世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

白帝城に日本ラインと借り物の名前が付いていますが、犬山には天守も茶室も国宝がそろっています

2010-02-28 08:00:00 | 日本の町並み
 茶道で使う抹茶の生産高日本一を誇るのは京都の宇治ではなく三河湾の北に位置する西尾でしたが、茶室の中で国宝に指定されているものが三つあります。二つまでは京都にありますが、残りの一つ、これがまた西尾がある愛知県の犬山にあります。今回は、国宝の茶室如庵(じょあん)のある犬山付近を紹介します。

 国宝に指定されている茶室は、京都北野の大徳寺龍光院の密庵(みったん)、京都府大山崎町の妙喜庵の待庵(たいあん)それに犬山にある如庵です。密庵は塔頭自体が非公開、待庵は見学の1ヶ月以上前に予約申し込みが必要で内部には入られません。そして残る、如庵については毎年3、11月に一般公開され、手がるに見学ができます。

 この如庵は元来が犬山にあったわけではないのです。東に西にと大移動をした茶室だったのです。如庵ももとは京都にあり、建仁寺の塔頭の一つの正伝院に建っていました。明治維新の後の政府によって建仁寺は土地を没収され、残っっていた如庵は京都府の所有となります。明治後期に東京の三井家に売却され、東海道を東京に引き取られていきました。その後、三井の別荘のある大磯に移築され、さらには持ち主が名古屋鉄道となり、昭和46年に現在の犬山の有楽苑に移されました。なんとも、波乱万丈な茶室だったのですが、ちなみに京都から東京への引越しの時には解体されず、そのままの形で運ばれたのだそうです。

 犬山市は愛知県の北の端、木曽川を渡ると岐阜県の各務原(かがみはら)市になります。この木曽川を渡り県境を跨ぐ橋なのですが、2000年までは、名鉄の各務原線と国道が一つの橋を共用していました。名鉄ご自慢のパノラマカーと車とが並んで走っている姿が見かけられました。さすがに交通量が増えて、接触事故の危険もあり、下流にツインブリッジという道路橋が架けられ、現在は電車と車/人とは別の橋を渡っています。

 この橋からもよく見えるのが、国宝の犬山城です。

日本各地の天守閣は、江戸期に火災で焼失したり明治維新で取り壊されたり、さらには戦災で失われたりし、復興天守を除くと全国で12箇所が残されているにすぎず、国宝は姫路、彦根、松本それに犬山の4箇所だけです。この犬山城は、最後まで城主の存在したお城として有名です。犬山城は明治維新後に廃城になり、天守以外は取り壊されてしまいましたが、明治中期の地震でその天守も被害を受けたため、旧犬山藩主に譲渡され修復が行われました。その後、平成16年までお殿様が存在するという、個人所有のお城でした。さすがに、個人では維持が大変であったようで、現在は財団法人の所有になり、現役の城主は途絶えてしまいました。

 犬山城は、木曽川沿いの丘の上にある状況が、長江沿いにあった白帝城に似ているということで別名を白帝城とも呼ばれています。中国の白帝城は三峡にあったお城で、三国志で有名な劉備が亡くなったところとして有名です。さらに、上流の美濃加茂市から犬山市にかけての木曽川沿岸は日本ラインという名称が付いています。ドイツのライン川に似た風景と、地理学者の志賀重昴が命名したそうですが、本家のライン川沿岸には鼠城、猫城をはじめ数多くの古城が残ってますが、日本ラインの犬山城だけではちょっと寂しいのではないでしょうか。

 茶室は、小さなものが多く、千利休の侘び茶以降は2畳や3畳という極端に狭いものが主流になりました。如庵も二畳半台目という狭さです。

この狭い空間に、これまた狭いにじり口を通って入り、中で茶を飲んだわけです。刀などの武器を持たずに、生身の人間が肌を触れ合わんばかりの近さでコミュニケーションすることを演出した空間であったのではないでしょうか。どこかのケータイ会社のCMに、携帯メールなら言いにくかったことも言える、コミュニケーションができる、というのがありましたが、機械経由でないと意志伝達ができない人種が増えたのでしょうか。

抹茶の生産高日本一の西尾市内は板に囲まれた空間の続く町並みがありました

2010-02-21 08:00:00 | 日本の町並み
 久留米の南にあって、日本一の仏壇や石灯籠に混じって、玉露の生産高日本一を誇る町が八女でしたが、茶道で使う抹茶の生産高日本一を誇るのは、京都でも静岡でもない愛知県の西尾なのです。今回は、板張りの古い家並みが続く西尾の町並みを紹介します。

 西尾市は、愛知県の南部にあって一部を三河湾に接しており、名鉄の本線を新安城で西尾線に乗り換え20分くらいのところです。松平氏の城下町で、三河の小京都とも呼ばれ城跡には櫓などが再建されています。抹茶の原料となるお茶の栽培は、駅の西北2~3kmの矢作川に沿った丘陵地帯のようですが、滞在時間が短く古い町並みの散歩だけしかできませんでした。その古い町並みは、駅から500~600mくらい西よりの一郭です。ただ、小京都と呼ばれる割には、古い町並みが残る範囲は狭く、新しい商店が町並み食い込んだりして規模もさほど大きくありません。ただ、最近は町並みの整備が行われて、落ち着いた景観を取り戻しつつあるのだそうです。

 西尾の町並みで感じたのは、他でよく見られる格子のある家や白壁の土蔵造りの家のに比べて、下見板張りの壁を持つ家や塀が目立つところでした。もちろんなまこ壁を持つ、豪商の旧家らしい建物も残されているのですが、家の外部から見て土ではなく木の面積が広いように思います。
 
重々しさは無いのですが、寂れたというか、朽ちた感じがしないでもない町並みの風景です。

 この板張りの家屋の一つが、大給町の武家屋敷跡で、西尾藩の中級武士の屋敷の遺構だそうです。

長屋門の屋根の線が微妙に波打っていtことと、そばに咲いていた、モブシの花でしょうか、その白さが印象に残っています。もう一つは、石垣の上に下部が板張りの塀が続く順海町の唯法寺の路地です。

通りがアナログ的にカーブをして少し坂になっていて、先まで見通せないところが、「その先には、何があるのだろう?」という期待を持たせて良いのかもしれません。城下町の寺院は、いざというときには砦の役割を持たされていた言われます。石垣の上の高い塀や先の見通せない路地も、城下町ゆえの風景なのかもしれません。

 これらに箇所への途中にも、板張りが剥がれて土壁が見える図柄が、

なぜか美しい家や、店の前に大きな樽が置かれてある味噌作りのお店などありました。

駆け足で廻ったので、城跡公園や岩瀬文庫などには寄ることができませんでしたが、レンタサイクルもあるようで、もう一度ゆっくりと廻ると、また違った発見があるかも知れない町でした。

 抹茶といえば茶道ですが、茶室という建築空間に、茶碗や茶道具の工芸品、掛け軸の絵画、茶室を取り巻く造園、さらには茶室内や周りの音までもが計算された美を演出する、まさしく茶道は総合芸術といえるのではないでしょうか。ただ、その発生学的には、美味しいお茶を飲みながらコミュニケーションを楽しむ場の提供だったのではないかと思います。現在の家元制度により、お稽古事としての茶道は、お茶碗のどこから飲むとか、礼の仕方はどうだとか、ふくさ捌きはどのようにするかというような表面的な形式に走りがちなようにも思います。これらの形式が成立した理由は、他の人に不愉快な思いをさせないとか、見ていて美しい所作だとかの合理的なものであったと思います。テーブルマナーも、何かと小うるさく、形式ばかりを押し付けられますが、これとても、同席の人に不愉快な思いをさせないなどの理由からマナーとして体系だてられたのでしょう。これらの本来の心を理解できなくて、表面的な形式を追いかけてしまうのは、小さな画面でダイジェストの情報だけを簡単に得られてしまうケイタイ文化も影響しているのでしょうか。

昼間に見る廃墟のようなアユタヤ遺跡も夜空にライトアップされより印象的になります(タイ)

2010-02-14 08:00:00 | 世界遺産
地中海を制覇したフェニキア人が作った都市の遺跡がカルタゴ遺跡でしたが、世界の歴史の中で一つの権力が永遠に続くことは無く、新しく興った勢力などに取って代わられ滅びていきます。カルタゴはローマに滅ぼされましたが、14世紀にタイ中部に興り繁栄をしたアユタヤ王朝も、18世紀にはビルマに滅ぼされ、王宮跡には石造りの仏塔の他は廃墟のような基石が残るばかりになっています。今回は、日本の鎖国の前に作られた日本人町のお香も残されているアユタヤ歴史公園を紹介します。

 アユタヤ歴史公園は、バンコックの北60kmほどにあり、パッケージツアーの観光客などは、バンコック市内からバスなどで2時間足らずで到達できます。ちなみに、バンコックの都市名は英語や日本語による俗称で、正式名称はカタカナ表記で120文字ほどの猛烈に長い名前です。これでは、寿限無(じゅげむ)と同様に不便ですから、現地ではクルンテープの名称が使われています。筆者がアユタヤを訪れたのはもう12年も前なので、記憶も薄らいでいますし、状況も変わっているかもしれません。バンコックも、当時からは空港も変わっていますし、市内にモノレールもできているようです。

 バンコックからのバスが市内を抜けるのに渋滞でけっこう時間がかかった記憶があります。郊外に出ると気持ちのよい青空と緑が広がっていて、バンコックの喧騒との対比が印象に残っています。最初に訪れたのがアユタヤの町の手前にある日本人町の跡だったように思います。

アユタヤの日本人町は、14世紀室町時代に始まり、徳川の鎖国令により衰退しましたが、18世紀ごろまで細々と続いたのだそうです。ビルマと諍いの絶えなかったアユタヤが、日本人の浪人を傭兵として使ったことが始まりで、江戸時代初期に活躍した山田長政の名前は良く知られています。現在は、日本人町があったという記念碑がぽつんと建つ、緑の中の公園で、日本人観光客ばかりが目立つ場所のようです。

 アユタヤの町には夕方に着き、遺跡の夜景を見に行きましたが、ライトアップされた遺跡は、暗闇の中に石塔だけが浮かび上がり、余分なものが見えなくてとても印象的でした。
 
たまたま、その日だけライトアップされていたのか、年中なされていたのか定かではありませんが、なにやら地元の人が随分と来ていてお祭り気分だったことから、その日は特別な日だったのかもしれません。ただ、遺跡の足元はでこぼこで、暗くってよく見えず、何度も転びそうになったことや、連れてきてもらったバスの駐車位置を見失わないかが不安だった記憶があります。

 明るいアユタヤは翌日に訪れました。象の背中に乗って王宮遺跡の近くを通ったようにも思います。崩れた王宮の建物の基壇や石塔が、視点の高い象の背中ら、王宮遺跡を囲む塀越しに望むことができました。

アユタヤの遺跡は、一部の石塔を除いてほとんどが廃墟の状態で、レンガで造られていた寺院建築などは、建物の基礎や一部の柱が残っているだけです。日本の建築は木造が大部分で、戦乱などで破壊や焼き討ちに合うと跡形残さず消え去って、廃墟を余り見ることがありません。このためか、廃墟を見ると、珍しさも手伝ってか、滅びの美学のようなものを感じてしまいます。

 最近の観光地ではライトアップが当たり前のように増えているようです。都市部でも、冬の風物詩のようになりました。寒い冬に、それも日が暮れてさらに寒くなる夜間にライトアップを見に行くのは辛いので、夕涼み季節にやって欲しいとも思うのですが、夏は暗くなるのが遅いのでライトアップのにはそぐわないのかもしれません。それとも、町の風景が地味になる冬場にライトアップで盛り上げようということかもしれません、もちろんクリスマス・シーズンとの関連もあるのでしょう。ライトアップは、の美しさの理由の一つは、ライトの当たっているところだけが見えて、他は見えなくなるからでしょう。現実世界では、見えない情報も重要というより、見えにくい情報の方が重要なことも多いようです。インターネットで流通する、種々の情報に権力が介入して見せなくする、自分たちに不都合な部分は、ライトを当てないで暗闇に葬り去るというのは、ライトアップの景色とは違って後免こうむりたいですね。

巨大な仏壇と石灯籠は目を見開きますが、舌を楽しませるのは八女茶でした

2010-02-07 08:00:00 | 日本の町並み
 近くを通るJR常磐線も交流電化にして観測に影響を与えないようにした地磁気観測所のあるところが、宿場町の小幡でしたが、JRの電化路線がすべて交流電化の九州にあって、電化されないままに廃線となった路線も多いものです。それらの中の矢部線が通っていた町の一つが八女です。今回は、お茶の生産でも有名な九州の八女を紹介します。
 八女市は福岡県の南西部、久留米市の南に隣接しており、JR矢部線廃線の後の最寄り駅は鹿児島本線の羽犬塚駅で、駅からバスで20分くらい東に走ったところです。現在では鉄道の走っていない町ですが、かつてはJRだけではなく久留米から西鉄線も伸びてきていたそうです。国道3号線の上を走る路面電車だったため、交通の妨げになるとの理由で1958年に廃線になってしまったようです。たしかに、この道は交通量が多く、八女から来る明記のバスに乗りましたが、夕方のラッシュのせいもあってか、バスダイヤの1.5倍くらいの時間がかかりました
 JRの羽犬塚からのバスは町並みの北辺を東に走るので、途中下車をして、古い町並みの残る南の方に散歩をします。八女の町並みは、白漆喰の土蔵造りの家並みが目立ち、その数もかなり残っています。
 
これらの中で、造り酒屋であった旧木下家住宅(堺屋)が市に寄贈され、お屋敷が公開され見学ができます。明治後期に建てられた商家の邸宅の離れと土蔵のみとのことですが、随分と豪華なお家です。

トイレの床に張られたタイルの絵模様も現代的で、思わず写真に撮ってしまいました。

また土蔵の中の展示にあった、お祭りで使う獅子頭も迫力がありました。

 堺屋をはじめ、古い町並みの家々は江戸から昭和にかけての家並みだそうで、ほとんどが商家のようです。堺屋の建物は現役ではありませんが、商家の多くは現役のもので、提灯屋、

お菓子屋それに仏壇屋などが軒を連ねています。八女の仏壇は伝統があって、伝統工芸館には日本一の仏壇というのが展示されています。写真では比較するものが無いので解りづらいのですが、高さが6.5m、重さが2tもあるそうです。とても通常の家には置けそうも無い巨大さです。この伝統工芸館の庭には、これも日本一という石灯籠も飾られています。
 
 伝統工芸館には、仏壇の展示のほかに八女の特産品の八女茶も販売されていますが、釜煎り茶がおおい九州にあって、静岡や宇治などと同じ蒸して手揉みをする製法が採られいて、同じような煎茶の味が楽しめます。八女のあたりは、内陸性の気候で昼夜の気温差が大きく、茶の栽培に適しているそうで、良質の茶葉を産しています。特に、高級茶の玉露の生産量では半分のシェアを持ち、日本一なのだそうです。現在では、日本茶を代表する玉露の生産量日本一を誇る八女ですが、明治期には紅茶の生産を行っていた時期があるそうです。紅茶は日照時間が長いほど良質の茶葉ができるので、八女は適地だったのかもしれませんが、インドのアッサム茶との競争に敗れて、日本茶の生産に戻ったのだそうです
 お茶の渋さはカテキンによるものですが、このカテキンは、高血圧の予防や血中コレステロールの調節、体脂肪をが付きにくくする効果や、さらには抗酸化作用による老化防止やがん予防など、いいこと尽くめの効能があるそうです。最近は、カテキンの濃度を高めた特定健康用食品の表示がある飲料も多く見受けられるようになりました。ただ、カテキンの体に対するメカニズムは、はっきりとは解明されていないようで、さらには大量に摂取すると肝臓障害を引き起こすという症例報告もあるそうです。どこにいてもコミュニケーションができ、必要な情報にアクセスでき、いまや生活費tづ需品になった携帯電話も、必要以上に使うと、一時も手放せなくなる携帯電話依存症を引き起こす加害者となります。何事も、適量を心がけることが肝心ですが、それがまた難しいのかもしれません。