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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

かつての激戦地のフエは、今は何事もなかったかのような静かな古都になっています(ベトナム)

2016-11-27 08:00:00 | 世界の町並み
 インドネシアのジョグ・ジャカルタは、郊外に2つの世界遺産を持ち、首都ジャカルタと比べて落ち着いた古都の雰囲気を感じる都市でした。このジョグ・ジャカルタの姉妹都市ははいくつかありますが、インドネシアからも近いベトナムの古都であるフエもその一つです。こちらも、世界遺産を持つ都市ですが、今回は世界遺産とは別にフエの町並みを紹介します。

 フエはハノイとホーチミンシティとの間くらいに位置し、19世紀から20世紀にかけて存在した阮(ぐえん)王朝の首都が置かれた都市です。このことから、旧市街は古都の様相を残していますが、ベトナム戦争の時には、南北ベトナムの境界にあったため激戦地の一つとなり、旧王宮はほとんどが破壊され、再建の途中です。

 
 町の中央をフオン川が流れ、船による観光もできるようになってます。





 川の北側(左岸)が城壁に囲まれた旧市街で、さらにその中に堀と城壁に囲まれた600m四方ほどの王宮があります。中国風の建物や門などが散在しますが、後方には緑豊かな草原が広がっています。おそらく、かつては、この草むらの場所にも、多くの建物が建っていたのではなうかと思います。昼間は、やや物足りない風景ですが、午門と呼ばれる王宮の正門がライトアップされ、こちらは、なかなか幻想的です。訪問したのはクリスマスシーズンで、街中には巨大なツリーもありましたが、ライトアップの方がゴウジャスでした。



 王宮の西、川の上流の丘の上にはティエンムー寺があります。こちらには、クリスマスツリーならぬ八角七重の塔が建っています。中国でよく見かける党の形ですが、各層にアーチ状の窓がついていたりして、どことなくしゃれています。境内には、これまた中国寺院でよく見かける極彩色の神像も見かけます。ものお寺の裏には、1台の古ぼけたオースティンが置かれています。この車は、当時の南ベトナムの仏教徒弾圧に抗議をして焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師がアメリカ大使館前に乗り付けた車なのです。

 ベトナムはアメリカに勝った世界で唯一の国と言われています。ベトナム戦争では、アメリカは数々の非人道的な攻撃をしたにもかかわらず、ベトナムを屈服させることはできなかったわけです。フエは南北ベトナムの境界線に位置し、北緯17度線を中心とする非武装中立地帯(DMZ)にも近い年でした。フエからは、かつてのDMZをたずねて戦争の傷跡を巡るツアーが催行されています。このDMZという名称は、インターネットの技術用語にもなっていて、外部のインターネットと、企業などの内部ネットワークとの間に、ファイアウォールを挟んで設けられる部分を指します。社内のネットワークを、外部からの攻撃から守ったり、社内から不正な外部アクセスを防ぐ目的です。ただ、内部犯罪をどこまで防ぐことができるのか、疑問もあり、これは多くの内部犯罪による事故が多いことが証明しています。

ライト設計の数少ない現存住宅の旧山邑家住宅からは、芦屋市街の向こうに大阪湾が広がっています

2016-11-20 08:00:00 | 日本の町並み
 数多くの伊勢街道の一つである初瀬街道の起点で、ボタンの寺として名高い長谷寺がある町が初瀬でした。近鉄の長谷寺駅から長谷寺は、街道が通る谷底のような場所を上り下りして参詣する必要がありましたが、長谷寺の舞台からは、向かいの山々も見えて良い眺めです。小高い場所に建つ建物は、訪問するには大変ですが、たどり着いた後の眺めを考えると、頑張って登ってみようと元気が出ます。このような建物の一つに芦屋の山の手に建つ旧山邑家住宅があります。今回は、日本で数少ない現存するフランク・ロイド・ライト設計の建物を紹介します。

 
 
旧山邑家住宅は、阪急の芦屋川駅から芦屋川をさかのぼり、最後は急坂を上ったところに建っています。この坂はライト坂との看板がありますが、以前来訪した時にあったという記憶はないのですが。大正年間に灘五郷の桜正宗の当主の別荘として、ライトの基本設計を元に、弟子の遠藤新と南信の実施設計建てられたものです。戦後は淀川製作所の所有となり、ヨドコウ迎賓館として1989年から公開されています。

 
 
 
 
 

 コンクリート製ですが、大谷石をふんだんに使ったところは、旧帝国ホテルと相通じるところがあります。入口は、大谷石の柱のあるピロティになっていて、そこから上っていくと、内部はちょっと迷路の雰囲気です。階段を挟んでステップフロアーのようになっていたように思います。大阪湾の眺めが良いのは、南側に突き出したバルコニーからで、こちらにも大谷石がたくさん使われています。リビングルームは天井が高く、その天井近くに換気のためでしょうか、縦に長い小窓が並んでいます。中央に、六角形のテーブルと、使わないときにはテーブルに収納して一体化してしまう椅子が六脚置いてありますが、これは建物に調和するようにとヨドコウが特注で作らせたそうです。

 ライトが設計した建築で、日本に現存するものは4棟のみで、そのうち公開は3棟しかありません。その中で、帝国ホテルは部分保存のみで完全な姿でかつ元の場所にある建物は、ヨドコウ迎賓館と東京池袋の自由学園との2棟のみと貴重な建物です。明治期の、洋館の遺構は東京に集中しているように思われますが、ジョサイア・コンドル設計の洋館が桑名に残っていたり、辰野金吾の設計した洋館は九州を中心に数多く残されています。戦争や再開発の嵐に巻き込まれない地方の方が保存にとって有利だったのかもしれません。

 今から40年ほど前には、大型のコンピュータの普及がまだまだで、当時の電電公社が超大型コンピュータを用意して、遠隔から共同で利用するシステムがありました。超大型といっても、現在の技術ではパソコン並みの能力だったかもしれません。そして、このサービスの主たる利用企業の一つが建築会社でした。建物の設計の時に構造計算に使われたようです。いくらデザインが優れていても、地震などで壊れてしまっては、建物としては使えません。この構造計算は、コンピュータを使って、厳密に計算されるのですが、出てきた結果に安全係数として10などといった大きな値をかけるんですね。建築の材料は、天然の素材が多くて、ばらつきが大きいなどの理由のようですが、厳密なコンピュータの解析と、おおざっぱに見える安全係数とは、面白い対比に思います。

スコタイの仏教遺跡は、木造の仏教寺院を見慣れた日本人には特異に感じます(タイ)

2016-11-13 08:00:00 | 世界遺産
 世界最古の現役の木造建築である法隆寺は、インドで興った仏教が到達した東の端でした。日本では、この仏教のカテゴリーを大乗仏教と呼び、南に伝わったものを小乗仏教といって、やや蔑視したところがありました。しかしながら、筆者としては、小乗と呼ばれる仏教のほうが、釈迦の唱えた原始仏教に近いと考えています。今回は、現在も出家僧が数多く、生活の一部として仏教が生きているタイの仏教遺跡の一つ、スコタイを紹介します。なお、東南アジアの仏教国では、小乗とは呼ばず上座部仏教と呼んでいます。

 
 
 
 スコタイは、タイの首都バンコックから北へ250kmほど、最寄りの空港は東隣の県のピサヌローク空港になります。13世紀から15世紀にかけてタイ族によって興されたスコタイ王朝の首都の遺跡で、およそ2km四方の城壁に囲まれた旧市街が遺跡の中心です。みどりの中に、池があり、川があり、そして数多くの石塔が並んでいます。この石塔は、円錐形で頂点がとんがっているものと、円筒の頂上部にお椀を載せたような形のものがあります。円錐形の物は、インドネシアのボロブドゥールの頂上部分にある石塔にちょっと似てる感じもします。一方の、円筒形の石塔は、巨大なトウモロコシです。日本で見慣れた、お寺のお堂らしきものは、全くありませんし、塔も五重塔とは全く違います。あえて、似ているとすれば、東京の築地本願寺や各地の多宝塔くらいでしょうか。

 
 これらの石塔の前には、石仏が置かれていますが、薄手の衣をまとっているだけで、きわめてシンプルな形です。仏教では、釈迦が偶像は作るなと言い残したのでしばらくは作られませんでしたが、ギリシャ文化の影響などから、ガンダーラなどで作られ、東や南東に伝わってきたわけです。東のはずれが日本とすれば、東南のはずれに近い国がタイかもしれません。日本の仏像が、ヒンドゥーや中国思想の影響で、生身の人間とは違った形をとるものが多いのに比べて、スコタイの仏像は生身の人間そのもので、親しみを感じます。

 日本に伝わった仏教は、大乗などと言っていますが、釈迦本来の教えである原始仏教の哲学から、迷信まがいの呪文宗教になってしまっているように思います。勿論、それによって心の安らぎを得る方々いることは事実ですが、多くの宗教家と呼ばれる人の中には、権力を得る手段に使っているように見受けられます。釈迦の教えは、「4つの苦から逃れるためには、執着心を捨てなさい」ときわめてシンプルなものです。権力を握るということとは、真逆なのです。ただ、かつての研究者としては、執着心を捨ててしまうと、研究は難しい、ITの新しい技術は執着心から生まれたのではないかと、悩んでしまいます。

長谷寺のボタンもあでやかですが、参道の古い町並みも風情のある初瀬です

2016-11-06 08:00:00 | 日本の町並み
 前回、前々回と近鉄大阪線の伊勢街道がらみの町を紹介してきましたが、今回は八木町と榛原町との間にある初瀬(はせ)を紹介します。初瀬は、これまで紹介をしてきた伊勢街道の脇道の一つ初瀬街道の起点にもなっています。初瀬街道は、初瀬を起点として、前回紹介した萩原(榛原)で分岐して三重県の松坂を結ぶ街道でした。初瀬は、また、西国三十三箇所の霊場の長谷寺の門前町としての性格も兼ねている町並みです。

 初瀬は、近鉄大阪線の大和八木と榛原とのちょうど中間の長谷寺駅の北側に広がる町並みです。古くは泊瀬とも表記され「はつせ」と呼ばれました。地名は初瀬(はせ)と表記されますが、お寺は長谷寺で、どちらも漢字として普通の読み方ではないのですが、由緒ある地名のようです。泊瀬の方は、万葉の時代から大和川の船泊であったことから、長谷の方は三輪山の南を東西に走る長い谷であったことに由来するそうです。

 
 かつての初瀬街道の国道165号線は、大和川に沿って東西に延びる長い谷底を通っていますが、近鉄大阪線は、谷の南の山塊の斜面を通っています。近鉄の長谷寺駅で下車をし長谷寺にお参りをすると、およそ40mほどの標高差を下った後、国道を横切り再び40mほどの標高差を上らねばなりません。帰路は、その逆で、上ったり下ったりで、駅から水平にロープウェイでも架けてくれないかとも思ってしまいます。ただ、そうすると、国道を渡った後に長谷寺の門前まで続く古い町並みの風情は楽しめなくなります。

 
 
 
 
 
 初瀬の町並みは、大和川と山に両側を抑えられ奥行きが取れないせいか平入の家が多いようです。初瀬寺に近くには、お土産屋が目立ってきますが、国道の交差点寄りには、土蔵造りに虫籠まど、そして一階には格子のある町家が並んでいます。そして、どの町家も、実に堂々としています。犬矢来のある家や鉢花の置かれた家も多く、その中には、長谷寺の名物であるボタンも数多く見かけました。

 
 
 
 その長谷寺は、麓から長い登廊を登っていく必要があり、かなり辛い上りですが、途中のボタンの花を愛で、登廊に下がる灯篭を眺めながらで多少楽になります。ボタンは、登廊の両側にすごい物量で植えられていて、圧倒されますが、ボタン以外にもシャクナゲやフジなど、お寺の建物を背景に咲き誇っています。本堂は、清水寺と同様の舞台づくりで、舞台に立つと境内の諸堂とその向こうに、初瀬の町並みが望めます。本尊は木造の十一面観音で国宝・重文の木造の中で最大の10mの巨像です。あまりに巨大なために、下半身は礼堂の床面より下にあって、通常は上半身しか拝観できません。
 長谷寺の十一面観音は、重文指定の木造の十一面観音像のうち、立像としては最大のものです。一方、坐像の最大のものは檪谷寺の本尊です。長谷寺では全体像を見るのが難しいのですが、現在、上野の国立博物館で展示されている檪谷寺の本尊は、博物館という展示環境のため全体像が見られます。横方向だけでなく、真後ろからも見ることもでき、その迫力はかなりのものです。この博物館の本館19室には、「トーハクをまわそう」というコーナーがあり、博物館が所蔵する仏像や埴輪などを、あらゆる方向から見ることができるシステムです。ディスプレイに表示された画像を、手の操作で回して、真後だけではなく、真下や真上からも眺められます。檪谷寺の本尊のデータは入っていませんが、作品をあらゆる角度から写真撮影をして、コンピュータグラフィックスで、スムーズな動きに編集しているようです。ただ、手をかざして画像の向きを変えようとしても、なかなか思うように動いてくれないという辛さがあります。