世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

練馬寺町のお寺横丁のそばには緑豊かな遊園地や天然温泉があります

2014-08-31 08:00:00 | 日本の町並み
 伊勢神宮のお膝元には、おはらい町や河崎それに古市という古い町並みが残っていました。河崎はお伊勢さんの台所の町と呼ばれていましたが、明治以降は、廃物棄釈と伊勢神宮の膝元とおい地理条件から、すべての河崎町の中のすべてのお寺が廃寺となったそうです。廃寺の場合は、そこでお寺が途絶えてしまうのですが、江戸時代には、火事などが原因で、それまでお寺の在った場所から移転することも多かったようです。移転先でお寺ばかりをまとめて建てたことも多く、本願寺の寺内町とは違った寺町を形作ったようです。今回は、幾つかある寺町の中から豊島園の近くにある練馬寺町を紹介します。

  練馬寺町は、西武や地下鉄の練馬駅の北にある遊園地の豊島園の東にあります。この寺町は、実は江戸時代ではなく、関東大震災で被災をしたお寺が引っ越してきてできた寺町なのです。この寺町には11のお寺がありますが、実は田島山誓願寺という浄土宗ののお寺の塔頭で、複数の種類の宗派やお寺が集まったものではありません。塔頭は、快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院、林宗院で、豊島園にも通じる通りから東に入る道路の南北に並んでいます。通りの突き当りには広い墓所があり、江戸時代からの学者、芸術家、政治家などのお墓が並んでいます。

 
 
 
 十一ヶ寺は、それぞれ特色があり、春の桜の頃もきれいな花を見られる迎接院や、方形の屋根の上に小さな方形の堂が乗っている宗周院、お庭が見事なお寺もあります。その中で、九品院には蕎麦喰地蔵尊が安置され、願掛けや願成就の時にはお蕎麦をお供えするそうです。。

 
 練馬寺町を通り過ぎて西に入ると豊島園があります。遊園地というと、ディズニーランドが一人勝ちのような感じですが、都心の遊園地にしては緑が豊かで、春の桜や初夏のアジサイの群生はみごとです。豊島園という名称なので、豊島区にある遊園地と思われがちですが、あるところは練馬区です。豊島園の名前は、ここにあった練馬城の城主が豊島氏であったことに由来するそうです。

 豊島園のそばには庭の湯と呼ばれる天然温泉があります。そばを通る都営地下鉄を建設する際の地集測定で発見されたようで、地下1,500mほどから湧出しているのだそうです。庭の湯では地下鉄の調査の副産物での発見でしたが、温泉の掘削では掘る前に色々な調査が行われるようで、電気、磁気を利用した手法も使われるようです。電気的なものは300mの深度までの測定ですが、電磁波を用いたものは2,000mほどの深さまで測定できるのだそうです。自然や測定器からでた電磁波の伝わり方を測定して、大地の抵抗値の分布を見て、温泉の存在を推定するのだそうです。ただ、これとても当たるかどうかは、やってみないと解らないようで、意外と難しいのは足元の様子を観測することなのかもしれません。

東西に五千キロにも分布する世界遺産はシルクロードが初めてではないでしょうか(中国)

2014-08-24 08:00:00 | 世界遺産
 今年度に世界遺産に新たに登録された日本の富岡製糸場とトルコのペルガモンを紹介しましたが、お隣の中国でもシルクロードが登録されました。中国では、京杭大運河も新規登録されましたが、世界文化遺産は、1国で1年に1件しか新規登録できません。ルールー違反のように見えますが、カザフスタンとキルギスとの共同申請という裏技を使って認められたようです。今回は、中国部分で筆者が訪問した地域を中心に紹介します。

 シルクロードの世界遺産への登録地域は、その性格から東西に5千キロに分布しています。これまでに、世界遺産でこれだけ長い地域に分布するものは、シュトルーヴェの測地弧がありますが、これとても南北に3千キロ程度で全体で34箇所です。シルクロードでは全体で33箇所が登録されましたが、中国内では、その2/3の22箇所が中国にあります。かつて都のあった洛陽近郊に3箇所、西安(長安)近郊に6箇所、さらに敦煌とトルファン近郊に2箇所と集中し、その他は細長く分布しています。

 
 洛陽は、紀元前8世ごろに、長安から都を移され、その後も何度か長安などとの間で都が行き来した歴史の古い都市です。この洛陽の近くには、隋唐洛陽城定鼎門遺跡と漢魏洛陽城遺跡があります。隋唐洛陽城のほうは、市街地と重なっていて現在発掘調査が行われているそうです。一方の漢魏洛陽城のほうは、市街地の東外れにある白馬寺のさらに東に隣接し畑の中に土塁の一部が残っているようです。さらに、新安漢函谷関遺跡は、洛陽から快速列車で1駅の三門峡の近くの関所跡で、鶏鳴台と望気台の残骸が残っています。筆者は、残念ながら三箇所とも訪問していませんので、写真は漢魏洛陽城遺跡の近くの白馬寺と洛陽南部の世界遺産、龍門石窟を載せておきます。

 
 長安は、紀元前11世紀ごろに、西周の都として歴史が始まり、その後何度も都になり、わが国の平城京や平安京のお手本となりました。10世紀に興った五代により洛陽に都が移された後は、再び都になることはなく、14世紀に名称も西安に改められて現在に至っています。旧市街を囲むように明代に作られた城壁が残り、中心部分には15世紀に作られた中国で一二を競う規模の鐘楼がシンボル的に建っています。

 
 シルクロードの起点は、日本の正倉院という話もありますが、狭義の東の起点は西安で、城壁の西門から西に続く道路には、シルクロードのモニュメントが作られています。シルクロードを西進してインドに経典を求めて旅をした玄奘も西安が起点終点で、今回の登録になった大雁塔の前には玄奘の像が建っています。この大雁塔は、玄奘が持ち帰った経典を収めるための経蔵なのです。7世紀に土で建造されましたが、老朽化が激しく8世紀初頭に磚(せん、レンガの一種)で作り直され、火事に遭ったり、修理をされたりして現在に至っています。64mの高さがあり、最上階まで上ることができます。一方、小雁塔は8世紀に磚で作られ当初は88mの高さがありましたが、地震などで崩壊し、現在のものは43mになっています。頂上部を欠いていて最上階まで上ると、見晴台のような感じです。

 
 
 シルクロードの遺跡は、西安から西へ敦煌まで1,800kmの間に点々と残されていますが、この区間で途中下車は長城の西端の嘉峪関のみでしたので、一気に敦煌郊外の玉門関遺跡の紹介にとびます。玉門関は敦煌の北西90kmほどにある関所跡で、敦煌から砂漠の中を1時間半ほどひた走ってようやく到着します。周りには砂漠以外に何もない所に、25m四方ほどの巨大な土台がぽっつんと建っているだけです。玉門関と並んで設置されたのが陽関で、玉門関より手前に遺跡が残っています。こちらは、今回の登録の対象になっていませんが、烽火台の跡が丘の上に残っています。玉門関近くにある漢代長城跡と独立の世界遺産に登録されている敦煌の莫高窟の写真を添えておきます。

 敦煌は砂漠に囲まれたオアシス都市で、列車で移動をすると、人工物は列車のレールだけで延々と砂の丘が続きます。GPSによる位置の確認や、列車や車による移動手段がある現在でも移動は大変と思います。おそらく、通常のケータイも通じないのではないでしょうか。こんな砂漠を歩くか、せいぜい馬に乗って横断をしてインドまで仏教経典を求めて旅をした玄奘は強烈な意思を持った人物であったと思います。現在、日本に伝わっている経典の大部分は、玄奘のもたらした経典がもとになっているのではないかと思います。持ち帰った経典は大雁塔などに収蔵されているとのことですが、釈迦の教えはシンプルで、経典がそんなに膨大なるとは思えません。どうも、後世の人が仏教を複雑にしすぎたように思えてなりません。

伊勢の町並みは映画村のようなおはらい町より河崎の妻入り屋根の方が存在感があります

2014-08-17 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は、伊勢神宮の内宮と外宮を中心に紹介しましたが、今回は伊勢の町並みを紹介します。

 
 
 
 伊勢の町並みで最も観光客が集まる町並みは、内宮参道に伸びるおはらい町とおかげ横丁です。ただ、この町並みは純粋に古い町並みが保存されていたわけではなく、1990年代に観光客向けに古い町並みが再現されたものです。おはらい町は江戸期からの伝統的な町並みでしたが、1970年頃には新しい家屋が増え、観光客は宇治橋前の駐車場に直行して、おはらい町には立ち寄らなくなっていました。この状況に危機を感じた地元のお土産屋さんが中心となって、現在のような町並みが再生したそうです。ただ、古色を出した新しい建物が多いせいか、通りにはお土産屋ばかりで、テーマパークか映画のオープンセットのような感じがします。

 
 
 
 
 正真正銘の古い町並みが残されているのは、伊勢市駅の北500mほどにある河崎(かわさき)の町並みです。15世紀ごろから、河崎は勢田川の水運を利用した物資の運搬により伊勢の市場町の役割を果たしていました。このため、町並みは川に沿って伸びていて、板壁妻入りの家々が並ぶ光景を対岸から眺めるのは絵になります。川沿いの道路の側からも、妻入りが連続する、のこぎりの歯のような屋根の連続は、他の町ではあまり見かけない光景です。伊勢神宮が平入りであることから、これに遠慮をして、伊勢には妻入りの家屋が多いのだそうです。

 
 もう一箇所は、町並みというほどの広がりではありませんが、五十鈴川駅の西300mほどにある古市です。河崎は市場町でしたが、古市は色町の名残で、かつての遊郭が旅館になって残されています。斜面に張り付くように建てられた建物は、このブログでも紹介した台湾の九份の坂道のような風情です。ただ、この建物はバス道路から少し引っ込んでいるので気をつけないと見落としてしまいます。また、自転車で廻ると、古市あたりは標高が高くなっていて、押して上る羽目になりますが、通り過ぎた先は当然下り道で、快適に走れます。

 おはらい町というと赤福を思い起こします、また赤福というと、赤福と似た御福餅が新幹線の車内販売で売られたおることを思い起こします。新幹線は伊勢を通っていないのになぜでしょうか。新幹線といえば、大部分のトンネルの中でも携帯電話が使えるようになっていますが、これは携帯各社がトンネル内にも電波を発射しているからです。携帯電話が普及する前は、列車公衆電話しかなく、車外から乗客に電話をする場合は、付加料金による呼び出しサービスというものもありました。現在は、地球上のどこにいても、ほぼ電話がつながり、便利になりましたが、どこでもつながるのが幸せなのか?つながらない場所が残されていることの方が幸せなのか?どちらでしょうかね。

サンタクロースゆかり以外特色の少ないバーリですが4箇所の世界遺産への出発地です(イタリア)

2014-08-10 08:00:00 | 世界の町並み
 600m野断崖のあるリーセフィヨルドへのフェリ-が出ているノルウェー第4の町がスタヴァンゲルでした。ノルウェーでは、フィヨルドによる入り江が数多くあるため、路線バスもそのままフェリーに乗り込みますし、乗船が長ければ、バスの乗客も船室で休憩します。日本では、高速道路の料金を無料にする政策のあおりもあって、フェリーの航路が随分と減ってしまいましたが、ヨーロッパでは数多くの国際航路のフェリーも健在です。今回は、アドリア海を挟んだ対岸のドゥブロクニクやスプリト、さらに遠くギリシャまでのフェリーも出航するバーリの町を紹介します。

 バーリは、イタリア半島の東南、長靴の足首の後ろに位置する人口32万人ほどの都市です。古くはギリシャの植民地で、ローマの統治下になってからは、地の利を生かした商業の中心だったようです。イタリア半島西側のローマから特急列車で半島を東に横切って5時間余、半島東側のアドリア海に面した港町です。クロアチアやギリシャへの船が出航する港というだけでなく、世界遺産のアルベロベッロやマテラに向かう列車の起点という、海路も陸路も交通の要所です。

 バーリの市街地は、東西に広がり、北にアドリア海を望んでいます。鉄道駅はFS以外に私鉄の3路線が共用していて、アルベロベッロもマテラもこの駅からそれぞれ別の私鉄に乗車します。港は、駅の北500mほどの場所にあり、この港の周辺に幾つかの観光施設があります。

 
 
  一つは、13世紀に築かれてその後増築を重ねられたノルマンモ・スヴェヴォ城跡です。海に近い所に、城壁が続いていて、チュニジアのチュニスやスファックスにある城壁を思わせます。こ城跡のすぐ東側にはロマネスク様式のサン・サビーノ大聖堂があり、ファサードのバラ窓が印象的です。このあたりは、民家が立て込んでいて、聖堂も民家の建物越しに姿を現すといった感じです。その町並みの中で、神戸のルミナリエで見るような電飾のパネルの部品を乗せたトラックにお目にかかりました。そういえば、ルミナリエはイタリアからの輸入だったんです。

 
 
 サン・サビーノ大聖堂を北へ港の方角に200mほど行くと、サンタクロースのモデルと言われているニコラオスの遺体が安置されているというサン・ニコラ大聖堂があります。遺体は、当初トルコのミラに葬られていましたが、11世紀にセルジュク朝に征服された時にバーリに持ち去られたのだそうです。サンタクロースの祝福を受けるためでしょうか、訪問した時には結婚式の真っ最中でした。

 フェリーは、車を乗せるため、大きな船が多く、さらに車の航送料の収入があるせいか、旅客運賃も比較的安く設定されてるようです。スウェーデンとフィンランドを結ぶフェリーでは、13時間ほどの乗船で海の見える部屋が1万円ほどでした。飛鳥Ⅱとほぼ同じ大きさの巨大船で、プールこそついていませんが、クルーズ船顔負けの設備でした。日本でも、北海道に向かうフェリーは乗船時間も長いせいか、船内の設備もなかなか立派で、劇場まで持っている船もあります。外洋フェリーは、陸地から離れると、通信途絶をしてしまいますが、衛星を使ったネット接続を船内WiFiで提供する船も現れたようです。まだ携帯電話はつながらないようですから、雲隠れするにはいいかもしれませんが、やがて航空機も含めて、居場所を追いかけられる日が来てしまうかもしれませんね。

伊勢神宮は、別宮の参拝を含めて自転車で廻るのが快適かもしれません

2014-08-03 08:00:00 | 日本の町並み
 備中国分寺の近くの最上稲荷は、明治の廃仏毀釈を免れ、お寺と神社とが神仏集合した形式を残すものでした。最上稲荷の場合は、妙教寺というお寺に稲荷神社が付属しているように見えますが、神社に付属する神宮寺の形も数多く見かけます。福井県小浜に有り、お水取りの時に「お水送りの儀式」が行われる若狭神宮寺は良く知られていますが、伊勢神宮にも神宮寺が存在します。8世紀に創建の福満山神宮寺で鈴鹿市にありますが、今回は鈴鹿市の神宮寺ではなく伊勢神宮そのものの周辺を紹介します。

 
 
 伊勢神宮は、天照大神を祭る内宮と豊受大神を祭る外宮の両正宮を中心に、別宮、摂社など付随する神社125の総称です。別宮は、正宮の次に尊いとされ、全部で14あり大部分が内宮、外宮の境内にありますが、3つが伊勢市内に有り寄り道が可能です。内宮の別宮、月読宮は内宮から近鉄の五十鈴川駅に向かう途中の駅の手前にあり、もう一つの倭姫宮は、五十鈴川駅を通り越して神宮美術館のそばにあります。一方、外宮の別宮の月夜見宮は、伊勢市駅の西側、外宮の北側にありますが、字は違っても内宮の月読宮とは同じ読みの「つきよみのみや」なのです。この二つの「つきよみのみや」に参拝をしましたが、神域には木々が生い茂り、内宮や外宮に比べて人が少なく、崇高な感じが増幅されるようでした。

 
 正宮の内宮は、伊勢市駅や宇治山田駅のある中心街から南東に3kmほどの場所にあります。宇治浦田町の交差点から続くおはらい町を通り抜けて五十鈴川に架かる宇治橋を渡ると、町の喧騒を遮断しているような感じがします。外宮には無いこの五十鈴川の存在は、ここから神域!と参拝する人に気持ちの切り替えを促す効果があるように思います。内宮は石段を上がった先にあって、この石段が観光客の集合写真を撮るための格好の場所になっています。昨年の遷宮で、現在の社殿は左側、右側にある古殿地には旧来の社殿がまだ残っている感じでしたが、塀と樹木に阻まれて見えませんでした。

 
 一方の外宮は、ビルが建て込む町並みから、小さな流れを越えると突然に原生林の神域になるところは、明治神宮と似ているかもしれません。外宮も、現在の社殿は左側で、右側の古殿地は社殿が平地に建っているため、塀の先に古びた社殿の屋根がちらりと見えます。

 
 
 外宮の神域に隣接する町並みには、満金丹の古風な店舗、対照的にボンヴィヴアンはスペインを思わせるオレンジ色が印象的です。他にも、伊勢神宮で使われる和紙を作る伊勢和紙館や、木造3階建ての旅館などが並んでいます。この旅館は、修学旅行生が利用したのでしょうか。

 式年遷宮の本来の目的は、古くなったお社から新しいお社に神様をお迎えするということだそうです。結果的に、20年ごとに建築作業が繰り返され、宮大工の技術伝承ができたようです。神明造の技法は、遷宮によって継承されたのですが、巨大な木造建築の技術の伝承はままならなかったようで、根来大塔のような多宝塔は、もはや木造では作れないそうです。IT分野でも古い技術の継承は、あまりうまくいってないように思います。通信分野では、過去に作られた機器が残る限り、後から作られた機器には互換性が必要なのですが、次々と現れる技術の導入が速くなった割りに、古い機器の淘汰が進んでいないことが多いのです。古い機器の情報は、人が持っていることも多く、この人たちが退職すると、断絶してしまいます。古い機器は早く捨てろ!ということでしょうかね。