世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

「かぎろひ」の見える大宇陀は吉野葛のふるさとでもあるんです

2006-01-29 14:55:54 | 日本の町並み
 関町の名物の和菓子は「関の戸」でしたが、奈良県の大宇陀(おおうだ)にも「きみごろも」という優雅なお菓子があります。メレンゲを卵の黄身で包んだもので、ちょっと洋菓子の感じがします。お菓子というジャンルには入らないかもしれませんが、吉野葛(よしのくず)の看板を掲げるお店が何軒かあり、お土産に買って帰り葛湯などにして楽しむことができます。大宇陀町では全国の葛の40%を生産するそうです。大宇陀に吉野葛という名前も変ですが、もともと吉野で葛の製造を行っていた生産者が、水が綺麗で寒い気候を求めて江戸時代の初期に大宇陀へ生産地を移した名残で、一方の吉野では現在葛の生産は行われていないそうです。葛湯などにして食べる葛は、植物の葛の根の部分で、この根を砕いて、何度も何度も水にさらして純白の葛に仕上げます。漢方の風邪薬に葛根湯(かっこんとう)がありますが、この薬の主成分は名前が示すように葛の根で、葛が体を温める効果を持つことから配合されているようです。
 大宇陀は近鉄線の榛原駅からバスで20分程度の場所にある、周りを山々に囲まれた静かな町ですが、大宇陀を有名にしているのは、万葉集で柿本人麻呂が「ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」と詠んだ土地という理由でしょう。この歌は現在の大宇陀公園あたりの阿騎野での出来事を歌にしたものとされています。では、「かぎろひ」とは何だろうとの疑問が湧いてきます。諸説があり、その中で有力な説では、日の出の1時間程度前に現れる陽光をさすとのことです。ただ、かぎろひを見るのはなかなか難しいらしく、東側に太陽を遮る雲が一切無いなど、よほど気象条件が揃わないと出現しないそうです。毎年旧暦の11月17日にかぎろひを観る会が催されるそうですが、その日に現れるという保障はないそうです。
 大宇陀は江戸時代には大和地方で奈良、大和郡山につぐ規模の町で、薬や紙の流通で栄えた町です。町の中心の大宇陀バス停のそばに道の駅があり、この道の駅から榛原に戻る方向の東側にかつての繁栄をしのばせる町並みが残っています。歴史文化館として公開されている江戸末期の薬屋だった旧細川家などの古い建物群が軒を連ねていて、通りを散歩すると、江戸時代にタイムスリップしたかのように感じます。何年もの間ゆっくりと時の流れを見てきたかのような吉野葛の看板も、この町並みの風景の中に溶け込んでぶら下がっています。
 かぎろひを観る会は寒い季節に設定されています。これは、冬の方が空気が澄んでいてかぎろひが出現する条件を満たしやすいとのことでしょう。ただ、これを見る方は寒い季節の、日の出前という一日で最も気温の低い時間に当地に出向かなければなりません。阿騎野に遠隔の監視システムを設置してくれると、暖かい自宅からでもパソコンや携帯電話でかぎろひの映像を見れてありがたいのですが。

鈴鹿の関跡にはその名の通りの関町があります

2006-01-25 14:56:57 | 日本の町並み
 五個荘などの近江商人が伊勢に通ったのが鈴鹿越えの道ですが、その東側に位置するのが関町です。関の地名が表すように、奈良時代には都への人の出入りを監視した鈴鹿の関が置かれたところです。江戸時代には、東海道の宿場町として大和街道と伊勢街道の分岐点として栄えました。
 現在の関町は、旧街道沿いを中心にして本陣などの建物群と共に町並みが保存され、宿場町の面影を残しています。関町は現在でも交通の要所になっていますが、国道は旧街道を避けるように通っているため、静かな環境が残されたようです。町並みの東の起点は東追分で東海道と伊勢別街道の分岐点になっていました。現在この場所には鳥居が立っていますが、この鳥居は20年ごとに伊勢神宮から移されるそうです。伊勢神宮の遷宮の時のお古をもらってくるとのことでしょうか。東追分から旧街道の町並みを西に1.8kmのところが西追分で、こちらのほうは東海道と大和、伊勢街道の分岐点でした。
 通りに面する町家は京都と似た間口が狭く奥行きのある土地に、奥行き方向に部屋を並べ、通り庭を配したものが多いそうです。やはり間口税のせいでしょうか。町並みの景観を保存するためにも努力されているようで、保存修復を補助したり、新しい建物の場合にも景観と合うような基準が設けられているとか。訪問した時にも、改修工事真っ最中のお家がありました。通りに面した銀行も、表の作りを町家風にされていて景観に溶け込んでいます。
 地名の「関」の名前が付いた名物に「関の戸」というお菓子があります。アズキの漉しアンを白い牛肥(ぎゅうひ)で包んで、和三盆(わさんぼん)をまぶしたお菓子で、なかなか上品な味がします。町並み散歩の途中に立ち寄って血糖値を高めるのにいいかもしれません。ただ、筆者の場合は、少々リラックスしすぎてカメラを置き忘れてしまいました。このカメラは、翌日に宅配便で自宅に送って頂き、現在も活躍中です。お菓子屋さんの心の温かさに触れて感激した旅でもありました。
 旅に出ると、ちょっとした散歩くらいでもカメラやガイドブックなど、ついつい荷物が増えてしまいます。ものが増えると注意が散漫になり、置き忘れにつながってしまいます。携帯電話のカメラの性能が向上し、携帯だけを持って身軽に散歩に出かれられるようになったのは、置き忘れ防止になるのでしょうが、逆に置き忘れるた時のリスクも大きくなりました。

近江商人のふるさと五個荘にはかつての繁栄を垣間見る家々が残されています

2006-01-22 14:58:32 | 日本の町並み
 美濃はうだつのあがる町並でしたが、うだつをあげる商家といえば、天秤棒一本で日本中をかけ回り現在の商社の基礎を築いたといわれる近江商人、そのふるさとは滋賀県の近江八幡、日野、五個荘(ごかしょう)などが中心です。近江八幡は琵琶湖の水運に恵まれ、畳表、蚊帳、灯心などを中心に、原材料と製品との双方を流通させる「三方よし」の商法が有名です。日野は、行商に加えて小型店の経営にも力を注ぎ、「万病感応丸」と呼ばれる漢方薬を製造販売したことで知られています。三番目の五個荘は、呉服・麻布など繊維関係を主に扱い、現在の商社の基礎を築いたとされています。
 この中の五個荘の名前を最初に聞いた時には、熊本県の平家の落人伝説で有名な五家荘(ごかのしょう)を思い起こしてしまいました。似て非なるものの例でしょうか。五個荘のほうは近江八幡と日野との間に位置し、近くを新幹線が通り抜けていますが、足としては京都と米原の間に位置する能登川駅からバスで10~15分くらいの集落です。
 中心の金堂と呼ばれる地区は、周りを田んぼに囲まれ、旧商家の古い建物や、鯉の泳いでいる水路など、絵になる風景が広がるところです。旧外村邸などいくつかの商家が保存公開されていて、五個荘の商人の歴史などの資料が展示されている建物内部や天秤を担いだ近江商人像がある庭を見ることができます。外から見たのでは、普通の民家のように見えますが、中に入ると、太い木組みや広々とした続き部屋などに、往時の繁栄を垣間見るような気がします。
 現在の五個荘は新幹線などの通過地点に過ぎませんが、江戸時代の近江は東海道、東山道、北国街道などが集まる交通の要所でした。当然ながら物や人の行き来も多く、市がたつようになり、その市を核にして商業が盛んになってきます。五個荘の商人は、北の若狭へは琵琶湖を渡り、東の伊勢には鈴鹿山脈を越えて商品を運んだようです。
 新聞やテレビなどのマスメディアの無い江戸時代には、行商人が情報伝達の役割の一部を担っていたのではないでしょうか。商品と共に情報をも天秤棒で担って運んでいたのかもしれません。彼らは情報を商売にも利用していたと思いますが、商売をしていく中での情報の重要さのルーツは商社のルーツである行商にあるかもしれません。ケータイからでも、あらゆる情報が、いつ何処にいても簡単に引き出せる現代では、いかにして多くの情報の中から有効な情報を手際よく選択できるか、が課題なのかもしれません。

電柱が消えてうだつのある町並みがすっきりした美濃

2006-01-18 14:59:35 | 日本の町並み
 大林監督の映画のロケ地として有名な土地は尾道ですが、現代劇のロケの場合には現代を表す物があっても差し支えありませんが、時代劇となると電柱などが写ってしまうと困ります。歴史的町並み保存地区では電線の埋設工事などによってすっきりした町並みが戻ってきているようです。今回ははこれらの町の中から岐阜県の美濃市を取り上げました。
 美濃市はJR高山線の美濃大田から第三セクタの長良川鉄道で30分あまりの、美しい町並みの残る町です。かつては、名鉄の支線が岐阜から延びていましたが、関-美濃間が長良川鉄道と並行し、乗客もさほど多くないために、5年程前にその区間が廃止されてしまいました。ただ、名鉄の旧駅舎は記念館として整備保存され、真っ赤と赤白ツートンカラーの幅の狭いかわいい路面電車2両も展示されています。
 美濃と聞くと美濃紙を思い起こすほど美濃は和紙のふるさととして有名です。春の花祭りの時にも「花みこし」といって、しだれ桜を思わせる竹で作った放射状の枝に、和紙で作った花をちりばめたみこしが、町を練り歩くそうです。お祭りは見ることができていませんが、番屋2号館という展示館で「花みこし」の実物を見ることができました。ずいぶんと華やかで、柔らかな感じのみこしでした。
 古い町並みは、駅から花神輿の番屋2号館を通り越して更に数分の一郭で、数年前に町の一部の電柱を撤去して地下埋設化が行われ、さらに無電柱区域を広げる計画があるとのことでした。写真を撮る時に邪魔になる電線が無いので、すっきりとした風景が切り取れます。この町並みは、うだつが多いことでも有名です。徳島県の脇町にもうだつが多いのですが、美濃のほうが数多く残っているのだとか。うだつは、本来は屋根の両端を高くして隣の家との間に設けた防火壁ですが、その分コストがかかることから、うだつは裕福さの象徴だったようです。「うだつがあがる」とは、このうだつをあげられるほど成功したという状況を表現したものです。美濃では、和紙の流通で富をなした商家が競ってうだつをあげたものが残されているようです。
 明治時代に電信が日本にはいってきた頃の電柱は文明の象徴で、相手に届けたいものを電線に縛り付けるという珍事もあったようですが、現在では邪魔者扱いをされることが多いようです。また、かつては自動車電話の車に付けたアンテナが豊かさの象徴でしたが、携帯電話のアンテナは、小型化のため内臓されるなど目立たない存在になっています。時代が変われば、価値観が変化する好例なのでしょうか。

大林監督の映画は尾道の坂が主役なのかもしれません

2006-01-15 15:04:59 | 日本の町並み
 港と坂の組み合わせといえば長崎や函館それに横浜などメジャーな都市に加えて、尾道の存在を忘れるわけにゆきません。神戸などと違って尾道は山から海への距離がもっと短く、極端に言えば平地の部分は道路と鉄道の走っている近辺だけのようにも感じます。実際にはかなりの家々が市街地を形成しているのですが、尾道イコール坂、とのイメージが強いように思います。
 尾道の坂は、神戸の北野坂や長崎のオランダ坂のように車で登れるようななだらかなものではありません。瀬戸内海の島々でもよく見かけるような、階段交じりの急で細い坂が多いようです。郵便や荷物の配達なども車はおろか自転車も使えないことが多く、たいへんなご苦労をされているようです。
 尾道は、また大林監督の尾道三部作、新三部作でも有名になりました。これらの原作は尾道が舞台になっているとは限らないのですが、大林監督の出身地の尾道を舞台に映画化をされたようです。しかしながら、映画を見ていると、映画の内容と尾道の風景がぴったりと合っているように感じます。尾道の風景というより、尾道の坂道が、と言ってしまってもいいのかもしれません。尾道を散歩すると、坂道のいたるところに映画のロケの現場を発見します。
 「転校生」の中で二人の体が入れ替わるシーンのロケ舞台は坂道ならぬ御袖天満宮(みそでてんまんぐう)の石段でしたが、この石段は思いのほか急な石段で、家からのぞくとちょっと怖いくらいです。ほんとうに転がり落ちたら、入れ替わる前に大怪我で入れ替わるべき体が壊れてしまいそうです。
 これらの坂の下にある海は、向島との間が500mにも満たず、まるで川のように見えます。この間には橋が2本も掛けられていて、1本目は35年前に完成した生活道路としての橋、2本目は4年前に本四架橋の橋の一部として掛けられた自動車専用橋です。橋は市街地の東の方にありますが、市街地の真中に渡し舟もあって、歩きや自転車ではこちらのほうが便利なようです。この船着場も映画「さびしんぼう」のロケ地に使われました。
 体が入れ替わるといえば、昔の携帯は、端末を代えると記憶したデータを移植する必要がありましたが、FOMAになってからは回線チップを差し替えることで、新しい端末を旧端末と同じ状態で使えるようになったようです。1回線の契約で複数の端末を、使い分けることもできるわけです。チップに書き込まれた電話番号などの情報を、新しい端末に移植できるわけで、チップが「心」で端末が「体」といったところでしょうか。

月から見える唯一の人工物、万里の長城(中国)

2006-01-08 15:07:35 | 世界遺産
 人類が作った建造物で唯一月からでも見えるものは中国の万里の長城といわれています。もちろん長さが長大で、その長さが月からでも視認できるものとのことでしょうが、幅が10m程度ですから見えるとは思えません。長城の長さは、およそ7000kmで稚内から南西諸島までを往復する距離に当たります。皇帝の権力が絶大であったことが想像できます。長城の目的は北からの異民族の侵入を防ぐことにあったようですが、必ずしもその目的には添わないところもあったようです。いくら皇帝の権力が強くても、工事をする人間がいなくては物はできませんが、現在13億もの人口を擁する中国ですから、この面では問題はなかったのでしょう。
 長城は中国の北辺にを西にまたがって作られていて、交通の不便なところが多いようですが、北京郊外の八達嶺の長城までは高速道路が整備され1時間程度の距離となり、北京からの日帰り観光でも、十分その大きさを実感できます。筆者は英語のツアーに参加しましたが、中国語によるツアーは費用が桁違いに安いのだそうです。中国語を理解できる方は良いのですが、筆者は、「言葉が通じないために長城を見れないで帰ってきた」という手記を読んでいたので無難な英語にしました。手記によると、北京から1時間半ほど走って、停車したところでみんな下りて行ったけれれど、まわりには店屋があるので、トイレ休憩だと思って待っていた。ところが待てど暮らせど降りた人たちは帰ってこなくって、1時間以上も待って、戻った人を乗せたバスは元来た道を帰路に着いた、というような手記です。手記によると駐車場からは長城が見えないとあるのですが・・・
 ところで、世界中で話者の一番多い言語は何語かご存知でしょうか。国際言語の英語と考えられがちですが、実は中国語なのです。英語のように英国以外での話者が多いのではなく、中国自身の人口が多いので、その人口だけで世界一になってしまうのですね。ただ、一口に中国語といっても、共通するのは漢字の表記で、話し言葉は地方によって、お互いに意思疎通ができないくらい異なっているそうです。
 漢字といえば、アルファベットや「かな」を持たない中国では、電報を送るとき、電報局の人は頼信紙に書かれた漢字から一覧表を検索して、漢字ごとの数値に置き直してモールス符号で送り、受け取った電報局で、逆に漢字に直していた時代があったそうです。現在では、この処理はコンピュータが勝手にやってくれるのでしょうが、どこか携帯電話の文字の入力操作とも似ているかもしれません。

神戸の北野町には日本唯一のジャイナ教会もあります

2006-01-01 15:06:26 | 日本の町並み
 キリスト教の教会はザビエルゆかりの山口はじめ日本の各地にありますが、ユダヤ教やジャイナ教の教会のある町をご存知でしょうか。古くから港町として開けた神戸の山の手にある北野町がその町です。さらに、日本で最も古いイスラム教のモスクや、北野町から少し西の中山手には横浜、函館と並んで関帝廟(かんていびょう)もあり、国際港湾都市らしく世界中の宗教施設が存在しています。
 現在の北野町は神戸を代表する観光看板になっていますが、筆者の学生の頃には、絵の好きな人がスケッチブックを片手に訪れるくらいでした。小松益喜画伯がこの北野町の洋館を数多く描き、絵の好きな人の中では北野町の存在が知られていたからです。しかし当時は、人通りも少なく、さしたる観光地ではなかったように思います。
 ところが、1977年放送のNHKの朝ドラの風見鶏の舞台になったことで全国的に知名度が上がり、1981年のポートピア博で神戸を代表する観光地として観光コースに組み込まれたように思います。それまでは静かだった町が、ずいぶんと騒々しくなり、スケッチをできる環境ではなくなってしまいましたが、いくつかの洋館の内部が公開されて入館できるようになったという恩恵はあったようです。
 北野町の洋館群は明治時代に海沿いにあった居留地に勤務する外国人が北野町あたりに居を構えた洋風建築が現在まで生き延びたものです。これらの洋館は震災によっていくつかは壊れてしまいましたが、現在でも60軒ほど残っているそうです。公開されている洋館は20数軒なので、かなりの数が現役の住宅としても使われているようで、博物館やテーマパークとは違った生きた町を感じさせます。
 旧居留地から北野町に行くには、ハンター坂や北野坂と呼ばれるダラダラ坂を登らなければなりません。坂を登るのは辛いのですが、徐々に視界が開けて、神戸の町並みの向こうに港が見える風景はいつ見ても飽きません。居留地の外国人が、わざわざ坂を登らなければならない北野町に住んだのもうなづけるように思います。
 北野町の西の更に山側に金星台という場所があり、現在ではビーナスブリッジができて夜景の美しいポイントになっています。この金星台の名前の由来は、明治初期の1874年に金星の太陽面通過の観測が行われた場所のためです。現象が観測できる時間帯に太陽が昇っている必要があり、日本がその観測に適した場所だったようです。飛行機などなかった頃に遠くフランスから観測のために天文学者が来日し、見事に観測に成功したとのことです。神戸以外では横浜、長崎で同じように外国人による観測が行われたようで、明治時代に開港した港町が選ばれたのでしょうか。
 港は英語ではポート、空港はエアーポートと呼ばれ、コンピュータなどの入出力の口もポートと呼ばれます。船や飛行機が出入りするようにデータが出入りすることから名づけられたものと思います。音声の出入り口の携帯電話が、データ通信の出入り口としてどんどんと高速化されてきました。港が世界に開いた人や物に対する出入り口なら、携帯電話のポートは情報への出入り口かもしれません。