世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

30年以上も前に訪れたバリ島は、どこかのんびりとした時間が流れていましたが、便利になった最近の状況はどうでしょうか(インドネシア)

2022-11-27 08:00:00 | 世界の町並み
 ポルトガルの都市の中で祈りの町と呼ばれるのがポルトの東にあり郊外には世界遺産のボン・ゼスス教会もあるブラガで町中に数多くの教会が建っていました。ポルトガルはカソリック教会ですが、島中にヒンドゥー教の聖地があり祈りの島といった印象を受けるのがバリ島です。今回は、30年以上も前に訪れて、記憶も消えてしまいそうなバリ島で、筆者が島内観光として回った場所を紹介します。訪問した場所は4か所で、Batubulanではバロンダンスを、Goa Gajahは洞窟寺院、Peneuokanはバトゥール山やバトゥール湖などを望む高原で最後がTanpaksiringは聖水のお寺でした。写真類は当然にアナログで、ネガをプリントしたもとポジのスライドをそれぞれスキャナで取り込んだものを使っています。

 

 バリ島は、南部に芋のような形をした半島が突き出ていて、その半島の付け根は補足くびれて東西に2km程度の幅しかありません。空港の滑走路はこの細いところに東西に延びていて、半島への交通を遮断するような形です。筆者が訪問した時は、滑走路が1本で誘導路もなく、着陸機は滑走路の端まで行かないと向きが変えられないローカル色豊かな空港でした。現在は、発着数が増えて処理しきれなくなったのでしょうか、滑走路に並行して誘導路ができているようです。また、南北の道路も、湾の中の海の上に道路ができているようです。また、この空港はデンパサール空港都も呼ばれていますが、正式にはングラ・ライ国際空港で、ンで始まるのですが、世界には他にもンで始まる地名があるようです。「しりとり」遊びでンで終わっても、これらの地名で逃げられるかもしれません。 

 
 
 
 Batubulanは島の東南部にある彫刻の芸術村で、村の中のプセ・バトゥブラン寺院の前庭でバロンダンスのショーが行われます。バロンとは獅子の姿をした聖獣で、踊りの中心となります。このバロンダンスは、本来はヒンドゥー教が伝わる以前のバリ島の伝統宗教に基づく宗教行事で3時間ほども続くそうですが、観光客向けに端折って演じられます。演奏はインドネシア伝統のガムラン音楽だっとように思いますが、鐘の多いガムラン音楽は高音成分が多く、聞くことによって脳が活性化されるのだそうです。

 
 
 Goa Gajahは、Batubulanの北のウブドゥの近くにある11世紀に作られた寺院で、女神像がはっきり残る沐浴場があり、その先にはゴア・ガシャと呼ばれる石像が現れます。大きな口を開け、その口から中に入ることができますが、大きさは違いますが、ローマの真実の口にちょっと似てるかなとも思います。


 Peneuokanは島の北東部の標高,500mほどの高原で、標高が高いせいで涼しく避暑地二なっています。カルデラ湖のバトゥール湖を挟んで2つの火山があって、どちらも活火山として噴火を繰り返しています。特に東のアグン山は、大噴火を繰り返し、2017年、2018年の噴火では空港が閉鎖されたそうです。

 Tanpaksiringはやはりウブドゥの近くにあり、村内には11世紀に作られたGunung Kawiと呼ばれる聖水寺院があり、Goa Gajahと同様に沐浴場があります。バリ島ではありませんが、ジョグ・ジャカルタの水の宮殿も沐浴場の一種で、こちらの宗教はヒンドゥーではなく、イスラムでしょうから、暑い風土では宗教儀式の前の沐浴は宗教の種類に関係なく必須なのかもしれません。境内からは、谷の向こうにバリに多く見られる緑豊かな段々畑を望めますが、世界遺産の一部かどうかは不明です。

 
 
 ヒンドゥー教は多神教で、多くの自然現象に神が宿るとされています。我が国の民俗信仰も多神教で、本来は神の存在を前庭としない仏教というよりヒンドゥー教に似ているかもしれません。理解しがたいふるまいをする自然現象を神の聖とすることは、科学知識が未熟な頃は、ごく自然だったのかもしれません。ただ、この神という存在は、宗教権力者が、権力の手段として「神の言葉」といって民衆を弾圧するようになったのは悲しむべきことです。コンピュータが発達した現代では電気にまつわるほとんどの機器に大小種々のコンピュータが埋め込まれています。仕組みの分からない人にとっては、これは神の存在で、コンピュータ神による多神教の世界なのかもしれません。

箱根湯本を走る箱根登山鉄道には他ではあまり見ないような鉄道オタクが好みそうな施設があります

2022-11-20 08:00:00 | 日本の町並み
 福山から福塩線で山の中に分け入った所に石見銀山の銀を大阪に運ぶ中継宿場町として発展したのが府中でした。福塩線は福山と塩町とを結ぶローカル線ですが、列車の頻度が多くて、電化されているのは福山と府中との間で、その先はディーゼルカーが細々と走るローカル線です。府中がk所のエリアの中心地で、人の往来も多いという結果でしょうか。このように、一つの線区で電化と非電化が切り替わる所があるかと思えば、架線の電圧が切り替わる所もあります。かつては、阪急の京都戦が梅田~十三間は600V、十三~京都(大宮)間は1,500Vで電車は十三で電気系統を切り替えていました。一方、関東でも箱根登山鉄道も箱根湯本で1,500vと600Vの切り替えをしていました。今回は、その箱根湯本駅周辺を紹介します。

 
 新宿から箱根の濠らに行く場合は、新宿から小田急の特急で箱根湯本まで行き、湯本で箱根登山鉄道に乗り換える野が一般的です。ただ、小田原~箱根湯本間は箱根登山鉄道の管理で、かつては箱根登山鉄道の電車の一部が小田原まで走っていて、小田原駅で乗り換えという光景も見られました。架線の電圧は、小田原~箱根湯本間は1,500V、箱根湯本から先は750Vですから、これらの電車は箱根湯本で電気系統を切り替えていました。さらに、ややこしいことに、小田急の軌道幅は狭軌の1,057mm、箱根登山線は標準軌の1,435mmですから、2種類の電車が走る小田原~箱根湯本間には3本のレールが敷かれ、ポイント部分はきわめて複雑な形をしていました。

 2006年までは営業運転で、このような複雑な運用形態でしたが、現在は小田原~箱根湯本間の営業車両はすべて小田急の電車が使われ、軌道幅は1,067mmですが、外観は箱根登山鉄道の合わせたオレンジ色です。またまた、ややこしいことに、現在も途中駅の入生田~小田原間は2本レールですが、入生田~箱根湯本間には3本レールが残っています。これは、入生田に箱根登山鉄道の検車庫があり、ここに出入りする車両のために残されているのです。

 
 さらに歴史をたどると、小田原と箱根湯本間にはかつて1887念に馬車鉄道が開通して走っていました。現在の鉄道線は、早川の砂岩を走っていますが、馬車鉄道は右岸を走っており、湯本駅から早川に架かるアジサイ橋を割ったった所にある川沿いの細い道は起動跡だそうです。富士屋ホテルの上るためのエレベータの近くには、当時の遺構の一部が残っていますが、川の向こうにはオレンジ色の電車が駅に入っていくのが見えます。

 湯本の温泉街や土産物屋は、駅の西南、箱根登山線と蛇行する早川に囲まれた部分で、さらに温泉街は川を渡って旧東海道の方に延びています。

 
 箱根湯本のお散歩の一番の目的地は早雲寺ですが、湯本駅からは、早川を渡って、坂を上り、箱根資料館を通り過ぎて、富士やホテルを回り込んで裏手の旧東海道に出ます。湯本小学校を行き過ぎたあたりの右手を入ると早雲寺、左手には白山神社があります。白山神社は8世紀に加賀の白山神社の祭神を勧進して創建され、江戸時代間では温泉の守護神として崇められてきたそうです。かつては早雲寺の境内にあり、江戸末期に現在地に移設されたそうですが、白山神社の歴史の方が古いので、後からできた早雲寺が白山神社を追い出した形でしょうか。

 
 
 さてその早雲寺ですが1512年に北条早雲の遺言により創建された臨済宗のお寺です。緑の木立の中に中門、本堂、開山堂、鐘楼などが並びます。紅葉の頃でしたが観光客の姿はほとんど見かけず、静寂が漂うといった感じです。

 
 
 この静寂さの中に多くのお墓が並んでいます。創建者の北条氏五代の墓は当たり前として、二代将軍の御殿医それに連歌師の宗祇の墓やその墓守をしていた祇空の墓もあります。

 異なる架線電圧の区間を跨って走る電車はDC-DCコンバータなど無かった頃から存在していたので、モータに掛かる電圧を抵抗器で落としたり、モータの接続を変えたりして対応していました。現代では、直流の電圧を損失無く簡単に切り替えられるようになりましたが、数十年前までは簡単ではありませんでした。これで思い出すのが、電力供給でのエジソンの直流とテスラの交流との対決です。結果的に交流論のテスラがかttのですが、もしエジソンが買っていたら、現在のように不自由なく電気が使える社会にはなっていなかったかもしれません。エジソンと言えども、先見性においてテスラに及ばなかったわけです。

宗像大社の沖ノ島には立ちることはできませんが、辺津宮にある神宝館では出土したおびただしい数の国宝群に圧倒されます(日本)

2022-11-13 08:00:00 | 世界遺産
 満潮の時には社殿が水の上に浮いているように見えるのが厳島神社でした。水んは浮いているようには見えませんが、陸地からはるか沖合の島に、一般人は上陸できない神聖な島、沖ノ島の沖津宮です。今回は「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群を紹介します。

 宗像大社は沖ノ島にある沖津宮、筑前大島にある中津宮そして陸地側にある辺津宮の総称で、一般人が行くことができるのは中津宮と辺津宮になります。

 沖ノ島は陸地から約60km離れた玄界灘にある周囲kmほどの島で、島全体が沖津宮の私有地になっています。2017年までは一般人の上陸が許可されていましたが、2018年以降は原則的に神官以外は上陸ができなくなりました。沖津宮ノ周辺には古代祭祀跡が数多くあり3回の調査によって約8万点の祭祀遺物が発見され国宝となっています。8万展というおびただしい数ですが、国宝の点数としては一式1点ということだそうです。さらに、未調査の遺物が7割も残されていて「海の正倉院」の名に恥じないようです。これらの宝物は辺津宮の境内にある国宝館に展示されています。

 
 
 
 中津宮は、鹿児島本線の東郷から本数の少ないバスで30分ほどの神湊波止場から、これまた本数の少ないフェリーで15~25分の大島港から300mほど、そこから階段を上ったところにあります。数少ないフェリーの時間制約で、往路の下船から帰路の乗船まで25分しかなかったので、この会談の登りはこたえました。時間のある方は、島の北側にはるか沖合の沖ノ島の沖津宮をを望む拝殿もあります。

 
 
 
 
 
 辺津宮は神湊波止場へのバスを10分ほどで途中下車したバス停は正面の左手になり、木立の間を進むと正面に左に曲がると正面の鳥居があります。鳥居をくぐると心字池の石橋を渡り、神門の先に本殿があります。

 
 本殿の背後には深い緑の木立があって第二宮、第三宮 それに神宝館があります。これらの建物が緑の木立の中に散在していて気持ちの良い空間を作っています。

 
 辺津宮で時間があれば、東を流れる釣川を渡って20分ほどで屏風山・鎮国寺にお参りできます。空海ゆかりの寺で、空海が唐に渡った時に暴風雨に遭い、宗像三神に祈ったとこr、嵐は静まり無事に長安まで行くことができました。帰国後に宗像大社にお参りしたところ、屏風山に端雲がたなびき、、こちらこそが鎮護国家の根本道場たる霊場とのお告げがあって開いたのが鎮国寺なのだそうです。釣川のそばから急な階段を上った先の境内には花木が多く花の寺と呼ばれています。

 現在国宝の数はおよそ1千点あり、重文は1万3千点もあります。文化財保護法施行前は、重文というカテゴリーはなくすべて国宝でした。施行後にはすべてが重文指定となり、その中で特に貴重なものを国宝指定としました。文化財保護法制定のきっかけとなったのが法隆寺金堂の火災で、解体修理中の金堂の初層が火災で黒焦げになりました。壁画の模写が行われていましたが、寒さを防ぐ電気座布団から出火したとされています。昭和24年と戦後間もなくの頃ですから、電気座布団の安全性も低く、火災を感知するセンサー類もなかったのではないかと思います。解体修理が、絹糸技術の進んだ現代に行われていたら、壁画が被害に遭うことはなかったかもしれません。被害に遭った黒こげの壁画は、第宝蔵殿裏の収蔵庫に保管されていて、法隆寺夏期大学の折に特別拝観させてもらいましたが、黒こげの壁画は痛々しくて涙が出そうになりました。

全国で2か所の府中市の一つの広島県府中市には、幕府に銀を運ぶ石州街道の出口にほっこりする町並みがあります

2022-11-06 08:00:00 | 日本の町並み
 かつての西鉄球団の本拠地であった平和台球場は、平安時代の国の出先機関の対外公館の鴻臚館跡でした。その外国に備えて幕末に挙兵されたのが、下関の長府で、地名の由来は、かつての長門の国の国府が置かれ府中とも呼ばれた、国の出先機関の町でした。国府の置かれた町は全国各地にあるはずですが、府中市と名の付くのは東京都と広島県の府中市の2か所だけです。今回は、広島県の府中市を紹介します。

 
 
 広島県の府中市は、県の東南部、福山と塩町とを結ぶ福塩線の沿線になります。福塩線は福山から府中までが電化されているので、すべての電車は府中どまりで、塩町方向に行くにはディーゼルカーに乗り換えとなる駅です。府中が栄えたのは、かつての国府というだけでなく、石見銀山で産出の銀を幕府に運ぶ石州街道の出口に位置する交通の要であったからです。石州街道は何本もあって、大部分はもっと西で山陽方面につながるのですが、府中は飛びぬけて東で大阪や江戸に近い場所に位置していました。

 
 
 
 
 JR府中駅を北に出て駅前ロータリーを少し行くと、東西に交差する通りがあり、この通りを西に1kmほど、出口川の手前で北に曲がってに伸びるのが、かつての石州街道の跡です。特に北に曲がって川と並行に北に500mほど進み番所跡まどを出口通りと呼ぶようです。この通りには、大きな石灯篭があったり、お寺や神社がありますが、観光地でよく見かけるお土産屋や資料館などの類は見かけません、住んでいる人の日常があるだけのようです。お土産屋さんどころか、観光客にも一人も会いませんでした。かつては銀を運ぶ大動脈としてにぎわった宿場町だったのでしょうが、目玉になるような観光施設や、さしたる基幹産業もなく、海沿いを通る山陽道からも取り残され冷凍保存されたような町並みが残されています。

 
 
 
 
 
 
 通りに面した家々は、白壁や黒壁の土蔵造りに一階は格子が並んでいるところが多く、格子に架けられた生け花がアクセントになっています。格子の生け花だけでなく、家の前が盆栽で埋まってしまった家や、種々の飾りがぶら下がって入り口が何処かわからないほどの家まであります。そうかと思えは、白い箱を3段に積み重ねたような洋館もあって、一筋縄ではいきません。このような家並が、真っすぐな直線道路ではなく、微妙に曲がりくねっているのは、通りやすさより敵からの防御を第一義に考えた江戸時代の名残でしょう。しかしこの微妙なカーブが、町の雰囲気をよくしているのも皮肉です。

 府中を大量に通過していったであろう石見銀山の銀ですが、一説には世界の1/3を産したとも言われます。銀は金と並んで装飾品として価値が高いのですが、数多くの金属の中では最も導電率が高い金属で、電線などに多用される銅より5%ほど高いのですが、さすがに費用対効果の面からは配線には使われません。むしろ、高圧送電線では導電率が銅の60%くらいのアルミが使われるようになっています。銅に比べて電気抵抗が大きくなるので電線を太くして長さ当たりの抵抗値を同じにしています。当然にアルミの使用量は増えますが、銅に比べて安く済むのだそうです。送電線を銀線に変えれば太さを5%減らせるでしょうが、費用が甚大になって、中には危険を冒して送電線泥棒が出没シソウデス。