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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

皇女和宮も宿泊した赤坂宿は古いや家並みには人通りより多い石柱がありました

2012-09-30 08:00:00 | 日本の町並み
 高松市内にあって迷路のような町並みが広がるのが香西でした。またJRの香西駅は高松駅の次の駅ですが、かつては各駅停車もほとんどとまらない駅で、現在も一日の乗降客数が400人程度です。都市の中心駅の隣接駅は、無人駅であったり乗降客数が少なかったりしがちです。今回は、岐阜県第2の都市である大垣の近くにありながら乗降客数が400人/日たらずの無人駅、美濃赤坂駅周辺に残る宿場町の町並みを紹介します。

 美濃赤坂駅は、大垣から北に伸びJR東海道本線の支線である美濃赤坂支線の終点駅です。美濃赤坂駅は、旅客扱いの駅では終点ですが、この駅を起点に貨物専用の西濃鉄道が北に伸びていて、金生山で採れる石灰岩の運搬に使われています。人の気配の無い小さな駅ですが、1968年秋には1年間だけですが、東海道線の下り夜行普通列車の終着駅でした。

 
 こんな辺鄙な感じの美濃赤坂駅ですが、駅の北側には中仙道の宿場町の名残を残す町並みが残されています。辺鄙なところゆえ、再開発の手が及ばなかったのかもしれません。旧中仙道は、駅の北側を東西に伸びていて、駅から街道筋に伸びる道路沿いにも、白壁に腰板張りの家並みが続いています。

 
 
 本陣、脇本陣の跡も近くにありますが、石柱と説明板が立っているだけで、遺構は何も残っていません。本陣の石柱の後方には、皇女和宮が輿入れのため江戸に向かう途中宿泊した場所を示す石碑もあります。宿場の東の外れであった場所には、赤坂宿御使者場の石柱もあり、これは宿場の入り口で使者が大名を迎えた場所だそうです。さらに、赤坂宿から北に伸びる他に組街道の分岐点にも、石柱と石灯籠、それに看板があって、歩いている人より石柱や石碑のほうが多いような感じです。

 
 
 街道沿いには、現役の日本旅館や、かつての民家を転用したらしい五七処という休憩所など、土蔵造りの上に大きな瓦屋根を乗せた日本家屋が連なります。このような日本家屋の中に、かつての赤坂港跡にある資料館は下見板張りの洋館で、ちょっと意外な風景です。この洋館は、明治時代に建てられた警察署の遺構で、商工会議所などに転用された後に現在の資料館として公開されていいるようです。ただ、赤坂港という名称は、海から遠く離れた場所で奇異に感じますが、江戸時代には杭瀬川を使った舟運のための港としてにぎわったそうです。

 筆者の学生時代には、当時の国鉄には各駅停車の列車が数多く走っていて、大垣夜行もそのうちの一つでした。現在の夜行快速「ながら」がその名残になります。おぼろげな記憶では、東京発姫路行きの各駅停車も存在していたように思います。ただ、当時は、青春18切符というような乗車券は無かったので、学割の枚数を節約するため、一筆書きの長~い区間の普通乗車券を持って乗車していました。しかし、時たま優等列車に乗車をしようとすると、指定券を購入するのは至難の業でした。駅に行くと、係りの人が予約センタに電話で問い合わせて手書きの指定券を発券していました。すべての列車の座席予約が、コンピュータライズされオンラインで可能となったのは東京五輪の1964年からだったのです。指定券を自宅からでも購入できるように便利になりましたが、「ながら」が季節列車になり、関西始発の夜行快速が全廃になるなど、低コストののんびりとした旅行には逆風が吹いているようです。

南大門に似た門や馬の耳に似た山など全羅北道は面白いっぱいです(韓国)

2012-09-23 08:00:00 | 世界の町並み
 中国に居るとは思えないプラタナスの美しい並木が続く町並みが上海の旧フランス租界でした。上海はいくつかの都市と友好都市になっていますが、お隣の国の韓国では都市ではなく道が友好都市になっています。今回はその友好都市の全羅北道の町の中から、南原と全州を中心に紹介します。

 全羅北道は、韓国の南西部で、西南端の全羅南道の北側に位置します。全羅北道の中心の全州までソウルから韓国版新幹線のKTXで2時間10分の距離になります。高速バスでも3時間足らずで、料金は鉄道の半分以下、5~10分間隔で運行されているので、朝夕の渋滞を避ければこちらがお勧めかもしれません。

 
 
 道庁のある全州は全羅北道のほぼ中央あたりで、65万都市にしては古い町並みが残されています。全州韓屋マウルと呼ばれる地区には、伝統的な韓屋の家並みがのこり、街中にはお酒の博物館や韓方医薬のお店があります。

  
 
 この韓屋マウルから西側には、朝鮮王朝の始祖を祭る慶基殿があり、映画のロケにも使われたのだそうです。さらに西に進むと、突き当たりに豊南門があります。また、その手前の道路の南側にはカソリック教会の塔がそびえていて、周りの韓国風の町並みとちょっと異質な感じです。豊南門はソウルの家事で消失した南大門に似ていますが、こちらは半円形の石塁が門を囲んでいて、南大門よりも勇壮に見えます。

 
 ソウルからのバスは市の北部の市外バスのターミナルに到着しますが、そのバスターミナルから鎮安行きのバスで1時間乗車します。鎮安のバスターミナルで郡内バスに乗り継いで10分ほどで馬耳山という変わった形の山の近くの駐車場に着きます。道立公園になっていて、まるで馬の耳のような形をした一枚岩の山が並んで立っています。岩の麓は垂直に近い傾斜ですから、おそらく山自身には上れないし、神聖な領域で上ってはいけないのではないかとも思います。二つの巨岩の間の鞍部は馬の額と呼ばれ、休憩所のようなものが建っています。一枚岩が2つ並んで立っていることが珍しいらしく、ずいぶんたくさんの人が訪れていたようです。

 
 一方、南原のほうは全羅北道の南東端に位置する10万人都市で、全州と比べるとだいぶ小ぶりです。全州とは高速バスで1時間あまりの距離になります。韓国では、高速道路網が整備されているせいもあって、列車より都市間高速バスのほうが安くて頻繁に運行されて便利です。車内の窮屈さ、それに渋滞リスクを気にしなければ、2~3割は余計に時間が掛かりますがバスに軍配が上がります。さて、南原ですが、市の北に残る蛟竜山城の城下町として発展してきた町です。秀吉の朝鮮出兵の時には、この城を中心に先頭が行われた歴史があるそうです。韓国の伝統芸能のパンソリが盛んな土地で、市の南部にある広寒楼は、演目の一つの「春香伝」の舞台にもなっています。広寒楼は、月の宮殿を模した建物や湖水に掛かる橋などがある公園は市民の憩いの場になっているようです。公園の南側には春香村というものがあって、噴水や広場のほか遊戯施設もある遊園地になっています。

 パンソリは、一人の歌い手と太鼓奏者によって演じられる、物語性のある口承文芸の一つでユネスコの世界無形遺産の一つです。12あった演目のうちう、現在まで演じ続けられているのは5演目で、春香伝もその中の一つです。原曲はどれも長大で、春香伝では休憩なしに演じられても8時間も掛かるそうです。世界無形遺産は、物理的に物や自然が存在するわけではなく、遺産を支える人間の存在が必要です。パンソリを映像メディアで保存することは可能で、技術が進めば、3Dなどよりリアルになるのでしょうが、あくまで記録に過ぎません。伝統芸能や伝統工芸など跡継ぎの不在が問題になることも多いものですが、パンソリの後継者はどうなのでしょうか。

高松市内とは思われない古い家並みと迷路が入り組んだ香西です

2012-09-16 08:00:00 | 日本の町並み
 アルプスの残雪の白と黒いお城の対比が美しい町が松本でした。この松本と上高地への入り口の島々とを結ぶ私鉄が旧松本電鉄のアルピコです。ローカルの私鉄は、どこも経営が苦しいらしく、東京の京王電鉄で走っていた中古の車両が使われています。この京王の車両は四国の高松にある琴電でも使われているようで、今回はその高松駅から琴電ならぬJRで1駅の香西の町並みを紹介します。

 香西は高松市の西の端に近く、JR予讃線で高松駅から1駅の香西駅の西に位置する町並みです。この香西駅は無人駅で、今でこそ1時間に2本ほどのローカル列車が停車しますが、かつてはローカル列車も通過するような駅だったそうです。高松駅から琴電の市内バスの路線もありますが、高松市内とは思えないのんびりとした町並みが広がっています。

 
 鎌倉時代には香西氏の領地で、当地の漁民は有事には水軍として活躍したそうです。その香西氏ゆかりのお寺が、町並みの東南のはずれにあります。香西氏の世継ぎ争いで殺された子供の母親の霊を弔うために建立された西光寺です。

 
 
 また水軍の町としての名残といわれる、「香西はむきむきの町」と呼ばれる特徴のある町並みがあります。防備のためででょうか家の並びがむきむきで、袋固小路やT字路などの迷路が続きます。町並みを散歩していて、角を曲がるとその先に予想されない景色が広がったりします。海が近いので、それが海であったりもします。このような迷路の町ですが、江戸期には高松と丸亀を結ぶ街道の宿場町でもあったようです。

 
 家並みの顔は、上半分が白漆喰の白で、下半分が板張りの茶色、その間にはひさしに乗るかわらの黒が縁取り、さらに屋根には黒い色の瓦がのっかっています。山口の柳井の町並みの色合いに似ています。しかし、商家の町並みの柳井では通りに向けて広い開口部がありますが、こちらでは醤油屋や廻旋問屋の名残の家屋は、通りには小さな出入り口しか無く普通の民家の様相です。

 迷路と聞くとGPSを思い浮かべます、言わずと知れた位置情報の検出システムです。現在ではケータイまでに組み込まれて、これを利用した遊びもあるようです。GPSは高精度の時計を利用して、受信場所と衛星までの距離を割り出して、複数の衛星を使って三角測量に似た方法で場所を特定しています。ただ、以前にも書いたようにGPS衛星は軍事衛星で、軍の意向で利用でき無くなる恐れがあります。現に、1990年から10年間は故意に挿入された誤差情報で、測定誤差が100m以上にもなりました。利用分野が多岐にわたるだけに気になります。

島中が博物館で便利ですが展示内容が多く一日では見切れない博物館島です(ドイツ)

2012-09-09 08:00:00 | 世界遺産
 UNESCOの呼びかけで水没から救われ世界遺産の制度のきっかけとなった遺跡がエジプトのアブシンベル神殿でした。アブシンベル神殿は、上方に移築しただけですが、トルコにある神殿の遺跡のレリーフなどをドイツに持ち帰って不足分を補って復元したのがペルガモンの大祭壇です。今回は、ペルガモンの大祭壇のあるベルガモン博物館をはじめ、5つの博物館、美術館があるバルリンの博物館島を紹介します。

 博物館島は、名前から分かるようにベルリンの北部のシュプレー川の中州であり、ドイツ統合以前は東ベルリン地区に属していました。5つとは、建設年代の古い順に旧博物館、新博物館、旧国立美術館、ボーデ博物館それにペルガモン博物館です。上野にも似た地域ですが、もっとボリュームがありますが、それぞれの施設は隣接していて見て回るのには便利です。といっても、戦争で散逸していた美術品などを集約中で、展示品はますます膨大二なっていて、とても一日では回りきれません。本稿では、筆者が駆け足で訪問した、新博物館、旧国立美術館それにペルガモン博物館を紹介します。

 まず、新博物館は、博物館群の中で西南に位置し横に細長い建物でちょっと変わり映えがしません。戦争で大きな被害を受けて、2009年の秋になって70年ぶりに再オープンしたばかりです。古代エジプトの工芸品や先史から有史初期のコレクションが中心で、目玉はエジプトのネフェルティティの胸像です。元々は、新博物館にあったものですが、戦災にあった後は転々として、最後はシャルロッテンブルグ宮殿から新博物館に戻ってきました。この像の右目は、なぜか真っ白で、理由が取りざたされますが、最初に見たときにはギョッとしますが、右は右、左は左と、異なる印象で見れば面白いと感じます。

 新博物館の東に建っているのが旧国立美術館で、鉄とレンガによるギリシャシ神殿のような外観を持つ建物です。こちらの建物も、戦争による被害を受けましたが、戦後まもなく仮復旧をして、1969年には修復を終えています。古典主義から初期モダニズム絵画のコレクションが中心で、印象派の絵画もずいぶんと陳列されています。近現代絵画を嫌ったヒトラーの時代には、館長との間でコレクションの方針が対立し、館長がたびたび解任されたという逸話が残されています。

 
 最後のペルガモン博物館は、新博物館の北側に建っています。他の博物館の入り口が島内にあるのに対して、ペルガモンは島の外から橋を渡って入場する必要があり、入り口を探しにちょっと苦労しました。こちらの建物もギリシャ神殿風ですが、コの字型の巨大な建物です。巨大な理由は、収蔵品が巨大なためで、ヘレニズムやイスラム文化圏の石造美術品が高い天井の空間に収納されています。目玉は博物館の名前となったゼウスの大祭壇で、こんなものが屋内に収まっているとは、とても想像できません。この博物館も戦災に遭っていて、こんなに巨大な大祭壇も2度も移設されています。最初はベルリン動物園近くに疎開し、2度目はソ連軍が戦利品としてレニングラード(サンクト・ペテル・ブルグ)に持ち帰ったそうですが、さぞや重かったでしょう。ゼウスの大祭壇は、トルコ西部に紀元前3世紀頃に栄えたペルガモンのアクアポリスに在ったものです。遺跡に残っていた、壁面彫刻などをドイツが持ち帰って、神殿として復元したものです。

 西欧列強の博物館には、現在は後進国となった国々の文化財が目玉として展示されていることが多いものです。合法的に入手された物と主張されていますが、文化財の価値を認識しない国から半ば略奪的に持ってきたものも多いように思います。これらのものの中には、返還要求が出されている場合も多いのですが、合法的という主張に阻まれているようです。ITの分野においても、合法の名の下に列強(特定の会社)に有利な制度や規格が決められて、世界の富が偏って集中しているように思います。

お城の黒とアルプスの白の対比は町並みの中にもある松本です

2012-09-02 08:00:00 | 日本の町並み
 世界遺産のお城の西側に土蔵造りや格子を連ねた町並みが続くのが姫路でした。姫路城と同様に国宝の天守が残るお城は全国で4箇所のみで、そのうち姫路と姉妹都市となっているのが松本市です。姫路城は白漆喰で真っ白な天守閣ですが、松本城は板張りの黒が印象的で対象的です。ただ、春先にはお城の背景には、雪をいただいた真っ白のアルプスが対比を見せています。今回は、松本城の南側、女鳥羽川沿いの中町通りあたりに続く町並みを中心に紹介します。

 
 松本は、松本城の城下町として、また中山道から分岐をして善光寺に至る北国西脇往還などの街道の宿場町として栄えた町です。古い町並みの残る、中町界隈は、北進してきた街道がお城の手前で東に折れ、街道沿いに商家や旅籠があった所です。黒漆喰や白漆喰の土蔵造りの民家や商店が続きますが、この町並みは明治時代の大火の後に、防火に優れた土蔵造りで再興がなされたからのようです。黒漆喰の商家を見ていると、どこかで見たような景色に思いましたが、滋賀県の長浜にある黒壁スクエアに似ているんです。黒壁の商家は外観が似てくるのかもしれませんが、松本の黒壁のほうが下部になまこ壁があって変化に富んでました。

 
 高知県の佐川は白漆喰の酒蔵が連なり、埼玉の川越は黒漆喰の商家が目立ちます。白と黒とのどちらか一方が目立つ町並みが多いものですが、山口県の柳井は2階が白漆喰で開口部が黒と、白黒が同居したコントラストの強い町並みです。松本の中町の町並みは、一つの町並みの中に白漆喰の家とと黒漆喰の家とが同居をして、お互いに印象を強め合っているように感じます。

 
 中町は女鳥羽川の南側に東西に伸びた町並みですが、女鳥羽川北側に沿った縄手通りにも土蔵造りの町並みがあります。こちらは、明治期に松本城の外堀を埋め立てた跡に作られた町並みで、21世紀になって町並みを整備したようです。白壁は真新しくって奇麗なのですが、商店街風で、まだまだしっくりとしない印象です。この縄手通りとお城との間に、もう一つの松本城があります。商店街の中に、周りから切り取られたような空間があって、その中にミニチュアのお城の建物が建っています。実は古本屋さんなのですが、お城を模した建物が多い中で、この商店はグッドデザインの一つではないでしょうか。ただ、両側のビルのオーナーももうちょっと余裕を持って建てて欲しかったのですが。

 白と黒というとコンピュータの印字が思い浮かびます。かつては、白黒それも高速ラインプリンタでは英数字のみの印字が当たり前でした。図面の印刷も、プロッタと呼ばれる装置によって、黒色の単色によって図面が描かれていました。現在では、家庭用のパソコンでもカラーインクジェット印刷が当たり前で、カラー写真と見まがうほどの印刷ができます。業務用のインクジェット機では、1秒間に3枚近くの印刷が可能なようです。カラー印刷が手軽に使えるようになって、得られる情報量も飛躍的に大きくなりましたが、白黒の情報の向こうにあるものを想像する楽しみはなくなったように思います。