世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

桶川宿の町家が続く町はずれにはレンガ倉庫もあって楽しい町歩きです

2015-12-20 08:00:00 | 日本の町並み
 江迎も二川もかつての宿場の本陣の建物が残されていましたが、多くのかつての宿場町では石碑が立っている程度です。中には、建物の一部が残っていても、現役の民家などのために非公開ということもあります。今回はそれらの中で、首都圏に近い埼玉県で、座敷構えの一部などが残されいる桶川宿を紹介します。
 

 桶川は都心から北北西に30~40kmほど、旧中山道(「いちにちじゅう、やまみち」ではありません、間違って読んで威張ってるプロのアナウンサーも居ましたが)の宿場町です。かつて、ゴールデンウィークの頃に都心から35kmを歩いていったことがありますが、さすがに疲れて、帰りは電車です。昔の人は、毎日20kmを越える距離を歩いて旅をしたわけで、歩くより他に手段が無いとは言え、旅は大事件だったんですね。日本橋から数えて、中山道の6番目の宿場で、通常の旅人は早朝に日本橋を立って、夕刻に桶川に到着したのだそうです。

 
 
 旧中山道は、JR高崎線の東側に並行した県道になり、車の行き来が激しいので、あまり町並み散策をのんびり、といった雰囲気ではありませんが、かなり古い町家などが残っています。上尾宿寄りの木戸近くにはかつての旅籠の上村旅館が現役で営業をしています。北へ進むと黒漆喰の壁が見事な島村家の土蔵が3階建てという存在感で建っています。さらに北には、元は旅籠であった小林家と、元は穀物問屋の矢部家とが向かい合わせに建っています。小林家は格子の並ぶ建物で、矢部家は黒漆喰の土蔵造りです。これらの古民家の大部分は国の登録有形文化財になっています。さらに北に進むと、本陣の遺構と脇本陣跡とが続きます。

 
 鴻巣寄りの木戸近くには、女郎買い地蔵という汚名を着せられた地蔵がある大雲寺があり、この近くにレンガ造りの立派な倉庫もあります。地蔵は、女郎通いをする若い僧侶への戒めのためで、とんだ濡れ衣で不名誉な名で呼ばれることになったようです。レンガ倉庫は、木造の町家を見てきた目には、新鮮な驚きで、かつては酒蔵として使われていたとのことです。深谷に近いことから、渋沢栄一の日本煉瓦製造製ではないでしょうか。

 町歩きには万歩計を付けて行く事が多く、無理をして歩きすぎない目安にもなります。万歩計は、歩数の他に歩いた距離の目安や消費カロリ数などが表示され便利です。かつてのものは、特定の方向の振動にしか反応せず、ベルトなどに着ける事が必須でした。そのため、かなりの万歩計を引っ掛けるなどして紛失しました。最近のものは、あらゆる方向の動きを感知してくれるので、ポケットに入れておけば良く、失うことはなくなりました。ケータイやスマホにも搭載され、GPSなどの情報と共にネットに送って加工もできるようです。ただ、この傾向が進むと、これらのデータが悪意で利用されないか心配です。

黄土高原の中の太原は、特色は少ないですが、千手観音の手に圧倒されます(中国)

2015-12-13 08:00:00 | 世界の町並み
 雲崗石窟の基地で、城壁を再建して町の顔ががらりと変わりつつあるのが大同でした。一方、大同を通る鉄道のはるか南には、町を囲む城壁が世界遺産に登録されている平遥は昔の城壁がほぼ完全な形で残されています。今回は平遥の北80kmほどのにある太原を紹介します。

 太原は、大同の南200kmほど、北京の南西400kmほどの黄土高原の町で、人口が約340万人ほど、規模的には前回紹介の大同と同程度の都市で、町を出ると黄色の原野が続きます。まさしく、黄土の大きな原っぱに囲まれた都市といった感じです。北京からの高速列車は、一旦南南西の石家庄まで南下して、西に向きを変えて走り5~6時間といった行程でしょうか。あまり特色の無い地方都市といった感じで、大同が雲崗石窟への基地だったように、平遥への基地のような感じです。ただ、平遥は太原の郊外とはいかず列車でもバスでも2時間半ほどかかり、日帰りはやってやれないことはありませんが、ちょっと強行軍といった距離です。

  
 太原の一番の見所は双塔寺ですが、市内バスが来なくって時間切れで行き損ねました。西安郊外にある法門寺にある塔を2つ並べたような感じがします。写真が無いので、Baidu百科のサイトから拝借しました。筆者が訪問できたのは、駅の西方約1kmの崇善寺というお寺で、その大悲殿の中には千手千眼の菩薩が立っています。実は、崇善寺の千手観音像の写真もBaido百科のもので、筆者はこの後にカメラを紛失してサブカメラの画像しか残っていないのです。
 日本の千手観音の大部分は42本の手でお茶を濁していますが、この観音像は千本の手が光背のように背中から生えています。それぞれの手のひらには目も作られているようです。上海の西にある開封の大相国寺には、4方向の観音像を合体させた千手千目観音があり、おそらく手は4千本ではないかとも思いますが、日本の仏像と迫力が違います。
 崇善寺の隣には山西省博物館の分館があり、この一帯は寺町風の町並み(ただ、日本の茶色の世界ではなく、オレンジ色の世界)が続き緑も多く落ち着きます。

 
 
 
 
 博物館の本館の方は、駅の近くの五一広場のそばの純陽宮という道教寺院の施設を利用しています。こちらは展示だけでなく、境内もなかなか見ごたえありです。中国ゆえに、書だけでなく、いろんな石碑も並んでします。境内に小山があって、さほどの高さではありませんが東屋風の建物に上ると隣の五一広場をはじめなかなか眺めがよろしい。訪問したのが5月初旬だったので、境内にも広場にも藤が咲き誇っていました。

 中国で見る塔は、各層の屋根の出入りが浅く、ずんぐりしていて、日本の塔とは随分と違う印象を受けます。材料も、日本ではほとんどが木製ですが、中国では、ほとんどが石のようです。これは、仏教がインドから中国を経て日本に伝わる間の変化なのかも知れません。塔の元祖は、インドの仏舎利塔で、丸いものが多く、名前はストゥーパ、これが中国に渡り平面が多角形で多層になり、名前は音訳で卒塔婆になりました。日本に来ると、多層での木造になり、名前も卒塔婆→塔婆→塔と3文字の中の中央の文字だけとなります。外国語の翻訳は、かなりの品質でコンピュータがやってくれますが、翻訳先に概念の存在しないものは、コンピュータとて手に負えません。現代では、そのままカタカナ表記でお茶を濁して、中国の音訳もその類かもしれませんが、なにか味気なさを感じます。明治の子規をはじめ文豪は、数多くの意訳による造語を残していて、カタカナ表記に無い味がありますね。

二川宿の本陣跡は車の行きかう道路に面していますが坪庭などあって昔を偲べます

2015-12-06 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎街道の本陣跡の建物が残り、近くに日帰り温泉もあるのが佐世保郊外の江迎でした。本陣跡というのは、行って見ると、石柱が建っているだけで、がっかりすることも多く、東海道の宿場町では、品川宿をはじめ、ほとんどが石柱状態です。建物まで残っている宿場は、滋賀県の草津と愛知県の二川のみで、今回はその中から二川宿を紹介します。

 二川宿は、現在の豊橋市の東端にあり、東海道線では豊橋の一つ東京寄りの二川駅が最寄の駅となります。旧東海道は、東海道本線のの北側に並行して東西に伸びていて、本陣跡は駅から少し東に歩いた所にあります。京都の町屋ほどではありませんが、道路に面した間口に比べ奥行きの長い本陣の建物が残っています。現在は、本陣資料館として、隣の旅籠の清明屋の遺構と共に、公開されて内部の様子が見学でき、付属の資料室で往時の道具なども見ることとができます。

 
 
 本陣跡と旅籠の清明屋は接していて、東側に清明屋、西に本陣跡があります。旅籠の清明屋の前には、道路との間に木の垣根があり、その中央に門があって、かつてはここから出入りをしていたのでしょう。門の西側には、旅籠の帳場のような場所で、垣根越しにも中がうかがえ、お客対応をしているらしき様子が人形で再現されています。

 
 
 
 内部に入るには、西側にある本陣跡を廻りこんなだところにある資料館入り口から入ったように思います。入り口付近には、高札所跡の石柱や、再現された高札が建っていました。本陣跡は、大名が泊まった部屋に、かつての料理の模型が飾ってあったり、坪庭があったりと旅籠より豪華にできているようです。かつて使われていた道具なども展示されていて、名の通りの資料館です。

 
 二川宿は、本陣跡が残っていますが、前回の江迎にも増して、宿場町の雰囲気はさほど残っていないようです。それに、これも江迎と同様に本陣前の道路の交通量が多くて、落ち着きません。現在の移動手段が車なので、交通の要所であった二川ゆえのことかもしれません。江戸時代には、本陣前の道路を人や馬や籠が行きかったのかもしれません。また、街道から少し入った所には大岩明神宮や妙泉寺など街もあって、豊橋を訪れたついでに、1駅乗って途中下車をしても、損はしない町並みかもしれません。

 本陣を利用するのは大名行列の主人公でしたが、参勤交代制度は徳川幕府の権力維持のためにだけ設けられた無駄遣いのように思われます。ただ、この制度は、結果的に弊害だけでは無く、宿場制度の整備や流通の円滑化、それに情報の伝達などで利点もあったようです。インターネットなどの普及で、日本中はおろか、世界中の情報が、パソコンに向かうだけで手に入る現代では想像も難しいでしょうが、江戸時代の人と情報とが一緒に動かねばならないことも多く、まどろっこしかったでしょう。伝送ゲームで経験するように、人づての情報は、元の情報から大きく歪むことも多かったでしょう。ただ、これだけ自由に情報が手に入るご時勢にも、権力によって情報操作により歪むことはありうることに注意が必要でしょう。