世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

お城、京町家それに教会と色々な建築物が楽しめる二条通です

2011-11-27 08:00:00 | 日本の町並み
 琵琶湖西岸に旧街道沿いの古い町並みを残し、百貨店の高島屋の名前の由来となった町が高島町でした。この高島屋の発祥の地は京都烏丸松原ですが、烏丸通りを北へ二条まで行って少し西に入ると、三越の前身である越後屋京都本店の跡があります。今回は、二条城あたりから二条通を東に、瓦町通りの手前あたりまでを紹介します。

 京都は、中国の都市の作り方を参考にしたこともあり、東西と南北の通りが直交して碁盤の目の町並みが広がっています。通りの名前を順に記憶するわらべ歌があり、南北の通りの歌は途絶えたものを資料から再現したそうですが、東西の通りの歌は口承で現在まで伝えられています。その歌は北から南に「丸竹戎二押御池(まるたけえびすにおしおいけ) 姉三六角蛸錦(あねさんろっかくたこにしき) 四綾仏高松万五条(しあやぶっこうまつまんごじょう)・・・」と続きます。高島屋発祥の地は4節の「松」の松原、越後屋京都本店は1節の「二」の二条ということになります。

 
 二条と聞くと、一番に思い出すのは二条城で、現在の二条城は徳川幕府が京都のにらみを利かすために建てたものです。天守は落雷で失われていますが、世界遺産にも登録されている二の丸御殿が残されています。この二条城は、真夏の頃に夜間解放され、隅櫓がライトアップされますが、今年は二の丸御殿をキャンバスに見立てた光のオブジェが見られました。また、同時期には、一条戻り橋までの堀川沿いに飾られた七夕が人を集めています。

 この二条城の南側に二条陣屋と呼ばれる建物があります。公開時間が限定され、事前予約も要るため、筆者はまだ見学していないのですが、幸運にも見ることができた人の言では、伊賀の忍者屋敷よりずっと面白い仕掛けが沢山残っているとの事です。

 
 さて二条城のある堀川通りから二条通を東に入っていくつかの南北の通りと交差して室町通まで来ると越後屋京都本店記念庭園があります。通常は非公開で、門とその前に建てられた石柱しか見ることができませんが、塀越しに庭園の一部を覗き見することもできます。

 さらに東に進んで、烏丸通りを横切って柳馬場通りを北に上がったところに京都ハリストス正教会が建っています。ハリストス正教会は函館のものが有名ですが、京都のものが最古の建物だそうです。京都のど真ん中に、ねぎ坊主の屋根を持った下見板張りの木造ビザンチン建築が存在することはあまり知られていないようですが、なかなか見事です。







 
 さらに東に、堺町通りまで行って北に上がると、キンシ正宗堀野記念館があります。キンシ正宗の発祥の地で、現在は伏見に引っ越してしまいましたが、裏庭にはかつて酒造りに使われたであろう井戸もあります。酒造りの資料に加えて、内部の様子を見学できる京町家の一つです。

 
 二条城から東に二条通を歩いてゆくと、道沿いに京町家に古風な看板やのれんを掲げた、いかにも伝統のありそうな商家が現在も営業を続けています。中には、折りたたみ式の「ばったり床机」のあるお店もあります。御池通りや四条通りのように広くって路線バスが走り回る道に比べて、条の番号が付いているにも関わらず狭くって人通りも少ない二条通は京都の風情を楽しめる散歩のための路地の一つかもしれません。

 フランスでは、ミネラルウォーターの源泉の権利を矢継ぎ早に手に入れた企業があります。美味しい水だけは、工業的に生産できない、という理由からだそうです。日本酒の美味しいところは、例外なく水のおいしいところで、灘の宮水はその代表格です。純水に含まれている不純物の微妙な量が味を左右しているようです。ITの発達で、色々な感覚がセンサーにより電気信号に変換できるようになりましたが、味覚に関しては、まだまだ人間の舌が最も優れたセンサーのようです。嗅覚と同様に、電気信号から、元の感覚量に戻すのは簡単ではないようです。

平遥古城の内側には昔ながらの街並みと碁盤のような道路とが広がっています(中国)

2011-11-20 08:00:00 | 世界遺産
 小高い丘の上に城壁に囲まれた中は迷路のような町がスペインのトレドでしたが、中国では城壁の中の道路は碁盤の目のように直交していることが一般的です。今回は、これらの町の中で、城壁、町並み共に明代初期に作られた形態がほぼそのままの姿で保存性されていることから世界遺産に登録されている平遥を紹介します。

 平遥は、中国中央部の太原の南南西80kmほど、1.5km四方の城壁に囲まれた町です。北京からは太原まで特急列車で3時間余り、太原からは普通列車に乗り換えて1時間半ほど、バスでは2時間半ほどと、ちょっと足の便の悪い場所にあります。通常は、閑散とした町なのでしょうが、筆者が訪問したのは、ちょうどメーデーの連休の時だったので、太原からの移動も大変で、城壁内の細い道路にも観光客があふれていました。

 
 町を取り囲む城壁は、基底部の幅が10m前後、上部の幅が5m前後、高さは10mほどあって、城壁に切れが無いので、その上を一周することもできます。城壁に開けられた門の上には楼閣が乗っており、中国の他の城壁都市と同じ構造です。日本のお城では、石垣がいったん切れて、石垣とほぼ同じ高さの城門があるのが普通のようです。一方、中国では、城門は石垣に開けられたアーチ状の空間で、門の上にも城壁が連続しています。日本の城郭に照らしてみると、隅櫓が、城門の上に乗っているといった感じです。城壁に上って、内側を眺めると、甍の波が何処までも続いており、高い建物がまったく見当たりません。


 近代的な建物がまったく見当たらない城壁内にも、かなりの数のホテルがあります。古い建物を利用したもので、内装などをいじって宿泊できるようにしたもののようです。筆者の宿泊したホテルは、奥に長い敷地の、通りに近い部分にレストランがあり、そこを通り抜けて奥に進むと中庭を囲むように2階建ての木造建築があります。廊下かから、個室に入ると、奥行き方向に土間があって、その土間の横に、高さが70cmほどもある4畳ほどのプラットホームがあります。ここに、布団を敷いて眠ることになりますが、和風旅館の廊下と和室の間に段差があって、その間の仕切りを外したといった構図でしょうか。このプラットホームの奥にトイレとシャワーの部屋が作られています。

 
 高い建物がほとんど無い城壁内で、唯一高い建物が、ほぼ中央あたりにあり、その下で市が開かれたという市楼です。上に上ると、城壁と同様に、さえぎるものが無いので遠くまでよく見渡せます。暗くなってから上ると、表通りの光の帯の先に城門の上の楼閣が暗闇の中に浮かび上がっています。周りに光のあまり無いところなので、この景色はとても幻想的で美しく見えます。

 
 平遥の町は、票号と呼ばれる金融業で栄えた町で、全中国の半分以上の本店が平遥に置かれた金融の町でした。辛亥革命で、多くの票号は債権回収ができず倒産してしまったようですが、公開されている古民家の中でかなりの数が、票号の建物です。通りに面した間口は狭いのですが、奥が深く、門を抜けると、その奥には、また門があるという構造が共通です。北京の故宮でも、門を抜けると、また門が見えてくる、まるでマトリョーシカのように門が現れます、中国建築の基本ルールなのでしょうか。

 票号の旧居だけでなく、廟や道教寺院、それに古衛署などにも入場できます。これらの敷地は、古民家群のようにうなぎの寝床風ではなく、方形に近いものが多かったように思います。衛署というのはかつての県庁の跡で、全国で最も保存状態が良く、数多くの建物が整然と並んでいます。

 平遥の票号は19世紀に活躍し、取引の決済に現金に換えて為替サービスも提供していたようです。現在では、異なる銀行間の決済も瞬時に完了してしまいますが、貧弱な通信環境しかなかった頃の票号ではどのようにして決済していたのでしょうか。また、現在ではWebを利用して、銀行に出向かなくても、簡単に資金移動ができて、ずいぶんと便利になりました。しかし、使われているインターネットは、研究機関や大学など善人が使うことを前提に作られたものです。犯罪者の利用に対して、脆弱な面を持つことは否めません。便利さの裏には、危険が潜んでいると、セキュリティ対策などに心して利用する必要があるのでしょう。

現役で使われている平入りの家並みが街道沿いに続く旧高島町です

2011-11-13 08:00:00 | 日本の町並み
 九鬼氏の城下町が明治期にグンゼの企業城下町となったのが京都府の綾部でした。ある企業がかつての城主のような存在となっている町はかなり多いようですが、企業の拠点は存在しないにもかかわらず、その企業の名前の一部になっている町もあるようです。その一つが、高島市で、今回は旧高島町周辺を紹介します。

 高島町は、百貨店の高島屋の名前の起源になっている町ですが、高島屋創業の地は京都烏丸で高島町ではありません。創業者の養父の出身地が高島町だったことから命名されたようです。さて、その高島町は、滋賀県の琵琶湖西岸のほぼ中央に位置し、2005年に安曇川町などと合併して滋賀県第2の面積の高島市となっています。町の骨格は、織田信長の甥が築いた城を中心とした城下町で、江戸時代には北国街道や琵琶湖の舟運の要として繁栄したところです。
 実は、高島町を訪れたのは10年ほど昔で、さらに湖西を北から南に途中下車をしながら訪問した町の一つの町でした。したがって、高島町の記憶の詳細はかなりあやしくなっているので、内容の誤りがあってもお許しください。また、10年の間に、高島町から高島市になるなど、状況そのものも変わっているかもしれません。町の雰囲気は、白壁の土蔵造りに格子のある平入りの家並みがずいぶんと多かったという印象です。
 古民家のいくつかは「びれっじ」の看板が掲げられていて、お休みどころなどになっています。当時は2軒ほどでしたが、現在は4軒にになっているそうです。京都の町家では、間口税のために、間口が狭く奥に深い「うなぎの寝床」風の町並みが多いのですが、高島町では、間口の広い家々が多いように思います。残っている民家が、街道沿いの商家だったのかもしれません。

 通りに面した民家は、造り酒屋であったり、普通の商店であったりします。造り酒屋があるということは、ここには良い水源があるという証拠で、比良山系の伏流水が、このあたりに湧出するようです。川端と呼ばれる炊事場システムによってこの自然の恵みを享受され、この川端と呼ばれる水場を巡回するボランティア・ガイドが案内するツアーもあるようです。


 「びれっじ」となっている古民家以外は、博物館的なものではなく現役の民家であるところも好ましい町並みです。博物館になってしまった古民家では内部の見学ができるなどの利点がありますが、なにか遺体を見るような感じがします。それに比べて、現役の民家では、内部の見学は無理ですが、生きている町の活気のようなものを感じます。

 このような古民家が続く高島町ですが、駅前に異様な像が立っていて驚かされます。JR高島町駅から西に10kmほどの山麓にガリバー青少年旅行村というのがあるようで、その看板的な像です。ガリバー旅行記にちなむ宿泊施設を伴うテーマパークで、村内には旅行記にちなむ小人の国や大人の国など5つの国がつくられているそうです。

 ガリバー旅行記は、小人国の部分が有名になり、子供のためのお伽ばなしのように扱われています。しかし、作者の意図はお伽ばなしでカモフラージュをした、イギリス社会に対する強烈な風刺を含んだ物語です。作品が書かれた18世紀は、作者の出身地のアイルランドは、イギリスから一方的に搾取されていました。そのイギリス社会に対する風刺文学がガリバー旅行記で、第4編までを丁寧に読めば巧妙に仕込まれた風刺が分かるのだそうです。巧妙に仕込まれたといえば、コンピュータのウィルスもスパイウェアもどんどん巧妙になり、アンチ・ウィルス・ソフトとのイタチゴッコが続きます。仕込まれるのは風刺だけにして欲しいものです。

針葉樹林と青い湖の透明感のある景色がアクセスの不便さを忘れさせるコリ国立公園です(フィンランド)

2011-11-06 08:00:00 | 世界の町並み
 シャガールのデザインした真っ青なステンドグラスが海の底に居るような感覚になるザンクト・シュテファン教会があるのがフランクフルトからも近いマインツでした。海の底ではなく、真っ青な湖水の上に、数多くの島がまるで浮遊しているかのような幻想的な風景を作っているのがフィンランドのコリ国立公園です。今回は、町並みではなくって森と湖の自然がてんこ盛りのコリを紹介します。

 コリ国立公園は、フィンランドの首都のヘルシンキの北東450kmほど、特急列車を5時間ほど乗った北カレリア県の県庁所在地ヨエンスーの北方に広がる森と湖の国立公園です。ここはシベリウスが交響詩「フィンランディア」を着想した場所といわれています。公共交通機関で訪問するにはきわめて不便なところで、かなり苦労をしますが、その苦労に報ってくれるだけの自然が広がっています。

 コリへのアクセスですが、楽なのはホテルとヨエンスーとの間の乗り合いタクシーです。湖の西の丘の上にあってハイキングコースにも近い場所にあるホテルのソコス・コリが手配してくれます。
 筆者は復路に、この乗り合いタクシーを利用しましたが、往路では、ヨエンスーからさらに列車を1時間半ほど乗ったリエカから、湖をjカー・フェリーで渡ってホテルの麓に至るものでした。息子と同行の旅行でしたが、彼が事前にこのルートを調べてくれていたようです。リエカまでの列車もフェリーも、その運行頻度が極めて少なく、ヘルシンキを朝に発って、このルートでの移動が現在も可能かは分かりません。しかし、ホテルからの見下ろす視点とは違った湖の景色が楽しめるコースで、検討に値するルートの一つです。

 フィンランドには、コリに限らず多くの湖水があって、地図を眺めると、まるでレースのような感じを受けます。湖水の数は正確には把握できないそうですが、湖水地方と呼ばれる南東部だけで5万を越えるとのことです。この湖水の多さは、人間の移動にとっては行く手を阻む障害になるようです。日本人の感覚では、冬になると積雪のために移動が不便になると考えますが、フィンランドでは、氷結した湖面を横切れる冬のほうが移動には便利なのだそうです。

 ソコス・コリ・ホテルは、コリで唯一の近代的なホテルで、コリ国立公園内での宿泊はB&Bを除くと他には選択肢が無さそうです。ホテルの周りには、湖畔とを結ぶリフトと博物館があるくらいで、あとはハイキングコースのある森がどこまでも広がるばかりです。足の便のきわめて悪いホテルですが、部屋からの眺望はすばらしく、針葉樹林の向こうに真っ青な湖面に緑の小島を浮かべる湖が広がっています。温帯の景色とは違って、なにか透明感があって、きりっとした感じがします。緯度が63度と北極圏に近い場所に、夏至の頃に訪れたので、、白夜のような景色のようでしたが、カーテンを閉めて寝てしまっていました。

 
 ホテルを起点とするハイキングコースは、湖水を見下ろし針葉樹林や草原の中を巡るもので、景色もさることながら、高山植物の花々も楽しめるコースです。コースの高低差も小さく楽に歩けますが、そもそもこの丘自体がさほどの標高が無いようです。緯度が高いので、温帯の高山の様相を見ることができます。



 丘の上からリフトに乗れば、苦労をせずに湖畔に降りていくことができます。冬場のスキーリフトを観光用に運転しているようですが、気の毒なくらい乗る人が居ませんでした。







 標高差を稼ぐ乗り物がもう一つありました。ホテルの駐車場からホテルのそばまで、単行のケーブルカーのような乗り物があります。2本の幅の広いレールの上をケーブルに引かれて上っていきますが、車輪とキャビンとの間に三角形の部分がありキャビンを水平に保っています。表面を蛇腹状の覆いが被っていますが、途中で斜度が変わる時に蛇腹部分が伸び縮みするさまが面白いケーブルです。

 フィンランドといえば、携帯電話の雄であるNokiaを忘れることはできません。世界にある携帯電話の実に3台に1台はNokia製品というシェアの高さを誇っています。ただ、このところのスマートフォンのブームには乗り遅れた感じで、徐々にシェアを減らしているようです。フィンランドで携帯電話が普及した理由の一つは、森と湖ばかりで人口密度が低い国土の通信では、有線の固定回線を張るより、無線でつないだほうがコストがかからないということのようです。携帯電話に限らず、駅や電車の中などで無料の公衆WiFiが自由に使えるそうです。一方、日本では、無線の携帯電話が有線の通信網に比べて桁違いに高いのが気になります。線が要らない通信の携帯電話なのに何故に高いのでしょうか。