世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ラトビア野外博物館は、派手さはありませんが、森の中の木造民家群は魅力です(ラトビア)

2017-06-25 08:00:00 | 世界の町並み
 スウェーデンの首都のストックホルムの広大な野外博物館がスカンセンでした。スウェーデン各地から集めた建物の博物館という性格だけでなく、店頭工芸の保存や動物園、遊園地としての性格も持っていました。スウェーデンからバルト海を渡ったバルト三国の一つのラトビアにも広大な敷地を持つ野外博物館があります。

 
 
 ラトビア野外博物館は、首都のリガの東北東10kmほど、ユグラ湖畔にあります。路線バスもあり、博物館の正面に停車しますが、始発のバス停や路線番号が解りません。筆者は、復路にはバスを利用できましたが、往路はトラムで行けるところまで行って1.5kmほど炎天下を歩きました。広さは87haですから東京ドームの18倍ほど、明治村よりちょっと狭いくらい、スカンセンの3倍近い面積です。とても短時間で全部を回るのは大変な広さです。ラトビアの各地から移築した建物が散在しているのはスカンセンと同じですが、建物は広大な森の中の木立に埋もれている感じです。江戸東京建物園の森林を、ぐっと深くして10倍の広さにしたといった様相です。

 
 
 
 これらの建物の中や前で糸紬や針仕事などの実演をしているのはスカンセンと似ていますが、こちらはもっと素朴な感じを受けます。スカンセンは町並み的なエリアと農家のエリアがありましたが、ラトビアは農家と教会です。移築された建物群ですが、博物館的ではなく、そこで生活が営まれている雰囲気がします。南ヨーロッパで見られるような石造りの建物は見当たらないのは民家が中心だからでしょうか、目に入るのはすべてが木の建物、もちろん教会も木造です。ゴシックの威圧的な石の塊である教会を見慣れた目には、「なんと優しい教会だろう」との印象を受けます。

 筆者がラトビアを訪問したのは15年ほど前で、この野外博物館の情報は黄色のガイドブックにもほとんど載っていず、ネット上にも情報はありませんでした。訪れるのに、随分と苦労をした覚えがあり、そのせいもあってか日本人の姿は皆無でした。現在では、情報も増えて、より楽にアクセス可能と思われます。世界遺産のリガの旧市街を見た後に、半日時間が取れれば、緑の中でのんびりするのもいいかもしれません。

 東京五輪まで3年ほどですが、「その頃にはAIが進んで通訳はいらないだろう」という意見と「まだまだ」との議論をしました。字面を単純翻訳するだけならAI翻訳で十分でしょうが、文化や背景は、まだまだ無理というのは筆者の意見です。ただ、多数の国の言語を、字面の翻訳でいいから早く実用化してほしいとも思います。英語圏を訪問する時には、なんとか英語でコミュニケーションができるので、目的地へのアクセスもなんとかなります。英語圏以外でもホテルなどでは、なんとか英語が通じますが、まちなかに出ると、身振り手振りの世界です。スマホで道案内を翻訳してくれれば、活動範囲がぐっと広がりそうです。世界の言語は多様ですから、コンピュータの持つ辞書が膨大になりそうですが。

長崎街道の宿場町の塩田津は流通拠点としても栄えた名残の白壁の続く街並みです

2017-06-18 08:00:00 | 日本の町並み
 家屋の中に土蔵造りの内蔵と呼ばれる居住空間のある街並みが空き家県の増田でした。外部から見える町並みは、内蔵の鞘堂的なもので、白漆喰の土蔵造りはあまり見当たりません。一方、白漆喰の土蔵が住居として使われる居倉造りは、白い漆喰の家並が並ぶ町並みとなります。このような居倉造りの町並みの中から、今回は佐賀県の塩田津を紹介します。

 
 
 
 塩田津は、佐賀県嬉野市の一部で、嬉野温泉の東、武雄温泉の南に位置しますが温泉は湧いていないようです。ちょうど両温泉への道路が分岐するあたりになります。塩田津は、長崎街道の宿場町の一つですが、有明海に注ぐ塩田川の水運を利用した流通拠点としても栄えました。かつての物流拠点も、現在は佐世保線の武雄温泉駅か長崎本線の鹿島からバスということになりますが、かつての塩田には2つの鉄道がありました。一つは祐徳稲荷を起点として鹿島、塩田を経由して武雄温泉に至るもので、明治の末に開通しています。当初は馬車鉄道でしたが、後に蒸気機関車化され昭和に廃止されたようです。もう一つは、塩田と嬉野温泉を結ぶもので、大正末期に開通し電車が走りましたが、こちらも昭和初期に廃止されています。

 
 
 古い町並みが残るのは、嬉野市役所の西側に武雄温泉に延びる道路あり、その道路に沿った塩田川の支流の対岸になります。およそ300mほどの道の両側には、ずらりと白壁の土蔵造りのいえば並んでいます。街灯の支柱は建てられていますが、無電柱化により景色がすっきりしています。うだつの上がる町並みとして有名になった美濃関も無電柱化がなされ、景色も似ているように思います。ただ、美濃関の町並みは格子が目立つ茶色の世界で、塩田は白とこげ茶のの世界です。

 現在残る、居倉造りの町並みは、江戸時代からの豪商の住まいの名残で、奥に長い家屋の裏側は塩田川に面しているものも多いようです。その中の一つの西岡家は重文で、川に面した塀は道路側とは好対照の地路のモザイク模様でした。川に降りる階段のことをタナジと呼ぶそうですが、その名残の石段のそばには一羽のサギがとまっていました。

 
 
 街並みの北西側は、なだらかな里山があって、その麓にはいくつかのお寺が建っています。立傳寺は、街並みの東端あたり30段ほどの石段を上った先に本堂があり、16世紀末の創建だそうです。本応寺は町並みの中央あたりを、北西に少し入った里山の高台に建っています。やはり16世紀末の創建で、藩の本陣としても利用され、茶室のある書院が残されてます。山門の両側に立つ塩田石を使った仁王像は18世紀のもので、ちょっとコミカルな姿をしています。この塩田石というのは、塩田で40年ほど前まで掘られていた安山岩で、町並み交流集会所のそばに見本が置かれていました。この塩田石は、コンクリートの2倍の強度があるのだそうです。

 かつて塩田津を通っていたという馬車鉄道ですが、日本最初のものは1882年(明治15年)に新橋と日本橋との間に開通したのが最初です。レールの上を走る馬車は、摩擦が少ないので通常の馬車より大きな車両が使え、でこぼこも無いので乗り心地も良かったそうです。排気ガスを出さない環境にやさしいかもしれなかった乗り物でしたが、排ガスならぬ排泄物の始末が大変との理由もあって、廃止や電車に取り換えられたようです。現在でも観光地に行くと、馬車や牛車を見かけますが、移動手段としてはともかく、町の景色の一部として溶け込んでいるように思います。ただ、次の馬車が来るまでの時間を表示するバスロケならぬ馬車ロケは備えられてないでしょうが。

ギザの三大ピラミッドは、砂漠にありますが、すぐそばまで市街地が迫ってきています(エジプト)

2017-06-11 08:00:00 | 世界遺産
 カソリックの頂点に君臨するのがローマ法王庁ですが、キリスト教が生まれるずっと昔にも宗教はありました。古代エジプトでは数々の宗教が生まれ、多くの神々が祭られ神殿が作られました。また、ファラオはその神々の神権を持つものとして権力を持っていました。エジプトのピラミッドは、かつてはファラオの墳墓という説が有力ですが、現在では諸説があり、中には、宇宙人が作ったという説まで飛び出しているようです。今回は、カイロ郊外のギーザの三大ピラミッド周辺を紹介します。今回も3度目の紹介で、22年も前の訪問でしたが、写真を増やし、消えそうな記憶をたどっての紹介です。

 
 ギザの三大ピラミッドは、カイロの中心街から西南西に13kmほど、ギザの市街地が砂漠に変わる所に建っています。スカイツリーや東京タワーが東京のどこからも見えるように、ピラミッドはカイロに市内からもカイロのビル群の上ににょっきりと顔を出しています。ただ、高さは140mほどなので、東京タワーと比べても半分以下なのですが。逆に、ピラミッドのそばからは、砂漠の端の向こうにカイロのビル群が林立しています。東京駅を起点で考えると、羽田空港あたりにピラミッドがある感じにで、意外と近くに巨大な石の塊があるんです。

 

 これだけ町並みに近いピラミッドですから、ピラミッドの近くにもホテルがあって、窓からピラミッドが見える客室もあって、これが売りのところもあるようです。当然これらの客室は、裏側より高く設定されていると思います。パッケージ旅行であった筆者は、運が無くって裏側でした。一方に廊下を寄せて、全部ピラミッドオ・フロントにできないのでしょうか。カナダのナイアガラでは、パッケージではないせいもあって、一流のホテルではありませんでしたが、全室がフォール・フロントで、部屋から滝のライトアップが楽しめました。

 このピラミッドの中でクフ王のものが最大で、中に入ることもできます。筆者の頃は人数制限はありませんでしたが、現在は午前と午後とで百数十人という制限らしいです。人の呼気でカビが発生するのを防止するそうですが、人数のカウントはかなり、いい加減とのことです。この内部空間は、背の低い(中腰でないと歩けない)トンネルが、かなりの傾斜で続き、かなり辛い上りです。そして、上りきっても何も無く、行った!ということだけです。閉所恐怖症や、腰痛のある方にはお勧めできません。内部に入るには別料金が必要なので、なんとはなしにボッタクリの感があります。

  
 三大ピラミッドには大スフィンクスがつきもので、観光写真にはピラミッドの前景にスフィンクスが写っています。このスフィンクス全長は70m以上、幅が6mで高さが20mある一枚岩から掘り出された彫像としては世界最大の像ですが、頭だけは別の場所から運ばれてきた石灰岩なのだそうです。石灰岩の丘を掘り下げて作られたために、像の周りは堀のような窪地が取り囲んでいます。このような地形のせいか、20世紀初頭までは首から下が砂に埋もれていたそうで、幕末にヨーロッパに行った遣欧使節団が立ち寄った時の写真でも侍たちはスフィンクスの胸あたりに並んで立っています。実は、この写真、TVの何かの番組で放映され、これが筆者のエジプト行のきっかけでした。

 クフ王のピラミッドは、底辺が260m、高さが140mほどで、質量は600~700万トンと推定されています。ニュートンの万有引力の理論に従えば、2つの物体の間の引力は、それぞれの質量をかけたものを物体間の距離で割ったものです。地球の質量は5.972 × 1024kg、半径は6千kmと推定されていますから、ごく大雑把に見積もってピラミッドのそばでは、地球の引力の1/(10の11乗)程度の横向きの力が働いていることになります。ただ、この程度の力では最新のIT技術を駆使しても測定は難しいんでしょうね。

増田の内蔵は、鞘堂のように家の中に蔵がすっぽり収まっていて、中には茶室までありました

2017-06-04 08:00:00 | 日本の町並み
 大陸への窓口として大和朝廷の出先機関として作られたのが大宰府でした。大宰府への転勤は都から遠く離れた僻地ということもあり、はっきり言って左遷でした。菅原道真も藤原氏との権力闘争に負けて大宰府に左遷されましたが、道真は大宰府政庁には一度も登庁しなかったそうです。一方、北の方で藤原氏(奥州藤原氏)の権力が確立したのが後三年の役でした。奥羽本線には古戦場の近くの、横手駅の北に後三年という駅も残ります。今回は、その後三年の古戦場に近い横手市の増田の町並みを紹介します。

 
 
 
 
 増田は、奥羽本線の湯沢駅と横手駅との中間にある十文字駅から東にバスで5分ほどの場所で、現在は横手市の一部ですが、合併前は独立の町でした。江戸時代から流通の拠点として栄え、14世紀には17世紀初頭までは城もあったようです。明治以降は、流通拠点としてだけでなく酒造業が盛んになりました。妻入りの間口の狭い家並が続きますが、奥行きはその10倍にも達します。京都の町家は「うなぎの寝床」と称されますが、遥かにそれを超越しているようです。100mほどの間隔で南北に並行する道路がありますが、その両側に面している家も珍しくありません。その中に石田理吉家があり、秋田でも珍しい木造三階建が塀の向こうににょっきりと建っています。貴重な材木をふんだんに使った贅沢な家屋ですが、三界にした理由は、三階から見える増田の花火大会で客人をもてなすためであったとか。


 
 
 増田の特徴は、この奥に長い母屋の中に、内蔵と呼ばれる土蔵があることです。もちろん家屋の中にある蔵ですから、土足禁止で、什器や書物の保管のためや居住空間として使われました。なかには、蔵の中に茶室が作られている蔵もあります。この茶室のある蔵の一つは佐藤養助漆蔵資料館で、こちらでは秋田名物の稲庭うどんを食べることもできます。このような内蔵のある街並みが他にない特徴のため重要伝統的建物群保存地区(重伝建)に指定されています。

 
 変わったところでは、町並みから少し外れたところに増田まんが美術館があります。現在はリニューアルのために閉館中ですが、田んぼの中の特異な形の建物は、ちょっと寄り道をして建物の外観だけでも見る価値がありそうです。この美術館は、増田が釣りキチ三平の作者の矢口高雄の故郷だからなのだそうです。


 増田の花火大会は成瀬川のの河原で9月中旬に開催されるようです。二尺玉の早打ちで迫力があるのが魅力だそうです。最近の花火大会は、音楽に合わせるなど凝った演出が盛んになり、人手で打ち上げるのが難しくなり、現在では、およそ20%くらいの花火大会がコンピュータ制御になっているそうです。コンピュータ制御になって、音楽に合わせて安くはなりましたが、事前の準備が、従来の3倍もかかるのだそうです。それは、コンピュータと打ち上げ筒との間を1本1本線で結ばなければならず、その数が膨大で、チェックも大変だとか。ただ、微妙なタイミングの調整は職人さんの感なのだそうです。