世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

戦闘という名前の付いたバターリャは戦勝記念に建てられた修道院です(ポルトガル)

2008-11-30 15:54:55 | 世界遺産
 ペドロとイネスが復活の時に起き上がるとお互いに向き合うように葬られた修道院がアルコバッサのサンタ・マリア修道院でしたが、ペドロ1世の庶子のジョアン1世が、長年の宿敵であるカスティーリアとの戦勝を聖母マリアに感謝して建てたのがバターリャ修道院です。修道院の建築様式はアルコバッサのサンタ・マリア修道院をお手本にしたゴシックを基調にルネサンスを融合させた美しい聖堂です。今回は、アルコバッサの続編として、こちらも世界遺産になっているバターリャ修道院を紹介します。

バターリャ修道院は正式名称を聖母マリア修道院といいますが、それを建てたジョアン1世は、ペドロ1世がイネスの死後に妾妃テレサ・ロレンソとの間にもうけた子供です。ジョアン1世はペドロ1世を次いだ異母兄のフェルディナンド1世あとを継ぎ、ポルトガルの全盛時代の基礎を築い王様と言われています。話はペドロ1世に戻りますが、イネスとの悲恋の物語の主人公になりすましていますが、ジョアン1世の母のテレサ・ロレンソの他にも愛妾がいたようです。王妃に子供を生ませた後に捨てたり、さらには幽閉して死に至らしめたりと、とても悲恋の物語の主人公とは言えない不実の人だったようです。

 さてバターリャですが、アルコバッサの北北東20kmほどに位置し、人口は1万人に満たない小さな町で周りは緑一面の野原に囲まれています。アルコバッサと同様に鉄道は通ってなくて、旅行者にとって訪れるのに不便な世界遺産の町の一つです。筆者は前回のアルコバッサともども、リスボンから現地発着のツアーバスに連れて行ってもらいました。

 修道院を建てるきっかけは、ジョアン1世の戦勝を聖母マリアに感謝するため14世紀に建設開始がなされましたが、その後130年間続けられ、ジョアン3世が、ジェロニモス修道院の建設に全力を注ぐ決定をし、バターリャは未完のまま建設を中断されたようです。19世紀にはナポレオン軍によって破壊され、無人となった修道院は廃墟となり、やがてゴシック建築の傑作が見直され20世紀初めまで修復が続いたそうです。

 南側に広場があり、そこから眺めたゴシックを基調とする聖堂の外観は垂直線の目立つ鋭角的な印象を受けます。
 入り口は西に回り込んだところにあって、入り口上部のアーチにはキリストの戴冠が彫り込まれていますが、彫刻の繊細さを見上げていると、外観を見たときの印象とはちょっと変わってきます。

 中に入って、回廊の柱やその上部に施された彫刻も、

ずいぶんと手がこんでいるようで、アルコバッサのシンプルさとはだいぶ雰囲気が違うようです。

 ただ、どちらの聖堂も材料の石の温かみのある色と造形とがそれぞれで調和が取れていて共に美しい建築のように思います。シンプルさを取るか繊細さを取るかは趣味の問題かもしれません。

 そして、130年かかっても未完の修道院であったことを証明する、未完の礼拝堂が残っています。礼拝堂の入り口から入り上を見上げるとギョッとしてしまいます。そこには天井ではなく青空が覗いているからです。まるで、天井が崩落したか爆弾か何かが落ちて上部が破壊されてしまったような印象です。

バルセロナのサグラダ・ファミリアの入り口から中に入ったときの印象とも似ているかもしれません。サグラダ・ファミリアのほうは、建設途中ゆえ、内部は工事資材の置き場になっていて、ガランとした空間でしたが、最近の報道などを見るとちょっと様子が変わったようで、巨大な足場が組まれて、普通のビルの建設現場の雑然さと変わらない様子です。

 バターリャの修道院は、ケルンの大聖堂の600年には及びませんが130年もかけて作り続けられたわけですが、その間に権力者も変わり、設計者も変わりで、当然ながら意匠も徐々に変化していったのではないでしょうか。建築物を見る者にとっては、複数の意匠が組み合わさった美しさを味わえるのですが、これだけ大きな建物の構造計算ってどうなっているのでしょうか。変化していった設計に追随した、強度設計がなされていたとは考えにくいのですが。強度計算のプログラムをだまして、強度不足の建物がいくつも建って問題になったのは現代のことですが、コンピュータなどという道具のない時代では、経験則に従った強度の目安があり、かえって安全係数的な要素が大きく取られて、コンピュータのはじき出した数値だけで検証する現在より丈夫なのかもしれません。

明治時代の主な輸出品であった生糸を生産し世界遺産暫定リストにも載る富岡製糸場

2008-11-23 15:57:27 | 日本の町並み
 津山には蒸気機関車の向きを変えるために作られた扇形車庫が現役で活躍する産業遺産でしたが、明治時代の貴重な産業遺産として世界遺産の暫定リストにも載せられているのが富岡製糸場です。近代化を急ぐ明治政府によって、生糸生産の一大拠点として建設され、その後の生糸輸出を支え1987年まで現役の工場として活躍してきました。今回は、富岡製糸場を中心に富岡周辺を紹介します。

 富岡市は、群馬県の南部にあって高崎から、ねぎやこんにゃくの産地として有名な下仁田まで延びている上信電鉄を40分くらい乗った上州富岡が最寄り駅となります。上信電鉄は1時間に1~2本くらいでけして便利な所ではありませんが、世界遺産の暫定リストに載ったせいか、かなりの観光客が押し寄せているようです。上信電鉄は上州と信州を結ぶという名称ですが、かつては信州の佐久地方まで伸ばし、現在の小海線の羽黒下駅で接続する計画を持っていたようです。また、この欄でも紹介したいくつかのキャラクタ列車がありますが、上信電鉄でも銀河鉄道999のキャラクタを描いた電車が田園風景の中を走っています。

 富岡製糸場は、駅から700~800mほど南南西方向に歩いたところですが、この道の途中にも古い町並みが点在していて、寄り道をしたくなります。

なまこ壁を持った蔵や、変わったところでは屋上に望楼のある家も見かけました。

 製糸場の中はボランティア・ガイドの方々が、見学者の集まり具合を見ながら適当な集団にして案内してくれます。正面のレンガ造りの写真などでよく見る建物は、アーチの上部に明治5年の刻印がされています。

いかにもどっしりして、存在感のある建物ですが、これは倉庫で、どうりで窓の無い建物なんです。

 賓客の宿舎などを横に見て、20年ほど前まで稼動していた工場内に入ります。

埃除けらしいビニールシートで覆われていますが、遺産というより、動力を入れればすぐ稼動しそうなくらい、綺麗に保存されています。

 製糸の技術を伝えたのは、お雇い外人だったようで、奥まったところに彼らの住居があり、コロニアル風のずいぶんと瀟洒な建物に見えました。

 全国各地から技術を習得するために集まった女工さんは、いわゆる女工哀史的な悲惨な面は無かったようで、ここで学んだ技術を、各地に持ち帰り、それを教授したエリートだったようです。もちろん、お雇い外人のような贅沢な生活はできなかったのでしょうが。
 
 鎖国から目覚めた、明治の日本では、ほとんどの技術は、法外な待遇を与えられていたお雇外人に頼っていたわけです。富岡製糸場の場合は、技術の伝授も受けたわけですが、どこまで最新の技術を教えてもらっていたのでしょうか。教えてもらうより、言葉は悪いのですが、盗んだ部分もあるのかもしれません。教える立場ではない分野では、技術を盗んで、その後の技術発展の中核をなした人物も多かったかもしれません。現在の日本は、工業分野、特にIT分野などでは、技術を盗まれる立場にもなっていますが、最近の理科系離れ、製造業離れの風潮から、ふたたび技術後進国にならないか心配です。

悲恋の主が向き合って眠るアルコバッサのサンタ・マリア修道院(ポルトガル)

2008-11-16 16:00:26 | 世界遺産
 愛妻のために作ったタージマハルも遠くから眺めるだけになったムガール帝国の国王が息子に幽閉されたのはアーグラ城でしたが、ペドロ王が父王に反対された側室との愛を貫き、暗殺された側室が葬られた墓から遺骸を改葬して一緒に眠っているのがアルコバッサのサンタ・マリア修道院です。ポルトガルの片田舎の町に、ぽつんとある修道院で悲恋の舞台として有名になっていますが、修道院の建物もなかなか美しく、少々足の便が悪くても訪れる価値のある所です。

 アルコバッサは、ポルトガルの首都のリスボンから北へ100kmほど、大西洋に面しているナザレから10kmほど内陸に入ったところにあります。鉄道は通っていなく車でしかいけないので、運転ができない旅行者にとっては不便な町です。筆者は、一つの便法としてリスボンから現地出発のバスツアーに乗っかりました。通常の日本人の海外旅行はパッケージツアーがほとんどでしょうから、この日の集団の中の日本人は我々だけでした。日本人にはアルコバッサより、壇一雄(壇ふみの父君)がすごしたというナザレという地名のほうがよく知られているかもしれません。ただ、彼が逗留したのはもっと南の同じような漁村のサンタ・クルスのようで、より有名なナザレで代用されたのかもしれません。

 さて、悲恋の物語ですが、主人公のポルトガル王国のペドロ王子は、カスティーリャ王族の王女と政略結婚をさせられますが、なんと王女の侍女イネスに恋をしてしまったのです。

王女は産後の経過が悪く、若くして亡くなるのですが、国王をはじめ側近はカスティリャ王国を気にしてイネが側室になるの反対しましたが、その反対を押し切って側室に迎えました。しかし、その後国王によってイネスとその子供たちは暗殺されてしまいます。その後、父王とは和解しますが、父王の後を継いで国王となったペドロは、暗殺に関わった者を処刑してしまいます。さらに、イネスの遺骸を掘り起こし、サンタ・マリア修道院に改葬して教会に王女であることを認めさせます。

 ペドロの死後は、遺言により二人の館はお互いに足のほうを向かい合わせにして並べられていて、復活があり、起き上がったときに、お互いが向き合うようにとのことなのです。

 政略結婚をはね除けて、最後まで自分の意思を貫いたペドロの執念には怖さすら感じますが、これを偉いをと考えるのか、戦争ではなく政略結婚で大帝国をを築いたハプスブルグ家を見習って、もう少し大人になれよと考えるのかは、意見の分かれるところかもしれません。そもそも、恋愛結婚といえども、たまたま適齢期にその人を好きになったに過ぎないのかもしれません。政略結婚と同様に結婚の一つのきっかで、恋愛結婚で一生涯愛を貫くには努力がいるでしょううし、政略結婚で愛が生まれないとは断言できません。ただ、この悲恋の話で気になるのは、ペドロの政略結婚の相手のコンスタンサについてあまり語られないことです。彼女にとっても、政略結婚をさせられたことには違いないのですから。

 世界遺産は、この悲恋の物語に対して登録されたのではなく、サンタ・マリア修道院の建物がポルトガル最古のゴシック建築としてすばらしいために登録されています。

修道院の建築は12世紀に始まり、18世紀に改築された正面のファサードがバロック様式である以外、全体的にゴシック様式でまとめられています。正面に立つとファサードはけっこう装飾があって華やかな感じがしますが、中に入るとずいぶんとシンプルです。

 ごてごてと装飾過多の教会もありますが、このシンプルさが崇高さを増幅させています。

 内部から見える庭の緑も、この簡素さと調和して、快いハーモニーを奏でているように思います。

これだけ、簡素な教会の中にあって、ペドロとイネスの棺だけは、ずいぶんと装飾が施されています。おそらく大理石でできていると思いますが、白を生かした繊細な彫刻はゴシックの最高傑作といわれており嫌味は感じませんが、やはり派手のようです。修道院のデザインは神職の趣味、棺はペドロの趣味ってところなのでしょうか。

 教会のファサードは、教会に入る前に目に飛び込み教会の印象を左右する前奏曲のように思います。サンタ・マリア修道院では、ファサードを後世に改修しているので外と中とで印象が異なるようです。文化財を修復するときに、現在の姿のままに修理をするのか、そのものができた時の姿の戻すのかが議論になります。さらに、新しいデザイン手法や技術を取り入れるかどうかも、難しい課題なのでしょう。最近は技術が進んで、かつての姿がどのようであったかを、かなりの精度で推定できるようになったようで、後者の考え方による修復もかなり正確にできるようです。日本の古美術の修復では、現状のままで保存修復されることが多いようですが、先日奈良の新薬師寺で、十二神将に残る顔料を分析して、像ができた頃の色彩をCGで再現するビデオを見ました。現在の像よりずっと不気味で、迫力がありましたが、このような色彩の像が壇上に並ぶ姿は、当面はコンピュータの画面上のみにしておいた方が良いかもしれません。

格子の町並みの中に寅さんのロケ地や駅には扇形機関車庫も残っている津山

2008-11-09 16:03:41 | 日本の町並み
 鳥取県の商都で水路にそって古い町並みが残る町が米子でしたが、その米子の芸術文化交流都市として津山があります。この2都市に出雲市を加え相互に文化交流を行っているようです。今回は、米子とは米子自動車道でつながっている、美作(みまさか)地方の城下町、津山を紹介します。

 津山は、岡山県の北辺にあり、姫新線、津山線、因美線の交差する中国山地では交通の要所ですが、運転本数はというと、中国道などを経由する高速バスのほうが多いようにも思います。ただ、この津山線には現役唯一の昼行急行「つやま」が岡山との間に運行されています。ただ、この列車も来春のダイヤ改正で廃止されるようで、残りは夜行急行の「はまなす」「きたぐに」「能登」の3列車のみとなり、やがて急行列車という言葉自体が死語になりそうです。列車にまつわる話が続きますが、津山には京都の梅小路機関車館に次ぐ大きさの扇形機関車庫が残っています。

写真では、遠くって列車ばかりが目立ちますが、この列車の向こうには転車台を持った堂々たる車庫があります。京都のものはいわば博物館なので、現役としては最大の物と言えるでしょう。

 津山駅は吉井川の南にありますが、津山城址や格子のある町並みが残っているのは吉井川を今津屋橋を渡った北側にあります。

津山藩のお城は廃藩置県で取り壊され、近年になって備中櫓が再建されたようです。このお城の東側の中之町あたりに古い町並みが残っています。

漆喰塗りの壁や格子のある家、うだつや屋根に吹き抜けを持つ家など、少々足の便の悪い町にこれだけ立派な屋敷がと思ってしまいます。

 かつての出雲街道の宿場町としてにぎわった名残もあるのでしょうが、交通が不便なのでかえって古い町並みが冷蔵保存されてしまったのかもしれません。

 町並みを散歩していると、家の前の道路に置かれた植木鉢の花々の美しさがうれしいのですが、古い町並みには決まってこれらの花々もそえられているような気がします。

場合によっては、植木鉢ではなく、竹を切った器に一輪挿しであったりもし、格子のそばの門のところに何気なく下げられていて、町並みに華やかさを演出しているように思います。

 この古い町並みが、1995年公開の寅さんシリーズ最終作のロケ地にもなっていて、通りのそばには寅さんロケ地の石柱が立てられています。

津山のだんじり祭りに露店を出したことになっていて、寅さんの背景に映っている火の見櫓も健在です。祭りに使うだんじりの展示館もあるようですが、朝早くに訪れたので、お城ともどもどこも開館前でした。日本的なものをシンボライズした主人公とテーマを持った作品の最終作が津山で撮影されたというのも、津山の醸し出す町の雰囲気と無縁ではなさそうです。
 
 かつての国鉄には急行の他に準急というのがありました。学生の貧乏旅行では、速い割りに料金の安い準急はありが問い存在でした。準急といっても、最も長い総距離のものは、岡山県の宇野から山陰線を通り、海を渡って九州の博多まで走っていた「しんじ」というのもありました。40年ほど前は非電化区間の多かった九州ではディーゼル列車の準急の天下で、現在は東海道新幹線の特急列車の名称として使われている「ひかり」という名の準急列車も、博多から日豊本線と豊肥本線経由で熊本まで運転されていました。準急から超特急とすごい発展した名前ですが、IT分野でのメモリの概念の発展は桁が違うようです。現在メモリというと、デジカメなどに入った爪の大きさほどの素子に数GB(Gは10の12乗)もの容量が記憶でしきます。ところが、ほんの40年ほど前に電子計算機で使っていたメモリは数百kB(Kは10の3乗)の容量で、冷蔵庫ほどもある装置でした。10桁ほども小さくなってしまったことになります。メモリが小型で安くなり、どんどんそれらに記憶した内容が増えてゆくと、世の中は記憶だらけ、どこに何が記憶されているか分からなくなり、結局は記憶しなかったのと同じになってしまうのでしょうか。

妻のために世界一美しい廟を作った王が息子に閉されてしまったアーグラ城(インド)

2008-11-02 16:06:05 | 世界遺産
 兵馬俑は、陵墓に付属する俑抗としては世界最大のものでしたが、世界で最も美しいお墓(廟)といわれているものがタージマハルです。タージマハルはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが先立った王妃のために作ったものです。王は、タージマハルと川を挟んだ場所に、黒大理石による自分の廟を作る計画でしたが、自分の息子に捕らえられアグラ城に幽閉されました。幽閉されたアグラ城からはタージマハルが遠望でき、王は毎日涙して眺めたといわれています。今回は、インドのアーグラにある2つ目の世界遺産、アーグラ城を紹介します。

 アーグラはインドの首都のニューデリーの南200kmほどのところあって、ガンジス川の支流のヤムナー川に沿った都市です。このヤムナー川はタイジマハルそしてアーグラ城のそばを流れていて、上流にはデリーがあります。タージマハルとアーグラ城とは2km足らずの距離で、幽閉された王様が窓越しに見られる距離ですが、筆者が訪問した時は朝方だったせいでしょうか、川霧に阻まれてほとんど見えませんでした。城は焼く雄のホームベースを押しつぶしたような形をしていて、尖がった頂点と対向する辺を東側で川に接するように作られています。

 筆者たちは、2つある門のうち南にあるアマル・シング門から入場しましたが、城壁も門も赤い色の砂岩で作られていて、かなり派手な印象です。

 お城全体がイスラム様式で作られているために、門などに施された装飾は具象的なものはなく、幾何学的なアラベスク模様になっています。城内は南北が600m、東西が400m程度ですが、ずいぶんと広い感じがしたように記憶しています。複数の宮殿や庭園がゆったりとした配置で造られていたからかもしれません。調べてみると、以前に紹介したドゥブロクニクの城壁に囲まれた旧市街はおよそ300mの正方形の町なので、アーグラ城内にはドゥブロクニクが2つ以上は入る勘定です。広く感じたのも無理は無いわけです。

 建物やそこに細工をされている模様などを見ていると、スペインのアルハンブラ宮殿に似ているなという印象です。アルハンブラが高台に建ち、こちらは平地という立地上の差はありますが、景色を眺めるテラスの造りや、回廊の途中に作られた小部屋のドームの模様など、スペインンにいるような錯覚にとらわれます。

 文化の伝播路は違っても、同じイスラム文化に根ざしていることによるものなのでしょうか。アーグラを訪れる観光客の大部分はタージマハルがお目当てでしょうが、そこから2km足らずのアーグラ城もなかなか見所が多いように感じます。

 アーグラ城の城壁の中が意外と広いので、ドゥブロクニクだけでなく、ちょっと比較のために調べてみました。先ほどのアルハンブラは100mx500mくらい、ドイツのロマンティック街道にあるローテンブルグの城壁内は400m四方、日本の姫路城の堀の内側もやはり400m四方くらいのようです。一方、中国で城壁に囲まれた町が完全に残されているということで世界遺産になっている平遥古城は1200m四方ほどもあり、かつての長安の西安にいたっては、3kmx2km程度の範囲が城壁によって囲まれています。これらの比較が簡単にできるのも、Web上で世界各地の航空写真が検索できるからで、最近では国内の主要都市については空からだけではなく通りからの眺めも見られるようになったようです。プライバシーの侵害だ!という議論の一方で、その場所に行けば誰でも見られる風景の規制を許すと、公権力によって規制の範囲が際限なく拡大する恐れがあるとの議論もあって難しいですね。