世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

将棋の駒で有名な天童ですが織田氏終焉のお寺やステンドグラスの美しい明治の建物もあります

2010-10-31 08:00:00 | 日本の町並み
 霞ケ浦の近くにあって、よく水害に見舞われてもお城だけは亀のような形で水上に浮かんでいたといわれる亀城があるのが土浦でしたが、江戸時代に土浦藩の領地があった縁で姉妹都市になっているのが山形県の天童です。天童では土浦からずいぶんと離れているところに領地を持っていたものだと思いますが、今回は将棋の駒の産地でも有名な天童を紹介します。

 天童は山形県の中央東端の山形市の北に接する町で、山形新幹線の新庄への延伸により東京から3時間程度で行ける場所になっています。天童と聞くまず将棋を思い起こすほどでが、駒の生産は江戸時代から始まり、現在では国内生産では95%とほとんどを生産していることになります。毎年4月の天童桜祭りでは、人間が各々の将棋の駒になり巨大な将棋版の上を敵陣めがけて進むという行事が開かれます。その起源は明治末期頃に骨董商どうしが芸者さんを駒に見たたて勝負をしたという記録があるそうです。現在では、一般公募の人たちが、先手後手で衣装の色を変えて各々の駒に扮し、その動きはプロ棋士や女流騎士が指示、つまり対局をするという形になっています。ただ、歩兵役は女性に限られ、すべての駒を1回は動かすという暗黙のルールがあるのだそうです。

 土浦藩の領地があったという天童ですが、天童藩は幕末の1828年になって織田家が高畠から移って起こした歴史的には短命の藩になります。天童駅の南500mほどの三宝寺に織田宗家御廟の仰徳殿があります。天下を目前に本能寺に倒れた信長の末裔がこんなところに・・・といった感じがします。
 
このお寺の東には、一向宗の佛向寺があり、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)が行われるというので有名とのことですが、その境内で板碑と石仏とを見つけました。ガイドブックなどには記述されてないようですが、妙に存在感のある2つの巨岩でした。

 佛向寺の南隣には、東村山郡役所資料館があります。明治初期に郡の役所として建てられた洋館が復元されて当時の資料が展示されています。
 
訪れた時には工事用の足場が組まれていてちょっと残念でしたが、中に入ってステンドグラスが綺麗でした。信州の中込学校で扉の上部に半円のカラフルなステンドグラスを見ましたが、この資料館にはより複雑で色も多いものが輝いていました。

 駅の近くには藁葺きの家も見かけた天童ですが、駅の南の羽州街道沿いに大正期の商家を移築した出羽桜美術館があります。さすがに藁葺きではなく瓦葺なのですが、美術館としてだけではなく、外観や庭園を見るだけでも価値のあるところのように思いました。
 
美術館の名称になっている出羽桜は地酒を作る会社の名前で、良い香りと味を誇る吟醸酒として山形を代表するお酒の醸造元だそうです。美術館にはオーナがコレクションをした韓国歴代の陶磁器や工芸品が展示されていますが、筆者は残念ながら時間に追われて入館し損ねました。

 天童の人間将棋の駒は棋士(人間)の指示で動かされますが、将棋をコンピュータプログラムで行おうという試みはずいぶんと昔からありました。コンピュータチェスに倣ったものですが、将棋はチェスに比べて圧倒的に指し手の数が多く、なかなか人間にかないませんでした。当初は、指してに制約のある詰め将棋の分野でコンピュータ将棋が人間を上回るようになり、現在では通常の将棋の分野でもアマチュアに勝つまでになりました。コンピュータの分野のハード、ソフトの技術の発展の勢いからプロ棋士を負かすのも時間の問題であろうといわれています。コンピュータでは、先入観や定跡などの感にとらわれず、あらゆる可能性を検証するので、これまでに無かった手がいくつも生まれるそうです。ただ、その日の体調や、感に左右される生身の人間が指す将棋だからこそ、名人戦は面白いのかもしれません。

お隣の世界遺産ヴィスマールとは好対照で華やかさがあるロストック(ドイツ)

2010-10-24 08:00:00 | 世界の町並み
 砂漠を旅する隊商にとって港のような存在で中継基地となるのがオアシスであり、そのオアシスの様子が味わえる場所のひとつがチュニジアのクサール・ギレンでした。一方、海を旅する商人の組織であったハンザ同盟の中継基地の港は北ドイツに数多くありますが、それらの中でロストックは旧東ドイツ最大の港湾都市ですが日本人にはあまり馴染みの少ない町の一つのようです。

 ロストックは、ドイツの東北部のバルト海に面した人口20万ほどの都市です。ロストックの南西で列車で70分ほどのヴィスマールは、世界遺産に登録されたハンザ都市ですが、人口減少が激しくって眠ったような町でしたが、ロストックはヴィスマールとは好対照です。世界遺産には登録されていないのですが、町の中にはトラムが走っていて人通りも多く活気があります。ピンク色の市役所の前を青と白のトラムが走っていくのは絵になります。この市庁舎から西に延びる通りが歩行者天国のクレぺりーナ通りで、通りに面してカラフルなファサードが美しい家並みが続いています。現在は活気に満ちているロストックですが、第二次大戦では空爆の目標となり、町の大部分が破壊され、クレぺりーナ通りの家並みも大部分は戦後に建てられたものだのだそうです。

 主な見所は、クレペリーナ通りの周辺にあり、通りの西端近くには、ドイツのバルト海沿岸では初の大学となるロストック大学が建っていて、建物のレンガ色と前の芝生とが美しい対比を見せています。にぎやかな通りを市役所のほうに戻る途中の北側にあるのが聖マリエン教会で、13世紀から400年かかって建設されたため、各時代の様式が混在する建物と言われていますが、専門家ではない筆者はどこがどの様式なのか識別はできませんでした。ただ、様式が混在しているという違和感のようなものは感じませんでした。

 
教会の祭壇裏には、リューベックの教会でも見た巨大な天文時計がはめ込まれていました。こちらの天文時計も教会の主張する天動説を可視化する目的で設置されたのでしょうか。

 
 旧市街は東西に長い楕円形をしていて、クレペリーナ通りはその長径のあたりということになります。この楕円の旧市街を囲む市壁が存在し、現在も1/3程度が残っています。ロクトック駅からトラムに乗って市役所方向に向かうと、残されている城門の一つのシュタイン門のそばを通ります。門といってもタワーのような形で、他の都市の城門も、横幅より圧倒的な高さのあるものが多かったようです。門の上部が望楼になっていたのでしょうか。門の向こうには市壁の一部が残っているのが見えます。

 ドイツのある程度の規模の都市の大部分にはトラムが普及しています。ドイツはアウトバーンが発達し車社会のようにも思えますが、大都市の中央部を車を尻目に低床のトラムがさっそうと走り抜けていきます。一方、日本では一部の都市でトラムの見直しがあるようですが、大部分の都市では、相変わらず地下を掘ったり、高架にしたり、おまけにITの国のためかどうかは知りませんが、運転を含めて無人の自動化に血道をあげているように見えます。人件費が高いと目の敵にしますが、都市部での交通機関では、運転などにかかる人件費の運賃に占める額はたいしたことはないようにも思います。ほとんどのコストは穴掘りなどの土木コストではないでしょうか。乗降に地下にもぐったり高架に上ったり、自動化や無人化によりお客に余計な手続きを押し付けてきたりの都市交通システムの流れは、この辺でリセットして欲しいものです。

旧水戸街道沿いに土蔵造りの現役の商店が残る土浦です

2010-10-17 08:00:00 | 日本の町並み
 飛行機事故の犠牲者の鎮魂を目的とした日本で唯一の飛行神社があるのが、仁和寺の僧侶が本宮のある山には登らずに引き返してしまった石清水八幡のふもとでしたが、飛行機の黎明期にわが国最初の海軍の飛行練習場が作られたところが霞ヶ浦でした。その後、ドイツのツェッペリン飛行船も世界一周の飛行の途中に寄港したのも霞ケ浦だったそうです。今回は、飛行練習場から発展した海軍航空隊があった霞ケ浦の西端の土浦を、古い町並みの残る旧市街を中心に紹介します。

 土浦は茨城県の南部の霞ケ浦の西岸にある土屋氏の城下町です。築城の歴史は古く室町期で、江戸時代に二重の堀を持つ平城に整備されました。城跡は、土浦駅の西北西にあり、関東地方唯一の太鼓櫓門が残されています。この太鼓櫓門は、鳩の糞が積もりすぎて、傾いてしまったという歴史を持つのだそうです。平和の象徴として扱われる鳩ですが、現在では糞による害でネガティブイメージの方が強くなりました。保護の行き過ぎで、増えすぎても困ることの例でしょうか。

 かつての内堀に囲まれた本丸跡は亀城公園になっていて、筆者が訪れた時には梅が満開でした。亀城の名前の由来ですが、霞ケ浦につながる土浦は、たびたび水害に見舞われましたが、このお城だけは水没を免れ、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから呼ばれたのだそうです。

 
 駅から亀城公園に向かう途中に、旧水戸街道を横切りますが、古い町並みは、この旧水戸街道周辺に残っています。土蔵造りの商店の遺構は、手入れがされて、まちかど蔵「大徳」、まちかど蔵「野村」と呼ばれ、観光協会の事務所や観光案内所に使われています。

 
 このほかにも、出格子のある天ぷら屋さんや、黒漆喰の土蔵造りの商店などが点在しています。古い建物が博物館としてでだけではなく、本来の役割のまま現役の建物としても使われ続けていて、テーマパークとは違った旧街道らしい風情を持つ景色を楽しむことができます。旧水戸街道の角に建つ天ぷら屋やさんの前、交差点の角には、かつてこの場所に存在した桜橋の石柱とその左横には土浦町の道路原標まで立っています。

 
街中を散歩すると、土蔵造りの古い建物だけではなく、新しい建物にも目を引くものがありました。とんがり屋根のある写真やさんや、レンガ造りの商店などです。上野から常磐線で1時間程度の土浦ですが、あまりなじみのない町のひとつかもしれません。偕楽園のある水戸に行く電車を途中下車して、散歩をするといろんな発見があるかもしれません。

 亀甲模様に見えるという土浦城ですが、亀甲というと思い出すのが、有機化学が初めて教科書に登場した時に、構造式として示された6個の炭素が亀甲状に連なったベンゼン環です。かつて有機物は生物の体内でしか生成されないための命名でしたが、19世紀初頭の尿素の合成を皮切りに、現在では多くの有機物が工業的に合成されています。一方、単一元素のゲルマニュウムから始まった半導体の素材にも、有機半導体が数多く使われるようになり、その代表的な応用例が薄型ディスプレイで使われる有機ELです。名前が実態からずれてしまった代表格が有機物で、命名をすることの難しさを感じる好例でしょうか。

ブレーメンの音楽隊ではなく市庁舎とローラント像が世界遺産に登録されています(ドイツ)

2010-10-10 08:00:00 | 世界遺産
 ハンザ同盟の都市の中で天然の良港を持ち、古い町並みの中にレンガ造りの建物が数多くある都市が旧東ドイツのヴィスマールでした。ハンザ同盟で発展した都市のひとつですが、せっかくのレンガ造りの建物にも空き家がおおく、眠ったような町でした。一方、おなじように世界遺産に登録されているハンザ同盟の都市ですが、ドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の一つとして現在も賑わいを見せている都市がブレーメンです。今回は、ブレーメンの音楽隊の舞台としても知られたブレーメン州の首都を紹介します。

 ブレーメンはドイツの西北部にあって、北海には面していませんが、河口まで60kmのヴェーザー川の水運を利用しハンザ同盟の都市として栄えました。60kmというと、琵琶湖から大阪湾まで流れる淀川の長さとほぼ同じくらいです。現在の淀川は、水運には利用されていませんが、ブレーメンでは巨大なコンテナ船が川を遡上してくるようです。日本の河川は細くて急流が多いので、大きな船が航行するのが難しいのですが、ヨーロッパは陸地が平らなため、現在でも川は流通の重要な位置を占めているようです。60kmなどはたいしたことではなく、ドナウやラインなどの国際河川では、河口から数百kmの内陸部を大型船が行き来しています。

 さて、ブレーメンの世界遺産ですが、旧市街の中心部にあるマルクと広場の市庁舎とローラント像が登録されています。マルクトは英語ではmarketで市場の意味ですが、ドイツのどこの町に行っても、中心部にマルクト広場があります。市場を中心にして町が形成されていったからでしょうか。市庁舎は、この広場に面して15世紀に建てられたゴシック建築で、ローラント像は、市庁舎の前に立つ5mを超える巨像です。

 

この市庁舎やローラント像は、市民にとって大切にされ、第二次大戦の時には、防護壁を作って空爆による破壊を防いだのだそうです。ローラント像がブレーメンを見守り続ける限り、その自由と独立が守られるという言い伝えがあり、ブレーメン市民の精神的な支えであったようです。このように重要な像なので、壊れたときのために、市庁舎の地下には予備のローラント像が保管されているという言い伝えもあるようです。

 広場の回りには2つの教会や議事堂などがあり、市庁舎の西側には童話でおなじみのブレーメンの音楽隊の像も立っています。この音楽隊の像は、ちょっと見落としそうな地味な位置に立っていますが、ロバの足に触ると幸せになるとのことで、足の部分だけがピカピカの金色に光っています。広場から南南西に伸びるベトヒャー通りは、狭い通りにレンガ造りの商店が立ち並んでいます。コーヒーで財を成したロゼリウスの提唱でゴシックとアールヌーヴォーを取り入れて作られたそうですが、狭い割りに威圧感がなく軽やかな雰囲気の商店街です。

 

この通りの中央あたりに、そのロゼリウスの家がありますが、2つのファサードの間の三角形の空間にマイセン製の磁器でできたグロッケンシュピール(鐘)があります。午後の毎正時には、軽やかなメロディーを聞くことができます。

 ブレーメン市がどこにあるかは知らなくても、ブレーメンの音楽隊のグリム童話のことは良く知っているといった人は多いように思います。これほど、日本人にはなじみの童話ですが、4匹の動物たちはブレーメンにはたどり着いてはいないことは意外と認識されていないようです。泥棒の家での出来事は、ブレーメンへの道筋でのできごとで、最終的にその家に落ち着くことになったのですから、当初の目的地のブレーメンには着いていないのです。ITの発見でも、実験の途中で当初の目的とは異なる現象に遭遇したために新しい発見をしたことが多いようです。半導体の表面の電気測定の過程で発見されたトランジスタや、そのトランジスタの不良品の解析で発見されたエサキダイオードなどが有名でしょうか。それらの発見は、単に実験の目的だけを追い求めていたのでは、見落とされてしまっていたでしょう。答えは一つという受験対策の勉強で、この目は養われるのでしょうか。

仁和寺の僧侶が上らなかった石清水八幡の山には電球の材料の竹が生え、麓には日本唯一の飛行神社もあります

2010-10-03 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての東海道の鈴鹿越えの手前の宿場町と城下町との性格を持つ亀山は、米原を遠回りしている名神高速道路を短絡する第二名神の起点でもありました。第二名神の開通で、名古屋と京都との間は随分と短縮されましたが、名神の渋滞の名所は、天王山あたりのようです。東西から山が迫り平野部には淀川が流れるという狭隘な地形ゆえ昔から交通の難所でした。今回は、名神道の難所の天王山あたりからも見え淀川の対岸にある石清水八幡あたりを紹介します。

 石清水八幡宮は、京都市の南にある八幡市の北部の山の上にあります。桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になる地点の南岸、木津川が大きく蛇行して半島状になった部分です。宇治川に沿って南下してきた京阪電車が宇治川、木曽川を渡った所に八幡市駅があり、駅に隣接の男山ケーブルで男山山上まで上って少し歩くと石清水八幡宮の本社です。現在は、簡単に登ることができる石清水八幡ですが、徒然草の頃には、苦労して歩いて上ったわけで、麓の寺や寺院だけを巡って帰ってきてしまった仁和寺の僧侶が出現することになります。

 男山の麓には、立派なお寺や神社が数多くあって、「ゆかしかりしかど、神へまゐることこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」ということになりかねません。これらの神社の中に飛行神社という変わった神社があります。明治時代に日本で初めて飛行機の研究をした二宮忠八が、飛行機事故の犠牲者の鎮魂のため大正期に建てたものですから、徒然草のころには無かった神社です。外観はギリシャ神殿風で、これも日本の神社の中では変わっています。二宮忠八はライト兄弟と同時代に飛行機の研究を行い、当時の軍の理解が得られず研究資金不足のために、飛行機実用化の栄誉を得そこなった人物です。

 
 仁和寺の僧が参らなかった山上の社群は、数多くの建物が重要文化財に指定され、山上の緑の中に溶け込んでいます。ただ、筆者が訪問したのは紅葉の頃でしたから、緑の中に紅葉が混じっていて社殿の朱色と競う感じでした。徒然草に登場するほどの石清水ですが、現在の京都を訪れる観光客からは忘れられた存在のようです。平安時代に石清水が重要であった理由は、裏鬼門を守る神社の位置づけのためでした。鬼門は東北、裏鬼門は南西にあたる方角ですが、鬼門の東北にある比叡山に対する、裏鬼門の西南にある石清水だったようです。ちなみに、鬼は角が生え虎の皮のパンツをはいていますが、一説には鬼門の方角が「丑寅」の方角ゆえ、牛の角と虎にちなんだものだとか。

 観光客から忘れられたような石清水ですが、明治期には世界的に有名になったことがあります。エジソンが1879年に白熱電球を発明して、その実用化のため寿命の長いフィラメントの材料を探した結果、男山に生える竹を炭化させたものが一番ということになりました。その後、19世紀の終わり頃まで、男山の竹はエジソン電灯会社に輸出されたのだそうです。

 エジソンの白熱電球の発明から130年たった現在では、白熱電球はエネルギーを無駄に消費する敵のような存在になってしまいました。2012年までにはその製造を止めるように勧告されています。たしかに、発光効率が悪く、寿命も短い白熱灯ですが、演色性の良さや使用環境の柔軟性など蛍光灯やLEDライトでは置き換えられない特質を持っています。何かの欠点が見つかると、良いところまでも全部否定し、1か0で右へならえをしててしまう悪い癖のようにも思えます。