世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

上野公園には不思議があったり、その先にはレトロな町並みも残されています

2015-10-25 08:00:00 | 日本の町並み
 上野公園一帯を、博物館、美術館関連の視点からと、寛永寺関連の寺社を中心とした視点の2回にわたって紹介してきました。今回は、さらに、これらの視点以外で公園一帯を紹介してみたいと思います。上野公園は、さほど広くはない地域ですが、なかなか奥深いものがあるように思います。

 
 
 おそらく上野公園内で最もよく知られる施設の一つが、上野動物園で、日曜日ともなると上野駅の公園口から親子連れの行列ができます。相変わらずパンだの人気は衰えないようですが、レッサーパンダも善戦をしているようです。上野動物園は、1882年の明治中期の開園で、日本初の動物園で、東西に分かれた園の間を結ぶモノレールも1957年開業で日本初だったそうです。

 
 動物園に入場する人並みの左側、文化会館の裏手には野球場があって、子供達が「これな~に?」と不思議がって通り過ぎていきます。これは、正岡子規記念球場で、2006年に命名されたようで、名前の歴史は新しいものです。子規は、上野公園の東の根岸に住んでいたころ、よく野球をしにやってきていたそうです。野球で使われる用語の日本語訳(打者、走者、四球など)の多くは子規によるものだそうです。不思議がるといえば、球場とは少し離れた博物館の角の所にあるコンクリートの真四角な建物です。これは、1997年まで営業をしていた京成線の駅の出入り口の跡で、博物館動物園駅という名称でした。老朽化と駅のホームが短いため止まる電車が少なく利用客が減って2004年に正式に廃止されました。駅の跡はそのまま残されており、上野から成田などに行く時に、車窓からホームや改札の跡がチラと見えます。

 
 この駅跡の建物から、博物館の外壁に沿って行くと、現在は博物館の一部となったスクラッチタイルの外壁の黒田記念館の先に国際こども図書館の建物が見えてきます。1906年に建てられた帝国図書館の庁舎を利用して、国立国会図書館の分館としてわが国最初のこども図書館として2000年に開館しました。ルネサンス様式の明治建築を基に、安藤忠雄の設計により改築がなされ現在の姿となっています。

 
 
 
 
 駅跡の建物を芸大の方向にそのまま進むと、両側に芸大の学舎を見ながら行くと、自動車道路としてT字路に突き当たります。先には細い路地が続きますが、その角にあるのが上野桜木会館で、古民家を転用し区民のための貸しスペースとなっています。この路地を入っていくと、上野桜木で、かなりの古民家が残されている地域です。不忍池にある下町風俗資料館の分館として、谷中にあった酒屋の建物が移築されて資料展示室となっています。ここから、千駄木に通ずる通りの両側には、井戸があったり、お地蔵さんが居たり、レトロな店があったりで、数十年前の日本の原風景の雰囲気を残しています。

 博物館動物園駅は、ホームが短くて長い編成の電車が止まれなくなったのも廃止になる原因でした。駅のホームを延ばすことは、そう簡単ではないようで、山陽電車の大塩駅では、一番後の車両はホームに入りきれず、ドアは締め切り扱いになってます。また、阪急が相互乗り入れで山陽電車に乗り入れるとき、ラッシュ時の長い編成では、ホームをはみ出すために、三ノ宮駅で2両を切り離していました。ただ、この光景は、阪急の乗り入れが新開地までとなり、見られなくなりました。大都市の改札の大部分は自動化して、通過する乗客の乗降区間は瞬時に解るわけです。編成の前や後でホームからはみ出す車両があっても、何らかの手段で、乗客に乗車すべき号車を案内できるんではないでしょうか。ただ、ホームの端に踏切があるような地形では、はみ出し停車そのものができませんが。

観光の目玉は少ないオビドスですが、真っ白の壁とオレンジ屋根の町並みがすべて目玉です(ポルトガル)

2015-10-18 08:00:00 | 世界の町並み
 パリとボルドーとの間に位置して、ファサードのレリーフが見事なサン・ピエール教会のある町がアングレームでした。旧市街は、駅から坂を上った小高い丘の上に城壁に囲まれていました。ヨーロッパでは、外敵から待ちを守るため、城壁に囲まれた町が数多く存在しますが、これらは城そのものを取り囲むだけではなく、町全体をカバーするものも少なくないようです。今回は、これらの中から、ポルトガルのオビドスを紹介します。

 オビドスは、首都のリスボンの北80kmほど、郊外電車でも路線バスでも1時間あまりといった距離にあります。ただ、筆者はバターリャやアルコバサなどの世界遺産の町も一日で効率よく廻ってくれるリスボンの現地発のバスツアーを購入し、オビドスの丘の麓にある駐車場へ直行でした。

 


 オビドスは人口1万人程度の小さな村で、起源は1世紀頃で、ローマ人やアラブ人が入れ替わり立ち代り占領を繰り返したようです。歴史が古い村のせいでしょうか、道路の真ん中で遺跡発掘が行われていて、穴の底には人骨が横たわっていました。12世紀にポルトガルの初代の王によって、アラブ人を追い出して王の保養地としました。その後、13世紀になって、時の国王が、この地を新妻へのプレゼントとし19世紀終わり頃まで王妃の直轄地となりました。それだけ、このオビドスは、保養地として優れていたのでしょうが、住民にとっては、自分達には無断で、勝手にプレントに使われたのでは、えらい迷惑ではなかったでしょうか。15世紀には、城壁の端にオビドス城も建てられ、現在はポサーダ(国営ホテル)に改修され、ポサーダの中でも予約の取りにくいホテルの一つです。

 
 
 
 
 
 バスで着いた駐車場の近くには、16世紀にスペインから嫁いできた王妃の命令で作られたという長さ3kmに及ぶ水道橋の一部があります。駐車場から坂を上り、アズレージョ(陶板)に彩られた城門をこぐると、南北500m、東西に200mほどの楕円形の城内に入ります。石畳の道の両側には、民家の真っ白の壁が続きます。家によっては、下部を黄土色やオレンジ、そしてブルーに縫っている家も多く、ブルーと白とのコントラストは、地中海を挟んだ南側のチュニジアのシティ・ブ・サイドを思わせます。日本の観光地にあるような、景観を乱すような卑猥な土産物屋の建物などはありません。どこまでも、白壁とオレンジ屋根の家並みが続いています。町並みの所々には、景観を壊すお土産屋ではなく、壁一面の花であったり、木々の緑が変化をもたせています。

 
 
 こんなに狭い町並みの中に2つも教会がありました。一つは、黄金の祭壇が、ちょっと派手すぎの印象でしたが、他方は壁一面のアズレージョが、ポルトガルを感じさせます。このアズレーショは、側廊の壁だけでなく、主祭壇の周りや、翼廊にまで伸びていて、他の国の教会では見られない光景です。

 南ヨーロッパや北アフリカに行くと、水道橋をよく見かけます。大部分はローマによって作られたようで、古代ローマ人の土木技術の高さは、考えようによっては現在より優れていたと思います。たしかに、現在の土木技術は、レーザーなどの電子機器を総動員して、山の両方から掘ったトンネルの掘削面の食い違いがcmのオーダーに収まるといわれています。しかし、これは電子技術に依存しているだけで、土木の精度が高くなったとは言いがたいように思います。ローマの水道橋の傾斜は、3km行って1mという非常になだらかなもので、また高度な水密構造が必要なサイフォンもあちこちに作られています。技術によっては、退化現象もありうるということでしょうか。

上野公園の元の地主の寛永寺の遺構は、さすがに数も多く広くに分布していました

2015-10-11 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての寛永寺の境内に、数多くの博物館や美術館が集中して、東京の文化の発信源のような所が上野公園一帯でした。上野公園一帯は、寛永寺の旧境内であったことは、前回に述べましたが、今回はこの寛永寺関連の史跡や、公園一帯の神社仏閣を中心に、博物館などとは違った上野の顔の一部を紹介します。

 上野は寛永寺の旧境内であったことから、その関連の史跡が数多くあり、広大な範囲に散らばっていることから、最盛期には随分と大きな寺領であったことがうかがえます。現在の寛永寺本堂は、芸大や博物館の裏手にひっそりと建っていて、建物も明治期に川越の喜多院の建物を移築したものです。


 寛永寺の遺構の中で、もっとも有名な建物は不忍池の中之島に建つ弁天堂でしょうか。現在の八角の建物は、空襲で焼けた入母屋作りの堂を、戦後にコンクリート製で再建したものですが、蓮の咲く頃に、花の向こうに建つ姿は絵になります。

 
 弁天堂の東の階段を登ると、清水観音堂で、こちらは江戸初期の懸造りの建物が残り重文になっています。不忍池を望む舞台の前には、月の松と呼ばれる木が植えられていて、丸になった枝の向こうに弁天堂が見えます。この松は、広重のうきよえにも描かれている由緒のある松ですが、当然ながら当時の物から代替わりしているでしょう。

 
 清水観音堂を北に行くと、精養軒のそばに五条天神と花園稲荷が並んで建っています。どちらも、他の場所から引っ越してきて、その創建ははっきりしないのですが、五条天神は、日本武尊の東征まで遡るそうで、寛永寺よりずっと古い歴史を持っているようです。

  
 二つの神社の東側は小さな丘が二つ有り、一つは時の鐘が、もう一つはパゴダと上野大仏があります。どちらも寛永寺の遺構で、時の鐘は鐘楼のあとで、現在のものは18世紀に建てられたものです。一方のパゴダは、昭和期の建物ですが、上野東照宮本地仏の薬師三尊像が祀られています。パゴダのそばの上の大仏は、江戸初期に作られた大仏の遺構で、地震や火災で破壊、再建を繰り返し、最後は戦争中の金属供出で顔だけが残ったものです。この大仏は「これ以上は落ちない」ということで、最近は受験生に人気が出てきたのだそうです。

 
 
 パゴダの本地仏は、東照宮の本地堂に祭られていましたが、明治期の廃仏毀釈でお堂は破壊され、東照宮だけが残っています。寛永寺と同様に徳川家ご用達の宗教施設で、徳川家康などが神格化されて祭られています。神格化といえば、徳川家康の知恵袋として活躍した天海僧正も権現号をさずかり、その毛髪塔が文化化開館の裏手あたりにひっそりと建っています。また、東照宮の参道の近くには、「お化け灯篭」が立っています。東照宮に寄進されたもので、巨大さのゆえに、この名前で呼ばれていて、日本三大燈籠の一つだそうです。

 東照宮の隣には、これも寛永寺の遺構で最も目立つ五重塔がそびえています。この塔は、初代の塔が火災で焼けた後、すぐに再建された江戸初期の五重塔で重文に指定されています。この塔は、上野動物園の園内にあり、寛永寺から東京都に寄付され、現在の所有者は都なのだそうです。そのために、この当の名称には旧が冠されているのです。

 上野公園を席巻していた寛永寺は、江戸城の東北の鬼門を守る寺として、京都の比叡山の江戸版で、東叡山の名称が与えられています。宗教施設でありながら、時の権力に擦り寄る姿勢は好きではありませんが、歴史を振り返ると、宗教と権力は密接な関係を持ってきており、権力そのものとなった宗教も少なくありません。人間を救済するはずの宗教は、権力を得るための手段として使われたに過ぎないように思います。倫理観なんてあったもんじゃなく、人間は、所詮は権力欲の権化なのでしょうか。かつての映画で、コンピュータが理性を持って、人間を支配するという結末のものがありました。いがいと、これって正解の一つかもしれないと、思うようになります。ただ、どうやってコンピュータに倫理観をうえつけるんでしょうか。

ルクソールの神殿群は、ピラミッドより、その巨大さが実感できます(エジプト)

2015-10-04 08:00:00 | 世界遺産
 韓国の済州島には、韓国唯一の自然遺産の火山や洞窟がありました。火山が作った、溶岩洞窟は、ごつごつとした洞穴で、鍾乳洞のように見て美しいといった要素には欠けますが、自然が作った巨大な穴にはビックリします。自然の造形には、驚くほどの大きさのものが多数存在しますが、エジプトには人の手による巨大な遺跡がたくさんあります。その代表格はピラミッドでしょうが、石の塊のピラミッドに対して、巨大な建物の代表はルクソール周辺の神殿群ではないでしょうか。今回は、ナイル川を挟んで、東西に広がるルクソールの遺跡群を紹介します。エジプトを訪問時には、カメラ(アナログ)が砂のためか故障して動作しなくなり、8mmビデオのみが記録媒体でした。したがって、こちらで用いた写真は、ビデオの画像を取り込んだので鮮明さに欠けることをお許しください。

 ルクソールは、エジプトの首都のカイロの南500kmほど、飛行機で1時間ほど、列車も走っていて、ほぼ半日かかります。古代エジプトの都市のテーベが在った場所を中心に市街地が広がっています。市街地の中心はナイル川の右岸(東側)にあり、神殿の大部分はこちら側に建っています。列車の線路も右岸を走っていて、他のナイル川沿いの町も右岸にあるものが多いように思います。一方、ルクソールの左岸(西側)は、砂漠状の大地が続いていて、遺跡としては王家の谷などにある墳墓が大部分です。ナイル川は、このあたりで川幅が500m程度で、両岸を結ぶ渡し舟が運航しています。

 
 
 
 古代都市名のテーベは東岸を意味し、その東岸には生を象徴する遺跡群が残されています。東岸にある遺跡の中心は、約3,400年前に建てられたルクソール神殿とカルナック神殿で、巨大な石の壁が立ちはだかり、太い柱が林立しています。ナイル川殺人事件では、この列柱室に石の塊が降ってくる映像化されていましたが、石が降ってこなくとも、この柱の太さと数には圧倒されるだけでなく、恐怖も感じます。筆者はギリシャのパルティノンは訪問していないのですが、両方を見た人の感想では、カルナック神殿と比べると、パルティノンはマッチ箱なのだそうです。2つの神殿は独立ではなく、ルクソール神殿は、カルナック神殿の中心であるアメン神殿の付属神殿として建てられたそうです。現在も行われているか不明ですが、エジプトの古代遺跡のいくつかでは、日没後に光と音によるショーが行われていて、カルナック神殿でも見ることができました。当日は、日本語ではなく、たしかドイツ語だったので、ナレーションの内容は理解できませんでしたが、雄大な音楽をバックに、暗闇にライトアップで浮かび上がる神殿は、昼間に見るより、さらに巨大に見えました。

 
 
 西岸の王家の谷を中心とした墳墓群の目玉は、ツタンカーメンの墳墓とされる遺跡でしたが、これがそう?と思うくらい小ぶりでした。墳墓からの出土品は、博物館に保存されているので、小さな穴ぼこに入って、ここがそうなのか~と感慨に耽るだけです。むしろ見ものは、西岸に上陸して最初に目に入ってくるメムノンの巨像と、岩山の麓に作られたハトシェプスト葬祭殿です。メムノンの巨像は、アメンホテプⅢ世の葬祭殿の入り口に立っていたファラオ自身の像でしたが、葬祭殿は後のファラオによって取り壊され、そのファラオの葬祭殿の石材として使われたそうです。メムノンの巨像を有名にしているのは、像に入ったひび割れに風が当たって起こる音が巨像の発するうめき声と脚色され、1世紀ごろには、声を聞くため観光地化したそうです。一方の、ハトシェプスト女王葬祭殿は、古代エジプト王朝で唯一の女王の葬祭殿です。列柱に支えられた三段のプラットフォームが、箱根湯本付近の国道一号線の函峰洞門を横から見たような感じですが、列柱内の回廊部分には壁画が残っていて名かなか綺麗です。ただ、この遺跡は、筆者が訪問した直後に過激派集団による襲撃で10名の日本人も犠牲になったルクソール事件の現場として有名になってしまいました。

 ピラミッドの総重量は600~700万トンと推定されていますが、カルナック神殿に使われている石の総重量はどの程度なのか資料が見当たりません。神殿内にそびえる高さが30mほどの最大のオベリスクの重量が300トンを越えるということなので、神殿で使われた石の総重量も相当なものと想像できます。ここで、重量といいましたが、厳密には質量のことで、石の持つ普遍の大きさになります。重量というのは、引力のせいで物に働く力で、ピラミッドの重量は、月に持っていけば1/6になります。地球上でも、赤道と北極や南極とでは微妙に違います。電子体重計などは、重力による力でバネが変形した量をセンサーで検出するもので、力を検出するというということは同じなので、スマホの加速度センサーにも同じ原理が使われています。ニュートンの万有引力の法則によれば、「引力はお互いの質量の積に比例する」とのことなので、ピラミッドのように大きな質量の物の近くでは、普通では地球の中心に向かっている引力が、ピラミッドの方に傾いているはずです。この微妙なずれも、センサーで測れるのでしょうね。