世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

本四架橋の橋脚の下の舞子には、松林が広がり、歴史の重みを感じる建物が建っています。

2015-08-30 08:00:00 | 日本の町並み
 向島、神楽坂と東京の色町の紹介が続きましたが、色町には芸子さんがつきものです。京都では舞妓さんですが、同じ発音の地名が神戸にあり明石架橋の本州側の起点になっています。今回はその舞子周辺を紹介します。

 舞子は、神戸市の西寄り明石市との境に近いところにあり、JRの舞子駅と山陽電車の舞子公演駅とが最寄り駅になります。本四架橋の本州側の起点になりますが、車はずっと北東2kmほどの垂水ICまで行かないと神戸淡路鳴門自動車道に乗ることはできません。ややこしいことに、この高速道路の起点は神戸北ICなのですが、垂水ICから神戸北IC方向には入れないのです。一方、歩行者は高速道路にはもちろん入れませんが、舞子駅からエレベータを使えば、高速道路上にあるバス停からバスに乗ることも、降りることもできます。

 舞子駅近くは、松林が広がる公園になっていて、この真上に巨大な橋が出現して、ちょっと奇妙な取り合わせになりました。公園の周りには、和洋中とまるで料理のバラエティのように、歴史ある建物が並んでします。

 
 
 和の建物は、JRと山陽の間に挟まれた公園の北はずれ、少し小高い丘の上に、こんもりとした緑に囲まれて、昭和初期に建てられた旧木下家があります。木造一部二階建ての母屋と二階建ての土蔵、それに納屋と管理棟があって、管理等以外は登録文化財に指定されています。母屋が公開されていて、両翼がせり出して囲まれた庭の向こうに明石海峡が眺められます。

 
 
 続く、洋館は明治末期に舞子海岸に建てられ2度の移築を経て、現在は公園の中に建つ旧武藤山冶邸です。武藤山冶は、鐘紡中興の祖といわれる人物で、本人がなくなった後は、鐘紡の社員倶楽部に使われていました。その後、明石架橋の建設に伴う国道の拡幅のために、洋館のみが垂水区の住宅地に移築され、兵庫県への寄贈を受けて、現在地に再移築されました。ステンドグラスのある窓など、なかなか洒落た洋館で、窓の外には建築当時には見られなかったであろう明石架橋の巨大な橋脚が眺められます。

 
 最後の中国は、明治期に建て始めて大正期に完成をした移情閣で、重要文化財になっています。建物は日本初のコンクリートブロック造りで、こちらも明石架橋工事からみで、建物を解体して200mほど離れた場所に移築されました。かつては、松林の向こうに海に向かって伸びやかに建っていた建物ですが、現在は上から明石架橋が覆いかぶさるように迫っていて、気の毒な姿になっています。元は、神戸の華僑の呉錦堂が建てた松海別荘の付属の建物でしたが、現在は孫文の記念館として使われています。これは、孫文が日本で神戸に潜伏したことに由来するそうです。館内に張られている壁紙は、金唐革紙と呼ばれるもので、東京の岩崎邸の壁を飾る唐紙と同類のものです。

 明石華僑は阪神淡路大震災の3年後に開通しましたが、震災の起こったときには橋脚が立ち上がった状態でした。地震の影響で、出来上がった橋脚の位置が1mほど狂ったそうです。この橋脚工事は、地球規模で言うと、地表にピンを刺すようなもので、この痛さのために地震が起こった、と冗談を言う人もいます。あれだけ大きな橋脚が、あの広い海の中で1mという精度で位置の特定ができるのは、GPSやレーザ観測の観測など精度が向上したおかげで、トンネルの工事でも、両方から掘り進んでも、その切削面はほぼぴったりと一致するそうです。ただ、これらの位置情報は、あくまでどこかの地点を原点とした相対的なものでしょうから、原点が動くとどうするのでしょうね。

ジャンヌダルクの裁判が行われたポワチエには素敵な教会がかたまって建っていました(フランス)

2015-08-23 08:00:00 | 世界の町並み
 北ドイツに湖水に囲まれた気持ちのよい町並みがあるのがメルンで、そこは奇人といわれたティル・オイレンシュピーゲルの終焉の地でした。奇人、変人と呼ばれる人物は数多く存在しましたが、祖国のために立ち上がったジャンヌダルクも奇人の一人とされることがあるそうです。今回は、そのジャンヌダルクの裁判が15世紀に行われたという裁判所があるフランスのポワチエを紹介します。

 ポアチエは、パリの南西300kmほど、モンパルナス駅からのTGVに乗って90分くらいの距離にある内陸の町です。パリとボルドーとの中間より、ややボルドー寄りですが、TGVの所要時間では、もっとパリに近い感じです。TGVはパリ近郊では高速新線を走るので、在来線を走る、ポワチェとボルドー間より短い時間で長い距離を走ってしまいます。パリとの間には、ロワールのお城めぐりの基地になるトゥールがあり、立ち寄る日本人の観光客も多いようですが、ポワチェで途中下車をする日本人はほとんどいないようです。駅からはちょっと離れていますが、世界遺産のサンチャゴ・コンポステイラへの参詣道として登録されているサン・ティレール・ル・グラン教会もある町なのです。

 
 ジャンヌ・ダルクの裁判が行われたというのは、ポワチエ駅を降りて、駅前の坂を東に上って500mほど行った突き当りにある裁判所でさ現役の裁判所で内部の見学はできません。裁判と言っても、捕らえられて異端裁判が行われたのはルーアンで、ポアチエでは、ジャンヌが歴史に登場した当初に、その高潔性を証明するものだったそうです。

 
 
 ポアチエには、世界遺産のサン・ティレール・ル・グラン教会のほかにも、数多くの教会があって、裁判所の裏あたりから、フランス最古のサン・ジャン洗礼堂までの間に尖塔がたくさん見られます。裁判所の裏のノートルダム聖堂はロマネスクの聖堂で、3本の鐘楼が建つ大きな教会です。基壇の上ではなく、周辺の広場と同じ高さに入り口があって、ちょっと異質な感じです。なにか、模型の教会を見ている感じですが、ステンドグラスも壁の彫刻もなかなか綺麗です。

 
 ノートルダム聖堂をさらに東に進むとサンピエール大聖堂に出ます。こちらはゴシックの建物で、ノートルダムのかわいらしい姿と比べて、ちょっと威圧的です。身廊の長さも2倍以上あるようですし、高さもその程度ではないでしょうか。

 
さらに東へ、革の近くにサント・ラドゴンド教会があります。こちらは、ロマネスクで、聖女ラドゴンドにちなんだ教会でポアチエの中では歴史が古いようです。ロマネスクの教会なので、こじんまりとしていますが、内部の柱の彩色など、訪問して期待に応えてくれる教会の一つです。

 
ロマネスクの3つ目は、サンピエール大聖堂の南側にサンジャン洗礼堂があります。こちらは、これまでの教会と比べて、さらに小ぶりで、芝生の広場の中に、そそと建っています。内部については、訪れたのが公開の時間外だったので入堂で傷紹介はできませんですが、写真などで見るとシンプルでこじんまりとした感じがします。

 ジャンヌ・ダルクは、彼女の活躍によって司教の座を追われたピエール・コーションによって異端裁判に掛けられた処刑されてしまいました。どうも、聖職者と称する人々は、聖職を旨とするのではなく、権力を得るための手段として宗教を利用するらしく、現代までその流れは変わらないようです。科学技術も、自分達の権力に都合の良いものは認めても、そうでないものは弾圧をする。信者は、聖職者の言うことは神の言葉ゆえ妄信をする。権力者にとって、まことに都合の良い構図です。IT技術が進んだ現代においても、宗教の名を語った権力者があとを絶たないのは不思議です。

色町の名残を残す神楽坂の近くには、レトロな建物も数多く残されています

2015-08-16 08:00:00 | 日本の町並み
 隅田川の浅草の対岸、スカイツリーの北側の向島には、昔かたぎの職人さんが伝統工芸を守り、現役の検番のある色町の名残のある町でした。東京には、色町の名残のある町並みが点在し、格子の連なる古い町並みが残されているところが多いのですが、今回はそれらの中で神楽坂を取り上げ、その周辺を含めて紹介します。

 
 
 神楽坂は、地下鉄東西線の神楽坂駅と大江戸線の牛込神楽坂駅の周辺に広がる町並みです。神楽坂の名前の由来は、諸説があるようですが、一説には、神輿が神楽坂を上るときに重くて難渋した時に神楽を演奏したら楽に上れたとのこと。大正時代頃から、花町として隆盛を極め、現在もその名残を残した、どことなく色っぽい町並みになっているようです。ただ、マンションやけばけばしい店舗が虫食い状態で増えて、特に表通りはどこにでもあるような町並みになりつつあるようです。

 
 
 かつての風情が比較的残されているのは、表通りと直行する路地沿いで、かつての待合の旧常盤家本館もこのような場所にあります。路地の先が坂になっていて、俯瞰できる所も坂の町らしい景色です。毘沙門天の善國寺は表通りに面していますが、赤城神社は、路地の奥に建っていて、同じ寺社でも趣がまるで違います。

 
 神楽坂の表通りになる早稲田通と南にある靖国通り、そして西に南北に通る外苑東通りに囲まれた三角形のエリアには趣のある建物が数多く残っていて、散歩には楽しい場所です。一之瀬家住宅は、昭和初期の木造建築で、下見板張りの外壁の美しい建物です。新井家住宅は、フランス瓦で葺かれた洋館で、タイル張りの外壁を持つレトロな建物です。さらに、異色の建物としては、一水寮という、かつて大工寮として建てられた木造2階建ての集合住宅が、現役で使われています。記憶が怪しいのですが、大島渚監督が若かりし頃に住んでいたとか。また、建物は残っていませんが、尾崎紅葉の旧居跡もこのエリアにあります。

 今回の取材では訪問できませんでしたが、神楽坂には矢来能楽堂があります。毎月定期の能楽公演が催される舞台があり、仕舞や謡の教室もあるようです。能楽は、歌舞伎と同様に、原則的に男性のみによって演じられますが、女性役の演者も男性の声のままで歌舞伎の女形のような声色は使いません。また、女性の能面を付けますが、木彫りの面は表情を帰ることができません。面を上下に傾けて、笑いや悲しみを表現するだけです。このところ、コンピュータ制御により、人間に限りなく近い外観と表情が作れるロボットが出現して話題になっています。会社の受付は、このロボットで十分だし、かえって話題性もあるだろうと、導入が進むかもしれません。ただ、これらのロボットは、一つ間違うと不気味なだけで、能楽のように観客の想像力を刺激するということは無いでしょうね。

世界七不思議のアルミテス神殿は柱1本になってますが、エフェソスの図書館の遺跡は見事です(トルコ)

2015-08-09 08:00:00 | 世界遺産
 2015年の世界遺産会議では、日本の明治の産業遺産のほかに数多くの遺産が登録されました。会議に参加国で登録の無かったシンガポールとジャマイカでも世界遺産が新規に登録されました。今回はそれらの中で、写真と記録/記憶が残るトルコのエフェソスを紹介します。

 エフェソスは、トルコ南部、世界遺産のパムッカレからイズミールに移動する途中から海岸方向に10kmほど走ったセルチェクという町から海岸よりの郊外にかけて広がる遺跡です。周りは、茶色の丘が続いて、町の近くにはアルテミス神殿の遺跡と考古学博物館が、海岸よりの丘の間には図書館の跡などがちらばり、さらにその先の丘の上にはマリア終焉の地といわれる場所に建つ聖母マリアの家なるものがあります。

 
 
 アルテミス神殿は、紀元前7世紀ごろにアルテミスを祀るために建てられた神殿で、かつては世界七不思議のひとつとされました。紀元前4世紀に破壊され、その後再建されましたが、3世紀に再び破壊されて、現在は柱1本と基石らしきものが散在するのみです。近くにはアルテミス考古学博物館があり、遺跡からの出土品が展示され、その中にはアルテミスといわれる乳房がたくさんある像もあります。
 
 丘の上の聖母マリアの家は、オリーブの木に囲まれた小さな石造りの建物で、紀元30年頃にマリアがこの地でなくなったとされます。長く歴史から忘れ去られていましたが19世紀に基礎部分が発見され、現在は教会が建てられ、信者にとって重要な聖地の一つになっているようです。




 
 図書館の跡などが残るエフェソスの遺跡は、起伏のある広大な場所に、たくさんの石造りの遺跡が残されています。中でも圧巻なのはケルスス図書館の建物で、どこかヨルダンのペトラにも似ているように思います。できた当時は、世界三大図書館の一つで、地震等で大部分が崩壊し、現在あるのはファサード部分だけですが、全部が残っていたら、さぞやすごかっただろうと想像されます。

 
 
 
 
 図書館の跡だけではなく、ここにはたくさんの遺跡が残っています。大きな物は、円形劇場の跡、アーチが美しいハドリアヌス神殿、クレディア通りは列柱街道風です。中には公衆トイレの跡や、売春宿の方向指示まで残っています。とにかく、てんこ盛りで、パッケージツアの限られた時間だけで立ち去るのはもったいないような遺跡です。

 トルコを訪れると遺跡の多さに驚きます。アジアとヨーロッパの狭間にあって、色々な文明が東西に、また南北に通って、その遺産を残した結果であり、またトルコ自身が、外征で得たものの遺産なのでしょう。ただ、現在のトルコは、あまり豊かなようには見えず、多くの遺跡が瓦礫の山状態のように感じます。それに、西欧列強がやってきて勝手にそこいらじゅうを掘り返して、発見だ!と叫んでは、金目のものを持っていってしまったので、よけいに悲惨なのかもしれません。トルコノ文化を破壊した人間は、母国では英雄扱いなんですから困りものです。インターネットが普及して、いろんな情報が手軽に手に入るようになったのはいいのですが、大国の文化が伝統文化を破壊しているうえに、寡占/独占を武器に、自分達の都合の良い規格をグローバルと称して押し付け、富までも奪っているように思います。

スカイツリーのそばの向島には、昔かたぎの職人さんや芸子さん、そして七福神が待っています

2015-08-02 08:00:00 | 日本の町並み
 京都から30分ほどの場所に、城下町の風情を残したしっとりとした町並みがあるのが丹南市の八木でした。八木と聞くと、電気関係の人間は八木博士を思い出します。テレビなどの受信で活躍する八木アンテナの発明者です。テレビがアナログから地デジに変わっても、形こそ小さくはなりましたが、テレビを受信するのは八木アンテナに変わりありません。東京では、地デジ移行と相前後して、電波の送信元が東京タワーからスカイツリーに変わり、アンテナの向きも変得る必要がありました。今回は、東京のテレビ電波の発信源であるスカイツリーのお膝元の向島を紹介します。

 
 
 向島は、スカイツリーの北側、浅草から隅田川を渡った対岸に、川に沿って伸びる町並みです。江戸時代から景色の良い場所として栄えた場所でしたが、明治期に料理屋を核とした花街が形成されました。最盛期には100軒以上の料理屋があったそうですが、現在は料亭が18軒、検番は向島墨堤組合があるのみです。料亭で芸子さんのもてなしが受けるツアーや、桜の頃には隅田川の桜並木のそばの休みどころで、芸子さんの姿を見ることができるようです。隅田川は、古くは墨田川とも表記され、向島周辺は墨田川の東にある地区、つまり墨東地区とも呼ばれます。永井荷風の墨東綺譚は、この向島の花町を舞台にした小説です。

 
 料亭街に混じって、向島には伝統工芸のお店も多いようで、足袋や提灯、それに羽子板など、お店で職人さん自らが説明を交えて販売をされています。これらの町並みを散歩をするツアーが墨田区などで企画され、店主から面白い話が聞けるようですし、さらに体験プログラムも準備されているようです。在住の外国人向けにも、プログラムがあり、和服に着替えたりして、色々な体験ができるようです。

 
 
 
 散歩といえば、このエリアには神社仏閣も多く、その中でも向島(隅田川)七福神巡りは有名です。お正月などは、訪れる先々で多くの参詣客と一緒になります。七福神とは三囲神社(恵比寿、大黒)、弘福寺(布袋)、長命寺(弁天)、向島百花園(福禄寿)、白鬚神社(寿老人)多門寺(毘沙門)で、業平橋近くの三囲神社をスタートして隅田川に沿って遡上して鐘ヶ淵近くの多門寺がゴールとなります。

 
 スタート地点近くの言問橋のそばには水戸藩下屋敷跡が墨田公園となり、明治天皇が立ち寄られて詠まれた歌の石碑も建てられています。布袋が祀られている弘福寺の境内には翁媼尊の石像もあります。これは、かつて真鶴で修行をしていた禅師が、父母に孝養を尽くせなかったことをいたみ、自ら刻んだ像といわれています。なかなか温かみのある像ですが、咳や口内の病にご利益のある像なのだそうです。また、福禄寿の祀られる向島百花園は、江戸時代後期に作られ、文人墨客に愛されてきた庭園で、創始者の佐原氏の子孫が庭園内の庵を守られています。

 七福神は七という数字が縁起が良い、といったことから選ばれた神々で、インド、中国そして日本と多国籍です。この7という数字は、虹の七色に始まり、世界の七不思議、七洋、G7や七人の小人、ウルトラセブン、007もありました。野球ではラッキーセブンもありますが、Windows 7はいつの間にか最新ではなくなり、8はおろか、9をとばして10まで作られようとしてます。OSが変われば、動かないアプリも多くあるはず、また新しいOSはハードも新しいものでないと走らない。ほとんど使わない機能を追加したというOSを高い価格で売りつける、ひどいものです、独占の弊害ですね。