世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

城下町の中に温泉が湧き、蔵王への登山基地でもある上山はマルチな町です

2019-11-24 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代から江戸時代にかけて、長崎と並び海外の物や情報が入ってくる窓口となった町が堺でした。古墳が多く残っているのも、西に瀬戸内海を控えた港として重要な場所であったことも理由の一つかもしれません。この堺を舞台に、時の権力者の秀吉と張り合ったのが利休ですが、堺の町衆のバックがあったからかもしれません。利休は、最後は権力に負けて切腹させられましたが、幕府と朝廷との権力に挟まれて奥州に流された僧侶の一人が沢庵禅師です。流刑地の上山城主が沢庵のために用意したのが春雨庵で、その庭には利休の茶室とは違って窓が大きく明るい茶室の聴雨亭も建っています。今回は、この春雨庵のある上山を紹介します。

 
  
 上山は、山形新幹線で山形の手前にある、お城と温泉と蔵王への入り口となる城下町です。温泉町といった雰囲気はあまり感じさせず、城下町としての性格が強いような感じで、武家屋敷も残されています。この武家屋敷や春雨庵は駅からは、お城の裏側の北西方向に南西から北東方向に分布しています。

 
 
 
 春雨庵は1953年の復元で、石灯籠のみが土岐家の江戸屋敷にあったものを移築しています。庵の中には沢庵禅師の像がポツンとこちらを睨んでいました。訪れる人も少ないらしく、静かな雰囲気は昔のままなのかもしれません。

 
 
 武家屋敷は4軒が並んでいて、そのうち2軒は現在も個人の居住する家のため非公開、残り2軒が公開されています。茅葺でちょっと大きな古民家といった感じで、武士の館っぽくありません。ただ、屋敷も庭も広く、やはり特権階級の住まいかなと感じさせます。

 
 
 武家屋敷を北東に通り抜けると鶴の休石という石があり、その昔、鶴が飛んできて休んだところとされ、上山温泉発祥の地とされています。近くには足湯もあります。この足湯に限らず、市内のあちこちに足湯があって、散策の足の疲れにをいやすのに助かります。鶴の休石がある湯町の東の端には水岸山慈眼院というお寺があり、上山の中でも古いお寺のようで、江戸時代に再建された大日堂の懸魚や向拝の彫刻の龍など一見の価値があります。

 
 武家屋敷と駅との間の小高い丘に建っているのが1982年に再建された平山城の上山城天守で、付近一帯は公園になっています。天守の内部は郷土史博物館で、高台ゆえ眺めがよく上山上山が一望です。

 沢庵が上山に流されたの紫衣事件と呼ばれるもので、朝廷が高僧に権威の象徴として紫の衣を贈っていた行為に対して徳川幕府が横やりを入れ、このことに反発した高僧が流罪となったものです。日本では、長く紫の色は高貴な物との伝統がありますが、心理学的に紫色は異常な色で、最近は赤以上の異常を示すものとして使われる色になっています。紫を高貴とみなすところに、貴族や僧侶の世界が病的だったのかもしれません。この紫色は、人間が見ることのできる最も波長の短い光で、紫より赤みが勝った赤紫は単一の光では存在しない色なんです。発光ダイオードでは赤を強くして青と混ぜることでつくられます。

歴史の浅い北米にあってもモントリオールの旧市街に居ると、ヨーロッパのどこかに行ったように錯覚します(カナダ)

2019-11-17 08:00:00 | 世界の町並み
 首都のベルンより大きな金融の町がスイスのチューリッヒでした。日本では最大の都市と首都とが東京で一致していますが、首都と商都となどを区別して首都はこじんまりという国も多いように思います。これらの国の中kら、今回は、首都オタワのおよそ2倍の人口があるカナダのモントリオールを紹介します。

 モントリオールは、カナダの東南部のケベック州の都市でトロントに次いで2番目の大きさになります。カナダの東部をアメリカとの国境沿いに流れるセントローレンス川の中流域にあり、セントローレンス川の上流にあるオンタリオ湖の北岸にかけてじゅず状に都市が並んでいます。このルートには、カナダの東海岸と西海岸を結ぶVIA(カナダ国鉄)が走っており、ケベックからトロントまでおよそ700kmを飛行機ではなく鉄道で移動して車窓の風景を楽しむことができます。このVIAの本社もモントリオールにあります。カナダの東部は、英語よりフランス語がよく話され、市内の交通標識なども英語とフランス語の併記で、モントリオールは北米のパリと呼ばれているようです。

 
 
 
 
 町並みの散歩は、VIAの中央駅の北東にあるノートルダム大聖堂から市役所のあるジャック・カルティエ広場あたりまでが旧市街の中心になります。ノートルダム大聖堂は19世紀初頭に建てられたバシリカ様式の聖堂で、完成当時は北米最大の教会建築でした。外観は左右に塔を持ち、パリのノートルダム大聖堂に似ていますが、内部はモントリオールのほうが圧倒的に華やかです。筆者が訪問の時には、結婚式が多くて昼間には入堂できず、夜の光と音のショーを見ましたが、なかなか憎い演出でおすすめです。入道すると、協会の内壁はすべてスクリーンで覆われてみることができません、そしてスクリーンを使って協会の歴史が解説されます。ちょっとガッカリした頃に、該当する壁面の解説が終わると同時に、その壁面のスクリーンが外れていき、最後に祭壇のスクリーンも上がって豪華な全容が現れるというシナリオです。

 
 ノートルダムの前にあるアルム広場の向こう側には、ギリシャ神殿風の列柱にドーム屋根を載せた銀行博物館があります。隠れた穴場の名所のようですが、時間が無くって入館できませんでした。時間が無かったのは、ケベックからモントリオールまでのVIAが途中でエンジントラブルのために何もない原野でストップしてしまい、3時間ほども遅れたためでもあったのです。ただ、この建物は外観を眺めるだけでもなかなか奇麗で、特に暗くなって来てから列柱の上部からライトアップされるさまは華麗です。

 
 
 
 
 
 ノートルダム大聖堂とジャックカルティエ広場を結ぶノートルダム通りなどはヨーロッパの街並みを散歩しているようなてて物が並んでいます。ノートルダム通りを北東に行くと、左手に市庁舎が右手にはジャック・カルティエ広場が見えてきます。市庁舎は19世紀の終わりころにカナダ最初の市庁舎建築としてフランスで流行した第二帝政期様式で作られたものでしたが、1922年の火災で外壁を残して焼けてしまいました。現在の市庁舎は翌年に再建されたものですが、中央に塔を持つシックな建物は北米に居ることを忘れます。一方のジャック・カルティエ広場は、線とローレンス川に向かってだらだら坂になっていて、広場の中央にはネルソン司令官記念碑が立っています。ヨーロッパのあちこちでこのようなポールを見かけ、その頂上には彫像が乗ってますが、権力を誇示するようで、あまり好ましい感じではありません。広場を下って突き当りが盆スクール・マーケットで、銀色のドーム屋根は港に出入りする船の目印になっていたそうです。

 一つの国で複数の言語が使われることは珍しくありませんし、そのような国では複数の言語を話せるのが当たり前のようになっているようです。ただ、日本人は相変わらず、日本語以外は苦手で、英語など小学校から勉強していても、自由に話せる人はまだ少数です。外国語の会話塾に、こんなに多大なお金を使う民族も珍しいのだそうです。科博では、ボランティア・ガイドのためのツールとして、最近は電子式の多言語翻訳機が使われるようになりました。昔に比べて、話し言葉の認識率も変換の正確さも向上したように思いますが、「出口はどっち?」や「恐竜の展示場所は?」といった質問の応対には使えますが、展示品の解説などに使うには、まだまだ無理があるように思います。日本人の外国語に対する苦手意識は、対人恐怖症によるものだ、との説に共感しますが、多言語翻訳機は対人恐怖症には感染しないんでしょうね。

商業で栄えた堺ですが北部には多くの寺が軒を接し古民家も残る町並みがあります

2019-11-10 08:00:00 | 日本の町並み
 数多くのレンガ造りの銀行の建物を設計した辰野金吾の作品の一つが大分銀行レンガ館でした。この大分の発展は戦国時代にこの地を支配した大友宗麟の功績が大きく、そのこともあってJR大分駅前には宗麟の銅像もたっています。日本初の病院をはじめ南蛮文化を吸収して栄えました。宗麟をはじめ九州は多くのキリシタン大名を輩出し、信仰だけでなくキリスト教とともに入ってきた西欧文明で潤った町が多くあります。一方、京都に近く古くから中国トンの交易で栄え、やがて南蛮貿易で豪商を輩出したのが堺です。今回は、その堺市の北部で今年に世界遺産に登録された仁徳天皇陵に近い南海の堺東駅から多くの寺々が立ち並ぶ町並みを通って阪堺電車の綾ノ町電停までを紹介します。

 
 
 
 
 スタートは、堺東駅に近い堺市役所です。最上階が展望室になっており、2kmほど先の仁徳稜を見ることができますが、おなじみの前方後円墳としての形を見るには高さが足りません。市役所の北の道を西に阪神高速の下を緑道に沿ってきたに行くと、左手に数多くの寺が現れます。最初に立ち寄ったのは対面に建つ妙国寺と宝珠院で、土佐藩十一烈士墓があります。幕末に堺に上陸したフランス兵を堺を警護していた土佐藩士が殺傷し、フランスの講義に屈服して警護の藩士が切腹したのが妙国寺で墓があるのが宝珠院です。その先に蓮華寺というお寺があり、門のそばの石柱に「本尊歯吹如来」と書かれてあり、調べてみると口を少し開いて歯を見せる技法で作られた如来のようです。この辺りは、お寺だけでなく格子や白壁の美しい民家が残っている町並みが続きます。



 蓮華寺のj角を右に曲がって突き当りが本願寺堺別院で周辺には子院と思われる多くの寺々があります。本願寺堺別院は北の御坊と呼ばれ堺市最大の木造建築で、明治の廃仏毀釈の時には10年ほど県庁舎として使われたのだそうです。本願寺を通り抜けて突き当たると覚王寺と十輪院が並んで建っています。覚園寺は、与謝野鉄幹と晶子を取り持ったお寺として有名ですが、道路からは古民家のようなたたずまいです。十輪院には14世紀に造られた板状塔婆があり、中央に地蔵菩薩が彫られ梵字には阿弥陀と書かれ、14世紀に流行した2つの仏を同体とする表れと言われています。



 しばらく北に行って西に入ると山口家住宅があります。江戸初期の町家で、10年ほど前に整備されて堺市立町家歴史館として公開されています。土間の上の吹き抜けには巨大な梁が何本もあり、台所にはたくさんのj釜を載せられるかまどがあります。座敷の隅には箱階段もありました。最後は西に出てチンチン電車の阪堺電車で天王寺に戻ります。
 
堺というとわび茶の千利休を思い起こします。利休の茶室は極端に狭く暗いのが特徴ですが、これは亭主や客との距離を縮めて茶の湯に集中できるようにとの配慮があったと思います。江戸期に入ると、あまりにも暗い茶室よりも外界の自然の移ろいを感じられる明るい茶室が好まれるようになったようです。窓などの開口部を広くしたり数を多く設けて明るい茶室が作られるようになり、極端なものでは10を超える窓を持つ茶室も存在しました。当時の明かりは行灯や蝋燭だったでしょうから、むしろ暗いことが日常であったのかもしれません。LEDをはじめ昼間をしのぐ明るい人工照明が発達した現代では、暗さは非日常で、ミステリアスなもの、茶室も暗いものが見直されるのかもしれません。

イスラム教とキリスト教、それにキリスト教の時代を異にする建築様式が混在する不思議な街コルドバ(スペイン)

2019-11-03 08:00:00 | 世界遺産
 ユーゴ紛争でキリスト教とイスラム教の対立から、それまで宗教の異なる人々の間をつないできた橋が破壊されたのがボスニア。ヘルツエゴビナのモスタルにあるスタtリ・モストでした。ヨーロッパの大部分はキリスト教系の宗教が大勢を占めていますが、イベリア半島では南から攻めてきたイスラム勢力に支配されていた期間がありました。スペインの各地には、イスラム文化の名残を残す町が多くありますが、今回はそれらの一つコルドバを紹介します。ただ、筆者が訪問したのは、30年近くも前で、写真はアナログのものをスキャナで取り込んだものです。

 コルドバは、スペインの中南部に位置する人口33万人ほどの都市です。現在は首都のマドリッドからAVEに乗れば100分ほどで到着しますが、筆者はパッケージツアーだったためか、セビーリャからのカシキリバスでした。コルドバは、7世紀頃まではイベリア半島を支配した西ゴート王国の一部でしたが711年にイスラム勢力に征服され756年に成立の後ウマイヤ朝の首都となりました。その時の中心が現在のメスキータ(モスク)で、1236年にキリスト勢力が領土を奪い返すレコンキスタにより、メスキータはキリスト教会部分が付け加えられました。

 
 
 
 
 
 このイスラム教とキリスト教が並立した不思議な宗教施設のメスキータは、周りを10mほどの塀で囲まれた135m×175mの長方形の施設です。航空写真で見ると、北西側の中庭と中央に建つカトリック教会を除くと、まるで昔の工場ののこぎり屋根が連続しているような感じに見えます。中央部の教会も、ゴシック様式とルネサンス様式の折衷で、とにかくいろいろな様式がごった煮されたような空間です。上から見た写真で広い面積を占めるのこぎり屋根の下には、白とオレンジの独特のストライプのあるアーチがどこまでも連なる巨大な空間になっています。このアーチの一角に、イスラム教の聖地のメッカの方角を示すミフラーブものこされています。とにかく、どの部分がイスラム文化で、どこからがキリスト文化なのか混乱してしまいます。北西にある中庭(パティオ)はオレンジの木の庭と呼ばれ、礼拝者が沐浴をする清めの空間で、庭の端には塔が立っています。

 
 
 
 メスキータのそばにはユダヤ人街があり、こちらも世界遺産「コルドバ歴史地区」の構成要素になっています。細くて小さな道の両側は花がたくさん飾られて「花の小道」と呼ばれています。一方、メスキータのそばを流れるグアダルキビル川に架かるのがローマ橋で、かつては南側からコルドバに入る唯一の端で、この橋を守るための要塞として、メスキータの対岸にカラオーラの塔が作られました。

 現在広く使われている数字の記法はアラビア数字と呼ばれています。それまでヨーロッパで使われていたローマ数字に代わって、イスラム文化圏から伝えられた"0"の概念を持つ記法です。ただし、伝えたのはイスラム圏を往来するアラビア商人で、アラビア数字を発明したのは0の概念を発見したインド人といわれています。コンピュータの根幹をなす0の概念ですが、現在でもコンピュータ分野ではインド出身者の活躍が目立つようです。