世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

神武天皇が東に向けて船出したとされる美々津は、かつて県庁が存在したとは思えない静かな町並みがつづいています

2019-05-26 08:00:00 | 日本の町並み
 皇族が作った京都郊外の2つの離宮を紹介しましたが、この皇族の祖先で初代の天皇とされているのが神武天皇です。この神武帝が九州から大和に向け船出した土地が美々津とされています。神武東征と呼ばれている日本神話の一場面ですが、今回はこの美々津の町並みを紹介します。

 

 美々津は、宮崎県の北端の日向市の一部で、最寄り駅はJR日豊線の美々津駅、宮崎から各停で約1時間ほど、特急は停車しない小さな駅です。現在の美々津は人影もほとんど無く、時が止まったような静かな町ですが、廃藩置県が行われた後の明治4年には美々津県が制定され、県庁所在地にもなった町です。町並みを見下ろす丘の上にある市役所の美々津支所のそばには美々津県庁跡の石碑が置かれています。明治6年には宮崎県に併合され美々津県は1年2カ月の短命で消滅したようです。




 古い街並みは、美々津駅から北に、石並川を渡って右折し川沿いに海に出たあたり、およそ1.2kmほどの所から北に耳川の河口まで1kmほどにわたって延びています。この町並みは全国で118箇所ある重伝建地区に指定されています。町並みの北端の耳川の河口あたりには漁港があり、その近くには神武天皇が座ったとされる石が残り、神武神話に因んで日本海軍発祥の地なる記念碑まで建てられています。町並みの家には木で作られたポストが架けられていて、その前面には神武帝が乗船した御座船と思しき図案のあるものもありました。また、街中には共同井戸がいくつか残され、かつては各戸からここまで水を汲みに来ていたのでしょうか。

 
 
 江戸時代には高鍋藩の代官所が置かれ、美々津港は一帯の物資の集散地として美々津千軒と呼ばれた町並みで栄えたようです。しかし、海風の影響でしょうか度々大火に襲われ、その防火策として土蔵造りの家並が目立ちます。瀬戸内海を経由して近畿圏との交流が多かったせいか、これらの白漆喰の土蔵造りの家並にも、虫籠窓や千本格子など関西の影響が大きいようにも思います。関西ではあまり見かけなくなってしまった折り畳み式の縁側である「ばったり床几」を残す家も見かけました。ただ、物流の主体が海路から陸路に移るとともに美々津は忘れ去られた町になってしまい、現在では町並みのなか歩いても、ほとんど人を見かけません。ただ、この状態が、町を冷凍保存状態にして、見苦しい乱開発から免れさせたのかもしれません。

 
 
 
 
 
 古民家の一部は内部が公開されていて、廻船問屋であった旧矢野家は美々津軒として内部が見られます。札の辻近くには美々津町並みセンターがお休みどころとして開放され、お土産なども買うことができます。また、こちらも廻船問屋であった旧河内屋の建物は、歴史民俗資料館となっていて天井の高い部屋に2階の床が突き出している面白い建て方を見ることができます。古い古民家の中に、旧美々津郵便局者など下見板張りの洋館もあって、これが意外と町並みに溶け込んでいます。

 先日のTVで、大和朝廷と邪馬台国についての推論がなされていました。昔から邪馬台国の場所について論戦を繰り返して来ましたが、先日の論によると、そもそも邪馬台国は地方豪族の一つに過ぎず、たまたま魏に近い九州の豪族が魏志倭人伝に記述されたとの説で、納得できる内容でした。そうなると、天皇家の九州起源説とも関連しそうで、美々津からの出港も怪しくなってくるかもしれません。歴史書は勝ち組が書いたものしか残されず、負け組の事象は歪められたり抹消されます。古代を推論するのは、物理的に残された人骨や遺品がよりどころですが、IT技術を駆使した類似性などの解析をしても、決定打が出ないようです。ただ、あまりに確定的な解が出てしまうとロマンが無くなるのかもしれません。

世界遺産に登録の京都の社寺は広域に散らばっていて全部を廻るのは大変です(日本)

2019-05-19 08:00:00 | 世界遺産
 古都京都の文化財の紹介の2回目です。前回は京都市街の中心部を紹介しましたが、今回は周辺部を取り上げます。古都京都の登録社寺は全部で17か所で、前回が6か所で、今回は残りの11か所ですが、そのうちの何か所かは写真が古くて見当たらず写真抜きです、悪しからず。



 
 前回同様に、北の方から順に南下することにします。最初は比叡山延暦寺ですが、寺息のほとんどは滋賀県で、京都の社寺というのは厳密にはおかしいかもしれません。最澄が開いた天台宗の総本山で、空海が開いた和歌山の高野山と並び称される寺院です。江戸城の鬼門封じの寛永寺と同様に、京都の鬼門封じの寺として位置づけられ、寺院の庭のからの借景として重要な位置を占めています。京都側からも滋賀県側からもケーブルカーがあり、稜線伝いに南北にドライブウェーはあって難行苦行をしなくても根本中堂などを訪れることができます。この比叡山は、京都と滋賀の間に着いた手のようにそびえていますが、京都側の山麓で離した蚊が滋賀県側の山麓で発見されたそうです。まさか、ケーブルカーに乗って移動したわけでもないと思いますが。
 次は高山寺です。デュークエイセスの「おんな一人」に謳われたためでしょうか、他の三尾の高尾、槙尾を差し置いて唯一世界遺産に登録されています。国宝や重文の数では神護寺に及ばないのですが、鳥獣人物戯画は、京都、東京の博物館の特別展で待ち時間が3時間以上の人気でした。国宝指定の建物は石水院だけですが、新緑や紅葉の頃に訪れると、真っ黒の床にとのコントラストが絶品です。

 
 
 糺の森の北にある二つの神社は通称は上賀茂神社と下賀茂神社ですが、正式には、賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ)と加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)となります。京都で最も古い神社の一つで、奈良時代に加茂氏の氏神をまつる神社として創建されました。下賀茂神社は、天平の頃に上賀茂神社から分神されたという説もあるようです。斎王を中心とする行列が。御所を出て下賀茂神社を経由して上賀茂神社に至る葵祭は京都三大祭りとして有名ですが、古文で祭と言えば葵祭を差しました。共に本殿は国宝で、多数の建物や工芸品が重文に指定されています。上賀茂神社の近く明神川に沿って、神官の住居(社家)の並ぶ社家町があります。なかなか、趣のある街並みで、神社に参拝したらぜひ寄りたい町並みです。

 続いて市街地の西に位置する寺院群です。竜安寺は石庭で有名で、虎の子渡しなどと呼ばれていますが、現在の庭の様子は、創建時とはだいぶ異なったと言われています。有名になりすぎたこともあって、学生時代以降は訪れていないので写真は掲載無しです。国宝は無く、北条など重文が2点のみです。竜安寺の南西にあるのが仁和寺で、こちらは国宝だけで11点、重文に至っては30点以上と文化財の宝庫です。9世紀の仁和年間の創建で、皇室床入りの寺であったことが文化財の多さにつながるのかもしれません。宇多上皇の出家所が境内にあったので御室(おむろ)御所と呼ばれるようになりました。電気メーカのオムロンはこの御室に因んだ命名なのです。皇室とつながり権力も集中し反感を買ったのか、徒然草に登場するダメ僧侶は決まって仁和寺の僧のようです。
 
 仁和寺から嵐電に乗って終点まで行くと天龍寺、嵐山駅で阪急に乗り換えて上桂まで行って西に行くと西芳寺です。どちらも長らく行っていないので写真はありません。天龍寺は14世紀の創建で、一時期は京都五山の第一として栄えましたが、その後、戦乱や度重なる火災で被害に遭い、現在の伽藍はすべて明治以降のもので、重文に夢窓国師像など10点を所有するのみになり、有名なわりに文化財はほとんどありません。一方の西芳寺は、9世紀にあった草庵が鎌倉期に寺になったものです。江戸時代には荒廃をして、元あった石庭が苔だらけとなり、現在の苔寺になったそうです。石庭では有名にならなくても、放っておかれて苔だらけになり有名になったのは皮肉です。したがって文化財は重文2点のみですが、苔が有名なためか高額な拝観料と予約を必要とするようです。

 最後は、地下鉄の東西線で東南方向へ、、醍醐駅の東にある醍醐寺と、東西線の終点からさらに先の宇治にある寺と神社です。まず、醍醐寺は9世紀の創建で、醍醐とは醍醐味の言葉のようにチーズのような乳製品の一種です。室町期の戦乱で五重塔遺骸を失いましたが、秀吉の醍醐の花見をきっかけに多くの建物が再建や移築をされ、5棟の建物、絵画や仏像など15点が国宝指定です。重文に至っては70点ほどを所蔵し、文化財の宝庫です。学生時代に訪れて五重塔や三宝院の写真などを撮りましたが、少々古くて使えませんでした。

 
 宇治には京阪電車とJRの宇治駅があり、それぞれ宇治川の右岸と左岸戸に分かれています。京阪電車の駅のある右岸にあるのが宇治上神社で、創建は不明ですが10世紀に執筆された延喜式にその存在が書かれています。現在の本堂は11世紀に建てられたもので現存最古の神社建築で国宝指定です。他に拝殿が国宝、建物1棟と絵画1点が重文指定です。一方、JRの駅のある左岸にあるのが、10円玉でおなじみの平等院で、11世紀ごろの創建です。宇治は源氏物語の宇治10帖にも表れるように貴族の別荘地だったようで、藤原氏によって現生の浄土を実現するべく建てられたのが鳳凰堂です。現存の平等院は池の前に鳳凰堂んどが建つのみですが建物や仏像など多数の国宝と重文とを保有しています。

 京都の地下鉄は、東西と南北の2路線のみで、ほとんどの寺院への移動手段はバスになります。今回値上げされましたが、市バスの1日乗車券は随分と割安感があります。バス停で、次のバスまでどれくらい待つかを知る手段がバスロケで、現在ではGPSと無線とを組み合わせて、かなり正確な表示をしてくれるようです。京都ではこのバスロケが比較的早く導入されたように思いますが、観光客、特にアジア系の観光客の爆発的な増加で、来るバス来るバスが満員で乗られないことが多くって困ります。バス停にもセンサーを置いて、待っているお客が多いと臨時を出すシステムにしてほしいですが、観光客の増加が道路の容量を越えて、お手上げなのかもしれません。

修学院離宮は茶屋を結ぶ小道に野生鹿が現れたりでおおらかな感じがします

2019-05-12 08:00:00 | 日本の町並み
 京都御所、桂離宮と紹介してきましたが、最後は修学院離宮です。

 修学院離宮は、京都市街の北東、京都御所の鬼門は比叡山ですが、この鬼門の軸線の途中に位置します。そういえば桂離宮は御所の南西の裏鬼門になります。修学院離宮を建てたのは後水尾天皇で、桂離宮を建てた八条の宮ともども徳川幕府とは仲の悪かった皇族です。二つの離宮の場所は徳川幕府があてがったもので、わざと鬼門という忌み嫌われた場所を指定したというのは、徳川の嫌がらせという説を信じたくなります。しかし、この嫌がらせにも屈せず、徳川の建てる悪趣味な施設とは一味違った離宮を建てた気骨には拍手を送りたくなります。

 
 修学院離宮の広さは約54万㎡で桂離宮のおよそ8倍もあります。桂離宮は、平地に回遊庭園を造った感じですが、修学院は傾斜地に農地も取り込んで茶室が点在し、多くの池も散在してさすがに広い。訪問した時には野生のシカにも逢いました。ガイドしてくださる方のあたりにもよるのですが、修学院のガイドの方が細かいことはおっしゃらず、ゆったりしていました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 修学院離宮は、上、中、下の御茶屋の3つから構成され、その間ひ広がる農地も取り込んでいます。この農地は、宮内庁が契約をして付近の農家に耕作を委託しているのだそうです。上と下との間は、かなりの標高差があって、その間を結ぶ道はかつては田んぼのあぜ道であったものが明治天皇の行幸に備えて拡幅され松が植えられたのだそうです。桂離宮が繊細で幽玄美を誇っているのに対して、修学院は、離宮内に広い池がありなだらかな築山があったりで開放的でおおらかな感じがします。できれば2つの離宮を見比べると楽しいと思います。

 鬼門は中国に起源をもつものですが、日本に伝わった後に変化を遂げて現在のような考え方になったようです。御所の鬼門を封じるための寺が比叡山で、江戸城では寛永寺になります。御所では、これでも安心できず、築地塀の北東隅が凹んでいます。また、国立博物館は寛永寺の本坊跡に建っていますが本館を建てるときには、、鬼門の軸線を保って建てられています。鬼門は、現代では単なる俗信として片づけられますが、台所を裏鬼門筋に置かないのは、保存した食料品が腐らないようになど合理的な面もあるようです。ただ、大都会では方角もはっきりしなくて、GPS付きのスマホでやっと方角がわかることも多いかもしれません。

ロンドンから2時間のヘイスティングにはさしたる名所は少ないのですが陽光溢れる空気があります(イギリス)

2019-05-05 08:00:00 | 世界の町並み
 夏でも雪が残る高原から一気にフィヨルドの奥まで断崖を下っていく列車がフロム鉄道でした。フロム鉄道のように断崖は下りませんが、町の後方の断崖の上に城跡があって、フィヨルドではなく大西洋に面した美しいビーチがあるのがイギリスのヘイスティングです。ロンドンっ子の日帰り旅行地として人気の町を紹介します。

  
ヘイスティングスは、ロンドンのヴィクトリア駅かチャーリングクロス駅から列車で南に2時間くらい、進行方向が南から東に向いて海岸と平行になったあたりがヘイスティングです。ヘイスティングには4つの駅があって筆者が訪れた時にはヘイスティング駅の手前のセント・ウォリア・スクエア駅で、レンガ色のかわいらしい駅舎ですが、グーグルで見ると中央駅のヘイスティング駅舎は何処にでもあるようなビルのようです。駅舎は素っ気ないのですが、駅駅前の様子はセント・ウォリア・スクエア駅と同様に、落ち着いた感じの町並みが続いているようです。

 
 
 ヘイスティング城跡などの見どころは、駅の東に広がる丘陵地帯で、海に向かって延びてきた丘がすとんと切り取られたような所です。これらの丘は歩いてでも登れますが、短いケーブルカー(イギリスではリフトと呼んでますが)があって、日本のケーヅルカーのように単線で行き違い部分だけ複線という構造ではなく、全線複線になってます。筆者はイースト・ヒル・リフトに乗りましたが、あっという間に頂上駅です。

 
  
 一方の、ウェスト・ヒル・リフトで上った高台には、ヘイスティング城跡で石造りの廃墟が丘の上に散らばっています。海岸線の防備のために作られた砦とのことですが、さすがに眺めが良くって、西には市街地が、南には大西洋が、東にはウェスト・ヒルの向こうにイースト・ヒルが望めます。

 
 
 城跡からイーストヒルまでは下りたり登ったりのハイキングコースで、この坂道も感じの良い場所が沢山あります。ヘイシティングスがロンドン子に人気なのはこのような町並みななのかもしれません。特に、イーストヒルの手前には、オールド・セイントゥ通りが南北に通っていて、この通りを中心に、古い街並みが広がっています。緩やかな坂に石畳の道、石壁の家など安野光雅の絵本に出てきそうな風景が広がっています。町並み散歩に疲れたら、すぐ近くにある浜辺に出ると、イギリス料理で唯一おいしいとされているフィッシュ・アンド・チップスが売れれていて、新鮮な魚のフライが食べられます。

 単線のケーブルカーが、行き違いをする複線区間で車両ごとに決まった側を通るのですが、この仕組みをご存知でしょうか。通常の鉄道では、ポイントがあって切り替えているのですが、ケーブルカーの仕組みではポイントはありません。車両についている車輪のうち、片側のものはフランジが両方に付き、他方にはフランジがありません。2台の車両の舎利ンおフランジのある側は、一方は左、他方は右で、複線部分のレールに誘引されて、それぞれが右左に分かれます。ポイントという可動部もなく、実に自然でスマートなやり方です。新幹線などの高速列車は、コンピュータによる複雑な列車制御システムで安全に運行され、このシステムの優秀さが日本技術の売りになっていますが、ケーブルカーのシステムはシンプルの極致と言えるかもしれません。