世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

出光佐三を生んだ赤間宿には土蔵造りの町家が並び「赤間宿」と書かれた辻行灯が通りの点景になっています

2023-02-26 08:00:00 | 日本の町並み
 天別豊姫神社のからの由来で神辺という名前を持つ西国街道の宿場町には、秀吉が朝鮮の役の帰りに宿泊したという太閤屋敷跡の石碑が建っていました。神社に由来する地名は全国にたくさんありますが、その中で神武天皇が道に迷われたときに「赤い馬」二乗った老人が表れて道案内をしたとの逸話があり、この地を神地として崇めた言われる唐津街道の宿場町が赤間(赤馬が転じたもの)宿です。また赤間宿にも秀吉が挑戦の役の往路に立ち寄っって滞在したといわれています。今回は、この旧赤間宿周辺を紹介します。

 
 旧赤間宿は、福岡県の若松を起点に名護屋城まで伸びる唐津街道の宿場の一つで、若松と福岡殿ほぼ中間あたり、現在は世界遺産の宗像大社のある宗像市の一部になります。宗像市では宗像大社が有名で、赤間宿といっても知る人は少ないかもしれませんが、出光興産の創始者である出光佐三氏を生んだ土地と言われれば、多少は親近感がわくかもしれません。生家は登録文化財にしてされ現存し、展示室もありましたが、時間外で見ることはできませんでした。

 
 
 
 旧赤間宿の町並みは、JR鹿児島本線の教育大前駅から南南西に伸びる1本道にそって、須賀神社の参道に至る入り口あたりから唐津街道赤間宿溝口跡までの間の600mほどに広がっていて道路沿いに赤間宿と書かれた辻灯ろうが点々と置かれて町並みの点景になっています。須賀神社の参道のへの分岐点には小倉と長崎を結ぶ長崎街道の木屋瀬宿とを結ぶ脇街道の分岐点があり追分石も残っています。また、須賀神社の境内には辻井戸があって宿場の旅人や馬に水を供給するためのものだったようです。かつては7か所にあったそうですが、現在は須賀神社境内のものと町並みの南端あたりの2か所が残っています。

 
 
 
 
 町並みの町家の多くは、階下に出格子、2階部分が白漆喰の土蔵造りで、平入、妻入りが混在しています。造り酒屋の勝屋酒造之正面には代表銘柄の楢の露の古風な看板が架かり、ハイドにはレンガ造りの煙突がそびえています。寛政年間の創業で200年の歴史を持つお酒屋さんだそうです。民芸酒場時代屋という看板を掲げたお店もありましたが、店の前に掲げられたのぼりは楢の露ではなく一番搾りでした。

 出光興産の創業者の出光佐三の理念は「商売は金儲けではない」といもので、現在の過度な資本主義を標榜する人間に聞かせたいと思います。金儲けだけが目的となってしまい、企業倫理もくそくらえで、金を儲けるためには他人が不幸になろうと、極端には命を奪われようと、それが株主に対してやるべきこと!という理念は、あまりにユダヤ的ではありませんか。出光興産は石油の元売り会社都ばかり思っていましたが、電子材料の製造や、電気自動車の心臓部として将来が期待されている全個体電池の電解質の研究にも力を入れ、多数の特許を取得しているようです。金儲のためだけではなく、消費者の必要なことに力を注ぐ出光イズムの表れでしょうか。

ベトナム戦争の時には病院や武器庫になって攻撃目標になっていたフォンニャ洞窟群のパラダイス・ケーブですが平和になった現在は、その巨大さに驚嘆します(ベトナム)

2023-02-19 08:00:00 | 世界遺産
 一般市民を無差別に殺戮した負の遺産が広島の原爆ドームでした。同じ加害者によって一般市民を巻き添えにして大量に殺戮したのがベトナム戦争でした。ありとあらゆる兵器の実験場となり数多くの人がなくなりましたが、わが国では加害者が同盟国のせいか、あまり話題になかったのはおかしな話です。このベトナム戦では、世界でこの加害者国に唯一戦勝した国がベトナムと言われています。南北の最前線となった当たりにはNRZ(非武装地帯)の遺跡も残されていますが、さすがに負の世界遺産にはなっていません。今回は、ベトナム戦の激戦地帯で病院や武器庫として使われた鍾乳洞を紹介しますが、平和になった現在は世界自然遺産として登録されているフォンニャ・ケバン国立公園です。

 フォンニャ・ケバン国立公園は、ベトナムの首都のハノイから南に飛行機で1時間ほどのドンホイから、西に内陸に向かって車で1時間ほど入った山岳地帯のカルスト地形の公園で860平方キロメートル之広さがあります。大部分は原生林ですが、その中に数多くの鍾乳洞がありますが、まだまだ全容は明らかではないそうです。発見されている洞窟のうち一般の観光客が気軽に入洞できる洞窟は4~5程度で、その中から、今回はパラダイス・ケーブを、次回はフォンニャ・ケーブを紹介します。

 パラダイス・ケーブは観光客が気軽に入洞できる中で一つの内部空間が最大のものがある洞窟のようです。内部は鍾乳石でごつごつしていて平ではありませんが、広さ的には野球ができてしまうような空間があって、東京ドームのグラウンドくらいあるのでは思ってしまいます。

 
 
 パラダイス・ケーブやフォンニャ・ケーブなど多くの洞窟は西から東に流れるソン川の右岸の山中にあり、観光基地のフォンニャ村も中心地は右岸にあります。右岸同士で簡単にアクセスできそうですが、洞窟の入り口までには支流があって橋が無く行く手を阻んでいます。次回紹介するフォンニャ・ケーブはソン川を船でさかのぼるのですが、入り口が山の中腹のパラダイス・ケーブでは、入り口のふもとまで車で1時間ほどもかかります。直線距離では10km足らずの距離なんですが、村の中心地に近い所でソン川を対岸に渡って、対岸の山の後ろを大きく迂回し、上流にある橋で右岸に戻らねばならないからです。車で入れるのは、洞窟入り口の麓からやや離れた駐車場で、そこkら電気自動車に乗り換えて、やっと麓に到着です。そこから急坂を標高差にして200mほどでしょうか、上ってやっとたどり着くのが山の中腹に空いた小さな入り口です。夏の暑いときだったら大汗ものでしょうね。休憩所には洞窟内部の案内図があります。

 
 
 
 
 
 
 
 狭い入り口から入ると、いきなり下降階段です、これまで上ってきたのは何だったんだ?って思わせるほど、地底にまっしぐらですが、この階段から見渡せる鍾乳洞の広さは圧巻で、まずはビックリさせられます。この先も、これでもか、これでもかと続くいろんな形の鍾乳石と広大な空間に、やや疲労感さえ覚えてしまいます。現地催行のツアーなので、戻ってくる時間も気になりますが、何処まで行けば折り返し地点なのかもよくわかりません。とりあえずは、回りに同行の人たちの存在を確認しながらの行進です。写真を撮りまくりましたが、ここに載せたのは一部です。足の便の悪いところですが、写真でなく実物を体験してほしい世界遺産の一つです。

 洞窟に入ると、目立った鍾乳石には名札が付いていますが、もちろんベトナム語表記です。洞窟の入り口には内部の地図があるのですが、中に入ると自分が何処にいるのか、地図が無くって、まったくわからなくなります。どこまで進むと折り返しになるのかが分からなくて、戻る時間を読めません。地底にいるので、当然ながらGPSは圏外で使えないでしょうし、カーナビはトンネルの中でも使えますが、これは車の向きやタイヤの回転数から、現在位置を割り出しているわけです。スマホには加速度センサーを内蔵していますが、さすがに現在位置を計算できるほどの能力はありません。最後は人間の第六感ということになるのでしょうか。

福山の喧噪から福塩線で少し北に行っただけの旧神辺宿にはおびただしい数の格子と土蔵造りの町家が軒を連ねています

2023-02-12 08:00:00 | 日本の町並み
 京都の南西の入り口にかつての長岡京の遺跡があって、旧西国街道沿いには古い商家が残されているのが向日市でした。西国街道は、京都を起点に下関まで伸びていて途中の50の宿場町がありましたが、参勤交代の時に大名が宿泊する本陣が残っているのは、たったの3か所で郡山宿、矢掛宿それに神辺宿です。今回は西国街道で本陣が残る最も西の旧神辺宿周辺を紹介します。

 
 旧神辺宿は、広島県の福山と塩町とを結ぶ福塩線の途中駅で、、やはり本陣と脇本陣が残る矢掛を通る3セクの井原鉄道の分岐点です。兵庫県出身の筆者は、カンナベと聞くと兵庫県の数少ないスキー場の神鍋を思い出しますが、ナベの字が違います。福塩線の神辺駅は南北方向で旧西国街道は福塩線と交差するように東西内伸びています。本陣跡は、駅の北東方向500m程のところで、駅から北に400mほど、東に曲がって300mほど歩いた所です。ただ本陣内は土日祝日のみの公開でしたので見学はし損ねました。

 
 
 
 
 旧本陣までの道々に古い町並みが広がっています。多くが1階は出格子がある茶色の連続で、京都でもあまり見かけなくなったばったり床几らしき移行も見られます。2階部分は土蔵造りのなまこ壁が連なります。これだけのボリュームで古い町家が連なる風景も感動ものです。このような町並みの中にレトロな洋館がぽつりぽつりとあって、アクセントを加えています。

 
 本陣跡を通り越してさらに北東方向に進んでも同じような町家の景色が続き、天寶という銘柄の造り酒屋もあります。高屋川の手前まで行くと、特別史跡の廉塾跡があります。簾塾は神辺出身の菅茶山が京都で朱子学を学んだあと、当地で開いた塾の跡で、頼山陽も塾頭を務めたことがあるそうです。塾の遺構と菅茶山の旧宅跡が残されています。

 
 この近くには、旧山陽道神辺宿跡の石碑があり、石碑の碑文には秀吉が朝鮮の役の帰りに立ち寄ったといわれる館の跡とも言われているようです。

 
 
 
 
 廉塾跡からの戻り道は本陣跡の通りではなく、南に通り越しさらに国道を通り越した先には黄葉山をバックに天別豊姫神社があります。古代に神辺当たりがまだ瀬戸内海の入り江だったころからの歴史がある古いお社で、神辺の地名はこの神社に由来するのだそうです。鳥居だけでなく、手前にある灯ろうも威厳があるように感じます。

 簾塾が開いた菅茶山が学んだ朱子学は12世紀に中国の朱熹が構築した儒教の一つで、仏教や道教に対抗する新たな学問の一つとされています。中国で発祥や発展した思想の経典は語録という形を取り、キリスト教や仏教とは異なる形態です。最も仏教らしい仏教と誤解されている禅宗も語録で成り立っていますが、ほとんど道教の思想に立脚していて、仏教の思想とは随分と違います。語録は教祖などが話した言葉を、そのまま記録したものでしょうから、弟子などによる脚色が無くオリジナルの考え方が保存されているのかもしれません。ただ、現在のように録音などの記録媒体は無くて手書きで記録したでしょうから、どこまで正確なのか・・・。ただ、正確な電子的な記録が普及した現在でも、記録内容は政治や宗教権力などによって簡単に改変されるでしょうが。

世界遺産の洞窟の観光基地として有名になったフォンニャですが、天気が良ければ散歩や昔の生活を垣間見るなど、面白い経験ができるかもしれません(ベトナム)

2023-02-05 08:00:00 | 世界の町並み
 ソウルからさほど遠くない水原の郊外に韓国の伝統的な村を再現したのが民俗村でした。わが国でも数十年前に見られたような風景を思い出しますが、海外には現在もそのような生活を送っている村々も多くあるようです。そのような村の中から、村のはずれの洞窟が世界遺産になって、ちょっと世間ずれしたのかと思われる村がフォンニャです。今回は、村の中を牛や鶏、それに猿までもが往来するベトナムの山奥にある村を紹介します。

 
 
 
 
 フォンニャはベトナムの首都のハノイから南に飛行機で1時間ほどにある海沿いのドンホイから、さらに車で1時間、50kmほど西に入った、隣国のラオスにも近い村です。人口は数千人程度と思われますが、2003年の世界遺産の登録以前はもっと少なかったのではないかと思います。宿泊施設も現在はホームステイからホテルまで100軒ほどもあるそうですが、かつては数軒だったのだそうです。村の中心は、船に乗って世界遺産のフォンニャ洞窟に向かう船乗り場周辺で、銀行はありませんがATMはあり、小規模の商店街のようなものもあります。ドンホイから1時間に1本程度で利用が難しい路線バスの終点もこのあたりのようです。筆者が泊ったのは、村の中心からソンコン川に沿って上流へ3kmほど行ったところのホームステイで、村の中心までは2車線あった道路も1車線で、乗用車鹿入れないような場所でした。部屋数は4部屋ですが、前はソンコン川に面し、洞窟に向かう船が行き来し、夜は対岸の光が川面に映ってなかなか綺麗です。ただ、滞在中ずっと天気が悪く、晴れていればもっと気持ちがよかったのではと思います。初日の夕食はチキンのバーベキューを頼みましたが、庭の焚火で丸焼きの調理です、筆者も日を仰ぐのも手伝いましたが、ボリュームもあってなかなか美味しいしかったです。

 
 村はフォンニャ洞窟の観光基地といったほかには、回りの山々がカルスト地形独特の丸い山が連なるなどの田園風景が広がるだけで、さしたる見どころは無さそうです。世界遺産の洞窟の情報は、あふれているのですが、村の情報はほとんど無し、英文は少しありましたが、日本語は皆無でした。天気が良ければ、野原などの広がる所をトレッキングもよさそうですが気温も異常に低くって、村の中を少し散歩したに留まりました。

 
 
 村の中の表通りは一車線と細い割には舗装はされていますが、牛が所かまわず糞をするのでかなり汚れています。時には、道路一杯に牛がいて通り抜けるのにちょっと恐怖を感じる場面もありました。道路まで出てくるのは牛とヤギで、時には泊っているホームステイの庭にまで入り込んできてオーナーに追い払われていました。塀の上には野生なのか飼われているのか猿がいましたし、川沿いの農家と思しき庭には鶏や水鳥が群れていました。これらの動物類を集めると、村の人口と変わらないのかもしれません。

 
 
 
 
 何かの記念塔屋水道タンクか灯台のような構造物、それに観光案内所というのですが、どうも役所らしく旗が建っていて門からは入れません。た、小学校と思しき建物は、人口が少ない割には立派で美しく、役所がらみはどれも立派なのかもしれません。不思議なのは、ベトナムのキリスト教信者は数パーセントと言われているのですが、村内に確認しただけで3つも教会がありました。それも、村内の民家がちょっとみすぼらしいのにもかかわらず、どれも立派です。その一つの前庭にはキリスト誕生のジオラマが作られていましたが、よくよく見ると背景や両側の壁にはカラフルに色づけされたペットボトルがびっしりと貼り付けられていました。こんな利用法もあるんですね。教会に交じって民間信仰の祠らしきものもありました。

 フォンニャは山の中の村でしたが、スマホは空港で買ったSIMを使ってデーター通信はストレスなく使えました。かつて、日本の離島で携帯が使えるのは1社だけっということもあったので、通信の普及には目を見張ります。ホームステイのオーナーは英語があまり達者ではなカったのでスマホノ翻訳アプリでコミュニケーションをしました。前に中国では専用翻訳マシンを使いましたが、スマホのアプリでほぼ同じことができるので便利です。ただ、相手の受け答えから推定して、こちらの日本語はベトナム語に翻訳されて通じているように見えるのですが、ベトナム語を翻訳した日本語はかなりチンプンカンプンで、何度も言い直してもらいました。Googleのアプリも言語によって得手不得手がありそうです。