世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

松山市の北の三津は海運の拠点や漁業の街として栄えましたが、街並みは商家のたたずまいが連なっています

2022-04-24 08:00:00 | 日本の町並み
 世界遺産の島である屋久島への足として鹿児島からのフェリーは、航行時間が4時間と少々長旅ですが、船窓からの眺めがよいお勧めの航路の一つです。外洋を航行するフェリーはどれも長旅で、4時間は短いほうかもしれません。一方、瀬戸内海のフェリーは先日紹介した尾道の向島との航路など短く、フェリーというより渡し舟です。これらの短い渡し舟の中から、今回は松山市の北に80mの海を渡る三津の渡しの起点になる三津を紹介します。

 
 三津浜は松山市内になり、80mの渡しは小さな船が往復していますが、松山市道扱いで500年の歴史のある渡し舟です。松山の市街地からバスや伊予鉄の郊外線で行くことができますが、伊予鉄の駅は三津の街並みからは若干離れていて、バスだと渡しの近くまで行ってくれます。実は筆者は渡し舟には乗り損ねましたが、伊予鉄で三津の次の港山まで行って、渡し舟で湾を渡り街並みを散歩するのが正解のようです。

 
 
 
 
 
 
 古い町並みは、三津の渡しの南側に200m四方の半島状に湾の中に突き出たあたりが中心で、土蔵造りや板壁の家並が続きます。三津は古くから漁港として栄えたのですが、街並は商家のもので、格子や虫篭窓など、なかなか重みがある見ごたえのある街並みを形作っています。おそらく、松山藩の外港として流通を担う豪商が軒を連ねた名残ではないでしょうか。

 
 三津の渡しは四角く突き出た半島の北東の角あたりにありますが、この近くには安土桃山時代に創建されたという西性寺があります。西性寺は本願寺派の寺院で開祖は滋賀県の生まれですが大阪府貝塚ゴボウを経て石山合戦の後に当地でお寺を作ったそうです。また、湾を挟んだ対岸には、海の守り神の湊三嶋大明神社の鳥居と社殿が見えています。瀬戸内海を横断して広島や山口、それに九州に向かう大型船は、三津の北の高浜観光港から発着していますが、三津の渡しの西側からも瀬戸内海を横断する小型の船が出ているようです。


 この湊の近くには、「きせんのりば」や子規の句碑それに芭蕉翁の塚などが建てられています。

 三津は江戸時代には松山の外港として栄えましたが、江戸時代の物流の主役は、移動のためのエネルギーが少なくて済む船でした。陸路では、牛や馬や、場合によっては人間が引く小さな車でしたから、どうにも効率が悪かったのです。現代では、鉄道貨物やトラックが物流の主役で、ガイヨウフェリーは脇役になり、軽くて価格の高い荷物は航空機で運ばれるようになりました。九州に半導体関連の工場が林立したのも、高価格で軽い半導体製品は飛行機で簡単に人口密集地に運べたからです。ネットが発達して、情報はもっと少ないエネルギーで長距離を移動できますが、情報だけでは人間のお腹は膨れないんですね。

30年以上前なので場所の記憶は消えそうですが、車を飾る花々の見事さの記憶は鮮烈です(オランダ)

2022-04-17 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はオランダのハーグ近郊にあるミニチュアランドのマドローダムを紹介しました。オランダといえばチューリップをはじめとする花の国のイメージが強いのですが、今回はマドローダムとともに訪れたズーテルメールやハールレムの春の花まつりの様子を紹介します。30年前の訪問の記憶なので記憶間違いや誤認、それにやや退職したアナログフィルムからの画像をお許しください。

 
 
 
 
 
 オランダの花パレードは、毎年ゴールデンウィークの少し前に開催され、ノルドワイクからハールレムまで42kmを丸一日をかけて練り歩くようです。筆者は、記憶が定かでないのと、記録も曖昧なのではっきりしないんですが、アムステルダムから近いハールレムあたりで見たのではないかと思います。ただ、現在のコースだとハールレムに到着するのは夕方なので、ちょっと時間が違ったようですが、30年前は逆コースだったのでしょうか。随分と昔だったせいか、観光客はさほどすごくなく、パレードをかなり近場で見物できたように思います。フロートには人間も乗っていますが、主役は花々で、、スポンサー名なども無くあまり商業主義を感じませんでした。


 パレードのコースにあたるハールレムは、アムステルダムの西20kmほどに位置し、ニューヨークのハーレムの語源になる場所で、園芸栽培で栄えた花の町です。町の中心には、聖ぱふぉ教会があり、16世紀に建てられた聖堂が威容を誇っています。18世紀に作られたパイプオルガンは5千本超えるパイプがあって、建設当初は世界一だったそうで、モーツアルトやヘンデルも演奏したそうです。

 
 
 花のパレードの後に訪れたのが、ズーテルメールで開催していた花の博覧会(フロリアード)でした。10年委一度開催され、訪れた1992年は4回目の開催だったようです。ハーグから電車でいったのですが、この電車はループ状でハーグ発ハーグ行き、フロリアードの会場の最寄り駅で下車のはずが、出発点に戻ってしまいました。花博の会場なので大々的な看板を想像していたのが間違いでした、駅には駅名のみが表示され、見落としたのです。日本のように、おせっかいな案内は皆無でした。電車のループを一周半して着いた会場はさすがに花ばっかりで、それから随分と後に訪れた富山のチューリップ祭りと似ていたんですね。

 チューリップなどの秋植え球根は、いったん寒くなって暖かくならないと花が咲かないのだそうです。単純に温室で加温しても早咲きしないので、お正月ころに出回る早咲きの花は、夏の終わりころに冷蔵庫に入れて、球根に{冬が来たよ}って勘違いをさせてから、温室に植え込むのだそうです。球根の中に温度変化を記憶するメモリを持っていることになりますが、まさかスマホなどのSDカードではないでしょう。人類は半導体という記憶素子を作って巨大な記憶容量を手中にしましたが、自然界には記憶容量は小さくても、いろんな仕組みの記憶媒体がありそうです。

自然の宝庫の屋久島ですが、時間が空けば交通の要となる宮之浦地区の散歩もお勧めです

2022-04-10 08:00:00 | 日本の町並み
 世界遺産の紹介で屋久島の自然を取り上げましたが、今回は日本の街並みの一つとして屋久島の宮之浦集落を紹介します。
 
 
 
 
 宮之浦集落は、屋久島の北辺にあって人口3千人程度ですが、屋久島の海の玄関として島一番の活気を持っています。宮之浦港には鹿児島との間を4時間で結ぶフェリーの他に2時間40分の高速船のトッピーが6便就航しています。さらに、宮之浦港を起点に口永良部島などの離島航路もあります。トッピーはジェットフォイル船ですが、さすがに飛行機にはかなわず、鹿児島空港から島の東の屋久島空港までATR機が40分で飛んでいます。筆者は往路に飛行機、復路には4時間かかるフェリーを選びましたが、視点の違った景色が楽しめて正解でした。特に、帰路のフェリーは、秋の季節には鹿児島港の入港が薄暮のころになるので、船から見える夕日や暮れゆく薩摩半島をバックにして船の明かりが点いてなかなか素敵でした。

 
  
 
 さて、宮之浦地区ですが、北に向かって口を開けて湾になっている宮之浦港と東を流れる宮之浦川都の間に集落が集中しているようです。フェリー乗り場は湾の西側に突き出た突堤で、この付け根あたりから丘を登りシーサイド・ホテルの手前を右に入るとウィルソン株の実物大模型があります。実物は本格登山をしないと見られないので、この模型で巨大さが実感できます。湾の底辺あたりには「名残の松原公園」があり文学碑もありますが、木造で木の床まで張られた公衆便所のほうに興味が惹かれます。

 
 
 
 
 湾に沿って東に回り込むと、益救(やく)神社で、境内には町指定文化財の仁王像がありますが、仁王とは認識しがたい形です。その奥にはガジュマルの巨木があって気根の間を潜り抜けられます。神社の横の石畳の道を入りバス通りに出て左側が宮之浦大橋で、その上流には旧橋が残されていてレトロな味わいがある橋です。宮之浦川に沿って遡上すると歴史民俗資料館で、屋久島や隣の口永良部島の自然や歴史が展示されています。庭には口永良部島の網代作りの民家が復元されていて、開放的な民家の様子がわかります。

 
 少し行って右手の坂を上ると久本寺で、境内を通り過ぎて裏手に回ると檀那墓があります。石塔が密集して無縁墓のような形ですが、江戸時代にあった屋久島奉行所に島津から派遣された藩士たちの墓所なのだそうです。先の坂を下るとバス道に出て、散歩は終了です。

 ガジュマルは、他の樹木に気根が張り付いてその木を枯らしてしまい、絞め殺しの木と呼ばれることもあるようです。ガジュマルはクワ科イチジク属の木で同様の木にインド菩提樹があり、その木の根元で釈迦が悟りを開いたとされる木ですが、この木も絞め殺しの要素持っていて、菩提とはそぐわないところもあるようです。日本の菩提樹は、科も属も異なるアオイ科シナノキ属でインド菩提樹とは全く違う樹木、熱帯性のインド菩提樹が中国に渡った時にうまく育たず、似たような木というのが日本菩提樹のルーツです。その頃はDNA鑑定は愚か、植物の分類学という概念すらなかったのでしょうね。

世界遺産のエリアからは外れていますが、縄文杉までの体力に自信がない方は屋久杉ランドや白谷雲水峡の散策がお勧めです(日本)

2022-04-03 08:00:00 | 世界遺産
 前回は屋久島の世界遺産登録エリアを含む海岸沿いのポイントを紹介しました。しかし、屋久島と聞いて屋久杉の原生林を外すことはできません。有名な縄文杉は1日行程の登山が必要で、筆者には体力も時間も足りなくて、比較的気軽に行ける屋久杉の原生林を訪れました。今回は、登録エリア外ですが、屋久杉が生い茂る自然休養林の屋久杉ランドと白谷雲水峡とを紹介します。

 有名な縄文杉は屋久島の中央にそびえる宮之浦岳の北側に、これから紹介する2つの自然休養林は東側にあり北側に白谷雲水峡が、南側に屋久杉ランドがあります。どちらも樹齢が2000年を超える屋久杉が生い茂る原始林です。杉の木は平均寿命が500年程度と言われていますが、屋久島の杉はそれよりずっと長生きで、縄文杉の樹齢は推定で2,000~7,200年と言われています。屋久島では樹齢が1,000年以上でないと屋久杉と呼ばれず、それより若い木は小杉と区別されるのだそうです。

 
 
 
 
 
 
 屋久杉ランドは屋久島の東の端の港町である安房から山道を15kmほど分け入った標高1,000~1,300mの自然林で、広さは270ha、外苑を含めた皇居よりやや広いくらいです。訪れる人の体力や所要時間によって5つの散策路が設けられていて、筆者は50分のコースを歩きましたが、かなりの高低差があって、ほどほど息が上がります。原則的には自然のままですが、散策のために木道や釣り橋が設けられ、景色に変化を持たせています。最も大きな屋久杉は仏陀杉と呼ばれるもので樹高が21.5m、幹の太さが周囲8mそして推定樹齢は1,800年という古木です。仏陀杉以外にも双子杉や根元が二股になったくぐり杉、切り倒された切り株に新しい目が伸びた切り株更新など、いろんな形の杉が見られます。また、江戸時代に伐採され、板に加工しにくい部分が放置された倒木も多くこれを土埋木と呼ぶそうですが、自然の倒木やそれらに生えたコケなどが、一種の神々しい風景を形作っているように思います。

 
 屋久杉ランドからさらに6kmほど奥には紀元杉が立っていて、こちらは仏陀杉に比べて樹高はやや低いものの、推定樹齢3,000年とのことですから、この杉の生誕は縄文時代だったことになります。

 
 
 
 
 
 
 
 一方の白谷雲水峡は、島の北側にある港町の宮之浦から南に10kmほど登った所を起点に西に広がっています。標高は600~1050mほどで広さは屋久杉ランドの1.5倍ほどの424ha,こちらも3種類ほどの散策コースが作られています。筆者は最も短い弥生杉コースを表示の2倍近い時間でゆっくりと回りましたが、こちらもかなりの標高差のある山道で息が上がります。前半の二代大杉までは白谷川に沿った散策路で、屋久杉というより、渓流の眺めや音を聞きながら散歩を楽しむといった感じです。折り返し点にある二代大杉は、このコースで最も樹高の高い32mもありますが太さは4.4mでほっそりした屋久杉です。折り返して途中から左手の山道を登っていくと、景色は渓流の道ではなく屋久杉ランドと同じ屋久杉主体の原生林の中の道です。弥生杉は樹高は26.1mとやや小ぶりですが太さは屋久杉ランドの仏陀杉と同じ8.1mで推定樹齢は3,000年とありますが、それなら弥生ではなく縄文時代に生まれたことになりそうです。

 屋久杉の推定樹齢をどうやって行なうのか調べてみました。いろんな方法があるらしいのですが、精度の高いやり方は成長錘と呼ばれるキリ状の器具を使って、気に穴を開けてコアと呼ばれる資料を抜き取るやり方です。抜き取ったコアを観察して年輪相当の輪を数えて樹齢を推定します。土壌や氷河でコアを抜き取る手法と似ています。木を切り倒して年輪を数えられますが、切らないで樹齢を推定する方法は、外にも輪生体の数を数えたり、幹の太さから推定するそうです。輪生体とは同じ高さのところから延びた枝のことで、針葉樹の樹齢推定に用いられるそうです。太さから推定する場合は、近くの切り株の樹皮や年輪の厚さを測って、計算式に当てはめるそうですが、コンピュータが必要なほどの計算式ではなさそうです。仏像の内部を調べるために、博物館には仏像を乗せられるCT装置がありますが、さすがに森林まで持ち出すのは無理でしょうね。