世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

マカオを象徴する聖ポール天主堂跡の他にも魅力のある遺跡がたくさんあります(中国)

2011-07-31 08:00:00 | 世界遺産
 前回のマカオは、半島の西南部を紹介しましたが、今回は中央部に散らばる世界遺産の広場や建物を紹介します。

 マカオで最も観光客が集まる広場の一つがセナド広場で、今回はこの広場からスタートです。前回の半島南西部に突き出した部分の付け根の中央部辺りにある広場で、波状のモザイクタイルが敷き詰められています。広場に面して民政総署や仁慈堂が建ち、周辺には聖ドミニコ教会、三街会館、大堂、盧家屋敷などの世界遺産の建物が集中しています。


 
 セナド広場と路を隔てて正立するのが民政総署はポルトガルの植民地時代の行政府で、現在も血本自治局のオフィスなどが入っています。入り口から入ると正面に中庭に続く階段があり、壁にはポルトガルを象徴するアズレージョ(タイル画)で飾られ、マカオに居ることを忘れる空間です。

 
 広場の横に接する、仁慈堂はキリスト教の慈善施設として建てられたものですが、アーチの連続するバルコニーが洒落た建物です。この建物の横にある坂道がまた奇麗で、記念写真のポイントになっているようです。








  
 広場の奥にある聖ドミニコ教会を右に曲がって上ったところが前庭の水のみ場やアズレージョの美しい大堂です。

 ごちゃごちゃした通りにあるのが盧家屋敷です。広州出身の商人の邸宅跡で、あちこちに中庭や吹き抜けがあり、細かな透かし彫りやステンドグラスがはめ込まれた窓など、西洋と東洋のいいとこ取りをしたような美しい空間が広がっています。





 セナド広場から、曲がりくねった細い路を北に進むと聖ポール天主堂跡に出ます。マカノの象徴のような場所で、ものすごい数の観光客に驚きました。30年ほど前に訪れた時には、人を入れない写真を撮ろうと思えば撮れましたが、今では前の階段が見えないほどの人です。ファサードしか残っていない教会がなぜこんなに人を集めるのでしょうか。舞台装置のように、すっくと建っている姿は確かに絵になりますが。

 
 これだけ人の集まる聖ポール天主堂跡ですが、その左奥にあるナーチャ廟や旧城壁は遺産に登録されてるにもかかわらず、ほとんど人が居ません。逆に右側の丘にはモンテの砦があり、こちらは坂を上らなければならないにもかかわらず多くに人が上っています。上から見る天主堂跡も壁一枚の状況が良く分かるし、砦の大砲が、マカオを代表するギャンブルのホテルを向いて、今にも火を噴きそうなのも面白い光景です。

 
 聖ポール天主堂跡を北に進むと、カモンエス広場や聖アントニオ教会があり、その裏手にはプロテスタント墓地があります。これらについても遺産に登録されているのですが、地元の人以外に観光客の姿はほとんど見かけません。聖ポール天主堂跡の人ごみとはものすごい落差です。さらに、モンテの丘の北側を東に巻いて進むと、ラザロ地区に出ます。中心となるのが聖ラザロ教会ですが、遺産には未登録です。

 しかしこの地区の魅力は、カラフルナ町並みで、も剤行く模様の道路も加わって、どう見てもここは東洋ではありません。

 セナド広場周辺は、、昼間だけでなく夜に訪れてもイルミネーションやライトアップで浮かび上がる建物群が美しいものです。かつては豆電球であったイルミネーションも、最近では消費電力の少ない発光ダイオードに代わり、点滅の様子もより複雑なものが多くなったようです。エコロジーの掛け声で、白熱電球が目の敵にされて、発光ダイオードがもてはやされ、自然エネルギーの太陽光発電が推奨され、これを設置できない住宅ではかえって電気料金が高くなるという、納得しがたい現象も生まれています。これらの、エコロジーの製品群はITの基礎となる半導体技術の発展で生まれたものですが、はたして製造にかかるエネルギーを考慮に入れてもエコロジーなのでしょうか。

御所に隣接して重要文化財の建物が現役で活躍しているところが同志社界隈です

2011-07-24 08:00:00 | 日本の町並み
 階段の両側にレトロな温泉街が広がる伊香保は、文人が愛した温泉で特に徳富蘆花は当地で障害を閉じましたが、その徳富蘆花は熊本バンドと呼ばれるプロテスタントのメンバーの一員として新島襄が創設した同志社英学校に学び、キリスト教の強い影響を受けたといわれています。今回は、明治期に建設されたレンガ造りの学舎が数多く残されている同志社大学界隈を紹介します。

 同志社大学は、新島襄の創設した同志社英学校を母体にして、1920年に関西初の大学令による大学になった歴史を持っています。京都御所と今出川通りを挟んだ北側に大学本部や同志社女子大それに付属校などが並んでいます。この一郭に食い込むように建っているのが京都で唯一のこる公家である冷泉家の建物で、歴史的には江戸時代に建てられた冷泉家の建物のほうが古いわけですから、同志社が冷泉家に食い込んだというべきかもしれません。

 
 
 
 冷泉家の江戸時代にはかないませんが、同志社大学には明治期のレンガ造りの建物が数多く残され、6棟が重要文化財に指定されています。明治期の建物の数では明治村が圧倒的ですが、見世物ばかりの博物館とはちがって、建物のすべてが現役で生きていることです。ヨーロッパなどでは、100年以上の世界遺産に指定された建物に人が住み続けている例は多いようです。建物が石造りなどで朽ちないことのも理由の一つでしょうが、使いづらさや不便さを押してまで住み続けるのは古いものへの愛着の現し方の差なのでしょうか。

 同志社大学と相国寺への参道を挟んだ東にあるのが同志社女子大です。こちらには昭和初期とだいぶ時代は下り、レンガではなくタイル張り建物ですが、今出川通りに面して美しいシンメトリーな姿を見せているのが栄光館です。内部にはパイプオルガンもあって、窓や壁の意匠などなかなか美しい建物のようですが、おそらく非公開なのだと思います。


  同志社大学の前身の同志社英学校を開設した新島襄ですが、その新島襄が設計して住んでいた旧宅が、御所の東にあって内部も見学できます。セントラル・ヒーティングも付いて、周りにひさしを巡らし、神戸の北野町にあるような異人館にも似た洋館はなかなか洒落ています。資料なども豊富で、新島襄に興味のある方は、ぜひ行かれると良いと思いますが、常時公開ではないのかもしれません。ちなみに、新島襄は群馬県の安中の出身で、安中にも記念館があるそうです。

 レンガの原料は言うまでもなく「土」で、その中に含まれている鉄分のせいで独特の赤い色をしています。雨の少ない国々では焼かないで太陽に干しただけの日干し煉瓦が使われますが、日本では焼き物、つまりセラミックスの一種です。セラミックスと十派一からげにするには、作り方も用途も多岐に渡っていていますが、IT分野ではファインセラミックスが無ければ成り立たなかった部品も多いものです。日本を代表する会社にまで成長したセラミック会社もあるくらいですから。単なる土くれが、高価な茶碗に変身するように、ITを支える重要な位置を占めるものも、厳選された材料を使うとは言え茶碗などと同じ組成の磁器なのですね。

3つあるナイアガラの滝は馬蹄形のカナダ滝が見ごたえがあります(カナダ)

2011-07-17 08:00:00 | 世界の町並み
 滝の連続が美しく世界で最初に水力発電の電力を商用に供給した発電所があるのがクロアチアのクルカでしたが、商用の水力発電所が世界で最初に稼動したのはナイアガラの水力発電所でクルカより3日早かったそうです。今回は、アメリカとカナダに跨るナイアガラの滝の周辺をカナダ側から紹介します。


 ナイアガラの滝は五大湖のうちのエリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川の途中にあって、世界3大瀑布の一つに挙げられていますが、唯一世界遺産には登録されていません。カナダ側に一つ、アメリカ側に二つの滝がありますが、水量の90%までがカナダ滝に流れ落ち、観光客の大部分もカナダ側から滝見物をするようです。これは水量のためだけではなく、アメリカ側からでは、滝の後方や横からしか眺められず、3つの滝が正面から眺められるカナダ側の景色の良さとは比べ物になりません。

 
 カナダ側の町は、その名もナイヤガラフォールズといい、河岸段丘状の丘の上にホテル群が建っていて、ホテルによっては滝が見えるか見えないかで部屋の値段が違うのは、ハワイのシーフロントと似ています。部屋から滝が眺められる利点は、日没後の滝のライトアップです。着替えて外出することもなく、日没後に寒くなるような季節であっても、部屋に座りながらゆっくりと眺めることが出来ます。ホテルよりもさらに高いところから眺めたいお方は2本のタワーがあって、この展望台からは3つの滝が眼下に見えるようです。

 
 遠くではなく、滝を近くで見たいといわれる方は2つの方法があります。一つは「霧の乙女号」と呼ばれる観光船で滝つぼの近くまで往復する方法です。、かなりずぶぬれになるようで、もちろんビニールのレインコートをくれるようです。二つ目は、滝口の横の入り口からエレベータで滝の横の展望台に降りる方法です。こちらも、かなりの水しぶきで、こちらもレインコートは必需です。華厳の滝にも似たような展望台がありますが、ナイアガラのものは滝までの距離が近く、滝自体の水量が圧倒的に多くて、比べ物にならない迫力です。

 
 ナイアガラの滝の水力発電所ですが、ナイアガラ川にはいくつかの発電所があり、ダムを伴うものもあるようです。この中で世界最初の水力発電所は、滝のすぐ上流にあって、滝の落差を利用するためにダムはありません。滝から上流に向かって遊歩道を少し歩くと、石造りの宮殿のような建物が現れますが、これが発電所のようです。周りには緑の芝生もあって、見慣れているコンクリートと鉄の無機的な発電所とはずいぶんと違った印象です。発電所とは逆に下流に行くと、町の繁華街があり、こちらには大規模なカジノもあって上流の印象とは一変します。一説には、この世俗感から世界遺産への登録申請の優先順位が低いとのことです。

 大震災の後遺症による電力不足のため節電の呼びかけが、強制力を持つまでに進んでいます。節電、自粛で観光地などのライトアップはどうなったのでしょうか。イルミネーションの光源としては、青色発光ダイオードの開発に始まる発光ダイオードの改良で、電球に比べて消費電力を少なく出来ましたが、ライトアップのための光源としては現時点では輝度不足のようです。また、発光ダイオードは高効率をうたい文句にしていますが、現在の技術では蛍光灯とさほどの差は無いとの記述も見られます。節電は、日常の電力消費を見直す良いきっかけになったことは事実ですが、消費電力量の少ない夜間に必要以上に節電、自粛して生活をシュリンクしてしまってもいいのでしょうか。

石段沿いのレトロな木造の旅館群が伊香保の魅力です

2011-07-10 08:00:00 | 日本の町並み
 お雛祭りの時には町中にお雛様飾りがあふれ、200体のお雛様が神社の石段に並べられてみるものを圧倒した町が勝浦でしたが、風情のある石段沿いに旅館街が建ち並び石段の湯という日帰りの湯まであるのが伊香保です。今回は500年近い歴史を誇る伊香保温泉周辺を紹介します。

 伊香保温泉は、群馬県のほぼ中央部の渋川市の一部ですが、2006年に合併するまでは伊香保町という独立の町でした。JR高崎線の渋川からバスで山に向かって20分程度走ったところですが、かつては高崎から渋川駅を経由して東武伊香保軌道線という路面電車が通じていました。温泉街の中心となる石段は365段で、1年の日数を意識したのでしょうか。かつての路面電車の駅は標高的に石段の下になりますが、現在のバスは石段の上部近くまで上ってくれるので散策には楽をさせてくれます。

 
 バスターミナルを降りると伊香保ロープウェイの駅が見えますが、そこから石段のある方向に行くと苔むしたいわくありげな施設が左手に見えてきます。坂を登ってみると、戦前まであった伊香保御用邸跡なのですが、廃止された後の大火で建物も失われてしまい、現在は木々の緑の生い茂る廃墟です。御用邸があったという記念碑と玄関にあった沓脱石がひっそりと残るのみです。

 そこから石段までは200mくらい、石段のてっぺんには伊香保神社があって、温泉と医療の神様がお祭りされています。
 神社の横を少し下って裏手に回ると、川沿いの道が続いていますが、その途中に温泉饅頭を売るお店があります。茶色の温泉饅頭の元祖は伊香保だといわれています。さらに川を遡っていくと源泉があり、飲泉所も設けられていて蛇口から温泉を飲むことも出来ます。
 
 日本では、温泉というと入浴ということですが、ヨーロッパでは飲用目的も多いようです。チェコのカルロビバリでは、取っ手のところが中空になっていて、ストローのようにして温泉を飲めるコップが売られていました。カルロビバリといえば、明治のお雇い外人の一人で、日本の医学会の発展に尽くしたベルツ博士は、草津温泉を広く世界に紹介しましたが、その時にカルロビバリより賑わうだろうと評したそうです。その草津温泉より前に温泉医学を指導したところが伊香保で、源泉近くにはベルツ博士の胸像が建っています。

 この伊香保の湯は、昔から利用されていたのが黄金の湯といわれる鉄泉で酸化鉄の茶褐色をしたものでした。近年には、この黄金の湯にケイ酸を多く含む無色透明の白金の湯が加わって金銀のそろい踏みになったようです。お湯を金と銀とであらわすのは兵庫の有馬においても同様で、こちらは金泉と銀泉と呼んでいます。明治から昭和初期にかけては黄金の湯のみだったでしょうが、竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など多くの文人が訪れたようで、東京から逃避するのに程よい距離だったのかもしれません。特に徳富蘆花は、この地を好んだようで小説「不如帰」は当地で執筆され、晩年には再訪してこの地で生涯を閉じました。

 さて、石段に戻ると、急な斜面にへばりつくように古風な木造の旅館街が建ち並んでいます。この高低差のある場所にレトロな建物が密集する景色が伊香保が他とは異なる魅力の一つになっているように思います。この階段とレトロな風景をどこかで見たぞ!と考えたところ、台湾の北部にある九份の景色に似ているのです。九份は温泉は出ませんが「千と千尋の神隠し」のモデルとなった所として日本人観光客が増えているところです。

 源泉の近く、ベルツ博士像の近くに「ラドン発見の碑」なるものが建っています。日本で最初にラドンが発見された所ということですが、温泉にはラドンやラジュウムなど放射能泉もあり、痛風や高血圧に効果があるとされています。一方で、放射線は極力浴びないほうが良いとされる見解も存在します。放射線にも含まれる電磁波の人体への影響は、解明されていないところも多いようで、携帯電話が人体に与える影響も無害説が定着するかと思うと最近は有害説も報告されています。耳に当てる携帯では電波の発信源が脳の近くにあるため、一日に長時間使用すると、影響が出るとのことです。電磁波による障害より、先に携帯依存症の症状が出るのではないかとも思いますが。

古くから多くの文人に愛され、いかにも中国的な風景の西湖も世界文化遺産に登録されました(中国)

2011-07-03 08:00:00 | 世界遺産
 2011年のユネスコの世界遺産会議では、わが国の小笠原諸島が自然遺産に、平泉が文化遺産に各々新規に登録されました。本来は、この2つの世界遺産を紹介したいところですが、小笠原は未訪問、平泉は3度も訪問しているのですが、アナログ時代の写真が行方不明で残念ながら紹介できません。そこでということで、お隣の中国で新規登録された江南地方の西湖について紹介をしたいと思います。

中国の江南地方は揚子江の河口近くに水辺に緑の木々が美しい水郷の町がたくさんあります。それらの中では、先に世界遺産に登録されていた蘇州が日本人にはおなじみの町のようですが、今回新規に登録された杭州の西湖は蘇州とはまた違った風情のある場所です。また、杭州で上演される崑劇は、西湖の文化遺産の登録より先の2001年に無形文化遺産に登録されています。

 
  西湖のある杭州は上海の南西にあって、中国で導入の進んでいる高速列車に乗れば1時間足らずで到着してしまいます。世界遺産に登録された西湖は市街地の西にあり3km四方ほどの湖で、もとは干潟であったため平均の水深は2m足らずという浅いものです。湖の中には島や堰堤があり、島には観光船に乗って渡ることが出来ます。これらの島の中で三潭印月は最大で、島の中に水面がありその中にまた島があるという2重構造になっています。島の中にはいくつかの建物があり、窓の透かし彫りを通した景色も奇麗ですが、さらに壁に空けられた丸い形の通路越しに見える西湖の湖面も中国絵画を見ているようです。湖上には大きな石灯籠があり、ここに点された明かりと月明かり、それに湖面に反映した明かりが加わった光景は西湖十景に挙げられています。


 冒頭で紹介した崑劇ですが、14世紀頃に蘇州の崑山ではやり、その近くに広まった歌劇で、京劇よりも歴史の古いものです。たまたま、西湖の北岸を散歩していたときに宝石山の麓の公園で公演があってみることが出来ました。観劇は無料でしたが、座って見るための折りたたみ椅子が有料で貸し出されていました。この北岸には、白堤があって両側に湖面を見ながらの散歩が楽しいところや、金石、篆刻を研究する学術団体の建物ですがお庭が奇麗な西冷印社など、西湖の周辺はいかにも中国といった風景が広がっています。

 平面的で水墨画調の西湖から西に郊外に行くと、ごつごつとした岩山に数多くの石仏が彫られた飛来峰と呼ばれる岩山を擁する霊隠山霊隠寺があります。お寺も二千年の歴史があるようですが、この場所を有名にしているのは飛来峰に10世紀頃から彫られてきた400体近くの石仏です。中でも写真で紹介されることが多いのが、日本では布袋尊として親しまれている像で、中国では遠い未来に出現する弥勒と位置づけられ尊ばれているようです。

 西湖から南に丘を越えて銭塘江のほとりまで行くと、西湖の平面に対して垂直に伸び上がる塔が建っています。六和塔という木とレンガを積み上げた八角七層の塔がデン!と建っています。まさしくデン!といった感じなのです。日本の塔のようにお世辞にもスマートとは言えませんが、強烈な存在感があります。エレベータは当然ありませんが、階段を使って60mの高さの最上部まで登ることが出来、銭塘江やそれを渡る鉄道と道路の併用橋の連続トラスが眺められます。旧暦8月の満潮時には25km/hで銭塘江を逆流する大きな波を見ることも出来るそうです。

 弥勒菩薩は釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に釈迦の再来として姿を現す仏様として位置づけられ、日本では京都広隆寺の半跏像が有名です。ところが中国では、おなかの大きな布袋が現世に現れた弥勒と位置づけられています。所変われば、仏も変わる・・なのでしょうが、そもそも釈迦の唱えた原始仏教では、如来や菩薩などの仏や神といった存在は無く、後世に付け加えられた概念です。日本人の考えている仏教の多くは中国思想の影響を受けたもので、禅宗は道教の考えが支配的です。情報伝達の手段が整わない頃に、距離と時間が離れていては情報の内容も変わってしまったのでしょう。現代の社会では、ネットワーク技術の発展で、瞬時に情報が伝えられ、正しい情報が得られると考えられますが、どうもそうでもないようです。いつの時代にも、権力によって歪められたり、止められたりという構図は変わらないのかもしれません。