世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

大都市のトロントですが、レトロな路面電車が走り、シンデレラ城を思わせる邸宅が建っています(カナダ)

2013-09-29 08:00:00 | 世界の町並み
 生活困窮者のための療養施設で資金確保のために始めたワイン醸造のためにワインの産地としての知名度が高いのがフランスのボーヌでした。ワインにも、いろいろな種類があり、極限まで木に残し寒さで氷結した糖度の高いぶどうを使いデザート用に醸造したものがアイスワインです。このアイスワインの最大の生産地の一つがカナダのオンタリオ州で、その州都のトロントは、流通の中心地です。今回は、北米でNY、LAXそしてシカゴに次ぐ4番目の巨大都市であるトロントを紹介します。

 
 
 トロントはカナダ東部、五大湖の一つ、オンタリオ湖の北西岸に位置していて、南に直線距離で40kmほどの所にナイアガラ瀑布があります。市内の移動は地下鉄が速くて便利ですが、北米では珍しい路面電車が走っています。赤と白とに塗り分けられたレトロな車両は、大都市にあってちょっとなごむ風景です。カナダ鉄道のユニオン駅は、市街地の南端のオンタリオ湖に近い所にあって、鉄道華やかりし頃の威容を残して建っています。駅の西には、2007年まで世界一の高さを誇ったCNタワーの三角形の支柱がそびえていますが、筆者が訪問した時には転記が悪くて頂上付近は雲の中で、さすがに高い!と感嘆?しました。

 大都市のトロントのすべてを紹介するのはとても無理なので、筆者が訪問した、カーサ・ローマと博物館とを紹介します。

 
 
 
 
 カーサ・ローマは、地下鉄のDupont駅で下車をして、大学の構内のような所を北へ通り抜けた小高い丘の上にあります。ナイアガラの発電でも設けた資産家が建てた邸宅で、現在は市の所有になっています。外観は、ヨーロッパで見るお城のようで、あちこちのお城のいいとこ取りを下のではないかとも思えますが、なかなか綺麗です。中に入ると天井の高いメインロビーで、入場料を払い、日本語にも対応のオーディオガイドを貸してくれます。天井までぎっしりと本が並んだ図書室も圧巻でしたが、内部の調度や地下室などお金をかけているな~といった感じです。連続アーチ窓が並ぶサンルームも洒落ていますし、窓から見るトロントの風景もいいのですが、雨で霞んでいました。これだけ贅沢に作ったために、資金が枯渇して手放す羽目になったと言われています。

 
 
 ロイヤルオンタリオ博物館は、カーサ・ローマの手前の博物館駅で地下鉄を降りてすぐの所です。100m四方ほどの比較的小ぶりな博物館ですが、ステンドグラスや壁面のモザイクなど、博物館の建物も見ごたえがあります。1912年の開館と歴史は新しいのですが、北米では5番目に大きな博物館です。カナダの歴史などの展示に加えて、オリエントや東アジアのコレクションも多く、仏像(日本のものかどうか覚えていません)や陶磁器の展示も豊富でした。

 CNタワーも東京のスカイトゥリーも本来は電波塔で、眺めが良いことから観光目的にも使われています。テレビの送信アンテナを高くすれば、それだけ遠くまで電波を飛ばせられるのですが、意外に知られていないのがその足元です。「灯台元暗し」と同じ現象で、水平方向に飛ばされる電波は、塔の足元では受かりにくいのです。逆に、携帯電話では高いビルの上で受かりにくいという現象が起こります。携帯の基地局は、数多くあるため、近くの基地局との間で、電波が干渉しないようにする必要があります。このため、携帯の電波は、やや下向けに発射されることが多く、高いビルでは受かりにくくなってしまいます。ただ最近は、高層ビルに中継用のアンテナが設置されて、この現象も起こりにくくなったようですが、携帯中毒の人にとって、高層ビルは恐怖の場所かもしれません。

北白川疎水の周辺には、静かな町並みの中に旧駒井家住宅をはじめ個性的な建物が建っています

2013-09-22 08:00:00 | 日本の町並み
 近江商人のふるさとでもあり、数多くの学校や教会建築を残したヴォーリズの活動拠点が近江八幡でしょた。ヴォーリズが設計した建築のなかで、個人の邸宅は数が少ないのですが、その中の一つが京都市街地の北部にある旧駒井家住宅です。今回は、近くを疎水が流れ、旧駒井け住宅以外にもユニークな建物が残る北白川界隈を紹介します。

 
 
 旧駒井家住宅は、京大教授の駒井博士の自邸として北白川疎水の畔に昭和初期に建てられた洋館で、現在は日本ナショナルトラストの所有となっています。外観は、普通の洋館ですが、内部に入るとなかなかしゃれた建物になっています。1階には、アーチ窓の連続が美しいサンルーム風の部屋があって、ここで午後のお茶をしたら素敵だろうと思います。2階に上がる階段にも細やかな神経が行き届いていて、その2階からは細かく区切られたガラス戸の向こうに大文字が見えます。庭には温室が作られていて、半地下のような構造になっていたように思います。


 この旧駒井家住宅の北隣には、レトロなアパートが現役で残っています。戦前に建てられたこと以外には詳しい情報は残っていないようですが、大島渚監督が住んでいたという話もあり、最近は映画のロケ地にもなったそうです。







 
 
 北白川疎水一帯は低層の住宅街で屋根の向こうに見えるマンションは、比較的少ない静かな地域です。この疎水を南に下ると、土蔵があるような民家の中に忽然とスパニッシュ様式で教会と見まがうような白い建物が出現します。京都大学人文科学研究所東アジア人文情報学研究センターの建物で1930年に東方文化学院京都研究所として建てられたものです。現役の研究所の建物ゆえ、内部は見ることができませんでしたが、ドア越しに眺めた内部は、変わった形の照明器具がぶら下がっていたり、廊下の途中に欄間風の透かし彫りがあったりで入ってみたくなる建物です。

 
 研究センターから、疎水を渡って西にいったところにあるのが、京大の北部構内で、その構内に建っている目だった建物が旧演習林事務室です。現在は京大全学の共用スペースとして使われています。平屋の木造にスパニッシュ瓦を乗せ、周りをベランダで囲み、隅切りをした角のところに入り口のある建物は、周辺のコンクリート造の学舎の中で、そこだけが奇妙な空間を作っています。

 京都大学人文科学研究所東アジア人文情報学研究センターの旧名称は漢字情報研究センターと称し、漢字文献のディジタル化に必要なデータベース管理システムの開発を行っていました。漢字と言えば、日本で使われるコンピュータシステムでは、漢字の扱いは当たり前になっていますが、30年ほど前まではカナ文字がやっと、通常はアルファベットしか扱えませんでした。初期のパソコンでは、漢字を扱うために、独特のOSが必要で、これが非関税障壁のようになっていました。日本文をローマ字やカナのみの表記にすべきと言う学者もいらっしゃいますが、パターン認識が可能な漢字かな混じり文は優れた表記システムでは無いでしょうか。ハングルによるこうつう標識は、内容を判断するのに一瞬遅れを伴う、とは韓国のゲストハウスで聞いた弁です。

ウィーン近郊にはシェーンブルン宮殿をはじめハプスブルク家の宮殿が多く残されています(オーストリア)

2013-09-15 08:00:00 | 世界遺産
 ワイマールの国民劇場の前の広場にはシラーとゲーテとが並んだ銅像が建っています。そのゲーテと親交の深かった音楽家の一人がシューベルトで、生まれたのはウィーンの近郊です。そのウィーンの近郊にある世界遺産がシェーンベルン宮殿で、マリアテレージア在位の18世紀中ごろに完成をした離宮です。シューベルトが活躍したのは19世紀初頭なので、彼もこの宮殿を見たかもしれません。シューベルトより先に生まれたモーツアルトが、6歳の時に宮殿に招待され、マリー・アントワネットにプロポーズをしたという逸話も残っています。今回は、20年以上も前に訪れたシェーンブルン宮殿を紹介しようと思いますが、何せ古いことゆえ思い違いがあるかもしれません、お許しください。また、写真はポジフィルムで撮ったものをスキャナで取り込んだもので、かなり退色が進んでいることをお含み置きください。

 
 
 シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心から西南西へ5kmほどの距離にあって、はぼ1km四方の広大な敷地を持っています。敷地の大部分は緑の森で、その北辺に200m近い長さの宮殿の建物が建っています。建物から伸びる、少し東にかしいだ南北の軸線にそって1kmほどもつながる芝生の庭があり、その先には彫像のある噴水、そしてその先の小高い丘の上にはグロリエッテという未完の記念碑があります。手入れのよく行き届いた庭には、並木が続き、その木の陰から幼いモーツアルトが出てきそうな感じがします。

 世界遺産の宮殿のヴェルサイユ、ドロットニングホルムそれにカゼルタ宮殿などの建物は、クリーム色などの淡い色の外壁で覆われていますが、シェーンベルンはまっ黄色です。当初は、外壁に黄金を張る計画もあったようですが、財政的な理由から、黄金色に近い黄色に塗られたそうです。そういえば、同じドイツ語圏のサンスーシ宮殿の外壁もまっ黄色の壁の上に緑の屋根が乗っていました。

 
 
 ウィーン市内には、ウィーン歴史地区という別の世界遺産に登録されているホーフブルク宮殿や、ヴェルベデーレ宮殿があります。ホーフブルク宮殿は、ハプスブルク家が滅亡するまで王宮として使われ、現在は大統領公邸として使われています。一方、ヴェルベデーレ宮殿は、シェーンブルンと同様に離宮として作られ、現在は美術館として使われています。こちらも、噴水のある広い庭園の中にバロック建築の建物が建っていますが、筆者が訪問した時は工事中で間近からの建物の姿は写真に撮れませんでした。

 ハプスブルク家は、戦争によらず政略結婚によって版図を広げていったことで有名です。政略結婚の当事者としては、親が勝手に決めた相手と結婚させられるのは不満かもしれませんが、戦争で迷惑をこうむる国民としてはありがたいことかもしれません。これまで、国と国とのもめごとは、暴力に発展することが常のようでしたが、もめごとにしないハプスブルク家のやり方は学ぶべき点がありそうです。通信が発展をして、お互いの意思疎通がうまくいけば、争いごとは減ると思いたいのですが、その通信を利用して、相手国のシステムを混乱させるサーバー攻撃が国家権力に利用されるのは悲しい事実のようです。

わずか10年で廃城となった近江八幡の町を盛り立てたのは近江商人でした

2013-09-08 08:00:00 | 日本の町並み
 大阪近郊の都市空港でありながら旅客機は飛んでいない空港の近くに商家を中心とした古い町並みが残されているのが八尾でした。八尾は、河内音頭の中心としても知られており、河内音頭はXX音頭の代表格のような感じがします。XX音頭は各地にあるようですが、歴史の古いものでは江州音頭がよく知られているようです。今回は、江州音頭のふるさとの一つである近江八幡近郊を紹介します。

 近江八幡は滋賀県のほぼ中央で、北西辺を琵琶湖に接しています。豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として町の骨格ができ、近世には近江商人のふるさとして発展をしてきました。八幡山城は隣の安土城と似た山城でしたが、秀次の失脚によりわずか10年で廃城となってしまいました。城跡の八幡山はかなり険しい山ですが麓からロープウェーを使って簡単に登れ、北に琵琶湖、南に近江八幡の町並みの眺望が楽しめます。

 
 ロープウェイが無くて歩いて上るのが八幡山より湖岸に近い長命寺山にある西国札所の長命寺で、車の道路はありますが、路線バスは登ってくれません。本堂と三重塔などが重文に指定されていて、お寺の諸堂は、頂上ではありませんが、ほぼ八幡山の頂上と同じくらいの標高の場所に建っています。長命寺に限らず、西国札所は高い山にあるところも多く、歩いて巡礼をしていた昔のお遍路さんは大変だったことでしょう。

 
 近江商人の古い商家が残されているのは、駅から北西に八幡山ロープウェイの麓駅に伸びる道の途中に広がっています。一帯は重要伝統的建物群保存地区に指定されていて、その中でも旧西川家住宅は重要文化財に指定されています。早くから無電中の町並みだったので、時代劇のロケ地に使われてきたのではないでしょうか。

 
 
 重伝建地区を通り越して突き当りが八幡堀で、八幡城の防備と水運を利用した流通のために作られた運河です。八幡堀に沿っては、漆喰の城壁が美しい土蔵造りの家並みが続いていますが、その中に真っ白の塔屋を持つ擬西洋館が特異な姿を見せています。この建物は、明治の初期に建てられた学校で、20年足らずを校舎として使われた後に役所などとして使われて、現在は観光物産協会として使われています。

 建物と言えば、近江八幡を本拠として、多くの学校や教会を設計したのがウィリアム・ヴォーリズです。建築家としてだけではなく、キリスト教の伝道者、メンソレータムで有名になった近江兄弟者を立ち上げた実業家、それにハモンドおるがを日本に紹介し、多くの賛美歌の作詞作曲を手がける音楽家とマルチな才能を発揮しました。ヴォーリズは近江八幡の名誉市民第1号で、八幡堀を東に行ったところの旧自宅が記念館として開放されています。

 ヴォーリズといえば、近州音頭の発祥の地の一つである豊郷町に建てられた小学校の校舎の改築騒動が思い起こされます。当時の町長が、ヴォーリズの校舎を潰して新校舎を建てることを強引に進めようとしたことに対して、反対派がこれを阻止したものです。建替の理由は、耐震強度不足ということでしたが、建て直しという既決事項に対して、後から無理やり付けられた理由のように思います。アンケート調査についても同じようなことがあって、結論は調査の前に決まっていて、それに誘引するような設問を準備することも多いようです。ネットを使った、世論調査なども、多くのサクラ回答者の影がちらちらし、いくらITが進んでも、このバイアスから逃れるのは無理なようです。

屋根瓦もベッドもきらびやかで、病院だったとは信じがたいオテル・デューのあるボーヌです(フランス)

2013-09-01 08:00:00 | 世界の町並み
 日本には少なくなったレンガ造りの建物が残されているのが台湾でしたが、同じ焼き物の色瓦で葺かれた屋根が美しいのがボーヌのオテル・デューです。今回は、オテル・デューのあるボーヌの町並みを紹介します。

 ボーヌはフランス中部のやや東より、パリから2~3時間のディジョンから列車を乗り継いで20分ほど、人口2万人ほどの小さな町です。小さな町の割には、観光客が大勢訪れるのは、オテル・デューだけではなくワインのおかげのようです。オテル・デューは、15世紀にブルゴ-ニュー公国の宰相によって建てられた困窮者のための無料の医薬院で、その運用費用を捻出したのが王侯貴族から寄贈されたぶどう園だったのだそうです。ぶどう園で採れるぶどうからワインを作り、その売り上げで衣料にかかる費用をまかなっていましたが、現在でもワインオークション会場として使い続けられています。

 
 
 
 ボーヌは城壁に囲まれた町で、ボーヌの駅は城壁の外にあり、オテル・デューなどがある待ちの中心までは、城壁を越えて20分ほど歩くことになります。城壁の入り口には、監視所のような丸い石垣で作られた設備もあります。駅から20分の散歩も美しい町並みの中を抜けていくので苦になりません。ヨーロッパでは、町の広場では、かなりの確率で朝市に遭遇しますが、ここでも新鮮な農産物などが売られていました。

 
 
 
 
 さて、オテル・デューですが、町の中心広場の北側にあって、道路に面した門を入ると中庭に出ます。この中庭を取り囲む建物の屋根瓦が美しい模様を描いています。手手者の内部は、医薬院の頃の状況が保存されていて、奥行きの長い部屋に、ずらりとベッドが並んでいます。このベッドが真っ赤なカーテンと真っ赤なシーツで統一されていて、現在の病院の白を基調としたカラールングとは違います。病院と言うより、ホテル化何かのような感じもしますが、ホテルでは、これだけ大勢の人間が同じ部屋に宿泊はしないでしょうが。

 
 
 細長い部屋の端には、祭壇があって小さなチャペルのようになっています。オテル・デューとは「神の館」という意味なので祭壇があるのはごく自然なのでしょう。病院を思わせる施設は、食器棚風のガラス戸棚に、所狭しと並べられた薬ビンくらいでしょうか。薬はガラス瓶に入れられていましたが、中国で同じような棚を見ましたが、こちらは引き出しの集合体でした。薬の形が、西洋医学と東洋医学では違うためこうなったのでしょう。建物の地下には、かつての遺跡のようなものがあるようで、その部分は床がガラス張りで上から見られるようになっています。また、ワインの醸造設備や数多くのイコンなども展示されていました。

 ボーヌへの入り口のディジョンは食の都と言われ、食べ物もワインも美味しい所と言われていますが、日本人観光客はあまり多くはないようです。ボーヌを訪れる日本字はさらに少ないのかもしれません。日本人の旅行は、まだまだパッケージが中心で、特にヨーロッパでは添乗員が引率するスタイルが多いようです。限られた費用と日数で人気のある観光地をバスを仕立てて駆け巡るのでは、とてもボーヌなどに寄り道するのは難しいのかもしれません。ただ、最近は、テーマのあるパッケージも増えたようで、「食をめぐる・・・」というようなコースでは取り上げられているようです。旅にはいろいろなスタイルがあってしかるべきでしょうが、毎度、全部お任せのパッケージばかりでは、旅の楽しみの半分を失っているような感じもします。かつては、自分の足で歩くための情報収集に多大のエネルーギーを要していましたが、ネットの普及した現在では簡単に手に入るようになったのですから。