東洋大学を作った井上円了が世界の哲学者を祭り哲学をするかsン強を作ったのが東京中野区にある哲学堂でした。現在の哲学堂周辺は、運動公園も併設された区民の憩いの場で、公園の西側を南北に通る中野通と合わせて桜の名所となっています。桜は日本の国花になっていて、全国に桜の名所は数多くありますが、意外と大都市の中に数多くあるようにも思います。今回は、これらの都会の桜の名所の中から京都の公園に咲く枝垂桜で有名な円山公園周辺を紹介します。


円山公園は、江戸時代までは八坂神社などの境内であったものが、明治の廃仏毀釈で政府に没収されて9万㎡の公園となったものです。この円山公園をを代表する枝垂桜は戦後まもなく枯れて現在の桜は2代目なのだそうです。八坂神社は、境内の一部を明治政府に没収されたといっても、丸山公園は八坂神社の裏庭といった感じがします。この八坂神社は、通常は四条通の突き当りの西楼門から入って、お参りした後に東に丸山公園に通り抜けますが、神社の正門は神幸通に面して建つ南楼門で、南楼門から入ると舞殿と本殿が延長線上に現れます。


この八坂神社の祭礼が祇園祭で、山鉾巡行ばかりが目立ちますが、お祭りは1か月にわたって続きます。お祭りの祈願を行う1日に始まって、31日の疫神社奈津子氏祭りで締めくくられます。目玉の山鉾の巡行は前祭りが17日、跡祭りは24日に行われ山鉾の通る四条通から河原町通りまでは観光客であふれかえります。筆者はおよそ60年前に前祭り(その前後から50年間ほど後祭りの巡行が途絶えていた)の巡行を四条通と烏丸通の交差点、辻回しの所で見ました(モノクロの写真を撮りましたが行方不明)。その頃は、京都市殿が健在で、山鉾の通る側は架線を支えるポールが片側からだけ伸びて、巡行を邪魔しないようになっていました。巡行は勇壮で見ごたえがありますが、山鉾の飾りや、鉾町で披露される屏風などを見たり、町中でお祭りを支えている雰囲気を味わうのは宵山や宵々山です。こちらの方は8年ほど前に、後祭りの宵々山を見る機会がありました。巡行では味わえない、しっとりとした風情も味わえます。




八坂神社の社殿は江戸時代に建てられ国宝や重文の神社建築物が並んでいますが、円山公園の南側には明治中期に建てられたしゃれた羊羹が建っています。煙草で財を成した村井吉兵衛が迎賓館として建てたもので、外観はるねさんす、内装はネオ・クラシックなどの建築スタイルで建てられています。現在は、レストランなどに使われていて、予約なしでも楽しめるアフタヌーン・ティーで優雅な時間を過ごすことができます。室内の造作は当時のままで、シャンデリアやステンドグラス、階段も優雅でした。窓の向こうには、祇園祭の山鉾を思わせる大倉財閥の喜八郎別邸跡に建つ伊藤忠太設計の祇園閣も望めます。
祇園閣を設計した伊藤忠太は明治から昭和にかけて活躍した建築家です。明治の活躍した、ジョサイヤ・コンドルの弟子である辰野金吾や片山東熊などは西欧建築に範を取ったものが多いのですが、伊藤忠太は日本の伝統建築に光を当てた人物とされています。それまでArchitectureの訳語として造家が使われていたものを建築という言葉に改めて人でもあります。最近は外来語を日本語に訳す時に、発音をそのままカタカナ表示することが増えました。中国の、音訳の漢字表記に似ています。明治期に活躍した夏目漱石は外来語表記の名人だったようで、現在のようなカタカナに加えて、瓦斯、会堂、洋燈など数多くの漢字表記を生み出しているようです。言葉は生き物ですから、ひび変化していて、カタカナ表記だったものが漢字表記に変わるかもしれません。コンピュータの自動翻訳のデータベースのアップデートはどれくらいの頻度で行われているのでしょうか。




円山公園は、江戸時代までは八坂神社などの境内であったものが、明治の廃仏毀釈で政府に没収されて9万㎡の公園となったものです。この円山公園をを代表する枝垂桜は戦後まもなく枯れて現在の桜は2代目なのだそうです。八坂神社は、境内の一部を明治政府に没収されたといっても、丸山公園は八坂神社の裏庭といった感じがします。この八坂神社は、通常は四条通の突き当りの西楼門から入って、お参りした後に東に丸山公園に通り抜けますが、神社の正門は神幸通に面して建つ南楼門で、南楼門から入ると舞殿と本殿が延長線上に現れます。




この八坂神社の祭礼が祇園祭で、山鉾巡行ばかりが目立ちますが、お祭りは1か月にわたって続きます。お祭りの祈願を行う1日に始まって、31日の疫神社奈津子氏祭りで締めくくられます。目玉の山鉾の巡行は前祭りが17日、跡祭りは24日に行われ山鉾の通る四条通から河原町通りまでは観光客であふれかえります。筆者はおよそ60年前に前祭り(その前後から50年間ほど後祭りの巡行が途絶えていた)の巡行を四条通と烏丸通の交差点、辻回しの所で見ました(モノクロの写真を撮りましたが行方不明)。その頃は、京都市殿が健在で、山鉾の通る側は架線を支えるポールが片側からだけ伸びて、巡行を邪魔しないようになっていました。巡行は勇壮で見ごたえがありますが、山鉾の飾りや、鉾町で披露される屏風などを見たり、町中でお祭りを支えている雰囲気を味わうのは宵山や宵々山です。こちらの方は8年ほど前に、後祭りの宵々山を見る機会がありました。巡行では味わえない、しっとりとした風情も味わえます。









祇園閣を設計した伊藤忠太は明治から昭和にかけて活躍した建築家です。明治の活躍した、ジョサイヤ・コンドルの弟子である辰野金吾や片山東熊などは西欧建築に範を取ったものが多いのですが、伊藤忠太は日本の伝統建築に光を当てた人物とされています。それまでArchitectureの訳語として造家が使われていたものを建築という言葉に改めて人でもあります。最近は外来語を日本語に訳す時に、発音をそのままカタカナ表示することが増えました。中国の、音訳の漢字表記に似ています。明治期に活躍した夏目漱石は外来語表記の名人だったようで、現在のようなカタカナに加えて、瓦斯、会堂、洋燈など数多くの漢字表記を生み出しているようです。言葉は生き物ですから、ひび変化していて、カタカナ表記だったものが漢字表記に変わるかもしれません。コンピュータの自動翻訳のデータベースのアップデートはどれくらいの頻度で行われているのでしょうか。