世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

斑鳩の3つの塔は、それぞれが特徴があって見比べながらの散歩も楽しいものです

2013-04-28 08:00:00 | 日本の町並み
 昔かし懐かしい町並みが続いているのが谷中でしたが、小説のモデルにもなった谷中の塔は放火で焼失して基石が残るのみです。一方、落雷で焼失した三重塔が幸田文さんの尽力で再建されたお寺が法輪寺です。今回は、法輪寺を含む3つの塔が並ぶ斑鳩界隈を紹介します。また、法隆寺と法起寺については、別途世界遺産としても紹介するつもりです。

 斑鳩町は、奈良県の西の端で、少し西は大阪府の八尾になります。飛鳥時代からの古い歴史のある場所ですが、大阪のベッドタウン化が進んで、JRの法隆寺駅周辺は都市化が進んでいます。ただ、ちょっと駅を離れて法隆寺のほうへ歩くと、まだまだ田んぼが続いて、白壁の土蔵や土塀のある町並みが残っています。

 斑鳩の三つの塔は、JRの駅に近いほうから、法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔そして最も東北にあるのが法起寺の三重塔です。再建されたほうリンジの塔を除いて国宝に指定されています。もともと塔は、仏舎利を収める建造物でしたが、そこにお寺があるよ!というシンボル的な意味合いが強いように思います。斑鳩の塔は、周りに高い建物が少なく、遠くから塔の存在がわかります。

 
 法隆寺は、駅にも近く、周辺にはお土産屋を含めて民家が押し寄せています。五重塔で塔身が高いこともあって、家並みの上に塔の上部が覗いているのが、意外と面白い構図です。また、あまり訪問者は居ないようですが、西円堂の小高い丘から見る、回廊の向こうにそびえる五重塔もシャンとしています。

 
 法隆寺西院から、夢殿のある東院を曲がって、弥勒仏の中宮寺を過ぎて北に行くと法輪寺です。法隆寺の築地塀と疎水沿いの道や、民家の土塀沿いの道を抜けて、田んぼが広がるうねうねとした道に続きます。

 
 法輪寺は、西と北に小高い森があって、その麓にぽつんと建っている感じです。その森のそばには白壁の土蔵が見え隠れをしていて、点景になっています。三重塔は1944年に焼失して、1975年に薬師寺西塔の再建も手がけた宮大工棟梁の西岡氏により再建されたものです。他の二つの塔に比べて塔身が太くて、ちょっと軽やかさに欠けるきらいはあるようです。

 
 法輪寺から田んぼの中の道を東に進むと法起寺の塔が近づいてきます。この遠くから徐々に大きくなってくる景色が、最も斑鳩的な風景かもしれません。細身の三重塔の軽やかな姿は、田畑に囲まれた小さな集落の中心にお寺があって、さえぎるものがありません。法隆寺と法輪寺とは、金堂が東、塔が西と言う配列ですが、法起寺の金堂跡は塔の西にあり、配列が逆になっています。

 法輪寺の旧三重塔は落雷による火災で焼失しましたが、落雷は雲に帯電した静電気が、地上などのとの間で放電する現象です。その電圧は最大で10億ボルト、電流は50万アンペアにも達するそうで、瞬間的とは言え大きな破壊力を持っています。雷は別格として、この静電気は、ITを支える半導体の分野でも厄介者で、人体に帯電した静電気の影響を受けます。人体の静電気は、数千ボルトに達することもあり、これが放電してICを壊したり、誤動作させたりします。静電気は、電気集塵機に利用されたりしていますが、雷の巨大なエネルギーも利用できないものでしょうか。

ブランデンブルク門も美しいのですが、ベルリンにはドームが似合うようです(ドイツ)

2013-04-21 08:00:00 | 世界の町並み
 南北に分かれた国が統一されて首都になった都市がベトナムのハノイでしたが、東西に分断された国家が再統合され分断前の首都がよみがえった都市がドイツのベルリンです。ベルリンやその周辺には世界遺産もいくつかありますが、今回は世界遺産の範囲ではないベルリンを紹介します。

 ベルリンは、第二次世界大戦で敗戦し、東西ドイツに分断されるまでのドイツ帝国の首都でした。国が分断後はベルリンも東西に分断され、東ベルリンは東ドイツの首都でしたが、西ドイツの首都はベートーヴェンの故郷のボンにありました。西ベルリンは、東ドイツに囲まれた、孤島のような存在だったので、首都機能は無理だったのでしょう。事実、当時のソ連によるベルリン封鎖で、大変な目にあっています。現在のベルリンには、東西を遮断したベルリンの壁はほとんどが撤去され、ほんの一部がモニュメント風に残されています。地図などを調べないと、どこにベルリンの壁があったのはも判然としません。



 
 ベルリンの壁とともに象徴的に扱われるのが、ブランデルブルク門で、ブランデンブルク門の西側に壁が作られ、門は東ベルリンの一部になっていました。もともと、この門は城塞都市であったベルリンを囲んでいた城壁の門で、唯一現存するものです。門の上には、戦車に乗った女神像が乗っていますが、この像にもいろいろ逸話があるようです。門ができてすぐに、ベルリンはナポレオンに占領されて、女神像は戦利品としてパリに持ち去られたそうです。その後のナポレオン戦争にプロイセンが勝利し、像は再び門の上に戻されたそうです。そして、東ベルリンの一部となったときには、女神が持つ杖の先にあった鉄十字紋章はオリーブの枝に置き換えられ、東西統一後は元に戻されたそうです。

 ブランデンブルク門の周辺は、現在は綺麗になっていますが、大戦後は瓦礫の山になり、無人地帯の中に門だけが建っていたそうです。ドイツの建物は、戦災に遭って破壊された後、再建されているものを多く見かけますが、あえて壊れたまま残されている教会がカイザー・ヴィルヘルム教会です。元は、19世紀松に建てられたネオ・ロマネスク様式のプロテスタント教会でした。ベルリン大空襲で破壊されたままを補強して、時計台などの用途で使われています。





 
 カイザー・ヴィルヘルム教会が無残な姿とすれば、ジャンダルメンマルクト広場は世界一美しい広場と言われています。広場をコの字型に3つの建物が囲んでいます。正面は、コンツェルト・ハウスでベルリン・シンフォニーオーケストラの本拠地になっている18世紀初頭の建物です。この建物の両脇には、双子の教会が建っていて、一方はフランスドーム、他方はドイツドームと呼ばれ、18世紀初頭に建てられています。てっぺんのドームが印象的な2つの教会は極めて似ていて、コンツェルト・ハウスとの位置関係で判別する感じです。

 
 いっぽう、世界的なオーケストラのベルリンフィルは、コンツェルト・ハウスではなく、ポツダム広場に近いベルリン・フィルハーモニーという黄色の近代的な建物です。この、ポツダム広場近くには、フェルメールの絵画も収蔵する絵画館やソニーのヨーロッパ拠点のソニーセンタの巨大なドームなどがあります。

 
 ベルリンの町には、ドームが似合うのか、ジャンダルメンマルクトの2つのドームや、ソーニーセンターの現代的なドームの他に、シャルロッテンブルク宮の細身のド-ムや、博物館島にあるベルリン大聖堂の大小のドーム、筆者は訪問し損ねましたが国会議事堂のガラスのドームなど素材の種類もいろいろあるようです。

 ベルリンの壁の周辺には多数のセンサが設置され、壁を越えようとする人々を監視していたようです。センサは物理的な量や化学的な量を電気信号に変えるのに無くてはならないものです。自動改札では、一人ひとりを識別したり、親に連れられた子供の判別など、認識技術のノウハウのかたまりだそうです。改札では、不心得ものの進入を阻止しているセンサですが、ベルリンの壁のような使われ方は未来永劫なしにしてほしいものです。

谷中の町並みは、昔はどこにでもあった町並みですが、どこかほっとします

2013-04-14 08:00:00 | 日本の町並み
 町の中に数多くある古墳が世界遺産の暫定リストに登録されているのが藤井寺でしたが、暫定リストに載る対象は意外と多く13箇所にもなります。すべてが文化遺産の候補ですが、その中には世界遺産の登録では東京23区で初となる西洋美術館本館があります。今回は、西洋美術館のある上野そのものではなく、上野の山の裏手に当たる谷中一帯を紹介します。

 西洋美術館本館は、20世紀前半に活躍したフランスのル・コルビジェの設計になるものです。日本を含む6カ国、19箇所のコルビジェ作品がフランスによって登録申請されています。2011年の世界遺産会議では、登録延期となりましたが、推薦書を再提出の可能性もあるようです。世界遺産の中で、複数の国に跨るものは、大部分が2カ国ですが、例外的にシュトルーヴェの測地弧が10カ国に跨っています。ル・コルビジェの作品群が登録になれば、これに次ぐ例となり、一人の作者の登録としては、もっとも多くの国に跨るものとなります。

 さて、今回紹介する谷中ですが、谷根千(谷中、根津、千駄木)と言われる上野から日暮里の西に広がる町並みの一つで、最も山手線沿いの地域です。上野から散歩をスタートする場合は、西洋美術館の右に見て右折し、公園の突き当たりで左折して、博物館の前の通りを北西方向に進みます。東京芸大と通り抜けて、さらに進むと谷中霊園の南端に出ます。

 谷中霊園は、天王寺の寺域の一部だった所で、やはり天王寺のものだった五重塔のあった場所です。五重塔は、明治末期に当時の東京市に移管されましたが、戦後まもなく放火心中事件で焼失してしまいました。この五重塔は、谷中の塔と呼ばれ、幸田露伴の小説の題材にもなった塔です。戦災にも焼けずに済んだのですが、不倫の精算という放火が原因で貴重な文化財が滅失というのは、もったいない話です。現在、塔の立っていた場所には、塔の再建はなされず、基石だけが寂しげに残されています。

 
 
 
 この谷中霊園から、日暮里の駅にかけて昔風の町並みが続いています。竹箒が立てかけられた店、木製のサッシのガラス戸の内側に品物の並ぶ店、店先に床机が置かれたお菓子やさんなどなど。

 
初音小路という名前の、昔よく見たような商店街もありました。酒屋さんは、移築されて台東区下町風俗資料館の付帯施設として公開されているので、店の内部も見ることができます。

 
 
 さらには、朝倉文夫のかつてのアトリエを改装した朝倉彫塑館は、数多くの作品だけでなく、建物自体も見ごたえがあります。観音寺の塀は、通常の土塀に瓦を埋め込んだもので、高知東部の水切り瓦が幾層も重なったようにも見えます。普通の土壁より表情が豊かなように見えます。表情と言えば、閻魔大王と思しき怖い表情の石仏があるかと思うと、やさしい表情のお地蔵様も居るのが谷中でした。

 谷中の塔は、焼失した後、現在も再建されていませんが、寺の開基から300年たった現在に、初めて五重塔を建てたお寺があります。それは高松市の仏生山法然寺の五重塔で、木造の従来工法によるものです。過去に建てられた五重塔を解析をして、美しくて頑丈な塔に仕立て上げたそうです。ただ、純粋に木造の技術だけではなく、各部に補強の金属材が使われたようです。地震や台風でも倒壊しないよう、綿密な構造計算に基づく結果なのでしょう。建築の構造計算には早くからコンピュータが使われ、大型コンピュータの共同利用のユーザには建築会社も多かったようです。ただ、法隆寺や興福寺などの五重塔はすべて木製で、コンピュータも存在しない頃に建てられ、何百年も地震や台風に遭いながら、びくともしていないんですね。

マハラジャは宮殿の中にジャンタル・マンタルと呼ばれる天文観測機器も作ってしまいました(インド)

2013-04-07 08:00:00 | 世界遺産
 中国の中央、黄河中流域の嵩山の麓にある登封は世界の中心だという思想があり、優れた天文の遺跡も残されていました。巨大な日時計は、一年の長さを現在の観測技術と遜色の無い誤差で観測していたようです。中国のお隣のインドのジャンタル・マンタルにも、制度の高い天体観測施設が残され、世界遺産に登録されています。

 
 ジャンタル・マンタルは、インドの北部のジャイプールの郊外にあります。首都のニューデリーから南西に200kmほどで、東に200kmほどのアグラを結ぶ三角形は北部インドの代表的な観光コースのようです。インドでは、地方豪族のマハラジャが現役で存在し、ジャンタル・マンタルはシティ・パレスと呼ばれるマハラジャ宮殿の一角にあります。このシティ・パレスは一部が公開されていて、豪勢な生活ぶりが垣間見られます。

 
 
 
 さて、世界遺産のジャンタル・マンタル天文台ですが、18世紀の初頭に天文学者であったマハラジャがインド各地の5箇所に建てたものの最大のものです。登封の天文台では、巨大な日時計が1基だけでしたが、こちらには観測目的の違う18の観測装置が並んでいます。これらの機器は、少しくぼんだ所に設置されていて、上から眺めると、滑り台がたくさん並んでいるようにも見えます。ただ、滑り台にしては、滑る面が無くって、上に上る階段だけなのですが。現在時刻を知る日時計、星座の観測器、曜日を知ることのできる観測器など、かなり巨大なものが多く、日時計では2秒単位の表示ができるそうです。中国の登封のものに負けず劣らずの精度ではなかったかと思います。

 
 ジャンタル・マンタルのあるシティ・パレスからは、ジャイプールの市街地にある風の宮殿が、遠望できます。風の宮殿はジャイプールというより、北部インドの観光の目玉的な存在のようです。旅行会社のインド旅行パンフレットには、タージマハルと並んで、その写真が取り上げられます。この、風の宮殿というのは、宮殿の女性達が、自分達の姿を見られることなく、宮殿の外を眺められるように作られた建物と言われています。建物というよりは、回廊を窓と装飾のあるパネルで挟んだ、ごくごく薄いもので、回廊の幅は2mほどではないかと思います。暑いインドでも、裏表に窓のあるカイロの部分は、風が通って涼しいのだそうで、名前もこの構造から付けられています。そして、この風の宮殿も、シティ・パレスの一部なのだそうです。

 1時間は、地球の自転を元に決められましたが、不変と思われた自転周期がふらつくことが判り、現在では原子時計を使った時刻が使われています。これを、協定世界時と呼んでいますが、地球の自転がふらつくために、太陽の位置と協定世界時とがずれてきます。これを、補正するのが閏秒で、1秒単位で時計を進めたり遅らせたりします。これまで25回行われましたが、すべて遅らせる、つまり、閏秒を加える捜査がされてきました。この閏秒の処理は、廃止論も強いのですが、廃止に反対する意見もあり、結論は2015年まで先送りをされています。閏秒を止めてしまうと、極端には太陽の位置と、時刻とがずれてしまいますが、閏秒の操作で困ることも多いのだそうです。現代は、コンピュータによってさまざまなことが自動制御されています。コンピュータには時計を持っていますが、この時計を閏秒で補正すると、操作ミスなどによって、システム異常を起こす恐れが大きいのだそうです。航空管制や新幹線の集中管理などで異常が発生すれば、人命に関わるというのが廃止論の理由の一つのようです。閏秒を廃止すると、登封の日時計もジャンタル・マンタルの観測機器も見かけの誤差が増えてしまうでしょうね。