世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

駅前の新しい商店街から数百メートルも離れていない武家屋敷などが散在する町並みとの落差が面白い水沢です

2021-12-19 08:00:00 | 日本の町並み
 北前船で栄え、町にその残照が残るのが江差でしたが、「えさし」と入力して変換すると江差と江刺とが出てきます。江差は北海道ですが、江刺は東北の岩手県にある奥州市の一部で、なんと新幹線の駅名(水沢江刺)にもなっています。今回は、その江刺ではなく新幹線の駅名の片方である水沢を紹介します。

 
 
 水沢の街並みは、在来線の水沢駅西口の西北に広がっています。駅を出て西北西に延びる商店街を少し行くと、新しい商店に交じってレトロな商店がポツリポツリと残されています。ホテル・ルートイン乃所を右に曲がって北北東に進むと、都市の中とは思えないようなのんびりとした風景が現れます。白壁の家や土蔵造りの蔵などが現れ、季節は秋だったので干し柿もぶら下がっています。

 
 
 
 水沢要害の近くには、武家屋敷の遺構が2つ残り、八幡家のものは非公開ですが、門の奥に白壁の母屋が覗きます。もう一方の内田家は、武家屋敷資料館として内部まで公開されています。

 
 武家屋敷資料館の1ブロック南を東西に延びるのが新小路で、通りに沿って古い民家が散在していますが、どちらも非公開です。吉田家は通りに面した古風な門から奥にどっしりとした母屋が望めます。大手通の角には黒板塀が続く民家がありますが、こちらは中をうかがうことはできないようです。この辺りには後藤新平や高野長英の旧宅跡もあって、6万人都市とは思えないのんびりとした町並みです。

 水沢と聞くと、天文などに興味のある方は水沢緯度観測所の名前を思い浮かべられるかもしれません。緯度観測所というのは、明治31年に、世界の北緯39度8分に位置する場所を6か所選び緯度を観測する拠点を設けたものです。その中の一つが水沢に設置され、戦時中も継続して緯度の精密な観測を行ってきたそうです。現在はVLBI観測所と名前を変え超長基線電波干渉法という技法により銀河系の3次元地図の作成などを行っているそうです。この観測・解析には超精密な時刻情報が必要で、このためわが国の協定世界時を刻む原子時計も運用しているようです。この原子時計が刻む標準時は、電波時計も使っている標準電波やNTTの117、それにラジオの時報に使われています。ただ現在のテレビは画像をディジタル化する時とアナログに戻すときに遅れを伴いその遅れ時間がまちまちなので時報を表示しても意味がなくなってしまうからです。ディジタル技術はあくまで、アナログでは高価になってしまうことを安価に実現する方便にすぎない面があることを忘れてはならないと思います。

フエの郊外にあるティエンムー寺院には静かなフォーン川の流れや美しい花々の景色とは真逆の焼身自殺の写真パネルが飾られています(ベトナム)

2021-12-05 08:00:00 | 世界の町並み
 マリアの出現と奇跡の起こった町としてカトリック信者の重要な巡礼地となっているのがポルトガルのファティマでした。敬虔な信者が、地面に身を投げ出しながら聖堂に進む姿を見ていると、部外者には信心の恐ろしささえ感じます。宗教というのはそれだけ人々を動かす不思議な力を持つようですが、ベトナム戦争中にサイゴンまで車で乗り付けて焼身自殺をした僧侶の話は心が痛みますが、その時の車がフエのお寺に保存されています。今回は、そのお寺であるフエのティエンムー寺院を中心に紹介します。

 
 
 ティエンムー寺院は、フエの市街地からフォーン川を少しさかのぼった左岸、王宮と同じ側に位置する仏教寺院です。17世紀初頭に建てられ、フエでもっとも古い寺院で、フォーン川の河岸段丘の上の境内からのフォーン川のゆったりした流れを眺めることもできます。川沿いの道から石段を登っていくと約21mの八角七層の慈仁塔がお寺の存在を主張しています。この塔は19世紀のもので、フエのシンボルとしてお土産のモティーフとして使われているようです。



 
 
 
 塔のところから北に向け奥に長い境内があって、中国風の神像が置かれた門を抜けると寺の中心の大雄殿があって、大雄殿の裏にもさらに木々の緑に囲まれた境内が伸びています。池には水連が咲き、南国の花と思しき花々も咲いていて気持ちの良い空間です。北の端に近いところには基壇の上に六角六層の石塔があります。こちらは小ぶりですが、慈仁塔と違って各層の出入りが深く、日本の塔にやや似ていると言えば似ています。

 そして、問題の車も境内の一郭に、車本体と事件を報じた写真がパネルになって壁に飾られています。僧侶の名前はディック・クアン・ドック、体が焼け落ちた後も心臓だけは元の形を保っていて、その写真もパネルになっています。飾られている車はイギリス製のオースチンで、なぜかアメ車ではありませんでした。


 
 
 筆者が訪れた時は、クリスマスの直前だったこともあって、フォーン川に日が沈んだ後、市内はイルミネーションであふれていました。同じベトナムのホーチミン市では市内の幹線道路の上はイルミネーションで覆いつくされていました(横位置の写真はホーチミン市の目抜き通り)。フエではそこまで派手ではありませんでしたが、町のいたるところが輝いていました。新市街と旧市街を結ぶフォーン川に架かる橋も色々と色の変わるライトアップがなされていましたが、こちらは通年のようです。

 僧侶の焼身自殺を人間BBQと言った人間が居ました、それは南ベトナムの当時の副大統領夫人で、このことから国民の非難を受けて軍事クーデターに発展しゴ・ディン・ジェム政権が倒れるきっかけになっりました。このゴ・ディン・ジェム政権は、ベトナム王朝を倒して成立した政権でしたが、崩壊の1年後からベトナム戦争が始まってしまいました。ベトナム戦争では、新しい兵器が数多く投入され、間接的に電子技術が発展したとされていますが、結果的にアメリカは敗北し、ベトナムは世界中で唯一アメリカに勝利した国と言われています。最新式の電子技術も、人々の反戦努力の熱意には勝てなかったわけです。

繁栄した残照が町中の建物に残る江差は江差追分でも有名です

2021-12-05 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は北前船の寄港地として繁栄した江差を、その遺構を中心に紹介しました。江差は、北前船の残照だけでなく、北海度の中で早くから開けた港町として、心和むレトロな街並みが広がっています。

 
 
 江差の街並みは、現在の江差港の後方、東西に延びる海岸線に沿って広がっていて、さらにその後方には小高い台地があります。古い町並みの中心は、いにしえ街道と呼ばれる通りで、前回に紹介したアネロイド気圧計は街道の西の起点で横山家住宅もこの道路に面しています。アネロイド気圧計と横山家の中間あたりには寺子屋という名前のホテルがあって、寺子屋というだけあって昔の学校のような外観で豪華ではありませんが気持ちの良いホテルです。また、横山家の山側には姥神大神宮という神社があり、階段を上ると法華寺があります。

 
 
 
 東に進むと、右手に旧江差町役場の建物を利用した江差町会所会館が、左手には旧中村家住宅があります。旧中村家の階下には海から上がる物資を取り込む門と倉庫がありました。

 
 旧中村家までは行かずに左手に海岸のほうに降りていくと、江差追分会館と江差山車会館が並んで建っています。江差追分は全国的に有名な民謡ですが、独特の節回しで歌うのはなかなか難しいようで、会館の中には追分の歌唱指導をしてくれるところもあるようです。山車会館の中には、お祭りで使う山車の一部が展示されています。また、ロビーには江差の発展の基礎を作った北前船の模型もありましたが、こんなちゃちな船で津軽海峡を横断したんですね。

 
 
  
 海岸とは反対の山の手には、姥神神社の裏手の法華寺には檜山奉行所の正門が移築されています。法華寺から尾根伝いに東へ下っていくと旧檜山爾志郡役所の建物が江差郷土資料館として保存され、バルコニーからは江差の街並みが見渡せます。江差郷土資料館の前ををさらに下ると旧中村家住宅のところに出ます。

 
 
 これらの街並みから少し東に離れ海から内陸に入ったところには、江戸から明治にかけて繁栄した豪商の旧関川家の別荘が残されています。中心部からは20分近くかかりますが、広い庭や蔵の中の展示物は一見の価値があります。

 江差追分は30文字程度の歌詞を3分ほどもかけて「こぶし」や「ころ」と呼ばれる装飾的な節回しで歌われるものです。一度聞くと忘れられに程に特徴がありますが、簡単に歌えるものではなさそうです。この江差追分も北前船にゆかりがあって、信濃追分宿で歌われていたものが、北前船の船頭によって江差に伝わり、その後に独自の変遷を経て今日に至るのだそうです。当時の物流は物の伝搬だけでなく文化や情報の伝搬を兼ねていたわけで、現代の通信事情からは想像できないゆっくりさだったわけです。ただ、現在のネット社会は情報流通は早くても、そのための弊害も大きいようで、仕組みの見直しがいるように思います。