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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

県庁所在地とは思えないしっとりとした落ち着きのある町が金沢の魅力です

2009-05-31 10:14:56 | 日本の町並み
 一葉の使った井戸が残り、古風な旅館や現役の下宿がある町が東京の本郷でしたが、下宿をしている学生が休みになっても自宅に帰らずその町に留まっていると言われる町が金沢です。香林坊などの繁華街は、何処にでもある県庁所在地の顔をしていますが、ちょっと表通りを入ると、しっとりとした金沢独特の顔を見せる魅力に取り付かれるのでしょうか。今回は、金沢の町並みの中から武家屋敷の残る長町あたりと、茶屋町の一つの主計町(かずえまち)を中心に紹介します。

 金沢はいわずと知れた石川県の県庁所在地で、北陸3県の中で最も人口の多い都市になります。加賀藩の城下町として、江戸、大阪、京都に次ぐ第4の人口を擁する都市として栄え、美術工芸などの伝統文化が現在まで引き継がれていることも、金沢の魅力の一つでしょう。武家文化の香りを残す長町は繁華街の香林坊の西に、一方お茶屋遊びの文化の主計町は金沢駅の東に位置します。

 長町は、城に物資を運んだ運河の一つの大野庄用水に沿った町並みです。大野庄用水は犀川から取水され、長町などを流れ分流と合流を繰り返して、河口付近で犀川に合流します。現在の用水の浅い流れを見ていると、この川で荷物を運ぶ船が行き来できたのだろうかとも思います。用水沿いには武家屋敷の遺構として美しい日本庭園を持つ野村家住宅や

加賀の伝統工芸を紹介する老舗記念館など

の公開施設の内容はなかなかの見ごたえがあります。これらの施設に増して、石畳と土塀の続く町並み

や微妙に曲がって流れる用水

の作り出す風景は絶妙で、むしろこちらが町の主役かもしれません。

 主計町は、駅から金沢の台所の近江町市場に至る道をさらに東に進み、突き当りを左折して浅野川を渡る手前にあります。浅野川を渡ると、もう一つの茶屋町の東山茶屋街に至ります。国道から1本入ると泉鏡花記念館があり、茶屋街はさらにその裏側の浅野川寄りにあります。表道路から下って行く坂には暗がり坂

という名称も付いて、下った先には格子のある家々が建ち並んでいます。ただ、薄暗い狭い路地に密集した木造住宅の建つ光景は、艶やかさを通り越して、ちょっと異様な感じすらします。

この土地の低さのため、最近は浅野川の増水で浸水被害に遭ったようです。

 金沢の伝統工芸の一つに金箔工芸があります。純金の展性が高いことを利用して、極限まで薄く延ばした金箔を使ったものですが、この金箔の厚さは0.1ミクロンだそうです。新券のお札の厚さがおよそ0.1mmですから、その1/1000という薄さになります。金箔は簡単には錆びず、いつまでも美しい輝きを保つために、やはり保存性の高い漆と組み合わされて独特の工芸品を生みました。この錆びにくいという特性は、IT分野でも利用価値が高く、接点などの材料に広く使われています。新製品が売り出されるたびに、大量に廃棄される携帯電話の中にも多くの金などの希少金属が含まれているため、一種の鉱山資源だとも言われています。ただ、リサイクルのための工程で、公害を出さないために、エネルギー負担をかけるようで、本当にエコロージーになのかな、とも思います。むしろ、本質的ではないと思われる機能追加のたびに、まだ使える機器をあっさり捨ててしまう文化を捨てるほうがエコロジーではないでしょうか。

タリン旧市街には小さな機関車形トラムが走り、港にはヘルシンキへの巨大フェリーが居ました(エストニア)

2009-05-24 10:24:37 | 世界遺産
 アドリア海に面して城壁で囲まれた旧市街を持つのがクロアチアのスプリトでしたが、同じように城壁で囲まれた旧市街が世界遺産に指定されている町が、バルト三国の中で最も北に位置するエストニアの首都タリンです。今回は、旧市街の周辺を含めてタリンを紹介します。

 タリンは、北緯60度近くとかなり北に位置する首都で、北欧諸国のスエーデンのストックホルムやノルウェーのオスロとほぼ同緯度、デンマークのコペンハーゲンよりも北になります。さらに、フィンランドのヘルシンキとは海を挟んで70kmほど南に位置するという地理環境です。夏にタリンを訪問すると、これだけ北に位置して、かつ夏時間ともなると11時頃まで薄明るくって、油断をすると寝不足になります。

 エストニアは、デンマークやドイツなどからの支配の歴史から1918年に独立をしましたが、その後旧ソ連の陰謀などによりソ連領となりました。ソ連の崩壊の兆しが高まった1988年に、タリン郊外の歌の原に30万人が集まり独立の気運が高まり、1991年に独立を回復しています。このような歴史があったせいか、エストニア国内ではロシアに対する感情はあまり好ましくないようです。

 世界遺産の旧市街は、城壁に囲まれた400m×800m程度の範囲で、西のはずれには小高いトーンペアの丘があります。これだけの広さなので、歩いて回れますが、かわいらしい機関車の形をした観光用のトラムも走っています。

石畳の道の両側には、古い建物がそびえ、その先には何があるのだろうと期待を持たせます。3連の建物には三姉妹や三兄弟の愛称が付けられていましたが、男性と女性の差は何処にあるのは良くは分かりませんでした。

北の外れまで行くと、城門の外に「ふとっちょマルガリータ」と呼ばれる丸い要塞跡も残っています。

窓が目に見えて、こっけいな顔に見えてきます。

 町全体を見渡すには、トーンペアの丘より高い旧市庁舎のタワーに登るのがお奨めです。ただし、古い建物なので、エレベータなどは無く階段を自分の足で登らなくてはなりません。上りより下りの方が足に来るかもしれません。眺めはさすがにすばらしく、足元の広場から旧市街に立つ教会の尖塔の向こうにはフィンランドに続く海も見えます。

一方の高台のトーンペアの丘には、大聖堂やトーンペア城それにロシア正教会のアレクサンドロネフスキー聖堂などが建ち並んでいます。

ロシア正教会の建物はマルイドームがあってイスラム寺院にもどこか似ていて、端正な感じがしますが、キリスト教会に比べて、なにかよそよそしさを感じます。

 旧市街を北に出ると、大きな船が停泊している港に出ます。かなり巨大な船で、それも数隻が停泊しています。

これらの船は、対岸のヘルシンキとのあいだを結ぶフェリーで、そういえばホテルや旧市街でもフィンランドからの団体客を運んだと思しき観光バスを数多く見かけました。国際航路なので、ターミナルにはゲートがありイミュグレーションと思しき設備もあったようです。フェリーターミナルから海岸沿いに東に4kmほど行ったピリタには、小さな港と海水浴場があり、その背後には大きなピリタ修道院の廃墟があります。ファサードや周りの壁だけが残っていますが、ギリシャ神殿のような雰囲気で、滅びの美学のような印象です。

 タリンは13世紀にはハンザ同盟に加わった歴史を持っています。ハンザ同盟は12世紀から16世紀にかけてバルト海沿岸の都市の承認のあいだで結ばれたものですが、政治的、軍事的にも機能をしたといわれています。比較的穏やかな同盟関係で、結束力はさほど高くなかったと言われていますが、つまるところは商人の利益を優先するための組織ではなかったか思います。IT分野では、いろいろな規格があって、これが合わないと相互に情報の交換ができなかったりして不都合が生じます。国際機関で標準化が話し合われますが、技術の優位性ではなく、声の大きな(組織の大きな)案に決まることが多いような気がします。この分野でも利益優先のために組織化したほうが勝ちという伝統でしょうか。

東京の中に残る時間の止まったような本郷には一葉の使ったと言う井戸も残っています

2009-05-17 09:27:41 | 日本の町並み
 山越の富士山の眺めが見事な塩山は樋口一葉の両親の出身地でもありましたが、東京の本郷には樋口一葉も使ったと言われる井戸が現役で残されています。本郷は、変化の激しい東京にあって、まるで時計が止まったような町並みを残している場所の一つではないでしょうか。今回は、一葉の使った井戸の周辺の町並みを中心に紹介します。

 一葉の使った井戸があるのは、都営地下鉄三田線の春日で下車をして、東へ菊坂下の信号を右に曲がり、菊坂を南に200mほど上って少し右に入ったあたりにあります。起伏のある町並みのせいもあってか、道が微妙に曲がりくねっていて幾何学的ではないところが人間臭さを感じます。いわゆる木造低層密集住宅地で、火事には弱そうに思いますが、古い家並みが残されていると言うことは、耐火建築にすれば、イコール防火になるということではないということのようです。東京の中央あたりにありながら、戦災にも焼け残った地域のようで、中には規制の対象となった木造3階建ての家屋も残されています。

菊坂から少しそれたあたりには、最近少なくなった唐破風のある銭湯も現役でがんばっていました。

 一葉が使っていた頃の井戸はつるべ井戸であっただろうといわれていますが、現役の井戸は手押しポンプになっています。

井戸の周りには植木鉢なども置かれていて、下町の雰囲気を作っています。ここで、井戸端会議も開催されるのでしょうか。この井戸の路地を突き当たると会談になっていて、斜面に沿って階段に下からは3階建て、上からは2階建ての木造が建っています。

階段を上って建物の裏手に廻ると、さらに細くなった路地が続いていて、建物の向かい側はさらに高みに向け石垣が作られています。

集合住宅では隣近所は物理的に短い距離ですが、人間関係は遠いように思います。本郷のこのあたりに迷い込むと、なにか濃密な人間関係を思ってしまいます。

 本郷と言うと、東大を思い浮かべますが、東大のキャンパスは本郷通りの東側で、古い町並みは通りを挟んだ西側になります。この通りを境にして町の表情がまるで違うのも面白いかもしれません。筆者にとって本郷は、中学時代に東京に修学旅行に来て宿泊したところという記憶です。本郷あたりには古い旅館がたくさんあったのではないかと思います。地図や電話帳で調べて結果では、当時宿泊した旅館は現役で存在するようですが、確認のために訪れる機会が未だありません。地図で確認しても、周辺には旅館と名の付く建物が、現在でもかなり存在しているようです。

 旅館だけでなく、大学の近くという地理環境から下宿も多くあったようで、現役のものもあるそうです。下宿と言うと、賄い付きで健康的な生活が送れると思うのですが、どうも濃密な人間関係を嫌うのか、ワンルームマンション暮らしを選択する学生が多いようです。そのくせ、携帯を置き忘れると、誰かから呼ばれているのではないかと、心配で心配で落ち着かないそうです。ケータイ依存症という立派な病気ではないかとも思います。

山門が有名な恵林寺だけでなく個性的なお寺や山越の冨士の眺めもすばらしい塩山

2009-05-10 09:32:24 | 日本の町並み
 北斎が描く鮮やかな鳳凰が天井から見下ろしているのは小布施の岩松院でしたが、北斎と言えばさまざまなアングルから冨士を描いたことで知られています。通常富岳36景として知られていますが、これらのアングルは東または南から描かれたものです。ところが、36景の人気が高かったために10景が追加され、こられの中には西もしくは北西方向から描かれたものがあります。南側から見慣れた冨士ですが、前景の山の上に顔を出した富士山も悪くないものです。

今回は、このような富士山が見られる山梨県の町の中から、塩山を紹介します。

 塩山は、山梨県の東北部にあって、かつては塩山市でしたが、勝沼町などと合併して現在は甲州市の一部となっています。市街地や中央線の塩山駅は、旧塩山市の南部にありますが、恵林寺などのお寺は、西沢渓谷に向かうバスが通る駅の北側3~4kmのあたりまでに分布しています。このバスの本数が日に数本と少なく、往路は何とかバスに乗れても、復路は歩きになります。ただ、途中のお寺に寄ったり、のどかな景色を楽しみながらの散歩は、悪くはありません。なにより、天気がよければ前景の山並みの上に顔をのぞかせる冨士の眺めが見事です。

 恵林寺は、織田軍に攻められて焼き討ちに遭ったときに、僧の快川紹喜が燃え盛る山門の上で「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という喝と共に焼死したという逸話はあまりにも有名です。

焼け落ちた山門は、後日再建され、この渇が扁額として掲げられています。ただ、この逸話はフィクションという説もあり、逸話のみが有名になったきらいがありますが、むしろ夢想国師の作庭といわれる庭園が見ごたえがあって、こちらを拝観に訪れる価値があるかもしれません。

 山門の逸話で有名な恵林寺ですが、この恵林寺より140年ほど歴史が古く、仏像なども多く残されているお寺が、少し北にいったところにある放光寺です。山門の仁王像は、12世紀の創建当時のものとされていますが、鮮やかな彩色が残っていて、圧倒的な存在感があります。

訪問した頃には、本堂の前庭に植えられた紅梅と白梅とが本堂をバックに絵葉書的な構図で咲いていました。

恵林寺と放光寺とのあいだは、水路に沿ったのどかな道で、気持ちがいいのですが、恵林寺から駅に戻る道はバス道路を歩く事になり、あまりのんびりとは歩いていられないのが難点です。途中には、国宝の達磨図(国立博物館に寄託中)を持つ向嶽寺などもあり、駅までは1時間ほどの歩きです。

 塩山の駅裏まで戻ってくると、駅の北口の前に巨大な木造民家が建っています。甘草屋敷と呼ばれる旧高野家を修復保存をしたもので、重要文化財になっている建物です。薬草の一種の甘草を栽培して、江戸幕府に納めていたのが高野家で、合掌造りとは違った大きな屋根の面を見せています。

内部は資料室になっていて、部屋の様子や甘草の解説がなされていますが、面白いのは樋口一葉の資料室があります。一様の肖像画が使われた5千円札のAの5番も展示されています。一葉は東京生まれの東京育ちなので、なぜここに?といった感じを受けましたが、一葉の両親の出身地が塩山という縁で個々に資料室ができてそうです。

 甘草の根を干した生薬の甘草は、漢方薬のベースとして、いろいろな調剤に加えられる万能薬のような性格を持っているようです。単独でも喉の痛みや、咳を鎮める効能があるということです。主成分のグリチルリチンは砂糖の30~50倍の甘みを持つそうです。ダイエットには向いているようですが、癖のある甘みのため、そのまま砂糖の代用とはいかないようです。さらに、血圧を上昇させる副作用があるために、一日の摂取量の上限が定められているようです。コンピュータ・ウィルスには、甘い言葉で巧妙に悪質サイトに誘い込んで、ウィルスをインストールさせるものが多いようですが、甘さの後ろには怖いものが控えていることが多いのでしょうか。

スプリトの城壁に囲まれた宮殿跡の前のテラスはアドリア海に面した気持ちの良い場所でした(クロアチア)

2009-05-03 10:14:09 | 世界遺産
 堅固な城壁の中に知恵を使ってまんまと兵隊を送り込んだのがトロイの木馬でしたが、堅固な城壁のすぐ外には紺碧のアドリア海が広がっている町がクロアチアのスプリトです。城壁に囲まれたディオクレティアヌス宮殿の跡が旧市街になり、海に面した南側には宮殿の遺構が残り地下には列柱で支えられた大きな空間があります。今回は、スプリトの旧市街とスプリトの郊外にあって、ローマ時代の遺跡があるサロナを併せて紹介します。

 スプリトは、クロアチアの南部、ボスニアとアドリア海に挟まれ南東方向に回廊状にドブロクニクまで伸びている付け根辺り、陸地から西方に3km幅程度で突き出した半島の南面にあります。城壁はおよそ200m四方ほどの長方形で、かつてのディオクレティアヌス宮殿がすっぽりとその中に入っていたそうです。現在では、宮殿の遺構や教会などに混じって、旧市街の建物がひしめいています。宮殿の遺構は、海に面した部分にあって、城内に通り抜ける門の途中から、宮殿や地下宮殿の遺構の見学コースに入れます。地下宮殿跡は数多くの列柱に支えられた、かなり広い空間ですが、どうも廃墟の雰囲気です。

おまけに、お土産屋が遺跡に入り込んでいて、その数の多さはちょっとうんざりという感じがします。

 地下宮殿を通り抜けて、城内に入り振り向いて見えるローマ風のファサードを持つジュピター神殿のある空間は、古代にタイムスリップしたような感じを受けます。

広場に面したスプリト聖堂には、鐘楼があって上ると眺めがよさそうですが、自分の足で上る必要があります。

この鐘楼も城壁も夜になるとライトアップされ、周りの雑物が見えない暗闇の中に輝いている姿は、東京タワーといい勝負でしょうか。

城壁内の旧市街は、細い道が曲がりくねっていて、迷いそうになります。石造りの建物群にうずもれて洗礼堂や教会が散在しています。

ヨーロッパの城壁に囲まれた旧市街の様子は、何処も似たようなところがあって、細い道とその道路に覆いかぶさるような石造りの建物群です。この風景が写真に撮っても、絵にもなる好ましい空間を形作っています。ただ、地震が起こったらひとたまりも無く、下敷きになりそうですが、地震の多い国はイタリアなどあまり多くはないので大丈夫なのでしょうか。

 ローマ時代のサロナ遺跡は、スプリトからバスで15分くらいの距離にあります。紀元前1000年頃に興ったイリュリアの都市として栄えましたが、紀元後にローマ帝国に滅ぼされ皇帝属州のダルマチアの首都となったのがサロナでした。3~4世紀にスプリトに隠居所としてディオクレティアヌス宮殿ができ、7世紀のスラブ人の侵略で破壊された後は廃墟となったようです。

遺跡には、建物の基礎部分などのほか円形劇場の跡などもあり、400m×600mくらいもの広大な地域に広がっています。

 日本の古い民家や、西欧の石造りの町並みを見ていると、なにかしら落ち着いて、そこに長くいたいという気持ちになるものです。その理由はいろいろあるのでしょうが、一つには素材をそのままの形で組み合わせて作られているからではないかと思います。しかしながら、人工の素材と天然の素材とをどこで線引きするかは難しいく、そもそも木や石であっても成型するためには人間の手が加えられているわけですから、どうも最初の論理の展開にとっては分が悪るそうです。ただ、コンピュータと数値で管理されて、寸分変わらないものが大量に作り出される世界に住んでいる現代人にとって、同じものを作るのが困難な材料を使ったアナログ的なものには、心なごむものがあるのかもしれません。