世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

五島列島・福江島に数多くある教会はそれぞれ個性的ですが信者に支えられ土地に根付いてきた歴史を持つようです

2022-08-28 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎市街地と外海のキリスト教関連の場所を紹介してきました。長崎県には世界遺産にも登録されているキリスト教の殉教の場所が数多くありますが、外海の信者の一部は、遠藤周作記念館の前に広がる角力灘を渡って五島列島に逃れたといわれています。五島列島には世界遺産に登録された集落や教会がありますが、五島列島には登録はされていませんが数多くの教会が建てられています。今回は、五島列島の中心の福江島にある教会を紹介します。

 
 
 福江島は、五島列島の西南端にある最大の島で、長崎の市街地の西100kmほどの離島です。飛行機では、長崎空港からプロペラ機で30分ほどの福江空港に着きます。一方船は、長崎港からのフェリーは3~4時間、長崎からは直行ですが帰りは奈留島などに寄るので多少時間がかかります。筆者は屋久島を訪問した時と同様に、飛行機で行って船で帰りましたが、視点の違う景色が楽しめました。空路で長崎入りmp場合や、長崎市にヨロ道する場合は2種類の足の動線をうまく使いこなすと便利です。

 
 
 福江教会は福江市内のほぼ中央当たりにあってr、明治期に久賀島から福江に移り住んだ信徒が病院を改築した教会でした。その後、昭和36年に現在の教会が着工され翌年に献堂されました。ところが完成から5か月語に福江市内の大部分が焼失する退化が起こりましたが、教会堂は奇跡的に難を逃れ、焼け跡建つ真っ白な教会は復興のシンボルだったそうです。福江教会の関連施設として、近くには慈恵院が発展した聖マリア病院が建っています。遠くからでも病院の屋上のドームの前に立つマリア像を見ることができ、キリスト教系の病院だとわかります。

 
 
 明治期に来日して福江教会を建てたペリュー神父は1895年に井持浦に教会を建てその5年後に敷地内に日本で初めてのルルドの泉を創建しています。井持浦教会は福江島の南西端で、ちいさな半島の反対側の南には大瀬崎灯台があり、海の眺めの良い場所です。

 
 
 ペリュー神父が井持浦教会の後に建てたのが堂埼天主堂で、現在はキリシタン資料館として解放されています。井持浦教会とは、島の反対側の北東端に近い入り江の奥に建てられています。緑の中の赤レンガ造りの聖堂は、なかなか美しい姿を見せています。その建築には数々の教会建築を手がけた大工棟梁の鉄川与助もかかわっていたそうですが、端正なレンガ造りの教会は与助の関与を思い浮かべます。

 
 この鉄川与助が改築に携わった教会が、堂崎天主堂の西に建つ水ノ浦教会で、1880年に建てられたものが、老朽化のため1938年に改築されたものです。こちらは真っ白な木造建築で、丘の上に建つ姿が青空をバックに目立ちます。与助晩年の作で、リブ・ボールド天井を持つ最後の建築作品と言われています。

 十字架はキリスト教のシンボルとして、遠くからでも教会の存在を示したり、信者の証明になっています。しかしよくよく考えてみると、十字架ってキリストの貼り付け台がシンボル化したものなんですね。どこか残忍さと、復習の怨念が垣間見えるような気がします。本来は平和で人を救うのが宗教と思いますが、原始仏教を除いて殺戮に結びつくように思います。力づくで教義を押し付けた結果、意に反する科学者を弾圧しました。未だにダーウィンの進化論を否定する人々も多いそうですが、現在のIT文明とどのように整合をとっていくのでしょうか。

セゴビアの車が行きかう新市街の道路の先、ビルの上に突如現れる水道橋は、さすがに大きくって存在感があります(スペイン)

2022-08-21 08:00:00 | 世界遺産
 ジャイプールの郊外の丘の上に綺麗なお城があるのがアンベール城でした。未だにマハラジャが住み続けているというのも驚きです。わが国では、少し前まで国宝の犬山城が個人所有で、城主がいらっしゃったのですが、税の負担が大きくて法人化せざるを得なかったそうですが、インドの税制ってどうなんでしょうかね。ヨーロッパでも貴族階級が健在で、個人所有の宮殿がかなりの数存在するようですが、今回紹介するスペインのセゴビアにあるアルカサルは、個人の持ち物ではないでしょうが、ディズニーの白雪姫のお城のモデルになりました。アルカサルを含む旧市街が世界遺産となっているセゴビアを紹介します。


 セゴビアはスペインの首都のマドリッドの北0km程の世界遺産の街です。マドリッドからバスで1時間ちょっと、で新市街のバスターミナルに付きます。列車だと2時間近くかかりますが、これは筆者が訪問した30年前の話で、最近は高速鉄道が開通して30分程で行けるようになっているようです。筆者は往路はバス、復路はローカル鉄道に乗りましたが、鉄道駅は旧市街から1.5kmほどあって、夏の暑いときに閉口した覚えがあります。ただ、高速鉄道の駅はもっと遠く5kmほどもあって、とても歩ける距離ではなさそうです。駅から市内バスに乗り継ぐ時間ロスを考えると、鉄道が好きな方は別として、高速鉄道でのアクセスという解はなさそうです。ただ、ローカル線は本数は少なくバスより時間がかかりますが、違った景色が楽しめます。鉄道駅もこじんまりながら、綺麗な建物です。


 
 

 
 
 バスターミナルから途中のサンミリアン教会や裁判所を通り過ぎた先のビルの隙間に巨大な水道橋が見えてきます。、高さは0mほどあって、新市街の道路をまたいで旧市街に通じています。80km程離れたところから水を運ぶ役目を持チ、水道橋部分の長さは00mほどあリ、現在も水を流すことができるのだそうです。水道橋が旧市街に接するところに向けて階段があり、標高差30mを上ると旧市街の町並みが広がる丘になります。

 
 
 旧市街の丘は南北が300m、東西は600m程の楕円形をしていますが、この丘の上には2つの有名な建物があり、一つは大聖堂で、もう一つはアルカサルです。大聖堂は中央の南寄りに建っていて、250年近くもかけて18世紀に完成したゴシックの教会堂です。カテドラルの貴婦人という通商を持っていますが、ちょっと威圧的な感じもします。一方のアルカサルは、丘の西の端にへばりつくように建っています。900年の歴史がある優美な姿は、白雪姫のお城にふさわしい姿をしていますが、なかなか全貌を見るのは難しく、丘を下って西北側から眺めるのがベストのようです。

 
 旧市街には、これらの他にも塔の美しいサン・エスティバン教会や町並みそのものが見ごたえがあります。また旧市街に建っているのではなく、旧市街から見下ろすラ・ベラクルス教会は荒野の中に孤高に立っているという感じがします。ただ筆者が訪れたのは真夏、海から離れているセゴビアの暑さは厳しく町並みの散歩はかなりこたえました。さらに、名物のお皿でも切り分けられるという名物の豚の丸焼きも、食べ損ねました、昼食は早くて午後3時からなのだそうです。

 アナログ耳朶に作られた白雪姫などディズニーのアニメの制作では、生の人間による実写版を作って、それを元に絵にしていたそうです。金にものを言わせて作ったという感じですが、実写が元ですから動きはスムーズでした。一方、我が国の黎明期のアニメは、人手によって原画からコマ分解した絵を描いていたそうです。動きが不自然なところが、かえって味があったのかもしれません。現代はアニメ全盛で、アナログ時代のように手間暇かける時間はありませんから、原画や背景ができると、コンピュータによって動きのあるコマに落としているそうです。ゲームに使われる画面も同様の手法でしょうが、そこの浅い動画が氾濫しているように思います。

外海の出津教会に赴任したフランス人のド・ロ神父は、神父としてだけでなく農業、土木、医療、建築など多方面の技術を併せ持つマルチな人物でした

2022-08-14 08:00:00 | 日本の町並み
 江戸時代の始まる前後に数多くのカトリック信者が処刑され殉教の地となったのが長崎でしたが、江戸末期に隠れキリシタン信者の発見の舞台となったのも長崎の大浦天主堂でした。信徒発見で大浦天主堂に名乗り出たのは長崎の浦上の信徒と言われていますが、この隠れキリシタンは長崎周辺などに数万人の規模で板とされますが、その中でも長崎市北部の外海には5千人規模の信者が居たといわれています。今回は世界遺産を構成する地域の一部にもなっている外海を紹介します。

 外海は長崎の市街地から北に直線距離で10kmほど、2005年までは外海町でしたが、現在は長崎市の一部となっています。ただ、長崎市の一部とは名ばかりで、路線バスは角力灘に落ち込む断崖絶壁に張り付いた曲がりくねった道を道を約30km、1時間ほどもかかる場所です。かつては、この道路すらもなく船でしか行かれなかったそうです。外界から隔てられた閉鎖性の高さが、信者の潜伏に都合がよかったことは、平家の落人伝説の山里と似ているかもしれません。また、キリシタン信者にやや寛容であった佐賀藩の飛び地に近かったことも影響しているそうです。

 
 
 出津(しつ)教会などが建ち、川沿いに平地が少し開けている出津地区の手前の、断崖の上には遠藤周作文学館が建っています。遠藤周作の原点となった「沈黙」の舞台となった外海に周作の遺品、原稿それに膨大な蔵書がなどが展示されています。沈黙の中に「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」という有名な記述がありますが、文学館の向こうには、碧い角力灘が五島列島まで続いています。この文言は、出津の集落の丘の上に自然石に刻まれて置かれています。ここからの角力灘も、どこまでも碧い海が続いていました。

 
 
 外海の中心となる場所が出津文化村の出津川が角力灘に流れ込むあたり、小さな漁港と集落があるところです。遠藤周作文学館から急な坂を降りきったところで、丘の上の出津教会に向かって、手前にはマカロニ工場跡とド・ロ塀、旧出津救護院、ド・ロ神父記念館と続き上りきったところに出津教会堂があります。ド・ロと言っても泥ではなく、幕末から明治にかけて長崎で活躍したフランス人の神父さんです。

 ド・ロ神父は明治初頭に出津教会の司祭として赴任し、当地の人々が生活に困窮しているのを助けるために福祉施設や製造施設を作りましたが、マカロニ工場跡はその一つです。この工場の前にあるのがド・ロ壁で、それまで日本で使われていた石垣の接着剤に雨に強いものに置き換えた丈夫なもので、この技術をもたらしたド・ロ神父の名前を冠したものです。この近くには、子供が腰にまつわりついた泥神父の像が立っています。救護院や記念館には神父にまつわる展示がされており、救護院の二階は小さな教会になっていて、シスターが弾いてくださったオルガンが印象的でした。

 
 丘の頂上には出津教会が建っていますが、通常見かける教会とだいぶ雰囲気が違います。平面の形は建てに長い長方形で、袖廊はなく、さほど高くない建物の上には三角形の屋根が乗っています。教会堂にしては珍しい木造平屋で、白漆喰で塗り固められ青空のもとに白く輝いてています。ゴシック建築のような威圧的な高さは無く、風の強い外海の風土と信者の心に寄り添う心が現れたものと思います。低い建物ですが、建物の前には別に鐘楼の塔が建ち、教会の三角形の屋根の上には手前と奥とに塔が建っていて合計3本の塔が建物外観に変化を持たせています。

 ド・ロ神父は宣教師だけでなく多方面での能力を発揮したマルチ人間の一人でしたが、マルチ人間というと思い浮かべる人物の一人がレオナルド・ダ・ビンチではないでしょうか。ダ・ビンチはモナリザの作者という芸術家としての側面がよく知られるところですが、解剖学の面でも多くの研究成果があり、絵画の上にも解剖学に基づく描きこみがあるとされています。工学の面では、活躍が15世紀であったことから大部分が機械工学分野での発明やアイデアで、ダ・ビンチが描いたヘリコプターのスケッチは長らくANAの翼に描かれていました。ダ・ビンチがIT全盛の現代に活躍していたならば、ITの成果も違った形をしていたかもしれません。

コッツウォルズの人口400人足らずのカッスル・クームは時代の流れに取り残されましたがライム・ストーンの美しい家並に静かな時間が流れます(イギリス)

2022-08-07 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は、首都である都会に7つの丘があって変化にとんだ町のリスボンを紹介しました。丘は上り下りに苦労をしますが、山ほどの急峻さはなく、景色に変化をつけます。英国は島国で狭い国土が我が国と似ているといわれますが、スコットランドなどを除いてさほど高い山はなく、綿々とした丘が続き、利用できる国土の面積は圧倒的に広いように思います。今回は、丘が続く英国の田舎の中からコッツウォルズを紹介します。今回も、訪問したのが古く、アナログ写真をベースとしたので、枚数も少なく変色をしています。

 
 コッツウォルズは「羊の丘」という意味だそうで、ロンドンから西へ、ブリストルの少し手前の北側に広がる丘陵地帯です。標高300m程度の丘が長辺が100km程の長さの楕円形に広がっています。筆者が訪れたのは、広いコッツウォルズの中の南部にある小さな村のカッスル・クームでコッツウォルズの中でももっとも古く最も美しいとされているところです。カッスル・クームとは城のある険しい谷とでもいったところでしょうか。最寄りの鉄道駅のチップナムの西北西0kmほど、タクシーは田舎道を15分ほど走ってマーケット・クロスと呼ばれる小さな広場に着きます。三角形の広場には、馬から降りるための石段や、三角屋根の中にはモニュメントも置かれています。

 
 
 人口は400人足らずの村ですが、マーケット・クロスの西には14世紀に建てられた4つ星のマナー・ハウス・ホテルもあります。庭園の奥にあるレストランでは、食べきれないほどの食材が3段のプレートに乗ったアフターヌーン・ティーも楽しめます。また、マーケット・クロスから南に行くと、左手にバイ・ザ・ブルッグ川という小さな流れで、バック・ホス橋という石造りのアーチ橋もかかっています。この辺りは、絵葉書にもよく使われる景色のようで、結婚式の前撮りの風習が英国にあったのかどうかわかりませんが、ウェディング・ドレス姿の新婦さんを見かけました。

 村の建物はライム・ストーンと呼ばれる石灰岩(コッツウォルズ・ストーン)で作られ、村全体がはちみつ色の独特のトーンに包まれています。かつては羊毛産業で栄え、ホテルや教会それに広場の石造りの遺構、それに石造りの家並などは、その繁栄の残照なのではないでしょうか。19世紀に始まった鉄道の敷設では、村から遠くを通ったために衰退し、500年前の景観が冷凍保存された結果、観光客が押し掛ける村になってしまったようです。

 日本でも鉄道が通らなかった、敷設に反対したために衰退した町は篠山など数多くあります。JR中央線も甲州街道沿いが住民の反対にあったため、東中野から立川まで何もなかった田んぼの中に真っすぐな線路を引いて開通しました。あまり知られていませんが、この区間は日本で2番目に長い直線区間です。この中央線のおかげで、現在の中央線沿いの繁栄につながります。衰退や興隆は交通手段の変化によるもので、現在は鉄道網が大きな要因を握っていますが、通信ネットワークの発達と働き方の変化で、これから衰退してしまう都市も出てくるのかもしれません。