茶道で使う抹茶の生産高日本一を誇るのは京都の宇治ではなく三河湾の北に位置する西尾でしたが、茶室の中で国宝に指定されているものが三つあります。二つまでは京都にありますが、残りの一つ、これがまた西尾がある愛知県の犬山にあります。今回は、国宝の茶室如庵(じょあん)のある犬山付近を紹介します。
国宝に指定されている茶室は、京都北野の大徳寺龍光院の密庵(みったん)、京都府大山崎町の妙喜庵の待庵(たいあん)それに犬山にある如庵です。密庵は塔頭自体が非公開、待庵は見学の1ヶ月以上前に予約申し込みが必要で内部には入られません。そして残る、如庵については毎年3、11月に一般公開され、手がるに見学ができます。
この如庵は元来が犬山にあったわけではないのです。東に西にと大移動をした茶室だったのです。如庵ももとは京都にあり、建仁寺の塔頭の一つの正伝院に建っていました。明治維新の後の政府によって建仁寺は土地を没収され、残っっていた如庵は京都府の所有となります。明治後期に東京の三井家に売却され、東海道を東京に引き取られていきました。その後、三井の別荘のある大磯に移築され、さらには持ち主が名古屋鉄道となり、昭和46年に現在の犬山の有楽苑に移されました。なんとも、波乱万丈な茶室だったのですが、ちなみに京都から東京への引越しの時には解体されず、そのままの形で運ばれたのだそうです。
犬山市は愛知県の北の端、木曽川を渡ると岐阜県の各務原(かがみはら)市になります。この木曽川を渡り県境を跨ぐ橋なのですが、2000年までは、名鉄の各務原線と国道が一つの橋を共用していました。名鉄ご自慢のパノラマカーと車とが並んで走っている姿が見かけられました。さすがに交通量が増えて、接触事故の危険もあり、下流にツインブリッジという道路橋が架けられ、現在は電車と車/人とは別の橋を渡っています。
この橋からもよく見えるのが、国宝の犬山城です。
日本各地の天守閣は、江戸期に火災で焼失したり明治維新で取り壊されたり、さらには戦災で失われたりし、復興天守を除くと全国で12箇所が残されているにすぎず、国宝は姫路、彦根、松本それに犬山の4箇所だけです。この犬山城は、最後まで城主の存在したお城として有名です。犬山城は明治維新後に廃城になり、天守以外は取り壊されてしまいましたが、明治中期の地震でその天守も被害を受けたため、旧犬山藩主に譲渡され修復が行われました。その後、平成16年までお殿様が存在するという、個人所有のお城でした。さすがに、個人では維持が大変であったようで、現在は財団法人の所有になり、現役の城主は途絶えてしまいました。
犬山城は、木曽川沿いの丘の上にある状況が、長江沿いにあった白帝城に似ているということで別名を白帝城とも呼ばれています。中国の白帝城は三峡にあったお城で、三国志で有名な劉備が亡くなったところとして有名です。さらに、上流の美濃加茂市から犬山市にかけての木曽川沿岸は日本ラインという名称が付いています。ドイツのライン川に似た風景と、地理学者の志賀重昴が命名したそうですが、本家のライン川沿岸には鼠城、猫城をはじめ数多くの古城が残ってますが、日本ラインの犬山城だけではちょっと寂しいのではないでしょうか。
茶室は、小さなものが多く、千利休の侘び茶以降は2畳や3畳という極端に狭いものが主流になりました。如庵も二畳半台目という狭さです。
この狭い空間に、これまた狭いにじり口を通って入り、中で茶を飲んだわけです。刀などの武器を持たずに、生身の人間が肌を触れ合わんばかりの近さでコミュニケーションすることを演出した空間であったのではないでしょうか。どこかのケータイ会社のCMに、携帯メールなら言いにくかったことも言える、コミュニケーションができる、というのがありましたが、機械経由でないと意志伝達ができない人種が増えたのでしょうか。
国宝に指定されている茶室は、京都北野の大徳寺龍光院の密庵(みったん)、京都府大山崎町の妙喜庵の待庵(たいあん)それに犬山にある如庵です。密庵は塔頭自体が非公開、待庵は見学の1ヶ月以上前に予約申し込みが必要で内部には入られません。そして残る、如庵については毎年3、11月に一般公開され、手がるに見学ができます。
この如庵は元来が犬山にあったわけではないのです。東に西にと大移動をした茶室だったのです。如庵ももとは京都にあり、建仁寺の塔頭の一つの正伝院に建っていました。明治維新の後の政府によって建仁寺は土地を没収され、残っっていた如庵は京都府の所有となります。明治後期に東京の三井家に売却され、東海道を東京に引き取られていきました。その後、三井の別荘のある大磯に移築され、さらには持ち主が名古屋鉄道となり、昭和46年に現在の犬山の有楽苑に移されました。なんとも、波乱万丈な茶室だったのですが、ちなみに京都から東京への引越しの時には解体されず、そのままの形で運ばれたのだそうです。
犬山市は愛知県の北の端、木曽川を渡ると岐阜県の各務原(かがみはら)市になります。この木曽川を渡り県境を跨ぐ橋なのですが、2000年までは、名鉄の各務原線と国道が一つの橋を共用していました。名鉄ご自慢のパノラマカーと車とが並んで走っている姿が見かけられました。さすがに交通量が増えて、接触事故の危険もあり、下流にツインブリッジという道路橋が架けられ、現在は電車と車/人とは別の橋を渡っています。
この橋からもよく見えるのが、国宝の犬山城です。
日本各地の天守閣は、江戸期に火災で焼失したり明治維新で取り壊されたり、さらには戦災で失われたりし、復興天守を除くと全国で12箇所が残されているにすぎず、国宝は姫路、彦根、松本それに犬山の4箇所だけです。この犬山城は、最後まで城主の存在したお城として有名です。犬山城は明治維新後に廃城になり、天守以外は取り壊されてしまいましたが、明治中期の地震でその天守も被害を受けたため、旧犬山藩主に譲渡され修復が行われました。その後、平成16年までお殿様が存在するという、個人所有のお城でした。さすがに、個人では維持が大変であったようで、現在は財団法人の所有になり、現役の城主は途絶えてしまいました。
犬山城は、木曽川沿いの丘の上にある状況が、長江沿いにあった白帝城に似ているということで別名を白帝城とも呼ばれています。中国の白帝城は三峡にあったお城で、三国志で有名な劉備が亡くなったところとして有名です。さらに、上流の美濃加茂市から犬山市にかけての木曽川沿岸は日本ラインという名称が付いています。ドイツのライン川に似た風景と、地理学者の志賀重昴が命名したそうですが、本家のライン川沿岸には鼠城、猫城をはじめ数多くの古城が残ってますが、日本ラインの犬山城だけではちょっと寂しいのではないでしょうか。
茶室は、小さなものが多く、千利休の侘び茶以降は2畳や3畳という極端に狭いものが主流になりました。如庵も二畳半台目という狭さです。
この狭い空間に、これまた狭いにじり口を通って入り、中で茶を飲んだわけです。刀などの武器を持たずに、生身の人間が肌を触れ合わんばかりの近さでコミュニケーションすることを演出した空間であったのではないでしょうか。どこかのケータイ会社のCMに、携帯メールなら言いにくかったことも言える、コミュニケーションができる、というのがありましたが、機械経由でないと意志伝達ができない人種が増えたのでしょうか。