世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

雲仙市神代(こうじろ)地区にある旧鍋島家住宅の裏山から美しい邸宅の重なりが見られました

2017-10-29 08:00:00 | 日本の町並み
 島崎藤村ゆかりの小諸から、JR線として生き残っている小海線で南に行った所にあるのが長野県で最初に建てられた学校の旧中込学校の校舎でした。木造の校舎は、児童が増えたベビーブーム時代に鉄筋校舎に駆逐されてしまったかと思いましたが、意外と現役で残っていて、300校舎以上が残されているそうです。ただ、2012年には当時最古の現役の校舎(1909年竣工)であった岡山の吹屋小学校も閉校になりました。この吹屋小学校の校舎を含めて、解体を免れているものも多く、文化財指定でなくとも、他の目的に転用されるなどし生き残っています。今回は、これらの校舎の一つである長崎県の旧神代村立中学校の校舎がある雲仙市神代地区を紹介します。

 
 
 神代地区は、諫早から柴原半島の東海岸にそって東から南に延びる島原交通で40~50分の神代町が最寄りの駅になります。旧神代村立中学校の校舎は、雲仙市歴史資料館国見展示館として使われています。駅の出口は北向きで、そこから南に回り込んで2つの橋を渡った先にあります。残されている校舎は、木造の平屋で、板張りの長い廊下に沿って教室が並びます。一部の教室は、校舎として使われていた形に復元され机などが並んでします。資料館として使われている教室には、遺跡の出土品などが展示されています。

 
 
 
 展示館を出て東に突き当たると旧鍋島家住宅があります。佐賀藩神代領の領主であった鍋島氏の陣屋跡に建てられた邸宅で、現在は雲仙市の所有になっています。およそ1万㎡の敷地に、江戸から昭和にかけて建てられた5棟が建ち重文に指定されています。背後の山には鶴亀城跡があり、敷地は、その山につながる高台にも伸びていて、上ると屋敷の配置がよくわかります。また、屋根の重なり具合いがなかなか綺麗です。庭園内に植えられたヒカンザクラが開花する2月には、見物客で混雑するのだそうです。

 
 
 
 この旧鍋島邸の前を通る南北の道に沿った町並みが神代小路(こうじろくうじ)で、重伝建地区に指定されています。2006年には美しいまちなみ大賞を受賞したそうです。一帯は、江戸時代の地割がほぼ残されていて、通りの両側には石垣や土塀が続きます。このような街並みは、九州に多いようで、長崎県では島原市、大村市玖島地区や鹿児島県の知覧、入来、蒲生などで見られました。


 神代小路は、振り仮名をしたように「こうじろくうじ」と読みます。小鳥遊と書いて「たかなし」と読むほどの難読度はありませんが、地名や人名には読みにくいものが沢山あります。かつて、京都の嵐電の駅名は難しくって戸惑いました。西院(さい)、蚕の社(かいこのやしろ)、太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)、帷子の辻(かたびらのつじ)、有栖川(ありすがわ)、車折神社(くるまざきじんじゃ)、鹿王院(ろくおういん)と考えれば読めるものもありますが、知らないとまず読むのは無理なものもあります。よく短い路線に、これだけ難しい漢字の駅がそろったものだと思います。これらの読みをパソコンで変換に掛けると、ちゃんと変換辞書に載っているんです。「たかなし」も載っていましたが神代小路の「くうじ」はでてきませんでした。日本語は、漢字かな交じり文という独特の文字体系、それだけ難しい言語体系の一つで、パソコンの変換辞書を作っている人たちも大変だなと思います。

周庄は中国第一水郷とありましたが、蘇州郊外の同里はその上のように感じます(中国)

2017-10-22 08:00:00 | 世界の町並み
 周荘は上海の市街地の西50kmほどの白蜆湖の東のほとりにあり、中国第一水郷の看板がありました。江南地方の上海、杭州それに蘇州を三角形で結ぶエリアには、数多くの水郷鎮があって、それぞれが「ここが一番」と称しているようです。今回は、その中から蘇州の世界遺産の一部となっている同里を紹介します。筆者の感想では、同里を置いて、周庄が中国第一水郷というのは道理に反するようにも思えます。同里は、水郷としてのいろんな観光的な要素が多く、水路の密度も高く長いように思えるからです。

 
 
 同里古鎮は、前回紹介の周庄の西北西15kmほど、蘇州の中心街から南南東25kmほど、同里湖の西にある水郷です。蘇州の駅前からバスで1時間ほど乗ると同里のバスターミナルで、そこから2kmほどをカートで移動になります。ただ、個人旅行の観光客は少なく、カートの発車は乗客が一杯になるまで待たされます。遊園地にあるようなカートで、鎮までは10分くらいで、もちろん有料です。鎮の入り口で下車をし、鎮の散歩は、およそ1km四方ほどで、その中にいろんな要素が詰まっている感じです。ガイドブックには一園、二堂、三橋といって観光スポットを紹介しています。名所以外に名物もあって、それは青団子といって、日本の草団子より粘りっこくって串にさして売られていましたし、パイか厚焼きせんべいのようなお菓子もありました。

 

 一園は退思園で、蘇州の世界遺産の一部に指定されている庭園で、19世紀に作られた私邸の庭園です。80m四方ほどと、さほど広くない邸内ですが、実際の広さより広く感じます。池を中心にして、色んな建物があり、そこに下がった真っ赤なランタンがアクセントになっています。

 
 
 
 
 
 二堂は、嘉蔭堂と崇本堂で、共に20世紀初頭に私邸として建てられたもので嘉蔭堂は詩人の邸宅として建てられたそうです。この二堂の他にも耕楽堂や珍珠塔などが公開されており、京町家風の入り口が狭く奥に長い古い住居が多く、どんどん奥に入って行って、内部を見ることになります。この二堂以外にも、公開されてる邸宅はたくさんあって、写真がどの邸宅であったかわからなくなっているのが実情です。

 
 三橋は太平橋、吉里橋、長慶橋です。運河がT字になっているところに3つの橋があり、この3つの橋を順に渡ると幸せになるとの言い伝えがあります。このために、結婚式の時には、新郎新婦が手をつないで渡る風習があるそうです。

 
 
 周庄はパッケージ旅行だったの時間が無く船には乗れませんでしたが、同里では20分ほどの手漕ぎの観光船に乗りました。6人まで乗れるのですが、2人で乗っても料金は同じです。陸からの景色とは違った視点で楽しむことができ、運河の匂いも気にならなかったように思いますが、季節が晩秋で気温が低かったからかもしれません。

 江南地方は、もともと川や湖の多い地域でしたが、モノの運搬のために運河が作られ、現在のような水郷の風景となったようです。陸路の輸送が、牛や馬や大八車程度であった時代には、船の輸送能力は絶大であったのでしょう。ヴェネチアほどではないのでしょうが、江南地方の街歩きは、やたらと運河に行き当たります。グーグルの地図を検索していて、奇妙なことに気が付きました。航空写真のモードにすると、運河や湖水の上に道や邸宅の位置が表示されているところが多いのです。それだけ水面が多いのか、地上での調査ができないのか、そういえばストリートビューも使えません、我が国では撮影用の車が我が物顔で走っているのですが。

まわりより低いところにある小諸城跡の懐古園は地の底に入っていく感じがします

2017-10-15 08:00:00 | 日本の町並み
 大磯は、吉田茂の別荘や大磯ロングビーチだけでなく、西行の庵跡や島崎藤村の終焉の地など文学の香りのする場所でもありました。島崎藤村と言えば「小諸なる古城のほとり・・」の文章で始まる千曲川旅情の歌を思い浮かべますが、島崎藤村つながりで、大磯町とj小諸市とは姉妹都市を結んでいます。今回は、懐古園周辺と小諸から伸びる小海線沿線の中込学校も紹介します。

 
 小諸市は長野県東部に位置し、最寄り駅は小海線としなの鉄道の接続点の小諸駅です。このしなの鉄道は、北陸新幹線のために、信越線が三セクに転落したもので、新幹線と路線がダブルとの理由です。本来は客層が異なる路線のはずですが、乗客が減るからと、乗車料金を高くできる三セクにしてしまったわけです。そもそも、北陸新幹線じたい費用対効果の悪い政治路線のように思います。さて、島崎藤の歌に詠まれた小諸城跡の懐古園は、小諸駅の西側のすぐそばにありますが、駅の出口が北東側のために跨線橋を越えることになります。跨線橋を降りるとすぐに懐古園の入り口の三の門で、観光写真によくあらわれる門です。小諸城が周りの地形より低いところにあるため、この三の門も埋もれているような感じがします。

 
 
 
 小諸城の遺構は三の門と石垣のみで、動物園や藤村記念館それに博物館、美術館などがあります。この懐古園の土地は、園内の懐古神社の所有で、小諸市が乖離受けて、懐古園として公開しているのだそうです。また、園内には小諸市立小諸義塾記念館があります。これは、明治期にキリスト教の牧師が建てた私塾で、島崎藤村も英語講師として教壇に立ったそうです。神社の所有する土地のそばに、キリスト教の私塾があるのもちょっと不思議な感じです。

 
 
 小諸駅から、三セクのしなの鉄道ではないJR小海線に乗るとやがてJRの標高最高地点や最高所駅に至りますが、その前の滑津(なめりづ)駅で下車をして、西に400mほど行った所にあるのが旧中込学校の校舎です。旧中込学校は明治の初期に長野県で最初の本格的な洋風校舎です。1919年まで現役の校舎として使われ、その後は役所などに再利用され1969年に重文に指定され現在の姿になりました。木造の2階建てで、外観は下見板張りの洋風で、色ガラスをはめた窓など、他の疑似洋館とは一味違います。東南アジアで見るコロニアル建築のイメージです。

 小海線というと、我が国で唯一のハイブリッドの車両が走っていますが、このハイブリッド車は、我が国で走る自動車のハイブリッドとは種気味が違うようです。自動車の方は車輪を回す主役はエンジンでモータは補助的ですが、小海線の車両は車輪を回すのはモータのみで、このモータに電力を供給するのがエンジンということです。これでは、電気式のディーゼル機関車と同じように見えますが、はいぶりっと車両では発電機とモータの間に大容量蓄電池を挟むことで、エンジンの効率化と小型化が可能になったのだそうです。エンジンとモーターとは独立に電子制御によって高効率な状態に保てるからでしょうか。ただ、効率が高くなったと言え、エネルギーの元は石油なんですね。

タリン市役所の塔にはエレベータは無く上るのは大変ですが市内が一望で、海の向こうにフィンランドも見えるかも(エストニア)

2017-10-08 08:00:00 | 世界遺産
 バルト三国の紹介が2回続きましたが、エストニアの首都であるタリンも外すわけにいきません。こちらも2度目の紹介ですが、他の2か所と同様に写真を増やして視点を変えたいと思います。

 エストニアは、バルト三国で一番北東よりに位置し、バルト海を隔てて北側にはフィンランドがあります。首都のタリンは、バルト海に面していて、町の北にある港からは80km先のフィンランドのヘルシンキなどに行く大型のフェリーが出港していきます。青森港と函館港との間が約100kmあるので、こちらは随分と近い距離なので高速船だと1時間半の距離になります。このため、タリンの町にはフィンランドからの人が目立ちます。

 
 
 
 旧市街は、城壁に囲まれた1km四方にも満たないエリアで、西側には小高いトーンペアの丘があります。旧市街へは、一般的に東の城門のヴィル門から入ることになります。まっすぐ西へ進むと旧市庁舎広場で、市庁舎の64mの塔に上ることができます。勿論エレベータは無いので自力で上ることになります。かなりきつく、特に下りは足が笑いますが、てっぺんからの眺めは旧市街が一望です。トーンペアの丘よりも高く、北側には市街の向こうにバルト海が横たわり、フィンランドまで見えるのでは?とも。広場の近くには、15世紀に創設されたという薬局が現役で営業を続けています。ヨーロッパでもっとも古い薬局だそうです。

 
 
 この広場から北に向かうと、いくつかの教会があり、やがて三姉妹ホテルが見えてきます。リガには三兄弟の館がありましたが、こちらは3軒の商人の館で、現在はホテルとして利用されています。さらに、城壁を北に抜けると、ふとっちょマルガレータの塔があります。かつての砲塔で、現在は海洋博物館になっています。さらに、北に行くとタリン港で、ヘルシンキなどへの大型フェリーが停泊しています。

 
 港から東北東に7kmほど路線バスで15~30分くらい行くとピリタで、ビーチとヨットハーバがあります。そして、道路を挟んで反対側にビルギッタ女子修道院跡(ピリタ修道院)があります。15世紀に建てられ、16世紀にロシア軍に破壊されるまでは当地では最大の規模を誇ったようです。そばには、現役の女子修道院が建っていますが、ファサードと壁だけになってしまった、かつての修道院の建物は、マカオの壁だけの聖ポール天主堂跡と同様の存在感があります。

 
 
 
 
 バルト三国の他の首都と同じく、タリンでも多くの教会があり、それぞれが個性的でした。ドミニコ修道院、聖ニコラス教会、聖オレフ教会、聖ピータ&ポール教会、聖ミカエル修道院、アレクサンドル・ネフスキー聖堂、大聖堂、ニクリステ博物館(教会の転用)と午後2時から回った教会です。ただ、日本の都市の神社仏閣の数から考えれば、キリスト教国のバルト三国では当たり前なのかもしれません。

 
 これらの内、アレクサンドル・ネフスキー聖堂は、トーンペアの丘にあり、真っ白で丸いドームのある典型的なロシア正教教会の外観をしています。この教会では、2組の結婚式に遭遇し、そのうちの1組では式に参列してしまいました。ヨーロッパの教会では、よく結婚式に出会いますが、ほとんどはオープンで部外者であっても、二人の門出を祝福したければ参加は自由です。同じキリスト教でも、国や教義によって、式次第は微妙に異なるようです。

 
 一方、教会を転用したニクリステ博物館にはパイプオルガンがあり、音響効果も良いため週末にコンサートが開かれます。筆者も、Concert today!の看板を見つけ、夕刻から出かけなおして聞くことができました。リガ大師堂の時と違い、プログラムはバッハなどオーソドックスなもので、奏者はエストニアのオルガニストでした。どちらかと言えば、観光客向けなのかもしれません。

 タリンと言えば、インターネットを通じて映像を含めたパソコン間の電話ができるSkypeが開発された場所です。Skypeは、特定のサーバを持たないP2Pという技術を使ったユニークなシステムでした。一言でいえば、親分の支持を仰がないで、みんなで相談をして接続相手を探してつないでしまうという仕組みです。とこrが、使い勝手が違ってきて、宣伝が変に入るようになったなと思っていたら、いつの間にかMicrosoftに乗っ取りられてしまっていたんです。仕組みもP2Pではなくなってクラウドベースになりました。確かにサービスは増えたのですが、個人情報を始め、色んな情報がMicrosoftに管理され不気味です。

別荘の数でも小田原に負けず劣らずの大磯ですが、文学に関連の静かなたたずまいの建物が魅力です

2017-10-01 08:00:00 | 日本の町並み
 実業家や政治家の別荘跡が多いのが小田原でした。湘南地方の先で、気候が良くって東京と程よい距離というのが選ばれたりゆうでしょうか。湘南地方の別荘と言えば、吉田茂の別荘を思い浮かべますが、平成21年に火災で消失してしまいました。今年の春に再建公開されています。今回は、その大磯の駅周辺を紹介します。

 大磯には、吉田茂邸だけでなく伊藤博文、西園寺公望など数多くの実業家や政治家が別荘を構え明治の終わりころには150棟以上にも達していたそうです。現在は、ほとんどが再開発でマンションなどになり、残っている建物も企業の保養所などになっているそうです。藤沢から小田原にかけての湘南地方は、昔からあこがれの土地で、車のナンバープレートでももてはやされるように、現在までその伝統が続いているようです。

 散歩の起点となるJR大磯駅は東海道本線の島式ホームが1本あるだけで三角屋根の駅舎は、どことなく田舎の駅です。田舎といえば、大磯町は市ではなく神奈川県中郡の一つの町で人口も3万人ほど、小田原市の1/6以下です。1日の乗降客数は8千人ほどですが、ラッシュ時には列車が4分ごとに(上り下り合わせれば3分ごと)やって来て都心の駅並みです。

 
 大磯を、単なる田舎ではなく別荘地に押し上げたのは、大磯海水浴場の開設にも尽力した松本順という医師で、墓所があるのが妙大寺です。妙大寺は大磯駅の裏手、市北方向の小高い丘のふもとにあります。さらに、先に進むと丘の斜面に日本武尊を祭る御岳神社があります。

 
 
 
 大磯駅に戻り南西に」だらだら坂を下りていくと、左手に旧エリザベス・サンダース・ホーム、現在は聖ステパノ学園と沢田記念館があります。エリザベス・サンダース・ホームは、三菱財閥の別邸を、混血児の収容施設としたものです。戦後に進駐してきたアメリカ軍の兵隊と日本人との間にできた混血児の収容施設でした。坂を下り、東海道を南側に渡った所が西行の歌をゆかりとする鴫立庵で、内部が公開されています。新古今集に西行の歌として「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という歌があり、三夕(さんせき)の歌の一つとされています。江戸時代になって、この歌が詠まれた面影を残すこの地に、小田原の崇雪が鴫立沢の標石を建て庵を結んだものです。中に入ると、交通量の多い東海道の喧噪が嘘のような落ち着いた空間になっています。

 
 
 
 東海道を北に渡って、西北西に200~300mほど行くと町屋園と呼ばれた旧島崎藤村邸があります。藤村が晩年を過ごし、71歳で亡くなるまで過ごしたいえです。藤村がこの家を「静の草庵」と呼んでいたように、静かで簡素な古民家です。廊下に並べられた藤村全集が無ければ、有名人の旧邸と気が付かないかもしれません。ちなみに、再建された旧吉田邸は、さらに西へ1km以上行った大磯ロングビーチに近いところです。

 鴫立沢の歌を詠んだ西行は、日本国中を転々として庵を構えたそうです。放浪の末に、自身で詠んだ「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」のとおり旧暦の2月に亡くなったそうです。引っ越しの回数では30回以上の北斎と同程度なのでしょうか。日本の引っ越しでは、家財道具ごとの移動なので、専門の引っ越し屋さんが存在しますが、アメリカでは家財道具は家の付属設備で、身の回りのものだけの移動だそうです。したがって、引っ越し屋さんは存在しないとか。頻繁な引っ越しで困るのが、インターネットの接続で、光回線で2年しばりなどの制約や、プロバイダが変わってメアドが変わると、通知の手間は膨大です。通信速度は我慢して、無線がいいのかもしれません。