世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

秋月の乱で知られた秋月城址は石段と神社と門があるばかり、町中を流れる小川が清冽でした

2009-06-21 22:25:00 | 日本の町並み
 日本の臍を標榜する渋川には、かつて伊香保温泉に行く路面で電車があり、その廃線跡はいかにも電車が走っていたという雰囲気が残っていますが、福岡県の城下町の秋月にも久大線の田主丸から鉄道が走っていました。両筑軌道という軽便鉄道で、戦前に廃止されたので、こちらの方は鉄道が走っていた雰囲気はありません。今回は、合併のために朝倉市の一部となっている黒田氏の城下町の秋月を紹介します。

 秋月のある朝倉市は、福岡県の南部、久留米の東に位置し、秋月は市の北辺にあります。西鉄の宮ノ陣駅から西鉄甘木線に乗り換えるかJR基山駅から三セクの甘木鉄道に乗り、共に甘木駅まで行き、うまくバスがあればバスで、無ければ5kmほどをタクシーで訪れることになります。

眼鏡橋と呼ばれる石橋を越えたあたりから、川を遡って郷土館あたりまで来ると城下町の雰囲気の街並みが現れます。郷土館は、黒田家の藩士の邸宅跡

と藩の学校「稽古館」の跡地を利用したもので、

訪れたときには庭の藤が咲き誇っていた記憶があります。

 秋月城址は、郷土館から杉の馬場を左に入ったところで、現在は中学の校庭になっていて、古びたい師団の上に長屋門などの遺構があるのみです。

姫路城など現存するお城もすばらしいのですが、滝廉太郎が「荒城の月」を作曲する時に心に描いたと言う岡城址を始め、石垣だけを残すような城跡も、城が無いことで一種の存在感があるように思います。城址の前の杉の馬場は桜の並木で、春の花見の時には大変な人のようですが、通りに沿って流れる清冽な小川のあるこの並木は静かに散歩するほうがむいているような気もします。

 秋月城址を通り越してさらに進むと、小高い丘の上に秋月八幡宮があります。

秋月の名称を付けられた千年の歴史のある神社のようですが、ぽつんと神社が建っていて、雨のせいもあってか訪れる人も無くひっそりとしていました。天気が良ければ、眺望が開けたのかもしれません。

 ところで、両筑軌道という軽便鉄道ですが、甘木を中心に四方に伸びていた鉄道の一つだったようです。大正元年の甘木と田主丸間の開業の1年後に秋月まで延伸され、昭和13年の全廃まで小さな蒸気機関車が走っていたそうです。筑後川にかかる橋が洪水で流されるなどで、この区間の甘木と田主丸間は先に廃止され、その後も経営は好転しなかったということです。田主丸駅と言うとカッパの形を模した駅舎で有名ですが、両筑軌道が走っていた頃はそんな形の駅舎は無かったのでしょうね。

 秋月からの帰路、眼鏡橋の近くにあるバス停に向かう途中に、手まりを売る小さなお土産屋さんを見つけました。直径10cm前後の球に刺繍糸で模様をつけたものですが、店のおばあさんが一人で作られているそうでした。綺麗でかわいい手まりで、バスの時刻が迫っていましたが、急いで購入しました。あれから8年経ちますがまだまりは売られているのでしょうか。

 眼鏡橋というのは、川に映った下半分を合わせると眼鏡の形に見えることから名づけられたものですが、秋月の眼鏡橋は一重で下を流れる川も水量が少なく鏡の役割をしません。なぜこの名称が付けられたのか、ちょっと疑問です。これらの橋は石造りですが、当然ながら構造計算というような概念の無い頃に作られたわけですが、過去の水害などにも耐えたわけです。長年の経験と感によって作られたものは、時としてコンピュータがはじき出す設計図面より、完成度が高かったのかもしれません。

日本の中心の臍石や臍地蔵以外にもお寺や町中に発見のある町が渋川です

2009-06-21 09:40:28 | 日本の町並み
 日本の標準時、東経135度の子午線の通る町が明石でしたが、日本の中心だと称する町は、日本のあちこちにあり、例えば東経135度、北緯35度が交わる西脇市には「日本のへそ公園」なるものも存在します。中心の決め方には、西脇市のように代表的な経線、緯線によるもの、人口重心とするもの、日本の東西南北の端からの中心線の交点など論理的なものから、故事来歴によるもの、さらには、なんとなく日本の中心あたりというものもあるようです。今回は、故事来歴の範疇に属しそうな日本のへそが存在する群馬県の渋川市を紹介します。

 渋川市は群馬県のほぼ中央に位置しますが、これが日本のほぼ中央と一致するのかもしれません。JRの上越線と草津方面への吾妻線の分岐点であって、交通の要所ですが、上越新幹線は渋川の西をトンネルで抜けていて、ちょっと置き去りにされた感じです。この上越線ですが、今から30年ほど前の新幹線が開通する前に、越後湯沢まで出張で乗車したときには、特急がバンバン通る代動脈だったように思いました。ところが、それから20年ほどしてから、湯檜曽の宿に宿泊しましたがすが、駅は無人、ほとんど列車が走っていない、その落差に驚きました。新幹線ができると、その駅ができないところは急激に忘れ去られるのでしょうか。ただ、上越線の場合は、最近開通した新幹線の平行区間の在来線のように3セク化されなかったのが、まだしもの救いでしょうか。

 脱線ついでですが、渋川と言えば伊香保温泉の玄関口で、合併によって伊香保も渋川市の一部になってもいます。渋川から伊香保までは、バスで25分くらいですが、1956年までは路面電車が走っていたそうです。東武伊香保軌道線といって渋川を中心に、前橋、高崎そして伊香保を結んでいたそうです。伊香保までは急な坂のためにスイッチバックのある山岳路線だった荘ですが、乗ってみたかったですね。伊香保温泉の近くには、かつて電車が走っていた道路がありますが、いかにもレールが敷かれていた感じの道でした。

 少々脱線をしてしまいました、いやいや鉄道の話で脱線は禁物ですが、本来の渋川の話に戻りましょう。臍にまつわる施設は、渋川駅の西北西方向600mほどの寄居町会館のそばに臍石と臍地蔵が並んであります。臍石は坂上田村麻呂は東征の帰途のおり日本の臍石と定めたとの言い伝えがあります。

渋川を中心に円を描くと宗谷岬と佐多岬が同一円周上に来るとのことなので、故事来歴だけではなく論理的に日本の中心ということも言えるかもしれません。しかし、これは故事来歴に合わせて跡から付けた感じで、あまり論理的ではなさそうです。臍地蔵の方は臍の部分だけ色が違っていて、なでると子宝に恵まれるとか。

 臍石のところを西に行くと、寺町の様子になります。妙法寺、正蓮寺、遍照寺それに真光寺などが敷地を接するように並んでいます。正蓮寺はボタン寺、真光寺はアジサイ寺として有名で、他のお寺の周りにも花でいっぱいだったように思います。

これらのお寺の中で、真光寺は境内も広く本堂も堂々としています。軒を支える柱の上部の彫られた彫刻や、

墓地にある壱銭職の聖徳太子塔といわれる石塔も興味深いものです。この石塔は、江戸後期に立てられたもので、壱銭職と呼ばれた髪結床の人たちが、彼らの守護神である聖徳太子を祭ったものだそうです。

これらのお寺の付近には、ツタに押しつぶされてしまいそうな民家や土蔵なども残っていて、少々道が狭くって車がやってくるとうっとうしいことを我慢すれば、散歩には気持ちの良いところです。

 臍は哺乳類の持つ特徴で、母体と胎児をつなぐ重要なパスです。一方、パソコンなどを相互接続するパスがイーサネットなどのLANですが、黎明期から比べると速度も価格も手軽さも格段に進歩をした技術です。初期の頃のイーサネットは指ほどの太さのある同軸ケーブルを張り巡らし、そのケーブルに穴を開けてコンピュータを接続していました。速度も遅く、接続のための回路も現在のパソコンより高かったように思います。LANによる接続は、手軽で高速になってきていますが、線がつながっている不自由さを避ける無線化も高速で手軽になってきました。最近のニュスでは、小容量の電力も無線でとの動きもあるようです。哺乳類の臍も無線化?!ということはないでしょうね。

ヨーロッパのどこかに居るような錯覚に陥る城郭都市のケベック(カナダ)

2009-06-14 17:29:25 | 世界遺産
 バルト海に面したバルト3国の北端のエストニアの首都のタリンは城壁に囲まれた綺麗な都市でしたが、北米のメキシコ以北で唯一城壁が現存する都市がケベックです。北米で最も古い歴史を持つ都市の一つとして、城壁に囲まれた歴史地区が世界遺産に登録されていますが、その歴史地区を中心に郊外にあるモンモランシーの滝も含めて紹介します。

 ケベックは、カナダの東端に近いケベック州の州都で、歴史地区はセントローレンス川に面した河岸段丘の上とその下の川とに囲まれた場所に町並みが広がっています。丘の上は城壁に囲まれた旧市街でアッパータウント呼ばれ、アッパータウンとの間にはケーブルカーもある丘の下はロウワータウンと呼ばれています。

 アッパータウンには、ケベックの紹介パンフレットに必ず登場するシャトー・フロンテナックが建っています。

今から100年以上前に」カナダ太平洋鉄道にによって建てられた最高級ホテルで、同じカナダ太平洋鉄道によりバンフに建設されたバンフ・スプリングス・ホテルと並び称されるものです。ホテルは丘の上の最も眺めの良い場所に建てられていますが、泊まらなくてもホテルの横から伸びるテラス・ドュフランからのセントローレンス川の眺めも気持ちの良いものです。また、このホテルは、宿泊者以外にも内部のガイデッド・ツアーを提供していて、ホテルの歴史や、部屋の様子などを面白おかしく案内してくれます。

ただ、現在のところ英語のみのようですが。

 英語と言えば、カナダの東部は歴史的にフランスの統治時代が続いたため、現在もフランス語の方がメジャーです。ケベック州の公用語もフランス語で、町中の表示もフランス語が幅を利かしています。この現象は、トロントあたりで英語圏に移行するようで、以西では表示も英語のみになるようです。シャトー・フロンテナックの南に隣接するシタデル要塞は、

現役のカナダ軍の駐屯する要塞ですが、この軍隊はカナダで唯一フランス語を話す軍隊なのだそうです。

 一方のロウワータウンの中心はプチ・シャンブランという繁華街で、繁華街として北米最古なのだそうです。繁華街と言うと喧騒さを想像しますが、石段と坂の町には花がいっぱいで、綺麗で小粋な感じがする町です。坂の途中のビルの壁面にはだまし絵が描かれていて、そこが古い町並みの秘密の入り口のような感じを受けます。

川べりには船着場があり、対岸のレヴィまでフェリーが出ています。30分ほどで対岸に着けるんですが、船からのケベックの眺めがすばらしいだけでなく、

レヴィの落ち着いた町並みの散策も捨てがたい魅力があります。

 さて、郊外のモンモランシーの滝ですが、旧市街から市バスで30分ほど乗ると滝の上部のバス停に連れて行ってくれます。そこから滝口までは歩いてもすぐ、ナイアガラ滝より落差の大きい83mの滝の上に架かったつり橋に出ます。

このつり橋が、高所恐怖症にはかなり怖い存在です。高いのと、勢いよく落下してゆく滝の水に吸い込まれそうな感じを受けます。滝を上から見るという通常とは逆の見方になりましたが、時間の余裕がある場合は、ケーブルカーで滝壺のあるセントローレンス川の近くまで降り、下から見上げることもできます。

 インターネットの中で流通している情報の大部分は英語で書かれた情報であると言われています。日本語の情報サイトであっても、技術上の込み入った内容となると、英語による原始情報にアクセスせざるを得ないこともあります。英語が事実上のエスペラント語の役割を果たしていることからやむをえないことかもしれません。パソコンや翻訳サイトによる、自動翻訳の腕前もかなり向上はしたようですが、中には翻訳文を読んでも、まったく意味不明の場合もあるようです。もちろん、言葉の背景となる文化や、省略された内容は翻訳のしようもありません。小学校からの英語教育の必要性が声高に叫ばれるようですが、英語は情報交換用の言語と割り切って、カナダ東部でフランス語が話されるようにアイデンティティとしての言語体系は保存してゆきたいものです。

標準時の子午線は南北に旧西国街道は東西に通り、魚の棚にはたくさんの買い物客が通る明石

2009-06-07 14:06:09 | 日本の町並み
 金沢の台所の近江町市場はカニやえびなどの海産物のお土産調達場所として有名ですが、鯛や蛸それに最近では釘煮が注目されている市場が明石駅の南にある魚の棚(うおんたな)です。

また、卵ベースのたこ焼きを、出汁につけて食べる明石焼きでも有名になりました。今回は、日本の標準時の子午線が通る町でもある明石のなかで、旧西国街道沿いの古い町並みが残る周辺を紹介します。

 明石は神戸市の西に隣接し、神戸市に飲み込まれそうな感じもしますが、子午線の町として、源氏物語の明石の舞台、また松平氏の城下町としてのアイデンティティを持つ都市のように思います。明石城は天守は築かれなかったのですが、駅のホームからも望める2つの櫓が重文になっています。ただし、明石海峡大橋の本州側の起点は明石市には無く神戸市垂水区になります。

 さて、旧西国街道ですが江戸時代における山陽道の呼び名で京都から下関に至る街道です。この7番目の宿が明石市の大蔵谷で、山陽電車の人丸前駅の南から大蔵谷駅の南を通り朝霧川に至る部分に昔の街道の雰囲気が少し残っています。格子をはめた家が少しばかり残っているのですが、

ほとんどの家並みは新しいものになってしまっているようです。街道跡の西よりには、「大日本中央標準子午線通過地識標」の石柱が立っています。

石柱の文字は仰々しいのですが、公権力の手ではなく、明石郡内小学校の教員の方々が費用負担をして立てたのだそうです。この石柱から海岸方向に行くと、寺院風の大きな唐破風を持つ建物が中崎公会堂です。

1911年に作られた公会堂で、こけら落としの時には夏目漱石を招いて記念公演をやったそうです。現在でも現役で使われていて、内部ではダンスの講習をやっていたようです。

 中崎公会堂とは逆に北に行くと、稲爪神社があります。稲爪とは奇妙な名前ですが、元々は稲妻であったものが変化したそうです。明石は異国からの来襲の通り道になることが多く、6世紀の推古朝に朝鮮半島からの来襲を大山祇神社に祈り、撃退できたことを感謝して作られたのがこの神社だそうです。

大山祇神がお告げのために稲妻と共に現れたので稲妻神社と称したとか。
 稲爪神社を明石駅に至る高架に沿って西に、行き山陽電車の人丸前駅のすぐそばの駐車場の片隅のようなところにあるのが、腕塚神社です。源平合戦の頃、平清盛の弟で一の谷を守っていた総大将の平忠度の右腕が祭られていると言われています。

源氏の武将との戦いで右腕を切り落とされ討ち取られたそうで、その右腕を個々に祭ったということです。ただ、神戸市の長田区の駒が林にも腕塚があり事実関係ははっきりしません。

 明石を通る日本標準時の子午線ですが、この子午線の南中時刻を正午としたものが日本の標準時です。地球の自転速度が不変であることを前提にして決められた時刻ですが、時計の精度が向上するに従い、変動があることが分かってきました。現在では、情報通信研究機構の原子時計で生成される時刻が標準時として使われています。10-15を越える精度があるそうですが、精密な測定などにはふらつく地球の自転を基にした時刻では間に合わなくなってきたそうです。不安定な地球の自転に合わせるために編み出されたものが、時おり行われる閏秒の挿入です。これまで不変だと思われていた物理現象が変化するのですから、世の中の価値観が変化するのは当然のことなのでしょう。