世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

オーロラが見られなくても、トロムソの町並みはクリスマスカードのような風景が素敵です(ノルウェー)

2013-11-24 08:00:00 | 世界の町並み
 緑の木立の中にパステルカラーの町並みが続き、中国に居ながらヨーロッパのどこかに居るような風景にお目にかかるのが広州の沙面地区でした。パステルカラーは、シンガポールなど東南アジアのコロニアル建築でよく見かけ、緑が豊かな南国にも良く似合っていました。コノパステルカラーの町並みは、銀世界の中で見ても美しく、クリスマスカードを見ているような風景になります。今回は、このような景色の町並みの中から、オーロラ見物の基地にもなっているトロムソを紹介します。

 トロムソは、ノルウェーの北部、少し北へ行くと北緯70度線を越えるという北のはずれにあり、北極圏では最も大きな町の一つです。町はスカンジナビア半島と狭い水道を隔てた島とに跨っていて、島内には空港施設や沿岸急行船も寄港する港がある交通も便利な町です。空港は、島の西側の海のそばに、港は東の水道側で、町の中心は港のある東側になります。メキシコ湾湾流という暖流のせいで、さほど寒くないことや、足の便が良いことから、オーロラを楽に観測できる場所として人気の場所になっています。

 
 
 クリスマスカードのようなパステルカラーの町並みは、島の東側に海に沿って南北に伸びています。雪というのは、余計なものを隠してしまう効果があり、屋根も道路も真っ白で、壁のパステルカラーを浮き立たせます。訪れたのが2月だったので、太陽は出ていましたが3時頃には薄暗くなって、家々の窓にはオレンジ色の明かりが点ります。この暖かい色と、壁の色とのコンビネーションもクリスマスカードなんです。

 
 この白い景色の中に、真っ白の三角屋根の教会が存在感を持って建っています。この教会は北極協会で、町の中心の対岸の陸側にあり、夏にはオルガンのコンサートが開かれるそうです。同じく夏季にオルガンコンサートのあるルーテル教会は、島側にあり、細身の建物の前面に鐘楼がやけに目だった教会です。町の中心部には、カトリック教会もあり、こちらは煉瓦色の外壁を持つオーソドックスな建物です。


 
 
 トロムソの中心街は南北に歩いて端から端まで行っても1時間ほどの距離で、さほど広くないのですが、町の中に博物館が2つもあります。さらに、水族館と博物館が合体したようなポーラリアという施設もありますが、水族館というには収容された動物が少なく、博物館にしては展示物がほとんど無い代物です。2つの博物館は、トロムソ博物館と極北博物館でおのおのテーマが違うようです。トロムソ博物館は、サーメの人たちを紹介する民族博物館で、極北博物館は、アムンゼンがテーマのようです。トロムソ博物館では、幼稚園児らしい一行が遠足で来ていました。階段にしゃがんで休憩をしていましたが、なんともかわゆくって、観光客の格好の被写体になっていました。

 
 トロムソから、さらに北上をして北緯70度線を越えて帰ってくる回遊券が売られていて、豪華な沿岸急行船にも1区間ですが乗船できます。筆者は、トロムソでは見られなかったオーロラが、このコースに乗れば観られるかもしれないと思ったのですが、状況は同じで雨と雲に阻まれました。往路はバスで北に向かい、途中で乗り換えてシェルヴォイまで4時間ほどの乗車です。途中で北緯70度線を越えたはずですが表示があるわけではありません。途中、2度ほどバスごとフェリーに乗船して海を渡ります、フェリーが国道の一部のようです。復路は、沿岸急行船でシェルヴォイ港からトロムソ港まで戻ってきますが、この沿岸急行船は、巨大で人気のある豪華船です。ベルゲンとスカンジナビア半島の北端のキルケネスとの間を12日間かかって往復し、フィヨルド内に入っていったり、寄港地からのショートトリップなども用意されています。もちろん回遊券ではキャビンは取れずロビーから外の景色を楽しむことになりますが、乗船をしたレセプションから上方に伸びる5~6階分の吹き抜け空間など、豪華クルーズ船の雰囲気は味わえます。

 南極点を最初に極めたのはご存知のアムンゼンです。極北博物館では、探検のコースの紹介や装備の様子が展示されています。南極点へはイギリスのスコット隊との間の激烈な競争に打ち勝ったことはよく知られています。面白いのは、スコット隊が、雪上車など当時の最新装備で挑んだのに対して、アムンゼンは犬ぞりを使った装備であったことです。スコット隊の装備は、故障続きで用を成さなかったようで、最後は人間が雪上車を引っ張って歩いたと言われています。未知の領域を探検したり研究したりする時には、予想を超えることが起こることの例ですが、コンピュータを使ったシミュレーションがいくら進んでも未知のファクタには対処不可能なのでしょう。

唐津城はコンクリートでの再建ですが、町中に見所があふれる唐津です

2013-11-17 08:00:00 | 日本の町並み
 筑豊炭田の炭鉱王が後妻さんのために建てた豪華な邸宅が残るのが、飯塚市の幸袋でしたが、同じ九州の唐津炭田の炭鉱王が建てた豪邸が唐津に残されています。この豪邸以外にも、旧唐津街道沿いの古い町並みや、個性的なコレクションの美術館、辰野金吾設計の銀行の建物、近松門左衛門ゆかりのお寺、さらには唐津曳山の山車の展示館など、あまり広くはない唐津の町並みの中には見所がたくさんあります。

 唐津は、佐賀県の北部、玄界灘に面した人口12万人あまりの都市です。JRの唐津駅からは、東に1時間ほどで博多駅に、南にやはり1時間ほどで佐賀駅に行くことができます。博多までは電化されていますが、佐賀までは非電化単線、一方の博多までは電化されて途中の前原までは複線の路線なので、県を股がる福岡市との結びつきの方が強いのではないでしょうか。そういえば、佐賀県民も、佐賀空港を利用するより、福岡空港を利用したほうが早くて便利といわれているのと類似かもしれません。

 
 さて、炭鉱王の邸宅の旧高取邸すが、唐津駅から北に歩いて20分ほどの玄界灘に面した所に残されています。近代和風建築に洋風の技法も取り入れた建物は、重要文化財にも指定されています。こちらの建物は自分自身と賓客を迎える目的で立てられたようで、旧伊藤伝右衛門邸とは少し性格が違うようです。能舞台や石壁の洋間など、旧伊藤伝右衛門邸とは違った見所が多い建物です。

 
 建物といえば、唐津駅に近いところに、東京駅の設計で有名な辰野金吾とその弟子の設計になる旧唐津銀行のレンガ造りの建物が残っています。現在は、銀行としての役割を終え、修復がなされて一般公開されていますが、2階までの吹き抜けの空間や照明器具など内部も贅沢な空間になっています。

 一方、小ぶりながら現代的な建築とコレクション内容でユニークなのが河村美術館です。青木繁の作品を多く集めていますが、ビールのジョッキやフランスのエマーユ(七宝による絵画)など他のの美術館ではあまりお目にかからないユニークでコレクションが見られます。ただ、土日祝日しか開館していないのが残念です。




 
 唐津といえば、長崎と博多と並ぶ「三大くんち」の唐津くんちがあります。お祭りの呼び物は14町から繰り出される曳山で、こちらの曳山は獅子頭や兜などの巨大な脱乾漆技法に似た工芸品が台車に乗せられています。通常見られる曳山とはまったく違ったものが、町中を引き回されるようです。この曳山は、お祭り当日でなくとも、曳山展示場で常時見ることが出来るのはありがたいことです。

 
 
 ほかにも、近松門左衛門の遺言によるお墓がある近松寺には、藩主の墓地やキリシタン灯篭があり、お寺の近くには名護屋城の跡という場所もあります。

 
 さらに、唐津城の遺構の門や石垣、お堀にかかる橋などが市内に点在しています。

 
 旧唐津街道沿いの古い町並みは、あまり残されていないようですが、道端にいる恵比寿さまの像が笑っていました。

 
 北九州には石炭産業の遺構が多く、石炭の斜陽化と共に廃線になった鉄道もたくさんあります。2015年の世界遺産の候補として炭鉱の産業遺産を含む日本の近代化遺産群が推薦することのようです。じつは、2015年の候補推薦は推薦母体から長崎のキリスト教関連施設が挙がっていたのですが、政府の意向か近代化遺産に軍配が上がったようです。どちらも、九州なのですが、かつて九州はIT産業を支える大規模な半導体工場が集中しシリコンアイランドと呼ばれていた時代がありました。かつては世界の半導体の10%を生産していた九州ですが、今や生産拠点の多くは海外に移転して、かつての元気はありません。早々と、世界遺産としてとして産業遺産の仲間入りでしょうか。

水郷の町の蘇州の庭園は、どの庭園も水との調和が図られています(中国)

2013-11-10 08:00:00 | 世界遺産
 北京から200km以上も離れた場所に建てられた離宮が承徳の避暑山荘でした。中国の北の出身であった皇帝があこがれたのが中国南部江南の風景で、造園の参考にしたのが蘇州の庭園群でした。避暑山荘は中国四大名園の一つですが、残りの三名園のうちの二つが蘇州にあります。今回は、蘇州に広がる数多くの庭園や寺院、それに水郷の風景を紹介します。

 蘇州は、上海から高速列車で西に30分くらいと簡単に行ける場所で上海の郊外のような感じです。上海も市内に七宝などの水郷がある水の都ですが、蘇州は東洋のヴェニスと言われ、水路や池など水の面積が大きな町です。世界遺産に登録されている庭園は、蘇州市内に7箇所、蘇州からバスで1時間ほどの同里古鎮に1箇所の計8箇所あります。

 八箇所の庭園すべてを紹介できればいいのですが、残念ながらその半分しか訪問していませんのでそれらの庭園を紹介しましょう。

 
 まずは、四大名園の一つ拙政園からです。蘇州の庭園の中で最大の広さを誇る、明代に造園された庭園です。庭園内は東、中、西園に分かれていて池の面積が広い庭園です。中には、新宿御苑の台湾閣のような建物があり、通路の礎石のも手が込んでいて、小さな石を組み合わせて模様が描かれています。柳の木が多くて、日本の庭園のような感じですが、日本が中国を真似たのかもしれません。

 
 四大庭園のもう一つの庭園が留園で、こちらも明代に造園されたものです。この庭園の特徴は、庭のあちらこちらに置かれた太湖石で、この石は蘇州の近くの太湖で取れた穴だらけの奇岩です。ただ、この奇岩は「街道を行く」でおなじみの司馬遼太郎氏の江南の道には「まことにわずらわしい」と述べられていて不評です。

 
 留園の西には、西園と呼ばれるお寺があり、世界遺産には登録されていませんが、運河に囲まれた境内には、黄色に塗られた楼閣やお堂が並んで、池泉式庭園とは違った美しさがあります。

 
 お寺と言えば、蘇州で一番有名かもしれないお寺が寒山寺かもしれません。寒山は拾得と共に禅画の画題に取り上げられることの多い唐時代の伝説的な僧ですが、その寒山が僧さんを結んだという故事に加えて、漢詩でも有名です。
月落ち烏啼きて霜天に満つ
という漢詩を聞かれたことがあると思います。張継の七言絶句「楓橋夜泊」で、この漢詩の後半に寒山寺の鐘が出てきます。境内には、この漢詩の石碑があり、拓本をとる人でにぎわっていました。

 
 庭園群の中で最も古いものが滄浪亭で、灯台末期の造園になります。この庭園も運河に囲まれた中にあって、白い壁の回廊と、起伏のある庭園が特徴ですが、やや小ぶりです。ただ、現在の広さは、かつての広さの1/6とのことで、できた当時は他の庭園に勝るとも劣らない規模だったようです。

 
 庭園の周りなどを囲む運河ですが、町のあちこちに運河が張り巡らされ、特に夕暮れ以降は回りに灯が点って幻想的です。暗くて見苦しいものなどが見えないのもいいのかもしれません。運河沿いには、夜店も立って、人気の店には長蛇の列でした。



 
 世界遺産の庭園で、蘇州の市街地から唯一離れた場所の同里にあるのが退思園です。清朝に造園され、住宅と庭園を兼ねたものでさほどの広さはありませんが、庭園の池と建物との配置が絶妙で蘇州市街にある庭園より見ごたえがあります。また、同里は狭い範囲に水路が縦横に張り巡らされて、少々間延びをした感のある蘇州の水郷風景より、これぞ水郷!といった感があります。

 
 水路が多いので東洋のヴェニスと言われる蘇州ですが、傾いた石塔があって東洋のピサのようなところもありです。この塔は、虎丘公園に建つ八角七重石塔で、ピサの斜塔と同様に、建設途中から傾き始めたのだそうで、現在は15度ほど傾いているのだそうです。

 
 塔と言えば、蘇州で最も古く規模も大きな寺院に、76mと最も高い八角九層の木造の塔があります。内部には階段があり、最上階からは蘇州の風景や、規模の大きなお寺の境内がよく見えます。

 塔はヒンドゥー語のストゥーパーが中国に伝わって卒塔婆になり、卒塔婆の前後が省略されて「塔」という単語になりました。中国の塔は、八角で多層のものが多く、木造より石造りが目立ちます。平面が正方形で軒の深い木造の塔は、日本独自のもので、凍れる音楽の言葉のように、軽やかなリズムのある建築物になっています。この軒の深さを支えるための木組みは複雑を極め、地震大国の日本で倒れない高い塔を建てるのも並大抵の技術ではないようです。薬師寺の西塔が再建されましたが、各層の屋根は東塔に比べて反って高く作られているのだそうです。やがて、重力の作用で次第に下がってきて、東塔と同じような外観になるとのことですが、そこまで予測して作られているんですね。コンピュータ解析で、古い仏像の作られた頃の色彩が再現されていますが、古色になれた目には違和感を覚えます。建築にしても仏像にしても、どちらの姿が本来の形なのでしょうか。

炭鉱が生んだ富をバックに飯塚/幸袋には嘉穂劇場や旧伊藤伝右衛門邸が残りました

2013-11-03 08:00:00 | 日本の町並み
 中国山地の山奥の宿場町に広大な敷地と美しい建物が残されていたのが智頭でした。中心となる石谷家住宅は、大庄屋から議員まで上り詰めた当主により現在の形となりましたが、筑豊炭田により巨万の富を得て婦人のために建てられた贅沢な邸宅が残されているのが飯塚市の幸袋です。今回は、この邸宅のある幸袋と飯塚市内の嘉穂劇場の周辺を紹介をします。

 
 
 
 飯塚市は、福岡県の中央あたり、鹿児島本線の小倉に近い折尾から筑豊本線で20kmほど南下した所にあります。江戸時代は長崎街道の宿場町として、近年は筑豊炭田の中心都市として栄えてきた町です。炭鉱王の伊藤伝右衛門邸がある幸袋は飯塚から本数の少ないバスで折尾方向に20分ほど戻った、筑豊本線とは遠賀川の対岸になる所です。再婚同士のお相手は白蓮のペンネームを持つ伯爵家の令嬢ので、この新しい奥様のために幸袋の本邸の増築だけでなく、別府に別邸まで作ったそうです。しかしこの結婚は、お金と家柄とが絡む政略結婚で、あまりに違いすぎる二人は10年で離婚してしまったそうです。そして残された旧伝右衛門邸ですが、大名屋敷を思わせる長屋門の中に贅沢の限りを尽くして建てられています。

 
 2階には白蓮の個室があって、けして本人以外の人間を入れなかったそうですが、その部屋から眺める広大な庭もお金がかかっていそうです。

 
 この、旧伊藤伝右衛門邸は、バス通りから直角に入った通りに面していますが、この通りに土蔵造りの家並みが少し残されています。旧長崎街道は、バスが走っている道路なのですが、こちらは新しい町並みだけで、旧街道の面影はありません。

 
 
 幸袋は飯塚市の中でも北のはずれに位置しますが、市の中心には大正時代創建の嘉穂劇場が残っています。現在の建物は昭和初期に再建されたものですが、なかなかレトロな味わいのある劇場です。炭鉱の華やかりし頃に炭鉱に従事する人たちや家族を観客に見込んで作られましたが、炭鉱の衰退と共に劇場も衰退して廃止寸前までになっていたそうです。最近は劇場の持つレトロな雰囲気と、全国座長大会が開かれるなどで、盛り返してきているそうです。このような劇場は、四国の内子座や熊本県山鹿の八千代座などがあって、人手による舞台装置が面白く、公演の無い時にはミニ博物館を含めて見学ができます。

 古い劇場を見学すると、いつも思う疑問があります。嘉穂劇場は大正期なので電灯は点いていたでしょうが、もっと古い劇場では蝋燭の明かりで上演していたはずで、客席から舞台が見えたのかしら?ギリシャ/ローマの劇場は屋外なので明るさは十分だったでしょうが、天井が無いので声が発散して、客席の後部まで届いたのだろうかとも思います。現在の劇場は、回り舞台などの電動化などに加えて、コンピュータ制御による音響や映像を加えることで演出の幅を広げるだけでなく、無線による連絡支援やネットのチケット販売などバックグラウンドでもIT技術は切り離せなくなってきているようです。ただ、舞台ではロボットだけではなく、生身の人間中心で演じて欲しいですが。