世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

次期の一万円札の肖像になる渋沢栄一の故郷の深谷には生家だけでなく多くの関連施設が残されています

2019-09-29 08:00:00 | 日本の町並み
 今市付近に残る日光杉並木は、徳川の権威を示すための日光東照宮への参詣道を整備して民衆を日光に誘導した産物という面もあったように思います。日光に祀られる家康は300年近く続いた徳川の権力基盤を作りましたが、その暗黒の徳川時代から明治の開国を迎えて、現在の日本の経済基盤を作り上げた人物の一人が渋沢栄一ではないでしょうか。一万円札は長く福沢諭吉の肖像画使われてきましたが、数年後には渋沢栄一の肖像に引き継がれることが決まっています。今回は渋沢栄一の出身地である深谷にある、栄一ゆかりの場所を中心に紹介します。

 
 
 
 渋沢栄一の生まれたのは埼玉県の北部の深谷で、深谷ネギで有名なところです。市の北西部に、栄一の生家である旧渋沢邸中の家(なかんち)が残されています。渋沢家は深谷の開拓者で一族が分家して、いくつかの家がありそのうちの一つが中の家だったようで、栄一は、この屋敷で江戸末期に長男として生まれました。広い敷地に薬医門を構え、明治時代に建てられた母屋を始め4つの土蔵などが保存されています。生家から東に徒歩10分くらいのところに渋沢栄一記念館があります。コンクリートの2階建てで、栄一に関する資料類が展示されています。入り口と反対側は多目的ホールになっていて、生家に通じる川に面したところにはテラスが張り出しています。そののテラスには、渋沢栄一の大きな銅像が置かれてありますが、この銅像は元は深谷駅前に設置されていたものが移設されたのですが、銅像の頭の部分が大きすぎると不評だったのが理由の一つだとか。

 
 
 
 
 記念館の東北東4kmほどの所には旧煉瓦製造設備あとがありホフマン輪窯や事務所の建物が残され共に重文になっています。旧事務所には煉瓦に関する資料が展示され、建物の後方には、レンガ造りの旧変電室の建物もあります。ただ、筆者が訪問した時にはホフマン輪窯は保存工事中で、当分は見学できないとのことでした。施設の裏側には、深谷駅から伸びる引き込み線の後が遊歩道になり、川には備前渠鉄橋も残されています。この引き込み線の遺構は、あちこちに残り、深谷駅近くには唐沢川鉄橋がつばさ橋と名前を変えて遊歩道の端として利用され地ます。

 
 
 
 
 記念館から南に2kmほど行くと誠之堂と清風亭とがあります。共に、都内の世田谷にあった建物を解体して、ゆかりの深谷市に移設したのだそうです。誠之堂は栄一の喜寿の祝いに当時の第一銀行の行員が基金を出し合って作られたもので、煉瓦造りの田舎風西洋館で重文指定になっています。ステンドグラスのモティーフが面白くて、キリスト像でも十字架でもなく、中国漢代の貴族が描かれています。隣にある清風亭は栄一の後に第一銀行の頭取になって佐々木勇之助の呼気を祝って行員が建てたもので、こちらはテッキンコンクリート製です。テラスのアーチの縁取りなど要所にはスクラッチ煉瓦の飾りがついています。どちらの建物も、前面にテラスがあって、伸びやかな感じがします。

 新一万円札は、原画の作成、自販機の改造などの準備に時間がかかり4年ほどはかかるのだそうです。原画の作成などにこんなに時間がかかるのは、偽造防止に手間取るからとのことです。実は、渋沢栄一は伊藤博文の千円札ができる時にも最終候補だったのだそうですが、当時の偽造防止の技術では、肖像にひげが無いとダメとの理由で見送られたのだそうです。その後、この問題は解消され福沢諭吉像にはひげが無く、樋口一葉の採用によって女性像も使えるようになったとのことです。金銭価値を持つものは、お札を始め、必ず偽造の危険にさらされています。偽造犯と、それをブロックするシステムとは、いつもいたちごっこのような感じがしますが、かつて犯した脆弱性の学習効果が見られない気もします。かつて、銀行カードの磁気ストライプには暗証番号が書かれていました。磁気コードは簡単には読めないとの理由でしたが、やがて簡単に読めるようになり多くの銀行カードが偽造され、暗証番号はカードには書かなくなりました。ところが、最近の指紋認証付き銀行カードのICチップには指紋コードが書かれています。暗号化してると言ってますが、同じ過ちを繰り返しているような気がします。

45年前のロサンゼルスのディズニーランドは現在まであまり変わってなく、ユニバーサルスタジオはまるで違っていました(アメリカ)

2019-09-22 08:00:00 | 世界の町並み
 杉浦千畝が外交官として活躍した町がリトアニア第2の都市でかつての首都であったカウナスでした。代2の都市と言っても人口は36万人程度で、日本でいえば奈良市くらいです。このカウナスの姉妹都市の一つがアメリカのロサンゼルスで、こちらは市域だけで人工は380万人程度、都市圏だと1500万人以上にもなります。初めてロサンゼルスを訪れたのは45年も前になり、写真もアナログのポジフィルムでかなり退色し、記憶も退色していますが、思い出しながら当時の様子を紹介します。

 
 
 45年前に日本からアメリカ西海岸に飛ぶ飛行機は、当時の航空機の能力では追い風の往路ではノンストップでしたが、向かい風の復路では途中で給油の必要があったように思います。特にロサンゼルスは、日本との距離がサンフランシスコより、500kkmほども遠いので無理をしても届かなかったようです。JALでは日付変更線を越えた証明書を機内で配っていたように思います。ロサンゼルスは、西海岸の経済の中心なので、プライベートや仕事で行く機会もありましたが、最初に訪れた時の印象が鮮烈に残っています。ただ、パッケージツアーのロサンゼルス観光はチャイニーズシアターやハリュッド・ボールなどのハリュッド周辺とファーマーズマーケットで飲んだオレンジジュールがおいしかったくらいの思い出で、印象の大部分は、自由時間に行ったナッツベリー。ファームとディズニー・ランドです。その後にウニバーサル・スタジオも訪れて、ロス周辺の遊園地を制覇した感じです。

 
 
 ナッツベリー・ファームは、3つの遊園地で唯一日本に進出してない遊園地ですが、意外と存在感のある遊園地でした。スウェーデンのストックホルム郊外にあるスカンセンのように、アメリカの歴史を前面に出した遊園地だったようです。園内を蒸気機関車や幌馬車が走り、突如西部劇のシーンのような銃撃戦が始まります。糸紬の実演もあり、砂金をより分けるアトラクションもありました。日本でコピーの遊園地ができなかったのは、このようなテーマでは、日本では集客率が低いと思ったのかもしれません。しかし、ヨーロッパなど他国の文化のペラペラなコピーにあふれているディズニーランドより、ずっと意味があると思うんですが。

 
 
 
 45年前のディズニーランド写真を改めて見てみると、舞浜のディズニーランドとあまり変わらないような気がします。ディズニーランドは、常に新しいって宣伝していますが、変わらないところも多いんですね。ディズニランドのそばのホテルに泊まりましたが、窓から見ると遊園地より駐車場の方が広いのでさすがに車社会だな~と感じたことを覚えています。

 
 
 ユニバーサル・スタジオを最初に訪れたのは35年ほど前ですが、現在のユニバーサルとは、だいぶ様子が違っていました。遊園地というより、京都の東映映画村の感じです。映画スタジオの中を、トラムに乗って巡ることがメインでした。ジョーズも、トラムが通るタイミングを見計らって水の中からガバッと顔を出すので迫力があります。それ以外は、劇場があって当時人気の映画の有名なシーンを演じてくれたくらいでした。当然ながら生身の人間が演じるわけで、これは現在のユニバーサルに通じる流れで、人形やロボットが演じるディズニーとは対照的です。ディズニーが均質で味気ないのに対して、人間が演じると演者の力量が出て、良くも悪くも面白いのですが、USJが開園したころは力量不足が気になりました。

 45年も前のアメリカ西海岸のパッケージツアー料金は、当時の所得水準と較べてかなり高額だったように思います。ツアー料金の大部分は航空運賃で、飛び始めたジャンボによる大量輸送時代の幕開けも、料金を下げるまで時間がかかったようです。飛行機は大型ほど乗り心地も良く安全と言われ総二階建てのA380はで出現しました。これは大型ほど、飛行を支援するより高度なシステムを搭載できるからです。飛行機は電子技術で飛んでいるようなもので、エアバスの操縦系統は、舵輪は無くなり戦闘機などで使われるサイドスティックの操作信号をコンピュータで解析して、エルロンなど飛行機各部の動きやエンジン出力の制御をするフライバイワイヤと呼ばれる技術が使われています。しかしながら、コンピュータのプログラムの検証は難しく、フライバイワイヤとは異なりますが、ボーイングのB737Maxではプログラムの不具合で墜落事故も起こりました。トラブルが起こった時の最終判断は、人間なんですね。

今市には世界一の杉並木や酒蔵などイマイチとは真逆の見どころが沢山あります

2019-09-15 08:00:00 | 日本の町並み
 兵庫県の南西部にはひまわりの群生やすすきの原の広がりなど単一種類のの植物が群れるところがありました。おそらく、すすきの群生は自然に広がった結果だと思いますが、ヒマワリは種から油を取るために人間が植えたものです。人工的に作られた群生は、時には弊害を生むこともあって、その顕著な例は、杉の植林で、花粉症という弊害を生んでしまいました。一方、同じ杉でも、街道に植えられて旅人を直射日光などから守った杉並木は、あまり副作用としての弊害は少なかったかもしれません。江戸時代の街道の杉並木は、あちこちに残されていますが、首都圏に近く、比較的長い距離が残っている日光杉並木が良く知られています。今回は、この日航杉並にの残る今市周辺を紹介します。

 
 今市は、東武日光線の鬼怒川方面への分岐駅の下今市駅と上今市駅、そしてJR日光線の今市が最寄り駅になります。日光杉並木は、上今市駅付近から東武遷都平行に日光方面に向かって1kmほども続いています。ただ、この区間は保存性が良く足の便が良いために有名ですが、この杉並木は東照宮の境内から東武鬼怒川線の大桑まで約35kmにわたって続いていたそうで、並木の長さとしては世界一なのだそうです。ただ、植樹から400年を経った現在残る杉並木は周辺の開発や車の影響で、ほっておけば100年後には消滅の危機があるのだそうです。

 
 
 杉並木の上今市駅側の入り口近くの南側には瀧尾神社があり、8世紀に日光二荒山神社と同じ頃に祀られるようになった今市の総鎮守です。拝殿手前には3体の神像があり、七福神の家の三福神と思いきや、両端は恵比寿と大国ですが中央の女神は弁天ではなく田心姫命なのだそうです。一方、杉並木にの延長線上には浄泉寺と沢蔵司稲荷神社が並んでいます。浄泉寺は、日光に向かう家康の棺が休憩をした場所に建てられた寺ですが、本堂は焼失し、薬師堂が残るのみです。沢蔵司稲荷は二宮尊徳の子供が寄進をした稲荷で、そばをお供えして願いがかなったため蕎麦食い稲荷と言われているそうです。

 
 
 浄泉寺を抜けてさらに東に行くと如来寺で、塗ろ待ち時代の創建で徳川三代将軍が宿泊したと言われ現在も立派な本堂が建っています。二宮尊徳の葬儀もこの寺で行われたのだそうです。このお寺の周辺には、昔風の店構えの店舗が残され、かつての宿場町の風情が感じられます。

 
 
 付近には地酒を造る酒蔵も2軒ありどちらも見学も可能です。東武線を挟んで如来寺とは反対側にあるのが片山酒造で、大きな風呂桶のようなところにもろみ袋を積んで上から押し付ける佐瀬式と呼ばれる搾り方を守っています。もう一つの酒蔵は、国道を下今市駅の方に行った国道沿いにある渡邊佐平商店で、日光誉の銘柄で純米酒を醸造しています。

 今市も通って日光までは、かつてはJRの急行日光が走っており、東武の特急けごんと激しい競争を展開していました。しかし東北新幹線の開業とともに1982年にJRの急行日光は廃止、日光へは東武線の独壇場となりました。ところが、この東武の特急車両が、かつてのライバルのJR新宿駅に停車しているのにびっくりしました。南栗橋あたりでJR線と東武線との渡り選を使って相互乗り入れをし、新宿から東武日光まで直通する特急が走るようになったのです。レールの幅や架線の電圧などが同じなので無理なく乗り入れができたのでしょう。ヨーロッパでは、レールの幅や架線電圧、第三軌条による給電などの違いをもろともせず直通する列車が数多く存在しています。ただ、コンピュータによる列車運行を制御するシステムの違いを切り替えるのはそれなりに大変なようです。我が国では、新幹線と在来線とを直行する列車はレールの幅が違うだけで実用化できず断念したようですが。

紀伊山地の霊場と参詣道の指定の範囲は広く、すべてを廻るのは大変で、紹介も一部です(日本)

2019-09-08 08:00:00 | 世界遺産
 中国とヨーロッパをつなぎ人や物の行き来を司ったのがシルクロードでした。その起源は5千年ともいわれ、中国から北に行きステップ地帯を通る草原の道と言われています。世界遺産になっているシルクロードは、もっと南の長安を起点にするオアシスの道と呼ばれる交易路です。シルクロードの東の端は、中国の都であった長安や洛陽と考えられていますが、もっと東の我が国までシルクロード経由で伝わった中央アジアなどの文化が伝来しています。これらは、正倉院御物にも見られるように8世紀ころですが、もっと前に中国から日本に渡来したとされる人物がいます、今回はその徐福伝説のある新宮などを起点とする熊野古道を含む紀伊山地の霊場と参詣道の一部を紹介します。

 紀伊山地の霊場と参詣道は、和歌山、奈良、三重県と3つの県に跨り、1万ヘクタールを越える広さが登録され、その広さは大坂市の面積の、約半分くらいになります。熊野三山、吉野、大峰、高野山の霊場と、そこに至る熊野古道の一部が登録の対象となっています。

 
 熊野古道の一つの起点で、熊野速玉神社があるのが和歌山県の新宮ですが、その新宮に徐福公園なるものがあります。徐福は、今から2,200年も前の秦の時代に、始皇帝から不老不死の薬を探す名を受けて東方に旅立ちましたが、その目的は果たすことはできず、途中の日本に居着いたとされる人物です。3千人を越える大集団で渡来したとされ、一種の民族大移動だったのかもしれません。徐福が渡来したという地は新宮以外にも日本各地に残り、九州から東北にまで分布しています。

 
 
 徐福公園のある新宮にある熊野速玉は熊野三山の一つですが、他の2つは那智勝浦にある熊野那智大社そして本宮町にある熊野本宮大社になります。速玉と那智とは海岸近くにありますが本宮は紀伊半島の山の中で、教義の熊野古道は本宮に通じる山道を指すことが多いようです。古くから皇室を含めて信仰をあつめ、特に江戸時代には蟻の熊野詣という言葉も生まれるほど、熊野古道は蟻の行列のように参詣人であふれたのだそうです。

 
 
 熊野本宮を通り過ぎて、長く日本一を誇った谷瀬の吊り橋のそばを通り抜け、うねうねと曲がる山道をひたすら北に行くと高野山に着きます。もちろん現代では、大阪から南海電車の高野線で北からアクセスするのが通常のルートで、こちらのルートでは大阪から1時間ほどで高野山に行けてしまいます。高野山は比叡山と並ぶ平安仏教の聖地で、現役の修行の場を保ち続けいています。現在も、毎日空海のための食事を運ぶ行事まであり、本来の釈迦の教えから逸脱していると考えられ、ちょっと引きますが。広大な山内には金剛峰寺の諸堂が建ち並んでいますが、意外なことに国宝や重文の建物はほとんどありません。大部分が近年の再建で、巨大な多宝塔の根本大塔は木造ではなくコンクリート製です。巨大な多宝塔は根来寺のものが有名で、木造の国宝です。昭和時代の再建では、このような巨大な多宝塔を木造で作る技術が廃れてしまったからと言われています。国宝や重文の建物を見る目的にやって来る観光客がいないということからも、信仰の場所なんですね。

 
 
 高野山の東には山岳信仰の大峰山がそびえ、さらに東には谷を挟んで大台ケ原があります。大台ケ原は、太平洋から吹き付ける南東の風で雨が多く、1週間に10日は降ると冗談で言われるくらいです。この大台ケ原の南西の平地にある尾鷲も日本一の雨量の多い町の一つです。この大台ケ原の北側の入口にあるのが吉野山です。吉野山は大峰山と同様に山岳信仰の場所で、7世紀に役行者によって開かれたと言われています。その中心になるのが金峰禅寺で、園本堂が蔵王権現堂です。東大に大仏殿に次ぐ木造の巨大建築で、堂内にはこれまた巨大な3体の蔵王権現が安置されています。元来は秘仏ですが、修理勧進との理由で管理の頻度で開帳されているようです。カラフルで憤怒相の仏像は、大仏など静的な者が多い中で、ダイナミックな迫力で迫ってきます。吉野は14世紀の南北朝時代に南朝が置かれた場所でもあり、南朝の皇居とされた場所が吉水神社です。拝殿には皇室のシンボルの菊の紋章のある垂れ幕がありました。元々は金峰禅寺の僧房の一つの吉水院でしたが、明治の神仏分離で人はとなったようです。

 吉野というと桜で有名で、これは蔵王権現の神木が桜のために大切にされて全山が桜だらけ(全山で3万本といわれる)になってしまったようです。役行者が最初にが蔵王権現像を彫った木材が桜でこれが神木になったとのことです。麓から頂上に向かって下、中、上そして奥の千本と呼ばれ、標高の低い下の千本から順に咲いていき、開花期の短い桜ですが4月いっぱい吉野のどこかで咲いている状況です。秀吉も醍醐の花見だけでなく吉野の花見もしたそうです。宴は4月の下旬で、ちょうど満開だったのでしょう。桜って一斉に咲くのですが、一定期間寒さに当たることで休眠から覚めて一斉に咲くそうです。温暖化が続くと、これが不完全になり、うまく咲かなくなるのではと心配されています。チューリップなども、冬の寒さに当てないと開花しないようで、早く咲かせるために冷蔵庫に入れるという技もあるそうです。おそらく、植物にとって一斉に開花することで有利な理由があり、DNAにプログラムされているのでしょう。桜の木がネットでつながっていて「そろそ咲こうか」なんてメールしていない事だけは確かです。、

姫路を起点に夏は一面のひまわりの花が見られる南光、秋は一面のすすきの原が見られる砥峰高原がおすすめです

2019-09-01 08:00:00 | 日本の町並み
 周りに人家が無く一軒家のホテルで空が暗くて星空がこんなに奇麗だったのかと思わせたのが滑床の森の国ホテルでした。夜空の主役が星ならば、昼間の主役は太陽でしょう。この太陽の輝る時間が長い地域は長野県や兵庫県にあり、どちらも太陽の申し子であるひまわりの花の名所になっています。今回は、一面のひまわり畑が続く南光と、同じ兵庫県の姫路の近郊にあって沈む太陽をバックにした一面のすすきの原が広がる砥峰高原とを紹介します。

 
 


 
 南光町は、姫路からJR姫新線で西北西に兵庫県の西の端、中央やや南にあり、2005年に町村合併によって佐用町の一部になっています。最寄りの駅は播磨徳久駅でひまわり畑までは歩いて20分ほどかかります。このひまわり畑は、夏の日照時間の長さを利用して、ひまわりの油を採るために栽培されているものでした。ひまわりの花があまりに見事なために1990年からひまわり祭りが開かれるようになり、多くの観光客を集めるようになったようです。栽培面積は、ひまわり祭りの会場だけで約11万㎡で東京ドームの2倍以上、周辺を入れると25万㎡以上もあります。

 
 
 一方の砥峰高原は、南光より東北方向でJR播但線で北に、兵庫県のほぼ中央に位置する神崎郡神河町にある高原です。南光よりさらに足の便が悪く、最寄り駅は寺前ですが、バスは途中までしか行かず、下車してから1時間半のハイキングになるので、通常は車でのアクセスになります。標高が600mから900mほどのなだらかな高原が90万㎡も続いています。南光のひまわりが終わって、秋になるとこの高原が一面の銀色の絨毯になります。ただただすすきの原が続き何もない草原ですが、このような景色は他ではあまり見られないらしく、「ノルウェイの森」など多くの映画のロケ地として使われたようです。

 ところで、ひまわりは向日葵と書き、花が太陽の方向に向くと言われますが、この現象は花茎の伸びるつぼみの間だけで、開花してしまうと通常は東に向いたままになります。ギリシャ神話では、空をかける太陽神のアポロンを見つめ続けてひまわりになってしまったクリュティエの話になります。実際には、成長過程の花茎が太陽の光によって不均一に伸びるためなのだそうです。天体望遠鏡には星の動きを追いかける赤道儀が付いて、星の写真がぶれない工夫がありますが、BSやCS用の受信アンテナは、相手が静止衛星なので常に南南西の方向を睨んでいます。