皇族が作った京都郊外の2つの離宮を紹介しましたが、この皇族の祖先で初代の天皇とされているのが神武天皇です。この神武帝が九州から大和に向け船出した土地が美々津とされています。神武東征と呼ばれている日本神話の一場面ですが、今回はこの美々津の町並みを紹介します。
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美々津は、宮崎県の北端の日向市の一部で、最寄り駅はJR日豊線の美々津駅、宮崎から各停で約1時間ほど、特急は停車しない小さな駅です。現在の美々津は人影もほとんど無く、時が止まったような静かな町ですが、廃藩置県が行われた後の明治4年には美々津県が制定され、県庁所在地にもなった町です。町並みを見下ろす丘の上にある市役所の美々津支所のそばには美々津県庁跡の石碑が置かれています。明治6年には宮崎県に併合され美々津県は1年2カ月の短命で消滅したようです。
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古い街並みは、美々津駅から北に、石並川を渡って右折し川沿いに海に出たあたり、およそ1.2kmほどの所から北に耳川の河口まで1kmほどにわたって延びています。この町並みは全国で118箇所ある重伝建地区に指定されています。町並みの北端の耳川の河口あたりには漁港があり、その近くには神武天皇が座ったとされる石が残り、神武神話に因んで日本海軍発祥の地なる記念碑まで建てられています。町並みの家には木で作られたポストが架けられていて、その前面には神武帝が乗船した御座船と思しき図案のあるものもありました。また、街中には共同井戸がいくつか残され、かつては各戸からここまで水を汲みに来ていたのでしょうか。
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江戸時代には高鍋藩の代官所が置かれ、美々津港は一帯の物資の集散地として美々津千軒と呼ばれた町並みで栄えたようです。しかし、海風の影響でしょうか度々大火に襲われ、その防火策として土蔵造りの家並が目立ちます。瀬戸内海を経由して近畿圏との交流が多かったせいか、これらの白漆喰の土蔵造りの家並にも、虫籠窓や千本格子など関西の影響が大きいようにも思います。関西ではあまり見かけなくなってしまった折り畳み式の縁側である「ばったり床几」を残す家も見かけました。ただ、物流の主体が海路から陸路に移るとともに美々津は忘れ去られた町になってしまい、現在では町並みのなか歩いても、ほとんど人を見かけません。ただ、この状態が、町を冷凍保存状態にして、見苦しい乱開発から免れさせたのかもしれません。
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古民家の一部は内部が公開されていて、廻船問屋であった旧矢野家は美々津軒として内部が見られます。札の辻近くには美々津町並みセンターがお休みどころとして開放され、お土産なども買うことができます。また、こちらも廻船問屋であった旧河内屋の建物は、歴史民俗資料館となっていて天井の高い部屋に2階の床が突き出している面白い建て方を見ることができます。古い古民家の中に、旧美々津郵便局者など下見板張りの洋館もあって、これが意外と町並みに溶け込んでいます。
先日のTVで、大和朝廷と邪馬台国についての推論がなされていました。昔から邪馬台国の場所について論戦を繰り返して来ましたが、先日の論によると、そもそも邪馬台国は地方豪族の一つに過ぎず、たまたま魏に近い九州の豪族が魏志倭人伝に記述されたとの説で、納得できる内容でした。そうなると、天皇家の九州起源説とも関連しそうで、美々津からの出港も怪しくなってくるかもしれません。歴史書は勝ち組が書いたものしか残されず、負け組の事象は歪められたり抹消されます。古代を推論するのは、物理的に残された人骨や遺品がよりどころですが、IT技術を駆使した類似性などの解析をしても、決定打が出ないようです。ただ、あまりに確定的な解が出てしまうとロマンが無くなるのかもしれません。
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美々津は、宮崎県の北端の日向市の一部で、最寄り駅はJR日豊線の美々津駅、宮崎から各停で約1時間ほど、特急は停車しない小さな駅です。現在の美々津は人影もほとんど無く、時が止まったような静かな町ですが、廃藩置県が行われた後の明治4年には美々津県が制定され、県庁所在地にもなった町です。町並みを見下ろす丘の上にある市役所の美々津支所のそばには美々津県庁跡の石碑が置かれています。明治6年には宮崎県に併合され美々津県は1年2カ月の短命で消滅したようです。
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古い街並みは、美々津駅から北に、石並川を渡って右折し川沿いに海に出たあたり、およそ1.2kmほどの所から北に耳川の河口まで1kmほどにわたって延びています。この町並みは全国で118箇所ある重伝建地区に指定されています。町並みの北端の耳川の河口あたりには漁港があり、その近くには神武天皇が座ったとされる石が残り、神武神話に因んで日本海軍発祥の地なる記念碑まで建てられています。町並みの家には木で作られたポストが架けられていて、その前面には神武帝が乗船した御座船と思しき図案のあるものもありました。また、街中には共同井戸がいくつか残され、かつては各戸からここまで水を汲みに来ていたのでしょうか。
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江戸時代には高鍋藩の代官所が置かれ、美々津港は一帯の物資の集散地として美々津千軒と呼ばれた町並みで栄えたようです。しかし、海風の影響でしょうか度々大火に襲われ、その防火策として土蔵造りの家並が目立ちます。瀬戸内海を経由して近畿圏との交流が多かったせいか、これらの白漆喰の土蔵造りの家並にも、虫籠窓や千本格子など関西の影響が大きいようにも思います。関西ではあまり見かけなくなってしまった折り畳み式の縁側である「ばったり床几」を残す家も見かけました。ただ、物流の主体が海路から陸路に移るとともに美々津は忘れ去られた町になってしまい、現在では町並みのなか歩いても、ほとんど人を見かけません。ただ、この状態が、町を冷凍保存状態にして、見苦しい乱開発から免れさせたのかもしれません。
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古民家の一部は内部が公開されていて、廻船問屋であった旧矢野家は美々津軒として内部が見られます。札の辻近くには美々津町並みセンターがお休みどころとして開放され、お土産なども買うことができます。また、こちらも廻船問屋であった旧河内屋の建物は、歴史民俗資料館となっていて天井の高い部屋に2階の床が突き出している面白い建て方を見ることができます。古い古民家の中に、旧美々津郵便局者など下見板張りの洋館もあって、これが意外と町並みに溶け込んでいます。
先日のTVで、大和朝廷と邪馬台国についての推論がなされていました。昔から邪馬台国の場所について論戦を繰り返して来ましたが、先日の論によると、そもそも邪馬台国は地方豪族の一つに過ぎず、たまたま魏に近い九州の豪族が魏志倭人伝に記述されたとの説で、納得できる内容でした。そうなると、天皇家の九州起源説とも関連しそうで、美々津からの出港も怪しくなってくるかもしれません。歴史書は勝ち組が書いたものしか残されず、負け組の事象は歪められたり抹消されます。古代を推論するのは、物理的に残された人骨や遺品がよりどころですが、IT技術を駆使した類似性などの解析をしても、決定打が出ないようです。ただ、あまりに確定的な解が出てしまうとロマンが無くなるのかもしれません。