世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

エズ村には取り立てた観光施設はありませんが、迷路を散歩して、足元のブルーの地中海を眺めるだけで満足です(フランス)

2018-03-25 08:00:00 | 世界の町並み
 紹興酒の産地として有名な紹興は、中国の近代文学者の魯迅の生家のある町でした。魯迅は、我が国の医学校に国費留学生として来訪していますが、その時に西洋の哲学書もよく読んだのだそうです。その中にはニーチェの著書もあったそうですが、ニーチェは、病気の治療のため各地を旅行しています。その一つに、南仏のニースがあり、このニースの郊外にあるエズにはニーチェの道という散歩道があります。今回は、みーちぇの道で上った先のエズを紹介します。

 
 エズは、ニースの東10kmほど、鷲の巣村と呼ばれる地中海から切り立った山の尾根にある村々の一つです。エズは標高427mで、海岸線を走るフランス国鉄(SNCF)のエズ駅から北東に1km足らず、ニーチェの道がその間をつないでいます。このニーチェの道は、歩いた人の言によると、思いのほか険しくって、病気がちのニーチェが歩いたとは考えにくい道のようです。筆者は、ニースのバスセンタからバスで往復したので、この険しさは味わっていません。ただ、エズからの眺めは、バスで上っても同じはずで、地中海の眺めは素晴らしいものでした。

 
 エズ村の建物は、狭い山頂に張り付くように建っていますが、教会や5つ星ホテルそれに香水工房など意外とバラエティに富んでいます。村内は細い迷路のような道が上がったり下りたりで、その先に何が現れるのか期待をもたせます。筆者が訪れたのは20年ほど前の1月で、観光客は少なくすれ違う人もほとんど見かけませんでしたが、最近は人気があってかなり混雑するのだそうです。

 
 
 カトリック教会は、鐘楼があり、内部はこじんまりとしていますが、シャンデリアや壁画などなかなか綺麗な空間です。村内にあるホテルは、地中海を眺めるテラスや、斜面にあるプールなど、富裕層がお忍びで泊まりそうなもののようです。写真で見るプールのある風景は、はるか眼下に地中海を望む贅沢な空間のようです。香水の工房は駐車場のそばにあり、Galimardのブランドの店舗と博物館を兼ねているようです。店の前にデンと置かれている銅製の缶は、香水の抽出用でしょうか。

 ニーチェというと「ツァラトゥストラはかく語りき」を思い浮かべます。ツラトゥストラは、ゾロアスター教の開祖のドイツ語読みですが、ツラトゥストラは、ゾロアスター教の教義とは違っています。ツラトゥストラの語った言葉の中で有名な言葉は「神は死んだ」というニヒリズムを表す言葉としてよく引用されます。ユダヤ教を源流とし神の存在を前提とする宗教と真っ向から対立するものですが、神の存在を前提としない仏教徒とは対立しないように思います。ただ、最近の仏教は、神のような超越的な存在を口にするようですが。神が死んだわけですから、それに代わるものとしてコンピュータを超越的な存在として信仰しましょうか。

安土城の天守はありませんが信長も愛したという湧水の近くには土蔵造りや格子の連なる町並みを作っています

2018-03-18 08:00:00 | 日本の町並み
 お市の方の悲劇を生んだ小谷城の西にある集落が長浜市の速水地区でした。このお市の方の兄の信長が築いた城が安土城で、同じ琵琶湖の東岸に位置します。安土城は明智光秀の本能寺の変の後に焼けてしまい、城跡が残るのみですが、かつての城下には趣のある街並みが残されています。今回は、現在、近江八幡市の一部となっている安土町を紹介します。

 
 安土城は、信長の像の立つJR安土駅の北北東にある独立峰の安土山の頂上にあった山城で、お城は失われていますが、いろんな逸話の残されているお城の一つです。お城の焼失後、町の中心は近江八幡に移ってしまい、城下町はのんびりとした田舎に戻ったそうです。現在は、京阪神地方のベッドタウンとして駅周辺に住宅が密集する町となっています。

 
 
 
 
 古い街並みが残るのは、安土駅から西南西に1ブロック行ったところから、北西に延びる通りを常楽寺地域までの通りで、土蔵造りや格子の並ぶ古民家が連なります。

 
 
 この常楽寺には、安土が琵琶湖の水運で栄える元となった常楽寺港があったところで、16世紀初頭には常楽寺城というお城が、この港を押さえていたこともあるそうです。常楽寺城は安土城ができる前に配乗となり、現在はその遺構すら残っていません。付近は、常浜水辺公園になっていて、琵琶湖につながる入り江がかつての常楽寺港のようすをうかがわせます。この公園の東には、北川湧水(喜多川湧水)という名水の湧くところがあり、足湧の看板があります。足湯ではなく足湧で、あしを漬けても暖かくはありません。夏は冷たく、冬は暖かい湧き水で、信長も愛でたのだそうです。げんざいも、付近の方々が掃除をしてきれいな水をたたえています。

 安土城は、型破りな信長が建てた城として、それまでの城とは一味も二味も違ったお城であっただろうと言われています。ただ、いろいろと研究がなされ復元模型や天守を模した安土桃山文化村の建物などありますが、決め手に欠けるのようです。安土城を描いた屏風がローマ教皇庁に贈られたという記録が残るものの、いまだ発見されていないそうです。信長が現代に城を作っていれば、ITを駆使した情報網とサイバー攻撃の拠点を作っていたでしょうか。

ブダペストのブダ側は、起伏の多い地形に王宮や教会が建ち、山の中には子供鉄道も走っています(ハンガリー)

2018-03-11 08:00:00 | 世界遺産
 前回はハンガリーの首都のブダペストのうち、ドナウ川の左岸(東側)のペストを紹介しました。行政や交通の要はペスト側に集中していますが、右岸(西側)のブダ側には、旧王宮などもあって、ペストとは違った顔を見せています。今回は、前回の続きでブダペストのブダ側を紹介します。

 
 
 今回紹介する右岸のブダは、左岸のペストが、平地が多い街並みに比べて、起伏の多い地形です。旧王宮やツィタデッラ(要塞)のあるゲッレールトの丘などはドナウ川のそばに丘があり、川の西2kmほどには標高482mのセーチェニ山塊があります。これらの高台に上ると、ドナウ川を挟んだブダペストの町並みがよく見られます。

 
 ツィタデッラの麓には、20世紀初頭にアールヌーボー様式で建てられたゲッレールト温泉があります。内部は神殿のようで、モザイク・タイルで装飾されています。水着を着て入る巨大な温泉プールの他に男女別のサウナや少し温度の高い温泉がありました。また、セーチェニ山には、大人の監督のもとに子供たちが駅の業務や運転を行っている子供鉄道が走っています。麓から、ラック式の登山鉄道で264mの標高差を上ったところに起点駅があり、11kmあまりの760mm狭軌の単線鉄道が引かれています。山肌に沿って曲がりくねった路線は、森をかき分けて進み、時速は20kmほどもでるかどうか。移動の手段ではなく、子供たちの活躍の姿や、森林浴を兼ねて時間があれば乗ってみるのもいいかもしれません。

 
 
 ブダ側で最も目立つ観光施設の一つはブダ城です。現在のブダ城の原型は18世紀にハプスブルグ家のもとでバロック様式で再建されたもので、その後の火災や大戦により被害を受け戦後に修復したものです。現在は、3つの博物館として使われていますが、丘の上にドームを持つ姿はペスト側からも目立った存在です。鎖橋の付け根あたりから、王宮のそばまで小さなケーブルカーが走っていて、上るのが苦手な人には便利かもしれません。

 
 旧王宮の北側にはマーチャーシュ聖堂が建っています。14世紀に五市区様式で建てられましたが、16世紀から17世紀にかけてオスマントルコに支配されたときには、モスクに改造されていたそうです。正面の右手にある尖塔が目立ちますが、内部もなかなか綺麗な聖堂です。聖堂前の広場には三位一体像があり、こちらも天を突いています。

 
 そして、聖堂の東のドナウ川に下る斜面に張り付くようにあるのが漁夫の砦で、20世紀初頭の建国千年祭の時に建てられたものです。マーチューシャ聖堂との間には初代ハンガリー国王のイシュトバーン1世の騎馬像が立っています。の

 ブダペストの子供鉄道は、旧ソ連などで行われたピオネール活動の一環とした教育活動として運用されています。ボーイスカウトをお手本にして、優秀な子供たちを集めたエリート教育の一種だそうです。早くから、実社会の活動を経験させ将来の幹部となるべき英才教育自体は悪くないと思います。机上の知識で頭でっかちになるより、現場を知ることは重要とおもいます。コンピュータに慣れさせるためとか言って、ゲームっしたり仮想空間の経験しかできないタブレット端末などを与える親よりはずっと理にかなっているでしょう。

小谷城跡の西にあって、かつては行政の中心であった速水地区は、静かな田舎になっていました

2018-03-04 08:00:00 | 日本の町並み
 義経の一の谷の古戦場跡と言われている一の谷の近くの塩屋には、北野町とは違った異人館の姿があありました。一の谷の戦いは、源平の天下分け目の戦いの始まりのような戦いでしたが、京都の周辺の交通の要や隘路となる場所には天下分け目の古戦場が多いようです。山が迫り淀川との間が狭くなる山崎は秀吉と光秀の古戦場、そして美濃から琵琶湖へ抜ける回廊状の場所が関ヶ原です。この関ヶ原の北には、北陸から琵琶湖への谷筋にある賤ケ岳や、関ヶ原をにらむ位置にあった小谷城の古戦場があります。今回は、小谷城のあった小谷山の西を走る北陸線の最寄り駅である河毛駅のさらに西ににある速水地区を紹介します。

 
 
 
 
 
 河毛駅は、JR北陸線を米原から北へ5駅、長浜駅の2つ先です。この河毛駅の西500mほどの所に、かつての北国街道の脇街道が並行して走っています。速水地区は、江戸時代から行政の中心地として明治期にまで郡役所も置かれました。しかし、現在の北陸線が開通した時にできた河毛駅は4年で廃止、復活したのは戦後もずいぶん経った1954年でした。このため、速水町は衰退し、南側の駅のあった虎姫町に取って代わられました。ただ、このために速水地区は、冷凍保存状態で開発の波に潰されることが無く、商家や農家が散在するのどかな風景を残したようです。

 
 
 現在の速水地区は、古民家が散在するだけでなんの変哲もない田舎ですが、お寺や空き地に季節の花が咲き乱れていて、何となくほっとする場所の一つになっています。地区の中にはいくつかの神社仏閣がありますが、訪問した神社とお寺を一つずつ紹介しておきます。神社は伊豆神社で、祭神は瓊々杵尊、八重事代主命、波多八大宿禰波美臣命の3柱で、毎年9月1日にお祭りがあり、2016年には武者行列が復活したそうです。境内に大きなケヤキがあったようですが、訪問した時には切株状態でした。お寺は、念慶寺で、17世紀初頭に創建された大谷派のお寺です。湖北から北陸に数多く残る一向宗のお寺の一つですが、寺内町を作るまでには至らなかったようです。境内に咲いていたハナミズキの花が見事でした。

 小谷城の場所は知らなくても、浅井長政とお市の方の悲劇の舞台となった城として知名度の高い城の一つです。お市の方は、柴田勝家と再婚しますが、再び城攻めに遭い2度の落城を経験しています。ところが、お市の方の孫にはそうそう樽人物がそろい、千姫、徳河家光、徳川和子などなどで、現在の天皇は徳川和子の血筋であることから、お市の方の子孫ということになります。お市の方のDNAが保存されていれば、現在の皇室のDNAとの間で、血縁関係が明らかになるのかもしれません。ただ、このDNA型鑑定は犯罪捜査に利用される割に、不明な点も多く、偶然の一致の確率など、母集団の数が少なくて検証できていないのだそうです。指紋の方は、コンピュータによる認証が進み、鍵の代わりや、戸籍として使われたり、出入国管理を短時間で通過できるなど犯罪捜査以外にも使われます。生体認証は、生体そのものの特徴で個人を特定しますが、生体にチップを埋め込まれるのは御免です。