人や物の流れが変わったために忘れ去られたことが、古い集落の形を残すことになり、茅葺民家の数が日本一の規模で保存されているのが大内宿でしたが、江戸時代には北前船の寄港地として、また四国の金比羅詣での港として、人と物の流れが集中して栄えた港町が下津井です。その後日田や物の流れが変化して下津井は完全に置いてきぼりを食った感じです。今回は、古い町並みの向こうに巨大な本四連絡橋が横切っていく倉敷市の下津井を紹介します。
下津井は合併によって倉敷市の一部になっており、岡山県の最南端、もちろん倉敷市の最南端に位置します。江戸時代には天然の良港として、また池田長政が再興した下津井城の城下町として大いに栄えました。明治になって北前船は無くなり、四国への連絡港が国鉄の宇高連絡船の出現で宇野港に、さらには本四連絡橋が架けられて、流通拠点としての存在価値を失い、静かな漁村になっています。この下津井にもかつては鉄道が走っていました。現在はバス会社となっている下津井電鉄の電車がJRの茶屋町との間を結んでいました。この電車の開通は、国鉄の宇野線の開通の翌年ですが、宇野線の開通に合わせて四国の高松を結ぶ国鉄連絡船ができて、四国へのお客を取り戻すために設立されたのだそうです。下津井電鉄の電車は軌間762mmという軽便鉄道で、おもちゃのような電車がカーブの多い線路をチョコチョコと走っていました。一時期は落書き電車といって車内が落書きで埋まった電車が走っていたように思います。茶屋町ー児島間の廃止のあと、残っていた児島ー下津井間も1990年に廃止され、かつての線路の跡は自転車道路に変わっています。
児島から下電バスで訪れた下津井には、かつての繁栄をしのばせる土蔵造りやなまこ壁の家、
それに廻船問屋の家を復元し格子が美しい「むかし下津井廻船問屋」などの家並みが点在しています。
「むかし下津井廻船問屋」は資料展示館になっていて、かつての繁栄をしのばせる品々などが展示されています。これらの町並みの近くには、「まだかな橋跡」の石碑があり、これはかつての色町の名残なのだそうです。港に寄港する船頭に、「まだ(遊郭にあがらん)かな」と声かけする婆が、まだかな橋のところに出没したためにそう呼ばれたとか。
下津井の町並みで他の古い町並みには無い風景を作っているのが本四連絡橋の巨大な姿です。町並みの東側に、巨大な橋脚と、ワイヤで吊るされたトラスが覆いかぶさるようにして壁を作っています。橋脚の高さでは明石架橋の方が高いのですが、町並みをまたぐ道路面が低いためなのか、こちらの橋の方が威圧感を感じます。
町外れの高台に祇園神社があって、本四連絡橋の2本の橋脚に吊り下げられた端の姿が、程よい迫力で見ることができます。
本四架橋の児島ー坂出ルートは3ルートの中で、唯一の鉄道併用橋です。鉄道橋ということは、この橋の上を貨物列車も通過するわけです。長大で重量も大きなものがつり橋を通過すると、重さのために橋の路面が沈み込み、その量は想像するより大きく、レールが橋の部分と陸地の部分とで折れ曲がったようになるとのこと。これがどの程度になるかは、コンピュータによる構造計算によって事前に予測され、必要な手当てがなされたようですが、完成後に実際の列車が無事に通るまで設計者は心配だっただろうと思います。かつて、電電公社がコンピュータを通信回線を使って共同利用するシステムの先鞭としてDEMOSを提供していましたが、このシステムの最大のユーザの一つが、建築業界の構造計算用だったということを聞いたことがあります。作ってみて、テストをしたら強度が足りなかった、では済みませんからね。
下津井は合併によって倉敷市の一部になっており、岡山県の最南端、もちろん倉敷市の最南端に位置します。江戸時代には天然の良港として、また池田長政が再興した下津井城の城下町として大いに栄えました。明治になって北前船は無くなり、四国への連絡港が国鉄の宇高連絡船の出現で宇野港に、さらには本四連絡橋が架けられて、流通拠点としての存在価値を失い、静かな漁村になっています。この下津井にもかつては鉄道が走っていました。現在はバス会社となっている下津井電鉄の電車がJRの茶屋町との間を結んでいました。この電車の開通は、国鉄の宇野線の開通の翌年ですが、宇野線の開通に合わせて四国の高松を結ぶ国鉄連絡船ができて、四国へのお客を取り戻すために設立されたのだそうです。下津井電鉄の電車は軌間762mmという軽便鉄道で、おもちゃのような電車がカーブの多い線路をチョコチョコと走っていました。一時期は落書き電車といって車内が落書きで埋まった電車が走っていたように思います。茶屋町ー児島間の廃止のあと、残っていた児島ー下津井間も1990年に廃止され、かつての線路の跡は自転車道路に変わっています。
児島から下電バスで訪れた下津井には、かつての繁栄をしのばせる土蔵造りやなまこ壁の家、
それに廻船問屋の家を復元し格子が美しい「むかし下津井廻船問屋」などの家並みが点在しています。
「むかし下津井廻船問屋」は資料展示館になっていて、かつての繁栄をしのばせる品々などが展示されています。これらの町並みの近くには、「まだかな橋跡」の石碑があり、これはかつての色町の名残なのだそうです。港に寄港する船頭に、「まだ(遊郭にあがらん)かな」と声かけする婆が、まだかな橋のところに出没したためにそう呼ばれたとか。
下津井の町並みで他の古い町並みには無い風景を作っているのが本四連絡橋の巨大な姿です。町並みの東側に、巨大な橋脚と、ワイヤで吊るされたトラスが覆いかぶさるようにして壁を作っています。橋脚の高さでは明石架橋の方が高いのですが、町並みをまたぐ道路面が低いためなのか、こちらの橋の方が威圧感を感じます。
町外れの高台に祇園神社があって、本四連絡橋の2本の橋脚に吊り下げられた端の姿が、程よい迫力で見ることができます。
本四架橋の児島ー坂出ルートは3ルートの中で、唯一の鉄道併用橋です。鉄道橋ということは、この橋の上を貨物列車も通過するわけです。長大で重量も大きなものがつり橋を通過すると、重さのために橋の路面が沈み込み、その量は想像するより大きく、レールが橋の部分と陸地の部分とで折れ曲がったようになるとのこと。これがどの程度になるかは、コンピュータによる構造計算によって事前に予測され、必要な手当てがなされたようですが、完成後に実際の列車が無事に通るまで設計者は心配だっただろうと思います。かつて、電電公社がコンピュータを通信回線を使って共同利用するシステムの先鞭としてDEMOSを提供していましたが、このシステムの最大のユーザの一つが、建築業界の構造計算用だったということを聞いたことがあります。作ってみて、テストをしたら強度が足りなかった、では済みませんからね。