世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

函館山からの夜景も素晴らしいのですが、麓に広がるレトロなビル群のライトアップも昼とは違った景色が楽しめます

2021-08-29 08:00:00 | 日本の町並み
 港町の山手の紹介が続きましたが、これらの山手からの夜景は三大夜景になっているところもあります。三大や四大などは諸説がありますが、日本三大夜景とは長崎、神戸それに函館という説を採用して、他の町では紹介できなかった夜景を函館で紹介します。夜景の展望台としての函館山に加えて、函館山の麓にある町並みのライトアップについても触れることにします。

 
 
 函館山は市街地の南にある標高334mの山で、眼下に広がる函館市街、さらには遠くに駒ヶ岳のとんがった山頂も望めます。昼間の景色もさることながら、光が「I」の字(90度首を傾げると函館の「H」)に広がる夜景は見事です。夕方から上って両方を楽しむと、夕焼けも見られるかもしれません。一般的には麓駅からロープウェイで上りますが、短い距離の割には高いので、函館駅から乗り換えなしで値段が半分以下の登山バスがお勧めです。ただ、残念ながら減便のせいか最終便は日没前に発車してしまいました。

 函館山の北側の麓を東西に走る市電の末広町から十字街の間そって建つレトロな建物群の多くがライトアップされ、昼とは違った趣があります。昼だとよけいな物まで見えてしまいますが、夜はライトアップされた建物以外は闇の中に消えてしまいます。函館市観光部が何種類も発行している函館街歩きマップの中に「きらめきのライトアップ古き佳き函館編」というパンフレットがあり、紹介されているコースにしたがって散歩するのがお勧めです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 パンフレットにある道順によると、おおむね以下のようになります。
末広町電停→相馬株式会社→明治天皇御上陸記念碑→北海道第一歩の地碑→旧第一銀行支店→郷土資料館→第百十三銀行→赤煉瓦倉庫街→旧函館郵便局→旧丸井今井支店→十字街電停
と盛りだくさんですが、さほどの距離はなく、時間もかかりません。コースの途中から見上げる坂や函館山の景色も建物のライトアップとは違った美しさがあります。

 函館の夜景は香港、ナポリと並んで世界三大夜景の一つとなっています。これらの夜景スポットは、海を望める高台からの展望ということでしょうか。日本の三大夜景には、新日本三大夜景や日本新三大夜景というものもあります。新日本や日本新三大夜景は海から離れた山梨の笛吹川フルーツ公園なども選ばれ、海が見えることは必然ではなさそうです。かつて神戸の夜景は100万ドルの夜景と呼ばれ、現在は1,000万ドルに値上がりしていますが、これは見える範囲の一日の消費電力コストなのだそうです。現在はLEDなどにより照明などの効率も上がったので1,000万ドルより値下がりしているかもしれません。

シントラのついでの寄り道程度のロカ岬ですが、海に沈む夕日を見たくなる雄大な大西洋が広がっています(ポルトガル)

2021-08-22 08:00:00 | 世界の町並み
 ラベンダー、菜の花そしてポピーと咲き乱れる花々が見事な場所を紹介してきました。これらの場所では一つの種類の花が目立っていましたが、ユーラシア大陸の最西端のロカ岬にはいろいろな野の花が可憐に咲いていました。今回は、大西洋に向かって断崖の上に灯台がポツンと建つロカ岬周辺を紹介します。

 ロカ岬は、ポルトガルの西の端、世界遺産のシントラからも近い最果て感のある場所です。ただ、ポルトガルは大西洋の島々にも領土があるので、ロカ岬はポルトガルの最西端ではありません。リスボンから海沿いに西に走るリスボン近郊鉄道の終点のカスカイスと、リスボンのロシオ駅から西北西に延びるシントラ線の終点のシントラ駅を結ぶバスがロカ岬を経由します。無理をすれば、リスボンから、シントラを含めて日帰り圏になります。ただ筆者が訪れた時には、バスの本数が1時間半に1本だったせいか、ロカ岬で降りたのは我々だけでした。

 
 
 
 
 大西洋に突き出す岬は140mの断崖で、西には大西洋の水平線がず~~っと続いて見えるだけです。かなりの高さの断崖であるにもかかわらず日本とは違って転落防止の柵などは見当たりません、自己責任なのでしょう。岬の上には、記念碑、灯台それに最西端の証明書も売っているお土産屋くらいしかなく、次のバスまで、ちょっと時間を持て余します。ポツンと建つ灯台は18世紀に建てられ、現在も現役で、緑の中に赤い屋根が印象的です。記念碑は頂上に十字架が付けられて、記念碑のそばには石碑があって「ここに地果て、海始まる」の言葉が刻まれています。この石碑の文章にしても、発見のモニュメントにしても、ヨーロッパ人の身勝手さが現れていて腹が立ちます。世界はヨーロッパが中心で他は野蛮な未開地だと勝手に決めつけた尊大さが嫌いで、さらにアメリカに至っては存在すら認識できていなかった馬鹿さ加減です。

 
 
 こんな漠々とした断崖の上は、風が強いせいか背の低い緑が広がっていて、その中にいろいろな花が咲いています、花の種類は詳しくないのですが、北海道で見かけるハマナシ(ハマナス)も咲いていたように思います。大が胃の上から、大西洋の波打ち際までは140mの標高差があって、細くて危なげな道が見えるだけですが、よく見ると人影が見え、さらによく見ると、釣り道具を持ってるようです。良い漁場なのでしょうか、ただ大量になったら140mの坂を戻って来るのは重くて大変なのでは?と余計な心配をします。

 町歩きや旅行中に見知らぬ花を花を見かけることも多いのですが、なかなか名前が分からないこともしばしばです。現在では、スマホのアプリで、撮影した花の名前が検索でき、検索エンジンで分からないときには、コミュニティのメンバが教えてくれるアプリもあるようです。文字の認識のように、ターゲット候補がきっちりした形の場合はともかく、撮影者によって切り取り方も様々な花の写真から名前を検索するエンジンは作るのは大変なのではないかと想像します。エンジンがお手上げになった時は、メンバが教えてくれる仕組みは、最終的には人間の目なんだな・・と思わせます。

神戸の町並みを眺めるには六甲山や摩耶山が有名ですが、もっと間近に、中心街にも近い迫力ある景色が眺められるのは諏訪山の金星台です

2021-08-15 08:00:00 | 日本の町並み
 山手の地名が付く港町を長崎、横浜と紹介してきましたが、今回は筆者の故郷の神戸の山手を取り上げます。神戸の山手は、中山手通、下山手通というように東西に延びる町の地名として付けられていますが、今回紹介するのは、これらの町並みからもっと山の手の諏訪山界隈で、横浜の時と同様に、通常の山手とはひと味違う場所を取り上げます。

 神戸の市街地のJR線の北側に並行して三宮駅から元町駅を通り越して神戸駅の近くまで伸びているのが、南側から下山手通と中山手通で、さらにその北に山本通、諏訪山町があります。下と中があるのですが上山手通りがありませんが、かつては中山手通と山本通の間に存在したらしいのです。今回紹介する諏訪山公園は、諏訪山町の諏訪山公園から急坂を上って神戸港地方(「ちほう」ではなく「じかた」と読みます)にあるヴィーナスブリッジまでです。神戸港から遠い山の中なのに神戸港地方という奇妙な地名は、神戸港の周辺の場所との意味合いでけして港のそばということではありません。

 
 
 ふもとの山本通のバス道に接するようにあるのが花と緑のまち推進センターで、思いのほか手入れの行き届いた四季の花が咲いています。東側の急坂を上っていくと諏訪神社の社殿が現れます。歴史はかなり古いようで、源義経が武運を祈ったという言い伝えが残っています。諏訪神社の坂ではなく、その東にあるバス道と平行になだらかな坂を上ると、やがて金星台に通じます。かつてこの辺りには昭和初期に開園した諏訪山動物園があり戦後まもなく閉園し跡形も無くなってしまいましたが、その後にできた王子動物園の基礎となった動物園です。

 
 
 金星台は、1874年に金星の太陽面通過があり、その観測の適地の一つがわが国で、3か所に海外からの観測隊が来訪しましたが、その一つが神戸の禁止台でした。神戸では、フランス隊が、横浜ではメキシコ隊が、長崎ではフランス隊とアメリカ隊が、各々観測を行ったのだそうで、明治の初頭なので居留地のある港町が選ばれたのかもしれません。広場には、禁止観測記念碑と勝海舟が造った神戸海軍塾の碑が建っています。

 
 
 
 

 金星台からさらに上ると1971年にできたヴィーナスブリッジで再山ドライブウェイ越えて諏訪山展望台に到着します。諏訪山展望台はヴィーナスブリッジの開通で訪れる人も多くなりましたが、かつては再山ドライブウェイの通過点に過ぎない場所でした。一方、このドライブウェイは昭和10年に開通した山岳ドライブウェイのはしりで、六甲山を西からアクセスするのに便利な道ですが、違法走行車が多行ことでも問題の道路です。ヴィーナスブリッジは金星台からの命名で、一時は橋の欄干などにカップルが南京錠を取り付けるのはやりましたが、見苦しいために、橋を登り切ったヴィーナステラスに愛の鍵モニュメントが作られて、数多くの鍵がぶら下がるようになりました。このテラスの端には、かつては高級フランス料理店があり、その後高級イタリア料理店に代わり、お値段はやや高めですが、神戸の景色を見ながらの食事はなかなかのものです。

 金星の太陽面通過を観測するのは、惑星間の距離を表す隊として使われる1天文単位の絶対値を知るために行われます。金星が太陽の縁を通過する時間を地球上の複数の観測点で正確に測定して、その時間差と観測点間との距離とから1天文単位の絶対値を計算できるそうです。この天文単位は宇宙というとてつもない大きなものを測る単位ですが、日常生活で使うメートル法は、時間、長さ、質量が相互に関連した合理的なものです。このメートル法の規定は、時間は地球の自転周期、長さは子午線の長さ、そして質量は純水の質量から規定されましたが、どれも不変とは言い難く、物の値から電子的、物理的な定義に置き換わっています。質量の定義が最も遅れ、2019年にプランクの常数を使った定義となりましたが、難しくて理解しがたいところがあります。ただ、これらの定義も、現在の人類が不変と思っているにすぎず、この先も不変であり続けるか誰も分かりません。

野ッ原に復元された建物が並ぶだけの三内丸山遺跡化と思っていましたが、資料館のおびただしい出土品を見るとその歴史の厚みに圧倒されます(日本)

2021-08-08 08:00:00 | 世界遺産
 前回は中止になった2020年の世界遺産会議で登録のはずであったわが国で5件目の自然遺産を紹介しました。今回は、2021年分として登録された文化遺産の北海道・北東北の縄文遺跡群の中から、登録前から知名度が高かった青森県の三内丸山遺跡を紹介します。

 
 
 今回登録されたのは北海道、青森、岩手、秋田に散在する17か所の縄文遺跡群で、ほとんどの遺跡がアクセスに不便で、車が運転できない筆者にとって、唯一公共輸送機関を使って手軽の訪問できる遺跡が三内丸山遺跡でした。青森駅や新青森駅から、市内も観光ポイントをぐるりと回るんぶたんバスで、青森駅からは県営バスで簡単に行くことができます。ねぶたんバスはかわいいいマイクロバスで、効率的に市内のポイントを回ってくれますが、夏場以外は本数が半分になります。また、青森駅起点だと、寄り道の多いねぶたんバスより直行する検疫バスの方が早く着きます。入場ゲートから新幹線が見える、新青森駅の南1kmちょっとくらいの市街地間近にありますが、周りは緑豊かな丘陵地帯です。

 
 訪問するまでは、原っぱに復元された小屋が立ち並ぶだけの遺跡と思っていましたが、ボランティアガイドの方の巧みな話術にはまってしまいました。三内丸山遺跡を訪問される時は、1時間のガイデッドツアーへの参加をお勧めします。三内丸山遺跡は縄文時代前期から中期まで、紀元前4千年から2千年頃まで人々が暮らした大規模集落で、江戸時代からその存在が知られていたそうです。本格的な調査は、1992年に新しい県営野球場が作られることになり、自演調査によって、大規模集落の姿が明らかになり、1994年にはこの遺跡の象徴的な直径1mもある栗の木の柱が発見され、野球場の造営は中止され移籍の保存が決まったそうです。

 
 
 
 
 遺跡跡の公演には多くの復元家屋が建てられ、多くは内部にも入ることができます。6本柱の物御台風の構造物のそばには最大級の大型竪穴柱建物があり、内部は広く屋根までも随分と高く意外なほど広い空間が広がっています。そうかと思えば入り口も内部も狭く数人が入ればいっぱいの建物もあります。ただ、これらの建物はあくまで推定の域を出ず、残されているのは柱を立てた穴の後と、一部に残る柱の残骸だけです。


 見学では、見栄えのする復元建物に目が姥ざれてしまいますが、地味なかまぼこ兵舎風の建物に覆われた場所の方が重要なんです。これらは出土した遺跡を風雨から守るため、少々見栄えの悪い銀色の覆いで保護したもので、北盛土や南盛土と呼ばれるものです。これらの覆いの中には、発掘当時の状態がそのまま保存され、層状に堆積した土器や石器、あるいは子供の墓などが実物として保存されています。復元ではなく、縄文時代の人が残した本物が見られるのです。

 
 
 
 
 出土した遺物は、膨大で、一部が縄文時遊感と呼ばれる資料館に展示されています。出土した柱の一部、土偶、ヒスイの大珠、矢じり、そして土器類です。展示室から地下に下るとさらに圧倒されます、一つは縄文ビッグウォールと名付けられた5,000を越える縄文土器が埋まった地層を6mの高さで切り取ってきたもの、もう一つは高さ4mの棚に所狭しと並べられた土器です。2千年の長きにわたって人々が暮らした歴史の厚さを展示するのは簡単ではないように思えます。復元された建物を見て回るだけなら30分もあれば事足りそうですが、縄文時代人の生活ぶりを垣間見るには、もう少し時間をかけた方がよさそうです。

 筆者が日本史で習った縄文時代はもっと短くて、縄文時代の前に新石器時代があったように思います。現在は、諸説はありますが、わが国では新石器時代といった区切りは無くなり旧石器時代なら縄文時代に移行するようです。このために現在では縄文時代は14,000年ほども続いたものとされています。これらの年代を推定する技術は、いろいろあるようですが、木などの生物体の遺物の場合は放射性同位体炭素14を利用するものです。自然界に存在する炭素14が生物の取り込まれた後の半減期を利用するものですが、生物にしか利用できないという欠点があります。もっと限定的な推定方法が言語年代学で、人類にした適用できません。言語の類似性などを利用するようですが、20世紀初頭に提唱されたようですが、現在のコンピュータによる解析技術を利用すれば、もっと精度が上がるかもしれません。

現在は廃墟状態の元根岸競馬場跡ですが、この春に整備して公開することが決まったようで、早く内部が見たくなりました

2021-08-01 08:00:00 | 世界遺産
 長崎の南山手と東山手と2回にわたって紹介しましたが、山手と聞いて最初に思い浮かぶのは出身の神戸の山手ですが、今回は関東で山手といって思い浮かぶ横浜山手の一郭を紹介します。通常横浜山手というと、根岸線の山手駅と石川町駅の間の東側の山手公園界隈を指すようですが、今回はあえて山手駅の西側を中心に紹介します。

 
 スタートは根岸線の根岸駅もしくは山手駅になり、根岸駅からは北へ、山手駅からは西へ小高い丘を目指して坂を上ります。どちらの駅からも1kmたらずで、600mかける400mほどの楕円形をした根岸森林公園に到着します。この公園が楕円形をしている理由は、この場所がかつては競馬場だったからです。馬が走っていた場所は、芝生の公園になってしまいましたが、かつての観覧席の建物が残されています。ただ、現在のところ建物には立ち入り禁止で、廃墟状態ですが、整備を検討することが決まったようで、近い将来建物内に入られる日が来ることでしょう。

 
 
 
 この競馬場は、根岸競馬場として、なんとまだ明治にはなっていない1866年に旧居留地であった根岸の丘に開設されました。廃墟状態の観覧席の建物は1929年に建て替えられたもので、当時は観覧席からフジが眺められ東洋一の豪華さを誇ったようです。この豪華さは、遠くから眺める外観からも推測でき、早く整備して公開されてほしいものです。その後、名称は横浜競馬場と名前が変わりましたが、戦争の激化で1943年には閉場されました。戦後は米軍にとって接収され、米軍の住宅などが建てられ、およそ20年後になってやっと一部が返還されたようですが、現在も一部が未返還のままです。観覧席の建物pの場所は、返還対象でしたが、痛みが激しいことから金網に囲まれて立ち入り禁止になっています。

 
 
 根岸競馬場跡の東側の尾根伝いの道は、根岸線の東側の山手が異人館街になっているのと比べて、寺町の雰囲気です。この道を北に500~600mほど行き、ローソンの角を左手、西に曲がってしばらく行くと左手に中華義荘があります。在日華僑のための外人墓地で、おなじみの外人墓地から明治初期にこちらに移され、当初は本国へ棺を送る前の仮安置所の役割でしたが、やがて埋葬場所となったそうです。その墓地は地蔵王廟があり、中国のお寺でよく見かける、お札の焼却炉も見かけました。

 
 
 中華義荘から北西に坂を下って行くと大圓寺で明治時代創建にしては存在感のある建物が建っています。少し戻って東に、広い道路の山手本通りとの合流点に、奇妙な形の鐘楼がある西遊寺があります。こちらの寺院も明治創建ですが、この鐘楼は片持ちの建物で、参道の上に覆いかぶさるように建っているのが見ものです。山手本通りを東に行き、根岸線を越える200mほど手前の左手にある地蔵坂を下っていくと左手に現れるのが蓮光寺で、前述の2寺が明治時代創建に対して、こちらはギリギリの江戸時代創建のお寺だそうです。ちなみに、地蔵坂の名前は、坂を下りきって中村川と突き当たるところに祀られている濡地蔵尊に由来するようです。濡れ地蔵を左手に見て右折すれば、ゴールの石川町駅はすぐそこです。

 競馬はj公営ギャンブルとして、地方の財政を潤していますし、宝くじも同様に6割ほどが胴元の地方自治体などに吸い上げられます。かつての映画で、カジノのルーレットのあたり目をコンピュータに入力して、規則性を割り出して、あたり目を予測させる場面がありました。コンピュータがまださほど普及していない頃の映画だったので、コンピュータは軍艦に搭載されたもので、水平たちが光信号であたり目をやり取りしたために、悪事が発覚するというものでした。ルーレットや競馬などはある程度の規則性があって、コンピュータで最適予測をすれば、平均値以上の収穫が得られるかもしれません。しかし、宝くじは、一様分布で、コンピュータと言えども予測は無理で、非科学的な、あたりやすい売り場などの迷信がはびこることになります。期待値が40%の当選金では、買えば買うほど損をするわけで、どなたが言ったのかは忘れましたが、所詮宝くじは貧乏人の税金なのでしょう。