今市付近に残る日光杉並木は、徳川の権威を示すための日光東照宮への参詣道を整備して民衆を日光に誘導した産物という面もあったように思います。日光に祀られる家康は300年近く続いた徳川の権力基盤を作りましたが、その暗黒の徳川時代から明治の開国を迎えて、現在の日本の経済基盤を作り上げた人物の一人が渋沢栄一ではないでしょうか。一万円札は長く福沢諭吉の肖像画使われてきましたが、数年後には渋沢栄一の肖像に引き継がれることが決まっています。今回は渋沢栄一の出身地である深谷にある、栄一ゆかりの場所を中心に紹介します。
渋沢栄一の生まれたのは埼玉県の北部の深谷で、深谷ネギで有名なところです。市の北西部に、栄一の生家である旧渋沢邸中の家(なかんち)が残されています。渋沢家は深谷の開拓者で一族が分家して、いくつかの家がありそのうちの一つが中の家だったようで、栄一は、この屋敷で江戸末期に長男として生まれました。広い敷地に薬医門を構え、明治時代に建てられた母屋を始め4つの土蔵などが保存されています。生家から東に徒歩10分くらいのところに渋沢栄一記念館があります。コンクリートの2階建てで、栄一に関する資料類が展示されています。入り口と反対側は多目的ホールになっていて、生家に通じる川に面したところにはテラスが張り出しています。そののテラスには、渋沢栄一の大きな銅像が置かれてありますが、この銅像は元は深谷駅前に設置されていたものが移設されたのですが、銅像の頭の部分が大きすぎると不評だったのが理由の一つだとか。
記念館の東北東4kmほどの所には旧煉瓦製造設備あとがありホフマン輪窯や事務所の建物が残され共に重文になっています。旧事務所には煉瓦に関する資料が展示され、建物の後方には、レンガ造りの旧変電室の建物もあります。ただ、筆者が訪問した時にはホフマン輪窯は保存工事中で、当分は見学できないとのことでした。施設の裏側には、深谷駅から伸びる引き込み線の後が遊歩道になり、川には備前渠鉄橋も残されています。この引き込み線の遺構は、あちこちに残り、深谷駅近くには唐沢川鉄橋がつばさ橋と名前を変えて遊歩道の端として利用され地ます。
記念館から南に2kmほど行くと誠之堂と清風亭とがあります。共に、都内の世田谷にあった建物を解体して、ゆかりの深谷市に移設したのだそうです。誠之堂は栄一の喜寿の祝いに当時の第一銀行の行員が基金を出し合って作られたもので、煉瓦造りの田舎風西洋館で重文指定になっています。ステンドグラスのモティーフが面白くて、キリスト像でも十字架でもなく、中国漢代の貴族が描かれています。隣にある清風亭は栄一の後に第一銀行の頭取になって佐々木勇之助の呼気を祝って行員が建てたもので、こちらはテッキンコンクリート製です。テラスのアーチの縁取りなど要所にはスクラッチ煉瓦の飾りがついています。どちらの建物も、前面にテラスがあって、伸びやかな感じがします。
新一万円札は、原画の作成、自販機の改造などの準備に時間がかかり4年ほどはかかるのだそうです。原画の作成などにこんなに時間がかかるのは、偽造防止に手間取るからとのことです。実は、渋沢栄一は伊藤博文の千円札ができる時にも最終候補だったのだそうですが、当時の偽造防止の技術では、肖像にひげが無いとダメとの理由で見送られたのだそうです。その後、この問題は解消され福沢諭吉像にはひげが無く、樋口一葉の採用によって女性像も使えるようになったとのことです。金銭価値を持つものは、お札を始め、必ず偽造の危険にさらされています。偽造犯と、それをブロックするシステムとは、いつもいたちごっこのような感じがしますが、かつて犯した脆弱性の学習効果が見られない気もします。かつて、銀行カードの磁気ストライプには暗証番号が書かれていました。磁気コードは簡単には読めないとの理由でしたが、やがて簡単に読めるようになり多くの銀行カードが偽造され、暗証番号はカードには書かなくなりました。ところが、最近の指紋認証付き銀行カードのICチップには指紋コードが書かれています。暗号化してると言ってますが、同じ過ちを繰り返しているような気がします。
渋沢栄一の生まれたのは埼玉県の北部の深谷で、深谷ネギで有名なところです。市の北西部に、栄一の生家である旧渋沢邸中の家(なかんち)が残されています。渋沢家は深谷の開拓者で一族が分家して、いくつかの家がありそのうちの一つが中の家だったようで、栄一は、この屋敷で江戸末期に長男として生まれました。広い敷地に薬医門を構え、明治時代に建てられた母屋を始め4つの土蔵などが保存されています。生家から東に徒歩10分くらいのところに渋沢栄一記念館があります。コンクリートの2階建てで、栄一に関する資料類が展示されています。入り口と反対側は多目的ホールになっていて、生家に通じる川に面したところにはテラスが張り出しています。そののテラスには、渋沢栄一の大きな銅像が置かれてありますが、この銅像は元は深谷駅前に設置されていたものが移設されたのですが、銅像の頭の部分が大きすぎると不評だったのが理由の一つだとか。
記念館の東北東4kmほどの所には旧煉瓦製造設備あとがありホフマン輪窯や事務所の建物が残され共に重文になっています。旧事務所には煉瓦に関する資料が展示され、建物の後方には、レンガ造りの旧変電室の建物もあります。ただ、筆者が訪問した時にはホフマン輪窯は保存工事中で、当分は見学できないとのことでした。施設の裏側には、深谷駅から伸びる引き込み線の後が遊歩道になり、川には備前渠鉄橋も残されています。この引き込み線の遺構は、あちこちに残り、深谷駅近くには唐沢川鉄橋がつばさ橋と名前を変えて遊歩道の端として利用され地ます。
記念館から南に2kmほど行くと誠之堂と清風亭とがあります。共に、都内の世田谷にあった建物を解体して、ゆかりの深谷市に移設したのだそうです。誠之堂は栄一の喜寿の祝いに当時の第一銀行の行員が基金を出し合って作られたもので、煉瓦造りの田舎風西洋館で重文指定になっています。ステンドグラスのモティーフが面白くて、キリスト像でも十字架でもなく、中国漢代の貴族が描かれています。隣にある清風亭は栄一の後に第一銀行の頭取になって佐々木勇之助の呼気を祝って行員が建てたもので、こちらはテッキンコンクリート製です。テラスのアーチの縁取りなど要所にはスクラッチ煉瓦の飾りがついています。どちらの建物も、前面にテラスがあって、伸びやかな感じがします。
新一万円札は、原画の作成、自販機の改造などの準備に時間がかかり4年ほどはかかるのだそうです。原画の作成などにこんなに時間がかかるのは、偽造防止に手間取るからとのことです。実は、渋沢栄一は伊藤博文の千円札ができる時にも最終候補だったのだそうですが、当時の偽造防止の技術では、肖像にひげが無いとダメとの理由で見送られたのだそうです。その後、この問題は解消され福沢諭吉像にはひげが無く、樋口一葉の採用によって女性像も使えるようになったとのことです。金銭価値を持つものは、お札を始め、必ず偽造の危険にさらされています。偽造犯と、それをブロックするシステムとは、いつもいたちごっこのような感じがしますが、かつて犯した脆弱性の学習効果が見られない気もします。かつて、銀行カードの磁気ストライプには暗証番号が書かれていました。磁気コードは簡単には読めないとの理由でしたが、やがて簡単に読めるようになり多くの銀行カードが偽造され、暗証番号はカードには書かなくなりました。ところが、最近の指紋認証付き銀行カードのICチップには指紋コードが書かれています。暗号化してると言ってますが、同じ過ちを繰り返しているような気がします。