りの雰囲気とは違っています。清暉園は明代の末の頃の造園で、中国十大庭園の一つなのだそうで、園内は回廊がめぐらされ、意匠の異なる数多くの建物をつないでします。中国ですから焼き物の飾りなどが数多くあるのは、納得できますが、美しいステンドグラスが多いのは驚きです。木の枠で囲まれた四角なガラス窓がステンドグラスになっている光景は、教会のステンドグラスとは違った美しさです。庭園には、中国の江南にある庭園に共通する、巨大な石が置かれていましたが、竹藪があるのが他と違って見えました。

 
 この清暉園の近くに鐘楼があり、道路のそばに、まるで歩道を分断するように建っています。、西安にある鐘楼ほど大きくはありませんが、ほどほどの大きさの建物に鐘もつるされています。ただ、この鐘楼は80年代に再建されたものでコンクリート製のようです。

 
 
 さらにその先に西山廟がありますが、ガイドブックには地図が無く、たどり着くのに苦労しました。現地の人に尋ねてもわからない人が多く、やっと筆談で地図を描いてもらいました。知らない人が多かった西山廟ですが、屋根の形や、その上に乗っている動物や人間の彫刻がなかなか面白く時間があれば行ってみてもよさそうです。

 
 
 
 
 
 順徳から佛山の中心の禅城区までは市内バスで1時間ほどかかります。禅城区を代表するお寺が祖廟で、11世紀に創建の北方玄天大帝を祀る道教寺院です。祖廟の名前は、市内に数多くある道教寺院の中で最も古くからある都の意味合いで呼ばれているのだそうです。祀られている北帝とは北地方を統括しすべての水生生物を統治するといわれています。境内は広く数多くのお堂があり、西山廟と同じように屋根の上におびただしい彫刻が乗っています。これらのお堂の中心に金ぴかの巨大な北帝の像が祀られています。不思議なのは、この北帝を取り巻く像のどれもが極端に前傾をしているのです。お辞儀のように腰の部分からの前傾ではなく、体全体が前傾しているので、すごく不安定な感じです。また、金ぴかの像に、灰色の長い髭が植えられていて、嘔吐をしているようにも見えます。

 道教は中国の三大宗教の一つで、その中でも漢民族の土着宗教として最も古くから信仰されてきたものです。土着宗教ということから、わが国の神道と似たところがあるように思います。わが国では唐から道教の受け入れを迫られたときに、わが国の天皇を中心とする神道と相いれないと断ったそうです。ただ、一部の欧米人が仏教の神髄と思っている禅宗は仏教本来の哲学とは乖離し、道教の思想の影響を受けたものと考えられており、陰陽道は道教の考えの一部が伝わって発展したものと考えられています。陰陽道は占いと呪術によって、時には国を動かすまでの影響を持ったこともありますが、要は経験則から導いた相関分析ではないでしょうか。コンピュータのインテリジェント・マイナーと呼ばれる手法は、相互に関連のなさそうな大量のデータから、相関の大きな因子を導き出してくれますが、コンピュータのはじき出した結果では、信心の対象にならないでしょうか。